対面/悪戯心/雲の靴/謝恩パーティー

<対面>

 週刊少年ガンマに『SATORI』の連載が始まって2年が経ったある日。

 藤吉ふじよし良一りょういちは還暦を迎えるのを機に話を一段落させ、初めて長期休暇を取った。ハイヤーに乗り向かっているのは、ゆでやさいの自宅である。いよいよこのときが来たのだ。『おおかみ天使てんしガルルちゃん』の問題のシーンを見て以来19年。あの靴を手にして以来ならば50年だ。

 それは長いようで長かった。本当に長かった。もちろん靴は持参した。50年間大切に保管していた靴は表面が多少経年劣化しているものの、ほとんど原型をとどめいている。車窓に映る風景からいつの間にかビル群が姿を消していた。


 首都圏郊外のさびれた町にゆでやさいの生家はあった。それはせた木の板に囲まれた築40年くらいの小ぢんまりとした日本家屋だった。表札は「中井なかい」とある。インターフォンを押すと、毛玉だらけのトレーナー上下にひげ面の男が出迎えてくれた。崎山からすでに連絡が入っていたようだ。彼こそ良一が会いたくて仕方がなかった人物、ゆでやさいその人だった。彼は近所の新聞店の粗品で配られた白いタオルを頭に巻き、腹話術の人形のような笑顔で良一を出迎えてくれた。


 狭い居間に通されると、本棚の上の壁には満面の笑みを浮かべたガルルちゃんのポスターが貼ってあった。所々やぶれかけておりずいぶんとヤニで汚れていたが、その表情はどことなく誇らしげだった。新聞の山の上には取り込んだばかりの洗濯物らしき衣類が無造作に積まれている。「今は絵本や、小説の挿絵を描いて細々と暮らしています」左右に揺れ動く電気のヒモを慣れた手つきでつまみながら、ゆでやさいが言った。病気は快方へ向かっているそうだ。ときどき、奥の部屋からテレビの笑い声がれてくる。人の気配もする。ご家族だろうか。


「すみません、生活感丸出しで」

 そう言ってゆでやさいは、かなり強い力でゆっくりと30㎝ほど開いていたふすまを閉めた。良一は促されるまま、中綿の飛び出しかけた座布団に腰を下ろす。 家のそばをダンプカーが通るたびに窓ガラスがカタカタと音を立てた。


「こんな汚い所に藤吉先生のような方が、いったい何の用でしょう」

 湯呑を差し出しながらゆでやさいが冗談っぽく言った。

 良一は謙遜けんそんの意味も込めて「ははは」と笑い、あなたに聞きたいことがあると言った。それは『狼天使ガルルちゃん』アニメ版の第6話。亀天使ノロが出てくるシーンである。ガルルちゃんが神社でひっくり返っていた亀を助けると、仙人のような風貌をした亀天使ノロが現れる。そしてガルルちゃんにこう言うのだ。優しいお嬢ちゃん、何でも願いをかなえてやろう。

 

「私は少年時代に、このシーンとまったく同じ体験をしたことがあるんです」


 良一の言葉にゆでやさいは目を丸くした。

 ふすま越しにボリボリとせんべいを咀嚼そしゃくする音が聞こえてくる。彼はしばらく黙っていたが、やがて思い出し笑いでもするかのように、そのシーンの真相を語り始めた。

「亀天使ノロのモデルは僕のひいおじいちゃんなんです」




悪戯いたずらごころ

 ゆでやさいの曽祖父、嶋田しまだ愛一郎あいいちろうはかつて大阪市北淀川区に存在した運動用品メーカーであるナカシマスポーツの創業者の一人だった。当時、愛一郎は会社が倒産したのを機に田舎へ戻り隠遁いんとん生活を送っていた。毎朝、近くの神社へ参拝するのを日課とし、家族によく「石段が1000段もある」と自慢げに話していたそうだ。

 ある日、愛一郎は納屋なやの奥から偶然一足のスニーカーを発見する。それは彼が会社勤めをしていたころ、甥っ子の入学祝いか何かで田舎へ送ったものだった。しかしその甥っ子が不慮の事故で亡くなってしまい、そのまま忘れ去られていたらしい。彼はあることを思いつく。

 そうだ、この靴を神社へ奉納しよう……

 翌日、彼はスニーカーの入ったビニール袋を持っていつもの神社へ向かった。


 季節は夏の真っ只中。こんな日に限って愛一郎は少々寝坊してしまったので、もう日がだいぶ高かった。神社の石段はまるでセミの鳴き声でできたトンネルだ。彼は流れ落ちる汗を何度もぬぐいながら石段をなんとか登りきったが、不本意ながらも参拝する前に鳥居の陰で一休みをすることにした。本殿の棟端むねはしに交差する千木ちぎが夏の日差しを受けてにぶく光っていた。

