~あの頃、野河は若かった~ ②


「あんた、大変な事してくれたね!!」


 陸田は野河に向かって大声で言うと、瑞希に駆け寄る。


 大変なこと?

 なんで?


 野河はその後の出来事が、頭に入らないまま仕事に流されるように過ごして行った。


「瑞希ちゃんのご両親はとにかく神経質なんだから。あんた、本気で土下座する気持ちで謝ってよね」


 陸田の声は完全に怒気を発していた。


 瑞希の両親へは職員の不注意という事で、野河が謝罪をしたが。


「運動会、明日ですよね!? 瑞希は、運動会をとても楽しみにしていたんですよ!」


 野河は反射的に涙が出て頭を下げたが納得はしないどころか怒りが爆発しかねない状態で、そのまま園長を呼び出しての謝罪という事態となった。


「それでも先生なんですか!!」


 瑞希の両親は涙と共に怒りの矛先をこれでもかという程、野河に向けていた。



 保育時間が終わった後。


「野河先生……だいじょうぶ?」


唯一歳の近い仲間であった飯田が話しかけるが、その声も虚しく、野河は力なく大丈夫、と返すことで精一杯だった。



 野河はその日の夜、練習で起きた出来事、先輩保育士の怒声、そして保護者の怒声。それぞれの冷めた視線。数々の恐怖と不安に押しつぶされそうになった野河は号泣していた。




 運動会当日。けたたましく鳴る目覚ましを止めた。時刻は午前5時。1時間は眠れたであろうか。


 野河は亡霊のような足取りで早朝出勤、照り付ける日差しの中で駆け回り、子ども達を収集し、保護者へも収集をかける中。


 すべての視線が恐怖となり、耐えきれなくなった野河はついに。


 倒れた。


 保護者達は急いで駆け寄って、野河を看護係へと運んだ。


 その姿を見て、何よりも心配していたのは当時のそら組の子ども達であった。




「せんせい……せんせいがたおれちゃ、やだよ……!」


 瑞希は涙を浮かべて、園児席から立ち上がるが、背には瑞希の両親が。

 その視線は鋭く、黙って首を横に振っていた。

 

 軽度の捻挫。


 そう外科に診断された瑞希の足元には、頑丈にサポーターが巻かれており、バランスを崩しそうになりつつも、ゆっくり座り込んだ。


 看護係のテントで横になること数時間目を覚まさなかった野河。その後の競技にはまともに参加できないまま過ごし、後の反省会が行われた時には、園長や先輩保育士からは


“子ども達の指導を徹底的にしておけばこのような事態にならなかった。更に、体調管理を怠ることは保育士として失格だ”


 という言葉であった。


 どこにも助けが無いのではないかと思った瞬間だった。


 運動会は終わった。


 瑞希はその後、他の地区の保育園へ転園することになった。退園するその日、そら組の全員で記念写真を撮った。

 瑞希は両親がお迎えに来る前にと、野河に抱きついた。


「瑞希ちゃん……」

「せんせい、ごめんなさい……」


 瑞希は涙を流し、野河の気持ちを受け止めるように力強く抱きしめた。


「そんな、ううん、瑞希ちゃんのせいなんかじゃない……! あたしが、止められなかったから……!」


「ううん、みんな、ふざけすぎてたもん……せんせいのせいなんかじゃ、ないよ」


 瑞希は野河を見上げ、微笑んだ。その幼く綺麗な涙は止まることがなく、気がつけば野河も一緒に涙を流していた。その後、瑞希のお迎えに来た両親は、瑞希の涙に少し驚いていた様子であった。


 瑞希との騒動の件以来、保育士さえもやめようとも思った。だが、瑞希のせいで保育士を辞めたという事になってしまう様な気がして、辞めることができなかった。


 償いになればいい。


 自分がもっとしっかり指導していれば。


 アンナコトハ オキナカッタ



 野河は厳しく指導をすることを心から決めた。


 もう二度と、あのような騒動を起こさないために。



 自らの心は、封じる。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る