~お前は虎太郎というんだな~ ④

 倒れて声すら出せなくなった虎太郎を見下すと、薫は勝ち誇った顔で、クククと笑う。


「これでようやっとアイツに面と向かって会えるわけだ。逃げられねえようにするってのは、頭使うよなぁまったくよ」


 不気味な薫の笑い声を、虎太郎はただ聴くことしかできない。

 この不快な声が、自分が長年憧れてきた男の声だと思うと。


 腹立たしいことを通り越して、反吐がでる――。


「んじゃ、借りるぜ虎太郎」


 薫が勢いよくしゃがみ込み虎太郎のズボンのポケットをまさぐる。


「お前まだ生きてんだろ? ほら、ロック解除しろよ」


「嫌……っす……」


 力なく、虎太郎は反発する。


「あ゛!? 言う事聞けよいい加減なァ!!」


 とうの昔に骨折でくだけてしまった骨にまた、衝撃と激痛が走る。


 嫌だ、ということばを何回言えただろうか。

 恐怖に負けてしまうまでは……。


 恐怖と絶望という力によって勝手に動いてしまう自分の指を止められないまま、虎太郎の瞳からは涙が一筋流れ、意識を失うのだった。


・・・・・


 嫌な予感がする――。

 これはすぐに不安になる癖なのか、それとも母親だからこその胸騒ぎなのだろうか。

 お昼休憩を取れるタイミングが来た時。飯田は弾かれたように通勤用のショルダーバッグへと手を伸ばす。


 手に取ったスマホのホーム画面は相変わらず夫からの雑談であろう通知が来ていた。


 胸騒ぎから一瞬気を取られた飯田は「はいはい」と苦笑しつつ、連絡先から息子のページを出す。


 虎太郎が家を出てからもう、何年会話してないのだろうか。

 緊張もまじりつつ震えだした手が、ついに彼の番号に触れたのだった。


 数回鳴るコール。母だとわかっているからだろうか、

 コールが鳴り止むことは、今は無い。


・・・・・・


「飯田先生、大丈夫でしょうか……」


 手元のお弁当をおもむろに片付けつつ、麻里は時計に目をやる。飯田がそそくさと自分たちのもとから去った後から大分時間が経っている。


「飯田がどうしたってんだよ」

「もう14時だというのに、クラスの様子を見に来るどころか、廊下さえも歩いていた感じがしません」

「まー……確かにおかしかったよな」

「それに、あんなにも落ち着かない飯田先生、私初めてみましたし」

「ふぅん……。そんなに心配かよ?」


 頭に腕を組んで鼻を鳴らすアレス。つまらなそうにしていたアレスが、ふと何かを感じ取り廊下へと視線を写す。


「?」


 麻里もアレスの視線につられて廊下を見る。すると、数秒しないうちに話題の主が現れた。


「飯田先生! お疲れ様です」


 よかった、と安堵をみせたかった麻里だったが、そのただならぬ様子に思わず息を飲んだ。

 彼女の顔が、先生という職業を忘れたように悲しみに満ちていたからだった。


「あ……? どうしたよ」

「ちょと、アレスさん言葉を……!」


「ありがとう、麻里先生……。私事で本当に申し訳ないのだけど……」


 いつも凛とした飯田が、めずらしく麻里達の前でへたり込み、気持ちを打ち明けはじめた。


 23歳になる息子がいて、日下部先生とはそう歳が変わらないのに荒れた集団の子達と一緒に生活を明け暮れている、ということと――。


「電話に、出ないんですか……」

「どういうこった?」

「や……それは私にもはっきりとは……」

「いいのよ、多分息子からは嫌われてるんじゃないかしら」


 今にも泣き出しそうな飯田に、どんどん暗い感情に囲まれ始めているのか、アレスの目が少しずつ見開かれているのが、麻里からははっきりとわかる。


「お前……まさか」


 アレスの脳裏に麻里の額の傷と、倒れたバイクと散らばった焼きそばが思い出される。


「全く同じ匂いがするぜ。お前、焼きそば野郎の母親だったのかよ」


 まじかよ、という表情に眉を八の字にしてみせたアレス。

 どういうことかわからずにいた麻里をよそに、空気なんていうものを読めないアレスは飯田に言い放つ。


「お前の焼きそば野郎、麻里のおでこ怪我させてたぜ。バッグ盗んだ……や、盗んでねぇっては謝ってたけどな」

「え、え!!? どういうこと!? 百合先生、あの子に逢ったことがあるの!?」

「えっ……あの時のバイクの人、ですか……?」


 きょとんとする麻里をよそに、飯田は傷つくどころか半ば希望を持った様子でアレスの肩を力強く掴むと力のこもった瞳でアレスを見つめた。

 アレスは彼女の有り余った力で揺らされる。


「ぅおい! まずっ、謝れよ麻里にっ!」

「ねぇ、ねぇ!! あの子元気だった!?」

「やめろよっ! 揺らすな! キモチワル……!」


 そして、ようやっとアレスから手が離れるチャンスがやってきた。

 飯田のポケットから着信音が聞こえてきたのだ。


「ああ、多分旦那だわ、ごはんがどうのっていう注文、電話でもしてくるのよねー……」


 まったく、といって飯田がスマートフォンの画面を見た時だった。


「な……!?」


 飯田の瞳に入ってきたそれは、紛れもなく飯田の息子の名前である


“虎太郎――”


 この文字が、はっきりと画面に浮かび上がっていたからだった。

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