 しばらくすると石段を登ってくる少年の姿が見えた。やがて石段を登りきった少年は鳥居の下で大きく伸びをすると手水舎ちょうずやの横の蛇口で頭から水をかぶり、たまたま参道の真ん中でひっくり返ってたクサガメを拾い上げた。その一部始終を見ていた愛一郎は、無意識のうちにその少年と甥っ子の姿を重ね合わせていたのかもしれない。悪戯いたずらごころで仙人の真似事まねごとをしようと思い立ち、少年に声をかけたのだ。


 結局、愛一郎は少年にその靴をあげてしまったという。




<雲の靴>

「僕はひいおじいちゃんのその話をネタにしたんですよ」

 楽しそうに話すゆでやさいとは裏腹に良一は複雑な思いだった。心のどこかでは覚悟していた。しかし、やはりと言うべきか魔法の靴じゃなかったという事実は、彼を想像以上に落胆させたのだった。

 こんな話を聞くために自分は、まったく興味のなかった漫画の世界へ飛び込んだのかと思うと「むなしい」という言葉ではとてもじゃないがぬぐいきれない無念の思いがあった。一瞬このまま帰ってやろうかとも思ったが、今ではそんな漫画で充実した暮らしをさせてもらっているわけだし、せっかく来たんだからということで良一は持参したバッグから“雲の靴”を取り出すと「その少年は私です」と言った。


「やっぱりそうだったんですね!」 

 ゆでやさいには良一がその話を切り出した時点でピンと来ていたのだろう。「見ていいですか」と言って、ロゴマークからベロからソールから細部に至るまでで回すように眺め倒して「これが、ひいおじいちゃんたちが作ってたスニーカーかあ」と本当に嬉しそうにつぶやいた。本棚には古い洋楽のLPレコードが何枚か刺さっている。再び奥の部屋からテレビの笑い声が聴こえた。


「ところで藤吉先生、いったい何をお願いしたんです」

 ゆでやさいは良一が何をお願いしたのかまでは知らなかったようだ。ちなみにガルルちゃんは、きなこドーナツをお腹いっぱい食べたいだとか、全然違う願い事をしていた。

「私は雲に乗りたいと言いました」

 それは子供なら一度は夢見ることだろう。かといって自分がなぜそんな願い事をしたのか(しかも即座に)、良一にはわからなかった。何となくだが、その前に大きな入道雲を見ていたような気がする……

「ああ、それでひいおじいさんは先生にたまたま持ってた靴を渡したのかあ。この靴を履けば雲に乗れるっていう寸法だったんですね!」

 ゆでやさいが手をポンとやりながら言った。 良一は「そうです」とため息交じりに答え「でも、これは単なるスニーカーでした」とガックリと肩を落とした。彼は50年間もこの靴を“魔法の靴”だと信じて生きてきたのだ。なんてバカな男なんだ。知らないほうが良かったんだ。真実なんて……

 すると、ゆでやさいは「何を言ってるんです」と言葉を返した。


「先生はもうとっくにですよ!?」




<謝恩パーティー>

 ――それから数年後。

 毎年正月に都内の老舗しにせ宴会場で行われる漫学館主催の謝恩パーティーの会場で、数人の名だたる漫画家たちに囲まれ楽しそうに談笑しているゆでやさいの姿があった。

 恐竜のコスプレをした司会の女の子が「35」と叫ぶ。ほとんどの招待客たちは皆ビンゴカード片手に真剣な表情だ。ステージ上のひな壇には、最新ゲーム機、沖縄ペア旅行券、外国製掃除機ダイソンなど豪華な賞品が並んでいた。しかしゆでやさいを囲む集団だけはそんなものなど目もくれず、ただひたすら談笑している。


 彼はちょうど1年前『四弦よんげん少女べんてん!』という読み切り作品で20年ぶりにガンマ誌に復帰。超絶技巧の女子高生“変態”ベーシストである弁天ちゃん(本当はジャコパス博士がつくったアンドロイド)が、軽音楽部の仲間と共に珍騒動を巻き起こすというそのドタバタ学園ギャグ漫画は、全盛期のガルルちゃんを彷彿ほうふつとさせ、もういい大人になりながらも、心のどこかで復活を待っていた元ファンたちを歓喜させたのは言うまでもない。

 また、時代を感じさせない健康的でかわいらしい絵柄で幅広い層のファンを獲得、深い考証に基づくパロディっ気たっぷりのギャグセンスでマニアをもうならせ、すぐに連載がスタート。とんとん拍子でアニメ化も決定するという奇跡のフェニックス漫画家として時代の寵児ちょうじとなっていた。


 思えばあの日、藤吉先生が訪ねて来なかったら、自分はきっとここには居なかっただろう……


 背中の気配に振り向くと「あの、すいません」色紙とペンを渡された。ゆでやさいが本日、同業者にサインをするのはこれで何度目だろう。恐竜のコスプレをした司会の女の子が「83」とアニメ声。



 ― 完 ―

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