連載デビュー/ラフォルミ・シュル・ルシュクルでの会話/移籍劇


<連載デビュー>

 ――それから10年の歳月が経った。

 藤吉ふじよし良一りょういちの連載デビュー作『アレグレットの魔法』は週刊少年アルファの看板漫画になっていた。連載期間7年でコミックスは35巻を越える。すぐにアニメ化され、映画も5本ほど公開されている。彼の作品はアルファの読者層である子供や十代の若者はもちろん、某カリスマモデルや、某人気俳優などがファンであることを公言して以来、一般の社会人や主婦からも熱狂的な支持を得るまでになっていたのだった。

 もはや国民的な漫画と言っていいだろう。


 だが当然、最初からこんなに順調だったわけではない。良一の漫画が初めてアルファに掲載されるまで、新人賞を取ってから2年もの歳月を要したのだ。厳しかった担当者と取っ組み合いの喧嘩寸前になったこともある。ときには断食だんじき道場へ通ったり、おかまバーへ通ったり、今まで絶対に自分からやろうと思わなかったことにあえて挑戦することで、アイデアをひねり出そうとした。


 もちろん会社などとっくに辞めていたのでその2年間はほとんど無収入。貯金を切り崩しながらの生活だった。

 そんな死ぬ思いで描き上げた読み切り作品『茂美☆ストマック』は、ひょんなことから性転換手術を受けた元バス運転手の高羽鳥たかはどり茂夫しげお(54歳)が、奇跡的にも絶世の美女となり茂美しげみと名乗るようになったが、その後遺症として異常な胃下垂いかすいとなってしまい、悩みながらも悪役フードファイター養成機関「胃の穴」に入門。数年間の厳しい修行の末、美人悪役ヒールとして活躍するも、ライバルの覆面ファイターからプロポーズされてしまい、心揺らいでいたら、その正体が生き別れた息子だったという異色の人間ドラマだったが、まったく評価されず人気投票でもダントツの最下位に終わった。


 だが良一は不屈の精神で心機一転。

 それまでアシスタントとして健気けなげに頑張ってくれた妻の弓子とも別れ、新しい担当者の三橋みはしめぐみ(当時23歳)と毎日のようにオシャレなカフェで、キャラメルマキアートを飲みながらアイデアを持ち寄り、鼻歌交じりに描き上げた読み切り作品『キャラメル探偵社』がすこぶる評判が良く、そこからはとんとん拍子で連載が決まった。

 

 満を持して連載をスタートさせた『アレグレットの魔法』は失踪した謎の天才ピアニストと幼い日本人妻の間に生まれたアレグレットという少年(見た目は美少女)が音楽の才能を開花させ14才にして世界的な音楽院へ入学し、そこで珍騒動を巻き起こすという音楽系学園ギャグ漫画だったが、路線変更でバトル漫画になるやいなや一気に人気が爆発。

 学園の平和を守るためスクールカーストの頂点に君臨する弦楽げんがく四天王してんのうたちと戦う学園編、伝説の楽譜「母なる大地の聖譚曲オラトリオ」をめぐり地獄の六武奏ろくぶそうたちと戦う魔界編、タイムスリップしてしまった地球を舞台に、律動結社リズミナティ旋律人間メロディアンの100年戦争を描いた古代編ときて、現在は人類を楽器に変えてしまう謎の宇宙生命体「G51695」との果てしなき戦いを描いた宇宙編を展開している。


 とても50過ぎたおっさんが描いてるとは思えないかわいらしいタッチと、それにそぐわない登場キャラクタたちの昭和初期の私小説のような台詞回しが「逆に新しい」と若年層に受け、読者の予想を遥かに上回るゴリゴリの設定と超展開が斬新だということで、コアな漫画ファンからも高い評価を受けた。

 良一は寝る暇もないくらい仕事に追われるようになり、自分が漫画を描き始めた目的を忘れるほど忙しい日々を送るようになった。逆に、今さら何を言い出すんだと諸先輩方からお叱りを受けるかもしれないが、ここに来てやっと「漫画って面白い」と思うようになったという。


 だからこそ彼は『アレグレットの魔法』を完結したいと、担当者に打ち明けたのだった。




<ラフォルミ・シュル・ルシュクルでの会話>

「先生、どうして急にそんなことを」

 担当者の三橋みはしめぐみはプライベートでは良一と付き合っていた。

「本当に描きたい漫画があるんだ」

 新作ケーキのショコラ・フランボワーズを一切れ口に運びながら良一が言った。

 平日の昼間だというのに、このパティスリーカフェ『ラフォルミ・シュル・ルシュクル』にはたくさんの女性客が押し寄せていた。どこから集まってくるのか最近妙に客が多くなった。テイクアウトコーナーではゾロゾロと行列もできている。まるでのようだ。


