連載デビュー/ラフォルミ・シュル・ルシュクルでの会話/移籍劇
<連載デビュー>
――それから10年の歳月が経った。
もはや国民的な漫画と言っていいだろう。
だが当然、最初からこんなに順調だったわけではない。良一の漫画が初めてアルファに掲載されるまで、新人賞を取ってから2年もの歳月を要したのだ。厳しかった担当者と取っ組み合いの喧嘩寸前になったこともある。ときには
もちろん会社などとっくに辞めていたのでその2年間はほとんど無収入。貯金を切り崩しながらの生活だった。
そんな死ぬ思いで描き上げた読み切り作品『茂美☆ストマック』は、ひょんなことから性転換手術を受けた元バス運転手の
だが良一は不屈の精神で心機一転。
それまでアシスタントとして
満を持して連載をスタートさせた『アレグレットの魔法』は失踪した謎の天才ピアニストと幼い日本人妻の間に生まれたアレグレットという少年(見た目は美少女)が音楽の才能を開花させ14才にして世界的な音楽院へ入学し、そこで珍騒動を巻き起こすという音楽系学園ギャグ漫画だったが、路線変更でバトル漫画になるやいなや一気に人気が爆発。
学園の平和を守るためスクールカーストの頂点に君臨する
とても50過ぎたおっさんが描いてるとは思えないかわいらしいタッチと、それにそぐわない登場キャラクタたちの昭和初期の私小説のような台詞回しが「逆に新しい」と若年層に受け、読者の予想を遥かに上回るゴリゴリの設定と超展開が斬新だということで、コアな漫画ファンからも高い評価を受けた。
良一は寝る暇もないくらい仕事に追われるようになり、自分が漫画を描き始めた目的を忘れるほど忙しい日々を送るようになった。逆に、今さら何を言い出すんだと諸先輩方からお叱りを受けるかもしれないが、ここに来てやっと「漫画って面白い」と思うようになったという。
だからこそ彼は『アレグレットの魔法』を完結したいと、担当者に打ち明けたのだった。
<ラフォルミ・シュル・ルシュクルでの会話>
「先生、どうして急にそんなことを」
担当者の
「本当に描きたい漫画があるんだ」
新作ケーキのショコラ・フランボワーズを一切れ口に運びながら良一が言った。
平日の昼間だというのに、このパティスリーカフェ『ラフォルミ・シュル・ルシュクル』にはたくさんの女性客が押し寄せていた。どこから集まってくるのか最近妙に客が多くなった。テイクアウトコーナーではゾロゾロと行列もできている。まるで砂糖に群がる蟻のようだ。
「何をメランコリーなことを言ってるんですか!」
恵はそう言ってこちらも新作ケーキであるビスキュイ・ピスターシュを一切れ口の中に放り込んだ。
彼女は元々漫画家を目指していたが飼い犬にエサをあげようと
それからは良一とずっと公私共に歩んできた。気付けばもうアラサーだ。でも女の幸せだけは絶対に断念しないと心に決めている。もう絶対に犬も飼わない。恵はそんな決意を胸に秘めた、春風のようなエアリーボブがよく似合う爽やかな女だった。桜色のボトルネックニットトップスに、知的なヴィンテージ風のペンシルデニムスカートを合わせたスタイルもよく似合っている。 少々小うるさいのが玉に
「先生はご自分の立場をわかってらっしゃるのですか」
「もはや、うちの看板作家なんですよ!?」
「連載をやめたいですって」
「そんなことは先生の一存では決まらないのです!」
「そもそも、漫画家と言うのは……」
処女膜は人間とモグラにしかない。これは三島由紀夫が「不道徳教育講座」というエッセイで書いた適当なホラ話で、本当は人間とモグラ以外にも、処女膜を持つ動物は無数にいるんだよなあ。良一は恵の背後にある幾何学的なステンドグラスの一部がモグラに見えたので、何となくそんな話を思い出していた。
その間にも、恵のお説教は続いている。
「先生、聞いてますか?」
「……」
「何とか言ってくださいよ」
「……」
「もう、良ちゃん!」
<朗報>
数ヵ月後。良一は結局『アレグレットの魔法』を主人公が死ぬという掟破りで強引に完結させ、週刊少年アルファを出版していた集人社を離れることにした。当然、恵とも別れた。もう54である。
良一は都内の一等地にそびえ立つマンションの最上階に住んでいた。生活感がまるでないのは今まで仕事場や恵の部屋に泊まることが多く、ここへは滅多に帰らなかったからだ。久々の自宅マンションから見るは夜景は恐ろしいほど綺麗だった。
静かに揺らめく遠い街の灯をぼんやり眺めながら良一はオレンジジュースが入ったゾンビーグラスを手にイタリア製の牛革ソファーに座ろうとした。
そのとき!?
突然、ジリジリジリと何かが、けたたましく鳴り響いた。
家の電話だ。こんな音がするのか……
電話に出ると相手は思いがけない人物だった。
「漫学館の崎山貴子と申します」
『狼天使ガルルちゃん』を担当していた崎山貴子は34歳という若さでガンマの編集長となっていた。彼女は連載を終えた良一に「うちで描いてくれませんか」と声をかけてきたのである。自宅の電話番号はきっと誰かから聞いたんだろう。しかしよくぞかけてきた。そしてよくぞ出ることができた。良一はその電話に運命を感じざるを得なかった。
しかしマイナーな作家なら前例はあったが、良一のような人気作家がアルファからガンマへ乗りかえることなどまず有り得ない。崎山は猪突猛進型の若き女編集長だと聞くが、どういうつもりだろうか……
OKするに決まってるじゃないか!
良一はもともと漫学館で描きたかったのだ。ガンマで描きたかったのだ。断る理由などひとつも無かった。しかしそうなると集人社のアルファも黙っていない。
看板作家が盗られては面目丸つぶれだ。発行部数にもストレートに響く。連載漫画を終わらせてやった恩を仇あだで返すのか。次の連載漫画まで長期休暇をくれてやるから、頼むからどこにも行かないでくれ。ガンマに渡すぐらいなら、いっそのことこの手で殺してやるぞ。
アルファの編集長がそう言ったのかどうかはわからないが、すごい形相で良一の仕事場までやって来たのは言うまでもない。
結局、良一がガンマで連載をスタートさせたのは、それから3年後のことだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます