遅咲きの巨匠/中年の星/編集長の告白

<遅咲きの巨匠>

 良一はその3年間、遊んで過ごしていたわけではなかった。

 彼は権利だの契約だの難しいことはすべて弁護士に任せ、自分は独立プロダクションを立ち上げて、漫画以外にもゲームのキャラクターや、CDのジャケット、アニメーション映画の製作なども手がけるようになっていた。

 その中でも彼が監督を務めた長編アニメーション映画『双子座ジェミニが沈む日』は死のない世界で永遠の労働を強いられていた双子の男女が禁断の愛に目覚め逃避行を試みるという幻想的な作品で、小劇場でのみの上映だったのにも関わらず異例のヒットを飛ばし、あれよあれよという間に、アカデミー賞の短編アニメ映画賞をはじめとする名だたる国際映画賞を受賞。一般的な映画ファンからも絶賛される一方で“ジェミニスト”という狂信的ファンを生み出し社会現象にもなった。

 マスコミが良一のことを「遅咲きの巨匠」と褒めたたえ、連日のように話題にしたのは言うまでもない。


 さらに彼は映画『鼺鼠むささびの夏』で役者デビューを果たすなどマルチな才能を発揮。そのとき怪演したいざりという名の老忍者役が評価され個性派俳優としても注目される存在となった。それどころか、そのとき共演した大手事務所の若手女優、上原真由里まゆりとただならぬ関係になるなどプライベートもすこぶる充実させていた。


 真由里との交際は週刊誌にスッパ抜かれたあと、すったもんだの末、できちゃった結婚という形でおさまった。世間は二人を「奇跡の年の差カップル」と呼んで祝福したが、良一はいっさい浮かれることなく、淡々と分刻みのスケジュールをこなしていった。世の男性はそんな彼の姿に、ワイドショーを通して憧れのまなざしを向けた。




<中年の星>

 そしていよいよガンマ誌上における良一の連載がスタートした。

 彼は独立プロダクションの長であり、たくさんのアシスタントを抱えていたが、ネームや作画などで自分ができることは何でもした。しかし、もう還暦間近まぢかのヨボヨボじじいだ。体力も精神力も明らかに衰えた。本当に描きたい漫画を描きたい。そんな思いだけが彼を突き動かしていたのだ。


 そんな藤吉良一の渾身の作『SATORI』は聖梵せんとぼん学園に通う不良高校生・蓮池はすいけサトリがひょんなことから神秘的なパワー「釈迦乃彼岸ガウタマ・ハラミッター」に目覚め、食した者は三世さんぜべるとされる伝説の食材「仏霊食ぶったまげ」をめぐって、世界的に暗躍する地下エスパー組織「黄金の子宇宙ゴールデン・チャイルドユニバース」との戦いを繰り広げる中で、友情に目覚め成長していくという王道系学園バトル漫画で、これまた読者から絶大なる支持を獲得。コミック初版発行部数において日本漫画史上最高の400万部を記録するなど空前の大ヒットとなった。アニメ化も決まっており、映画化も約束されている。


 良一はマスコミ受けがよく、この快挙はすぐにトップニュースで報じられた。彼がサラリーマン出身であることはすでに有名で、華麗なる転職を果たした成功者、夢を叶えた男、中年の星、などと呼ばれますます世間の注目を集めた。

 雑誌の特集で尊敬する有名人、父親にしたい有名人、上司にしたい有名人などのランキングが組まれれば常に上位に名前が挙がり、連載漫画をかかえるかたわらで、東京オリンピックのマスコットキャラクターを担当するなど、国際的なプロジェクトにも参加。良一はいつの間にか漫画界を代表する人物の一人にまでなっていた。


 しかしそんな立場になっても彼は生活スタイルをいっさい変えなかった。もともと何も趣味がなった男だ。派手な遊びも買い物も何もしなかった。実は別居状態だった妻の真由里も戻って来た。良一は毎日、仕事場でひたすら漫画を描き続け、夜はちゃんと家に帰った。

 真由里は父親がテレビ関係の偉いさんでありコネで女優になったようなタマだったが病的にスタイルが良く、顔立ちもエキゾチックで蠱惑こわく的な黒髪美人だった。今は育児休暇中で女優活動はしていない。しかしあいかわらず浪費ろうひぐせがひどく、からびた雑巾みたいな性格で、物欲にまみれたままでどうしようもないクズ女だ。

 学生の頃はカナダに留学していたらしく英語は流暢りゅうちょうだが、それ以外に尊敬できるところは何ひとつなかった。しかし、それでも良一は彼女を愛していたし、彼女もまた良一をかけがえのない存在だと思っていた。マスコミそんな二人を様々な障害を乗り越えて結ばれた理想の夫婦だと持ち上げ、良一の好感度は上がる一方だった。




<編集長の告白>

 連載スタートから1年ほどたったある日、良一は編集長の崎山の口から思いがけないことを耳にする。

 さきほどまで良一は担当者や広告代理店の人間と連載漫画『SATORI』のメディアミックス展開について打ち合わせをしていた。思いのほか白熱した議論になったため、担当者が帰ったあとも編集長の崎山だけはまだまだ話し足りない様子だったので良一はしばらく話し相手になってやった。終電にはまだ時間があった。するとどうせなら一杯やろうということで近くの売店コンビニで安い酒とさけるチーズを買い、誰もいない夜の編集部で二人はささやかな祝宴を始めた。連載1周年記念パーティだ。

 

 応接スペースにはいつでもそこで寝られるよう焦げ茶色の大きなソファーがあった。二人はそこのガラステーブルに買ってきたものを並べて語り合った。すると酒が進むにつれ崎山は(べつに聞きたくもなかったが)昔話をし始めたのだ。しかし良一はそこで彼女がゆでやさいの担当者だったことを初めて知るのだった。


「私が漫学館に入社して初めてついたのが、ゆでやさい先生だったんです」

「幸運だったわ」

 そう言って崎山はニンマリと笑い、だらしなくパンプスを脱いだ。

 そんな崎山の姿に良一は、まるで昔から知っている女のような親近感をおぼえた。廊下の蛍光灯が切れかかってパカパカと点滅し始めたがそんなことはどうでも良かった。夜の編集部は不気味なほどと静まり返っている。しかし再び崎山に目をやると、彼女はさきほどと打って変わって神妙な顔つきになっていた。さすがに酔っ払ったのか。良一がそろそろいい時間だなと腕時計パテック・フィリップを確認すると、彼女は伏せ目がちに話を切り出した。


藤吉ふじよし先生、私はあなたに謝らなければいけないことがあります」

「なんだい、改まって」

 空気がひんやりと冷たくなってきた。


 良一がまだデビューする前、ガンマ編集部に何本も作品を送っていたが、まったく音沙汰がなかった時期があった。しかし、それにはちゃんと理由があると言うのだ。

「そんなの、昔のことだよ」

 良一にしてみれば、今さらそんなことどうでも良かった。それより終電のほうが気になるのだが、崎山は止まらない。


「ガルルちゃんの続編が流出した事件はご存知ですよね」

「あれは先生が描いたものじゃないですか」

 その言葉に良一はギョッとした。

 この女、見抜いていたのか。伊達に若くして編集長をやってないな。


 崎山は良一の反応を確認するまでもなく、話を続けた。

「編集部に送られてきた藤吉先生の作品をたまたま最初に読んだのは私でした、読み始めてすぐに、あの続編の作者と同一人物だとわかりました」

「……」

「だからそのまま処分していたのです」

「なんだってえ!」

 良一はあえてずっと黙っていたが、さすがにこの告白にはリアクションをせざるを得なかった。こんなに大声を出したはいつ以来だろうか。


「すべてはあの続編のせいなんです。結局、ゆで先生はあの続編以上のものは描けませんでした。ゆで先生はプレッシャーに弱かったんです。顔も性別も公表しなかったのはそのためだったんです。当時私はまだ駆け出しで、そういうことは全然わからなかったの。だから私は……、だから……」

 そう言って崎山は、ひざの上に乗せていたストールを強く握り締めた。

 

「今考えたら、本当にバカなことをしたと思っています」

 最終的にゆでやさいは自滅してしまった。責任を感じている。藤吉先生にも悪いことをした。そう言って崎山ははなを垂らしながら深々と頭を下げた。


 良一は彼女の草臥くたびれたうなじをぼんやりと眺めながら「そうですか」 とだけ言った。もちろんいい気分はしなかったが、やはりそんなことはどうでも良かったのだ。そこかしこにうずたかく積み上げられた書類の山が、ただひたすら空々そらぞらしく見える。


 良一はその夜、崎山を抱いた。

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