~お前は虎太郎というんだな~ ②

「それは、できねぇっす!」


 瓦礫が散乱した埃でかすんだ空気の中、虎太郎は額や首から流れ落ちる汗を拭うことも許されない思いで立ち尽くしていた。全身にまとわりつく恐怖を振り切るように言い放って、歯を食いしばる。

 廃墟に吹き込む隙間風の音がやけにうるさい。


 後悔はない――。


「そうかよ……」


 薫が口の端を釣り上げて間もなく。瞬時に訪れた彼の異変にすぐさま虎太郎は後悔することとなった。


 薫の周囲にふっと小さく風が舞ったかと思えば、次第に禍々しさを感じざるを得ない黒々とした濃い霧が彼を包む。

 その中で不気味に光った薫の瞳。それは、明らかに人間離れした紅い色を宿していた。


 その姿に、虎太郎は弾かれたように目を見開いた。


「なっ――!!」


 似たような光景を、一度だけ見たことが、ある。

 得体の知れない異様な雰囲気と、紅く光る瞳。


「え……え!?」


 それはつい先日の事。

 焼きそばパンとひっくり返ったバイクと俺と。


 百合戦線あのひと――。


「どう、して!?」


 このような奇妙な光景をここ数日で二度も見る事となるとは。虎太郎は驚きつつも、ヒュッと風を切る音と、頬をかすめていった薫の拳で一気に現実に引き戻されることとなった。


「オイ、余裕ぶっこいてんじゃねぇよ」

「っ……! すんませんっ!!」


 口にした後、自分を恥じた。

 薫の叱りつける言葉の後、癖のように謝ってしまう自分。


 何言ってんだ俺、と思うや否、気がつけば身体が宙に浮かんでいた。

 腹部がえぐれる感覚がする。

 更にそれだけではとどまらず、上半身ごと持っていかれたのではないかという衝撃を受けながら、地面に身体を叩きつけられていた。


「ぐはっ……! か、は……」


 瞬時にして呼吸を奪われ、鮮血の混じった唾液が口から漏れる。

 凄まじい力で放たれた薫の拳。

 いままで自然と呼吸をしていたはずなのに、空気を吸おうとすればするほど胸のあたりで痛みの衝撃が走っていく。

 虎太郎がうずくまったまま体制を立て直せないでいると、容赦なく薫は虎太郎の髪を掴み上げた。


「なぁ、教えろよ」


 間近で見る薫の紅い瞳と視線が合った瞬間、何かに強制的に縛られてしまったかのように身体が硬直してしまった。


「なん…だ……これ……!」


 空気も取り入れられず、硬直状態まで付与され混乱へと陥りそうになる。

 時間とともに頬、いや。顔の右半分、だけにはとどまらず顔全体が濡れた感覚がしてくる。

 地面だけでなく、口の中でも硬くゴロゴロとした音と、血液の味で満たされていた。


 あ、これ歯、イってるな。


 虎太郎が視線を彷徨わせていると薫がこちらへ地を蹴るようにして近寄る。

 すべてを払う様にも見えた。


 ああ……クソ、情けねぇ――。


 今はそれを通り越して怒りさえこみ上げてくる。


 違うだろ、俺。

 今の薫さんは、薫さんじゃない――!


 地に腕を立て、震える足に活を入れるようにしてようやっと半身を立たせる。

 きつく歯を食いしばった虎太郎の脳裏に、薫と香菜が一緒に寄り添い、自分へ向けられた温かい笑顔が浮かぶ。


 虎太郎はなけなしの力で瓦礫の破片を払うように片足を後ろへ下げると、一か八かの攻撃を繰り出すための体制に切り替える。


 身体の軸を使い勢いと共に薫の腹部へ向かって拳を繰り出したはずだった。


 パシッ――!!


 期待していた鈍い音とは異なり、乾いた音が情けなく虎太郎の耳に届いてきた。

 いとも簡単に、虎太郎の拳は薫の手のひらで止められたかと思えば、そのまま腕を外側に捻じ曲げられた。


「ぅぐぁあああ!!!!」


 薫の人間離れした力は、虎太郎へ尋常じゃない痛みを与える。耐えきれなくなった虎太郎は苦痛の声をあげ、バランスを崩し、そのまま薫に胸ぐらを掴まれてしまった。


 何なんだよ、これ……!


 虎太郎が得意とする俊敏さを活かした攻撃は、時として薫以上になるのではという噂すら仲間内でたっていたのだが。


 今まで心から慕ってきたはずの薫。

 なのに。

 力強く握られた後がもう青紫の濃い痣ができていて、そして麻痺している。

 それが敵うのは、薫がだった場合だろう。

 胸ぐらを捕まれ、息も絶え絶え見上げれば、薫に今にも喰い付くされてしまいそうな不気味な瞳と口元。


 目の前の変わり果てた薫が恐ろしくて、歯が立たない悔しくて涙が出そうになる。

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