第57話 ~面と向かわなくちゃ分からねぇ~
あたたかな日差しを受けたカーテンが、ゆったりと窓の側で揺れる。
ここは――。
シンプルな間取りであり、どこか品のある部屋。
まず、そのような部屋はひまわり保育園の教室でもなければ、香菜自身の家の部屋でもない。
少し高めの場所から街の風景の見える、景色のいいマンションの一室である。
「薫の……とこ?」
あれ?
私、どうしてここへ――?
「香菜」
呼ばれて振り返ると、バツが悪そうに頭を掻いていた薫が、少しうつむいて立っていた。
絶対に会いたくない、はずなのに。
夢の中というものは、逃げたくても逃げられない場合が多いが、
この時ばかりは、何故か“逃げる”という選択肢が浮かぶことができないでいた。
目の前に居る、しょんぼりという言葉が似合うようになっている薫。
彼が頭を掻いてうつむき加減でいる時は、とても反省している時に行う仕草なのである。
香菜が振り切ってきた彼とは違い、どこか純粋で、子どものように無垢な雰囲気さえも感じさせていた。
以前の彼だ。
「ごめん。香菜」
「え?」
「愛して、たんだ。お前のこと。愛してたんだよ」
「えっ……そんなことっ」
嫌だ。聴きたくない。
けれど……。どうしたのだろう、この気持ち。
「だけど……。香菜のこと、怖がらせちまってたよな……」
「……」
どうしてこんなにも、邪険にできないのだろう。
まさか。
まっすぐな瞳をした薫からぽつりぽつりと出てくる言葉。
もしかして私、嬉しかったの?
「じゃあな、香菜」
薫は少しだけ笑って見せると、そのまま振り返らないままマンションのドアを開けようとする。
「え!?」
どうして、そんな言い方を。
まるで、本当にどこかへ行ってしまうのではないかと香菜は途端に焦る気持ちに駆られる。
「待って!?」
薫の姿は、薫の住むマンションから離れた遠くの方へと離れて行ってしまい、見えなくなろうとしていた。
待って――!!
自分の声が、身体の感覚が、ぐにゃりとおかしくなってくる。
「待って!!!」
はぁっと、大きく息を吸えば。香菜の目の前はひまわり保育園のいつもの事務所だった。
「えっ!? 私っ」
ソファの上で横になっていたとはと、驚きつつ時計を見る。
「そんな、今何時だろう」
香菜は焦りながら時計を探す。
「わっ!? もう17時になってる!?」
時間はもう既に、香菜の勤務時間が終わってもうまもなくだった。
「うーわー……やっちゃった……!」
これの方が夢だったらよかったのにと、香菜は自分の顔を両手で覆ったときだった。頬のあたりがひんやりとして、気がつけば自分が泣いていたことに気が付かされる。
「あれ、あたし……泣いていたの?」
夢の内容を思い出していくと、次第に香菜は、ある気持ちに気がついてしまっていた。
自分の気持ちをもう偽ることが出来ないと唇を噛み締めた。
・・・・
飯田は虎太郎を見守り、ではなく言い合いながら半ば強制的な虎太郎の同伴となった状態で救急車で共に病院へと運ばれていた。
救急車の中でも争い事が耐えない親子である。
「もういいんだよ帰れババア!」
「何言ってんの! 今降りられないし! あんたは全身血だらけでおかしなこと言わないで頂戴!」
「ババアだったら飛び降りれるだろうが!」
「虎太郎あんったて子はね!! そんなことできるのはオリンピック選手か化け物でしょうがっ!!」
「あ、あの、もう病院に着きましたよ……」
迫力のある親子の言い合いの雰囲気に隊員もたじろく程なのであった。
一通りの検査が終わり、三週間の入院という診断が下った虎太郎は、全身を包帯や補強で固定されると、ロボットのような可動範囲を課せられたのだった。親子のためを思ったのかどうかは定かではないが、個室が空いているということで、虎太郎はそこに案内され、母ももちろん付き添った。
「あー……しばらくバイト休まねぇとか……」
ベッドで腕や足を動かそうとするが、少し動かすだけで全身に激痛が走ったため顔をしかめると、大人しく天井を向く。
「大丈夫なの? あたしが電話しとこうか」
「いっ、いいって! 恥ずかしいんだよ!」
「なぁ。まだ帰んねぇのかよ」とぼそりという虎太郎。諦めの感情も入っているようで、少しずつ声が柔らかくなっているのだった。
気がつけば夜の10時である。
「わ、もうそんな時間だったの」
「ババアは明日も勤務なんだろ」
「そうよ?」
「……俺は大丈夫だから……早く身体、休めろよ」
恥ずかしさあってか、虎太郎は病室の窓の外の星空を眺める。
「そう……。優しいね虎太郎。あんたと久々会えて嬉しかった」
またくるわねと、飯田は立ち上がると、病室を後にした。
「は、また来んのかよ……」
きっと、飯田には届いていない声。そして嫌味を含んでいないことに、虎太郎自身が少しばかり驚くのだった。
「そういえば……」
薫さん大丈夫かな。そう虎太郎が天井を見上げて思うのだった。
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