第8話 ~あの“シャンプー”っていうのはもう置かないでくれ~ ①

 勤務後の寮への道のりは、いつもの麻里であったら俯いてネガティブ思考まっしぐらで帰るのだが、この日の帰り道はアレスが居るだけで、とても波乱の道のりとなった。


「ちょ、アレスさん! そこ車来ますから!!」

「ぐぇっ、おいどこ引っ張ってんだよ!!」


 信号機の意味が分からず赤であったとしても渡ろうとするなどの信号無視から始まり、堂々と道路の真ん中を目指して歩こうとすることもあった。


 アレスの側で颯爽と走り抜けていく自転車や車を見ると


「魔術を使える奴がいるのか!?」


 と、興奮して、自分の魔力を取り戻すんだと大声で言ったかと思えば追いかけようとする。「危ないですから!」と麻里がアレスをひっぱった後に「なんだよ! びっくりすんだろ触んな!」と抵抗したあげく、そのままアレスはバランスを崩して道の溝に見事にはまった。

 散歩中であった犬にアレスが吠えられると飛び退き、「お前はどこの魔族の奴だ!」と怒鳴っていた。


 麻里はアレスの腕を引いて歩きながら、飼い犬の言うことを全く効かない犬との散歩を連想しつつも、やっとの思いで寮へとたどり着いた。


 麻里の住む寮は殺風景と言っても良いほどの、こじんまりとしたところだった。テレビや洗濯機にパソコン、趣味で読む漫画本や小説が少しと、必要なものだけがあるという感じだ。

 麻里は20代になって初めての一人暮らしであった。


「やっぱ小さな、はぁ、民家だな」

「アレスさん、大丈夫ですか? 息も絶え絶えですよ。あ、靴はちゃんと脱いで上がってくださいね」


 スニーカーを脱ぎ、アレスに振り返る麻里。


「うっせぇな……! 初めて目にするものばかりだったんだ。靴、これ取れにくいぞ……! 麻里、お前取れよ」

「嫌です。自分の事は自分でできなければ、この世界では馬鹿にされますよ」


 サンダルは履きやすく、脱ぎやすくもあるが、運動靴となると、手間がかかってアレスは苦手なようだった。


「くっそ……面倒いな、この履物は」


「はい、はいっ」


 魔王なのにこの世界へくると子どもみたいだと、麻里は思わず吹いた。


「お!? おい麻里、笑うな! さっきからずっと笑ってばっかりだぞ!」


「だってっ、小さな子どもがそのまま大人になったような感じだし」

「は!? ったくよぉ……!! ふぅ……疲れた」


 アレスはようやくひっぱりぬいた靴を雑に投げると、そのまま渡り廊下に倒れこんでしまった。


「もう、まったく。ちゃんと靴は並べてくださいねっ」


 散らかった靴を下駄箱に片付けると、寝そべるアレスに声を掛けた。


「ちょっと、ちゃんとお風呂ぐらい入ってくださいよー……!」


 ぐったりするアレスを肩にどうにか担ぐと、シャワールームへ行き、シャワーの使い方、ボディーソープの使い方をある程度のことを教えた。

 例え、百合の身体とは言え、人様の裸体を見るのもどうかと思い、どうにか声が届く場所でアレスの叫び声を聴きつつ、お風呂の入り方を教えた麻里だった。


「はぁ……人間って面倒いんだな。麻里、あのシャンプーっていうのはもう置かないでくれ」

「え!? だめですよ、女性にはなくてはならないんですから。なんで嫌なんですか?」

「痛い。目が凄く痛かった」

「あぁ……目に入っちゃったんですか。シャンプーハット買ってきますね。本当、子どもみたいだなぁ」


「うるせぇ!!」


 以上、アレスの初めてのお風呂の感想であった。


 今度は麻里自身が入ろうと自然と思ったのだが、アレスを取り残してのお風呂はある意味勇気がいった。

 テレビをつけ、「これを見ていて下さい。あと、私が戻ってくるまで絶対座っていて下さい」と念を押すと、


「俺に命令か!?」


 という言葉や、これはなんだとごちゃごちゃと言葉がとんでくるアレスを背にすぐさまシャワーを浴びに行く。


 麻里が一通りのことを済ませ、走るように居間へ戻る。意外にも麻里が心配していたことはなにも起きておらず、アレスはテレビを凝視していたのだった。


 なんだろうとテレビへ視線をやると、丁度、アレスの活躍するゲームのCMが放送されていた。


「俺様の、世界だ……」

「本当ですね……。なんだか、アレスさんを見ていると……信じるしかない状況なのが不思議です」


は、どうなっちまってるんだろうな」

「本当ですね……」


 “本当の百合先生”は、一体どこへ行ってしまったのか――。


「戻りてぇが、まだ戻れそうにないみてぇだからな」

「そうなんです?」

「あぁ。主人に言われている」

「え? 主人?」

「俺様を作った、主人に」

「え……!?」


「まぁ、どうにかして戻ってみせるさ。それよりな……」


 アレスが立ち上がったと思うと、今度は麻里の方へ手を突き出した。

 さっきまでの疲れはどこへ行ったのかと、麻里は苦笑いを浮かべた。


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