第53話 ~それぞれの涙~


「あら、飯田先生、探したわよ?」

「園長先生……申し訳ありません」


 飯田の様子をおかしいとお昼前から把握していた園長は、香菜のクラスで飯田を見つけ安堵した様子だった。


「ちょっと、飯田先生顔色悪いじゃないの! どうしたの?」


 飯田は先程の薫からの電話に恐怖の感情から開放されないまま、「それが……」と、園長をただ見つめると、どう説明すればいいかわからず返答に困り、俯く。


「息子さんとは、あれから連絡とってみたの?」

「え……えっとですね……。一応……とれた、とは……」

「あら、とても曖昧ね……。飯田先生、今日はもういいから、息子さんの様子、一度見てきたほうがいいわよ」


 園長の優しい声に、今にも泣き出しそうになる飯田。

 園長は虎太郎の詳しい話は伝えていないが、すぐに会えるものだと思っているようだ。

 会えるものなら、今すぐにでも会いたい。

 あのバカ息子、なにか大変なことになっているんじゃないか――。


「あの、でも……お言葉ですが、実習生たちが来てるのに、私だけそんな……」

「何を言ってるの、飯田先生。実習生さんが来てるから、抜けられるチャンスよ? あと一人じゃ心細いでしょう?」


 と、園長は麻里に体ごと視線を向けると、


「麻里先生、申し訳ないのだけれど、飯田先生と一緒に片道だけでも送ってあげてくれるかしら」

「あ、は、はいっ!」

「それじゃあ、私は今から実習生さんの反省会に行ってくるから、二人とも、気をつけて行くのよ。あ、子どもたちのことは、他のクラスの先生に頼むから、何も気にしないでいて」

「はい……! 園長先生、本当に申し訳ありません。ありがとうございます……!」


 飯田は麻里と共に静かに立ち上がると、園長を見送り、しばらくすると他クラスの先生が応援にきてくれたため、礼を言い、二人は香菜の教室を後にした。


・・・・



 子どもたちが健やかに眠るひまわり保育園の園長室では、日下部と、彼率いる大学の生徒たち、そして、クラスの担任がそれぞれ1名ずつ集まり反省会を行っていた。

 その中には香菜もクラス担任として参加していた。


 日下部は一人ひとりの生徒の反省を聞きながら、真剣にパソコンを開いてメモをとっていく。香菜はそのメモを取る凛々しい姿に気がつけば見惚れている様子である。


 生徒の人数も多く、反省会が少し長引いて来た頃、香菜の視界が次第にぼやけかかる。

 眠気からきているものであるとも分かり、いけないと、力を込めてまばたきをする。


 ――香菜。


 「え?」


 薫? 嘘。


 思わず小さく声を出してしまい、弾かれたように驚く香菜。

 かろうじて、生徒たちには聞こえてない様子で安心する。


 そう、だよね、夢でも見ようとしてたのかな……。


 それにしてもと、脳内に突如響いた薫の優しい声に驚きを隠せない香菜。今、一番聞きたくない人の声のはずなのに。


 “声”が――。

 あの頃の、暴走族総長であるにも関わらず、仲間を守るというまっすぐとした志を持っていた頃の薫の声。


 どうしよう。どうしてこんな時に思い出すの?


 薫の声……。久しぶりだったな――。



「香菜!?」

「どうしたの!? 香菜先生!」


 香菜の異変にいち早く気がついた日下部は園長先生が立ち上がると同時に倒れゆく香菜へすぐに駆けつけ膝をつき、受け止める。

 生徒たちは何事かとざわつき始める。倒れてしまった香菜と、それを華麗にも受け止めた日下部とを交互に見ていた。

 中には、いけないものでもみたように静かに盛り上がる生徒も居るのだった。


「え、あの先生どうかしたの!?」

「ねぇさっき日下部先生、香菜って言った?」

「やば、日下部先生王子みたいな受け止め方してる」

「きゃぁかっこいいー!」


「こら!」


 日下部が不謹慎だぞと怒りを込めて一括したお陰で生徒たちは静まり返る。


「香菜、先生……大丈夫ですか……?」


 日下部が香菜の顔を見た時だった。


「――!?」


 香菜は苦痛にも似た悲しげな表情で、涙が一筋流れていた。

 どうしたんだと、ざわめく心の中で訪ねるとそっと涙を手で優しく拭う。


「日下部先生、ありがとうございます。あとは私達でなんとか致しますね」

「とんでもありません。少しでも、お役にたてたのであれば幸いです」


 園長が担任達に香菜を頼むと、静かに園長席へ座る。


 日下部の様子がおかしいところから、これは香菜となにかあると、園長は頭を抱えた。いっそ、見なかったことにしてしまいたいが、もうどうしようもない。


 今日はなんだか妙な日ねと、冷静に振る舞うため深く深呼吸する。

 そして、再び冷静な表情を取り繕う日下部を見て、飯田を思い出すのだった。最後に見た飯田は、先生、という職業を忘れ、とてつもなく自信を失ってしまった、“母”であった。


 飯田先生。あなたの息子さんはきっと、かわいい子だと思うわよ。



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