~すがりたい、手~ ③
香菜が付き合っているということ自体に驚いていたのは麻里だった。
香菜という人間のイメージが麻里にとっては、誰にもそういった恋だの愛だのという話をしたことがなく、仕事に真面目、という印象が強かったのだ。
「その、付き合って“た”、というのは……」
「ええ、別れたの。ちょっと、将来のことを彼と考えてたら、意見が合わなくなって……」
「ええええ……」
「……」
アレスは香菜の話がわかる所は目を開きながら、黙って香菜のことを見つめている。
「彼は家庭を持ちたい、でも私は仕事を続けていたい、っていう意見がね。最初は彼も私のこと分かってくれてたように見えてたんだけど、“やっぱり仕事はやめてくれないか”って……」
「そんな、うそでしょー……! もったいないですよ……!」
「あはは……。でもね、私の希望も分かって欲しかったから……」
香菜は麻里へ視線を向けたが、それよりも遠くを見つめるようにも見えた。
「んで、なんかそれ聴いてもさっきの香菜とまったく繋がらねぇんだけど、それから何かあったのかよ」
「あ、はい……。彼が、その……諦めきれないってなって……」
香菜が再びスマートフォンに指をふれた。次第に香菜の瞳が曇りだし、
指先が震えだしたのが二人にも感じられた。
「これ、見てください」
香菜が見せたのはメールの受信トレイだった。
「132?」
アレスが受信トレイと共に表記されていた数字を読み上げて麻里を見る。
「全部、未読になってますけど……」
「それね、朝出勤してから今、の数字ね……。その……開けて、件名見てみたら分かるから」
「え゛……。い、いいんですね。そしたら、失礼、致しますっ」
麻里が申し訳ない様子で小さく会釈しながら表示されたメールの受信トレイをタップする。
「……」
アレスは話が見えないまま麻里の指によってスライドされていくスマートフォンの画面と麻里を交互に見る。
「香菜先生、これ……」
「何だよ早く言えよ。何があったんだよ」
アレスの瞳にはスマートフォンから何かぼんやり視えるものがあるが、麻里に答えを求め、そわそわしていた。
“件名:どうしてずっと、何も言ってくれないんだ?”
“件名:会いたいんだよ”
“件名:無視したって逃げられないことくらい分かってるだろ”
しばらくした後、ことの状況を理解し顔面が蒼白した麻里は思わず震える口元に指先を当てて香菜を見つめた。
「夜中には何度も何度も着信が入ってるの……。しかも、非通知にしてまで」
そんな人じゃなかったのに、香菜の声が震え出す。
「あのそれって……い、言っていいですか?」
「え、ええ」
「ストーカー……じゃ、ないですか?」
麻里と香菜の二人は揃って深刻な顔になり、俯く。
「あ?」
アレスは何だ何だと言いながら二人を交互に見つめる。
「おい麻里、すとぉかあって何だよ。すげぇ弱そうな呪文だな」
アレスが麻里を覗き込むと、蒼白したままの麻里はアレスと向き合う。
「百合先生、ス、トー、カー、です!! 相手を想いすぎるばかりに、相手の気持ちも考えず必要以上に追いかけ回すっていう感じ……分かります?」
麻里が声を荒げた時、側で眠っていた子どもが唸り、寝返りをうつ。しまったと自身の口に手を当てる。
「……。まぁ、普通ヤるまでは逃さねぇよな」
「あの、そのヤるって言葉、きっと私達とはスケール違いますから」
香菜のふふ、という声にアレスと麻里は同時に「どうした!」「どうしたんですか?」と顔を向ける。
「あ、ごめんなさい。ちょっと、二人の会話がおかしくて」
「おい失礼な奴だな香菜お前」
「ア……百合先生、ちょっど!」
「でもま、香菜が笑ってるなら安心するけどな」
「まぁ……。でも、それはそうとこれはちょっと行き過ぎてますよ。テレビドラマで見てるのをまさかこんなところで見るなんて……。香菜先生、ここまでされてるのに、アドレス変えないんですか?」
「そう、したいんだけど……」
怖くて、と香菜は更に俯いた。
「彼、私の家の住所知ってるの。拒否なんてしたら、何しにくるかわからないし……」
「あー……! それは厄介すぎます……!」
「……」
アレスは香菜と麻里とのやりとりを聴きながら腕を組んだ。
「なんかよくわかんねぇけど、香菜、おまえ嫌ならちゃんと相手に言ったのかよ、やめろって」
「エ!?」
麻里は驚いてアレスの肩を掴んで大きく揺らした。
「あなたは本当に! なんでそういうとこデリカシー無いんですか!」
「うっせ、え、な! 嫌なら嫌っていうこと、輝たちにもできるぜ。そんくらいもできねぇのかよ! おい、頼むから放せって」
力の抜けた麻里へ、ったく、とアレスが息を吐く。
「それがですね……。簡単に香菜先生だって出来ないから、悩んでるんじゃないですか……」
「ああそうかよ。そりゃめんどくせぇもんだな」
「でも、二人ともありがとう。話を聴いてもらえて、大分気分が楽になったわ」
香菜の瞳には少しばかりの光が宿っていた。香菜を追うストーカーについて、アレスは納得いかないといった目線で香菜を見つめるのだった。
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