「何をメランコリーなことを言ってるんですか!」

 恵はそう言ってこちらも新作ケーキであるビスキュイ・ピスターシュを一切れ口の中に放り込んだ。

 彼女は元々漫画家を目指していたが飼い犬にエサをあげようとかがんだときギックリ腰になり断念。その後、声優を目指したが飼い犬にのどを噛まれて断念。せめて漫画やアニメに関わる仕事をしたいということで早大卒業後、集人社に入社。まだデビュー前だった良一の担当編集者となったのだった。

 それからは良一とずっと公私共に歩んできた。気付けばもうアラサーだ。でも女の幸せだけは絶対に断念しないと心に決めている。もう絶対に犬も飼わない。恵はそんな決意を胸に秘めた、春風のようなエアリーボブがよく似合う爽やかな女だった。桜色のボトルネックニットトップスに、知的なヴィンテージ風のペンシルデニムスカートを合わせたスタイルもよく似合っている。 少々小うるさいのが玉にきずだが……


「先生はご自分の立場をわかってらっしゃるのですか」

「もはや、うちの看板作家なんですよ!?」

「連載をやめたいですって」

「そんなことは先生の一存では決まらないのです!」

「そもそも、漫画家と言うのは……」

 処女膜は人間とモグラにしかない。これは三島由紀夫が「不道徳教育講座」というエッセイで書いた適当なホラ話で、本当は人間とモグラ以外にも、処女膜を持つ動物は無数にいるんだよなあ。良一は恵の背後にある幾何学的なステンドグラスの一部がモグラに見えたので、何となくそんな話を思い出していた。

 その間にも、恵のお説教は続いている。


「先生、聞いてますか?」

「……」

「何とか言ってくださいよ」

「……」

「もう、良ちゃん!」




<朗報>

 数ヵ月後。良一は結局『アレグレットの魔法』をという掟破りで強引に完結させ、週刊少年アルファを出版していた集人社を離れることにした。当然、恵とも別れた。もう54である。れたれたはうんざりだった。今は宙ぶらりんの状態だがちょうどいい。知り合いの編集者から聞いた噂では、ゆでやさいは『狼天使ガルルちゃん』休載後、持病の痛風が悪化して自宅療養してるらしいのだ。もう10年以上も経ってるのだからきっと回復してるに違いない。


 良一は都内の一等地にそびえ立つマンションの最上階に住んでいた。生活感がまるでないのは今まで仕事場や恵の部屋に泊まることが多く、ここへは滅多に帰らなかったからだ。久々の自宅マンションから見るは夜景は恐ろしいほど綺麗だった。

 

 静かに揺らめく遠い街の灯をぼんやり眺めながら良一はオレンジジュースが入ったゾンビーグラスを手にイタリア製の牛革ソファーに座ろうとした。


 そのとき!?


 突然、ジリジリジリと何かが、けたたましく鳴り響いた。

 家の電話だ。こんな音がするのか……

 電話に出ると相手は思いがけない人物だった。


「漫学館の崎山貴子と申します」


 『狼天使ガルルちゃん』を担当していた崎山貴子は34歳という若さでガンマの編集長となっていた。彼女は連載を終えた良一に「うちで描いてくれませんか」と声をかけてきたのである。自宅の電話番号はきっと誰かから聞いたんだろう。しかしよくぞかけてきた。そしてよくぞ出ることができた。良一はその電話に運命を感じざるを得なかった。

 しかしマイナーな作家なら前例はあったが、良一のような人気作家がアルファからガンマへ乗りかえることなどまず有り得ない。崎山は猪突猛進型の若き女編集長だと聞くが、どういうつもりだろうか……


 OKするに決まってるじゃないか!


 良一はもともと漫学館で描きたかったのだ。ガンマで描きたかったのだ。断る理由などひとつも無かった。しかしそうなると集人社のアルファも黙っていない。


 看板作家が盗られては面目丸つぶれだ。発行部数にもストレートに響く。連載漫画を終わらせてやった恩を仇あだで返すのか。次の連載漫画まで長期休暇をくれてやるから、頼むからどこにも行かないでくれ。ガンマに渡すぐらいなら、いっそのことこの手で殺してやるぞ。

 アルファの編集長がそう言ったのかどうかはわからないが、すごい形相で良一の仕事場までやって来たのは言うまでもない。


 結局、良一がガンマで連載をスタートさせたのは、それから3年後のことだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る