第7章 別離。







***



悪魔見習いの女が

声をあげて笑い


天使見習いの足はすくんだ。



「なんでも自分が正しいだなんて、思い上がってんじゃないわよ!坊や」




それは

ビルの屋上だった。


一人のサラリーマンが

すっかり魂の抜けたような顔で

柵を越えようと

足をかけてよじ登る。



実際には

魂は抜けてなどいない。



魂が抜けた肉体は

動くことないのない

物のような存在だ。



せいぜい

筋肉などが

それまでの条件反射などで

微かに痙攣したり


食道などから

ガスが抜けたはずみで

喉が震えるくらいだ。



魂は抜けてはないが

我をなくした彼は

無意識に動く脱け殻。


むしろ

理性や知能や思考が抜けた

魂だけの力で

体を突き動かしている。





止めなくては


彼は何の迷いもなく

空へと、


いや、違う


重力からは

逃れられず

向かう先に待つのは

地上だ。




だというのにだ。


たまたま居合わせた

悪魔見習いの女が

邪魔をする。






「坊やには与えられた自分の仕事があるんじゃないの?」



目の前で

誰かが命を手放そうとしているのに


それを

見過ごせはしない。



彼には家族もいる。


彼が死ねば

たくさんの人が

嘆き悲しむのだ。



「どうして邪魔をするのさ」



「お馬鹿な質問だわね。頭を冷やしたらどう?」



悪魔見習いの女が

忌々しいといった顔で

小さく舌打ちをしていた。



「キミに彼は関係ないよ」



自殺という死を

迎えた魂は


天界にも

魔界にも

迎えることはできない。



つまり

彼を死なすメリットなんて

この女には

ありはしないのだ。


生前に

因縁のあった相手であれば

話は別だが。




女は苛立ったため息を

思いきりついて

こちらを睨む。



「アンタにも。ソイツは関係ないんだ」



天界へと

導く相手ではないし、


まして

すんなりと

転生をさせてあげられるわけでもない。



それが自殺だった。



「自殺をしたら、僕らは関与できなくなる。だから」



「だから?」



女の眼差しが

さらにきつくなった。



「自殺はさせない」



意識さえ取り戻せば

本人がそれを回避できる。

本人が望んで

自殺をするわけではない。



望んでする人も

たくさんいる、が


彼は

意識を手放してしまっているだけなのだ。



「とんだ茶番だよ、呆れるね」



大袈裟な悪態をやめない

悪魔見習いの意図はわからない。


天使見習いは

彼女を無視して

彼の方へと向かおうとした。




「神様は、生きる殺すを決めるのかい?」



背中に届いた

悪魔見習いの声。


背筋がゾクリとした。



神様は

命を左右しない、


ただ

見守るのだ。


心を痛めながら。





天使見習いは

泣きそうな顔で

女を振り返った。



「アンタがさ、個人的な気持ちで突っ走るのはエゴだろ?」



あぁ


それはきっとただしい。



そう感じて

目の前が真っ暗になった。



「あの男が心を壊したのは、毎日救いのない暮らしをしてきたからさ。今、たまたま自殺を止めてみてもアンタあの男は救えないよ?」



冷笑が

まるでこの心さえ

凍りつかす。



「アンタはもう人間じゃあないんだよ。わかったかい?坊や」



天使見習いは

もうただ

祈るしかなかった。



どうか

心を取り戻して


いのちを

手放さないで、と


穴があくほど

彼をつよく見つめた。







いのちの重さを

ないがしろに


人間たちは生きる。



自分が生きるために

他のいのちを奪うことは


結果として

認められていた。



自分を守ろうとして

何かに攻撃してしまう弱さも


それは許されてきた。



だが

自分のいのちを

自ら放棄する行いは


何よりも最も重い

神への冒涜となる。




生きるために

戦っていいのだ、


苦しいなら

切り開いていいのだ、


一人きりで

抱え込まなくていいのだ、



弱さを

嘆かなくていいのだ、



自らを

悪者にしなくていいのだ。




かたわらの

悪魔見習いの女でさえ


「胸くそ悪いね……」と

つぶやきをこぼした。



自殺を止めたいという

悪意があるからだろう。



だがそれをしない、


本人の魂がいく道を

じっと見守るのだ。







今にも。



ふわりと

男の体が傾きそうで


見ているほうが

生きた心地ではなくなっていた。




天使見習いも

悪魔見習いも

生きてはいないが


まだ人間だった頃の

感覚としての気持ちがある。



(――神様!)



天使見習いは

神様にさえ祈っていた。


そのいのちを

左右はしないと解っていながら。


そうせずには

いられないくらい

ただ無力だった。



神様もまた

同じように祈る、


ひとつのいのちが

儚く散ることは

けして望まない。



世界の願いが

男に届いたのか、


不意に

驚いて叫んだ男は

尻餅をついた。




天使見習いは

顔を輝かせ


悪魔見習いは

鼻で笑う。



男は

これからも


しっかり

生きていかなけばならない自分を

再認識するだろう。







「なんだ。死なないのか」



そう呟いたのは

霊体の少年だった。


つまらなさそうに

背を向けて

その場を立ち去ろうとしていた。



彼には足がある。



天使見習いは

再び表情を曇らせた。



足のない幽霊は

気持ちがまだ不確かで

どちらにもつけない

不安定な存在だが、


足が

しっかりと地に立つ霊体は

成仏をしないことへの

明確な意思を持つ。



むろん

天界や魔界にも

彼らはこようとはしない。


転生して

再び生を受けようともしない。



その人生を

まだ終えられない

何らかの事情を

持っているからだ。



「キミは何をしてるの?」



天使見習いは

幽霊の少年に声をかけた。



「このビル、自殺する人が多いんだよね。退屈しのぎに見学」



すでに

自分が死んでしまっている彼らは

特に誰かの死を

特別に受け止めもしない。


天使見習いは

ひどく残念に思った。



あの悪魔見習いの女でさえ

気分を害していたのに


少年は

心を動かされずもせず

暇つぶしだという。



いのちという

時間の枷をなくし


たとえ自由に見えても

それはやがて

失われいくのだ。



「何か。キミには目的があるんだろうから、意識を持っているうちに達成してくれないと。亡者になってしまうよ」



聞こえたはずだが


少年は振り向きもせず

去って行った。






***



時々

天使見習いは思うことがある。



常に

死と向き合うことは

とてつもなく

精神的に疲労する。


だが

そこかしこに

生きる者たちがいて


死に近付く者が

溢れていて


死してなお

死にきれぬ者がいて、



この現世にいる限り

気の休まる時はない。



天界へと

時折舞い戻り


文字通り

『羽休め』をしていると


目につくのは

上級の天使の姿だった。






美しい彼らは

見ているだけで癒される。



その憧れがあるから

また頑張ろうと思える。



だけども

ほんの些細な嫉妬や無知から


羨ましくも

映る場合があった。




上級天使の階級は

見習いの自分では

聞き取れもせず


だから

どの階級がその仕事を担当するのか

さだかではなかったが



転生を希望し

新たな人生を始める魂たちを

神様から授かり


現世へと送っていく彼らは



きっと

幾分か楽しい仕事だろうと


そんなふうに

感じてしまう。




天使見習いの視線に

おそらく

心を見透かしたのだろう、


これから現世へ向かう

とある天使が

微笑みながら

声をかけてきた。



「一緒にいきますか?」



見習いにすぎない自分が

その仕事の見学を許されるとは

思ってもいなかった。






***



これから

母胎に宿る赤ん坊だと思えば


同じ魂であっても

可愛らしく愛でたい

そんな存在に感じた。



転生の際には

一度神様のもとへ帰り

いろいろと準備をしてきた

その魂たちは


もっとも汚れを知らぬ

清らかな魂だった。



上級の天使が

魂たちの声をきく。


見習いには

何も聴こえないが


おしゃべりをしている

魂の様子を

なんとなく感じることはできた。



とても楽しげで

希望に満ちている。


見ている者が

心を洗われるほどに。



やはり

死よりも誕生のほうが

素晴らしい仕事だと

見習いは思った。




天使が

魂の話をきいて

うなずいた。



「ではそうしましょう」



どうやら

母親を決めたらしい。



転生の魂たちは

みな好きな母親のもとに

いくことが出来る。


自分が幸せにしたいと願える

相手を選ぶのだ。



だけれども

人間になると

それすら忘れてしまうから


喧嘩をして

「こんなウチに生まれたくなかった!」と

叫ぶこどもがいたり


「アンタみたいな子、産みたくなかった!」などと

言ってしまう母親がいる。



みんな

ただ感情的になっているだけで

本心などではないのだ。



記憶にないのだとしても

こどもはその人を愛して

生まれてくるものだし


母親は愛されて

心から愛を返せる人間へと

成長していく機会に恵まれる。







「さあ、精一杯生きてくださいね」



天使がそう言って

魂を放った。



現世には

魂を狙う亡霊たちもいるので

緊張して見守る。



やがて

ふわりふわりと


魂が

母親となる

若い女性のもとへ

たどりついていった。



これで一安心だ。



「素敵な仕事ですね」



思わず口をついて出た。


天使が頷き


だが哀しげに

新しい親子を見つめ



「苦しみや哀しみは同じです」と


静かに呟いた。



「彼女はこどもを産むことができません。あの魂は生まれることができません。それでも、彼女を愛したいと、そう言っていました」



不意に語られた話に

見習いはことばをなくした。



やがて

時間の制約を受けない

彼らの前に


それは映し出され、



妊娠を知った母親が


毎日お腹に話しかけて

名前をつけて呼んでいるのを

見ることができた。






「授かったこどもを産むことができない母親たちも、たくさんいます。産むことができない事情、体質、事故、……あげればキリはありません」



天使が

長いまつげを伏せて


だが口許に笑みを浮かべる。



「彼らは。それでも、短い時間を生きて、母親を愛します」



「なぜ、産んでくれるひとをきちんと選ばないのですか?せっかくの命を、」



言いかけた

見習いのことばを


やんわり

天使がほほえむ。



「愛しているからです」



魂たちは

自分がただ生まれたいのではなく


誰かを幸せにしたいと

願っている。



それは

もっとも神様の願いに近い

優しい優しい存在だった。



「届かない想いもたくさんあります。子を産めないことで自分を責めてしまったり、神を怨むこともあります。それでも、願うのです。神の子ですから」








                        ~ Sincerely yours ~



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