第弐話 『その女、始動につき』 其の弐

 整然と構える葵に対し、ミラもまた独自の映える構えで応じる。

 おおよそ一人分程の距離を隔てて、両者はその場で闘志をぶつけ合う。緩やかな春の風が髪を優しく揺らす中、互いに相手の出方を窺い、攻め時が訪れるのを待った。

「!」

 やがて——膠着状態に痺れを切らしたミラが、先に動き出した。

「ヤッッ!」

 右、左と俊敏に大きくステップを踏み、左脚を軸とした回し蹴りを放つ。前進と回転の力が集約された鋭い一撃が、中段よりやや上を狙う。

 だが、それはいとも容易く左手で外側に弾かれた。直後に、がら空きとなった顎へ的確に右の掌打が打ち込まれる。

「ンゲッ!」

 身構える事もできぬまままともに喰らい、なんとも不細工なやられ声を上げるミラ。すかさず、お返しとばかりに隼弥が野次を飛ばした。

「うわ〜、お嬢様らしからぬ声」

「お、お黙り……!」

 憎らしげに答え、後ずさりながらも体勢を立て直す。

「す、すみませんっ。体が反応してしまって……大丈夫、ですか……?」

「へ、平気ですわ、これくらい……ちょっと油断した、だけですわ……」

 相手であるはずの葵に気遣われ、ミラは打たれた部分を軽くさすりながら、いかにも強がりな台詞で返す。

 事実、そこまで手痛いダメージではなかった。しかしミラにとって、今の一撃でもたらされたものは、精神的な衝撃の方が遙かに大きかった。

(今の……この娘は、わたくしが蹴る体勢に入った時にはもうこちらに踏み込んでいた。まるで、攻撃がどう飛んで来るか分かっていたかのような動きでしたわ……)

 たった一回の攻防のやり取りであったが、逆にそれだけで否が応にも実感させられる程に、葵の動きは洗練されたものであった。

 ひ弱な小娘と高を括っていた相手に、こうも簡単に出鼻を挫かれるなんて。彼女は自らのプライドに傷が付く音を聞いた。

(まさかっ。ただのラッキーに決まっていますわ。このわたくしが、こんな小娘に先手を取られるなんて……っ!)

 軽く力を見るだけとは言ったが、それは完勝を前提とした上での話。こんな戦いで、黒星をつけるなど許されない。本来であれば、これは一撃をもらう事さえ由々しき事態であるはずの前座なのだから。

 既に一度完敗を味わった身。こんな戦い、あっさりと、いとも容易く勝利を収められなければ、恥の上塗りもいいところだ。


 ——このわたくしが、ただの下民如きに二度も敗北を喫するなどという事が、あっていいはずがないのだ。


 断固として事実を受け入れないミラは、自身の気を持ち直すように、またも強気な台詞を吐いた。

「それよりも自分の心配をしたらどうですの? 今みたいなラッキーは、二度も続きはしませんわ!」

 今度はヘマはしない。そう意気込んで、ミラは攻撃を再開する。

 短くステップを踏み、中段に二回、右脚で直線的な蹴りを打つ。脚のリーチを最大限に活かした、広い間合いを取っての刺突のような牽制だ。

 それも至って冷静に、はたかれるように捌かれる。更に同じ脚で上段に突くも、軽く仰け反りながら同様に対処される。脚を変えての抉り込むようなミドルキックも、腕の固い部分でなんなく受けられた。

 だが、ミラはすぐさま左脚で地を踏みつけ、一気に間合いを詰めながら体重を前方に乗せ、顔を狙った渾身の右ストレートを放つ。

 先の四発の蹴りは、あくまでも布石。これこそが彼女の本命であったのだ。

 防御後の隙を狙った重みのある拳は果たして——軸足を支点にした横の動きで、紙一重でかわされる。更に回避と同時に手首を取られ、そのまま全身の捻りを加えながらの流れるような体移動と共に、下から大きく掬い上げるような動作で投げられてしまう。力に頼らず、相手の重心の位置の流れを熟知した上での、滑らかな体捌きによる鮮やかな柔術であった。

「グハッ!」

 その場でグルンと前方に一回転し、ミラはコンクリートの床に背中を打ち付ける。受け身を取ったとはいえ、今度ばかりは確かな痛みが全身に走った。

「お見事」

 爽快なまでに綺麗に決まった一本に、あっという間にバーガーを完食して口直しのガムを味わっていた隼弥も、自然と称賛の言葉を呟いていた。

「あっ。す、すみません……つ、つい……」

 またしても申し訳なさそうな顔で、葵はおどおどしながら仰向けのミラに声をかける。

 もちろん本人に悪気は無かった。だが、敵に情けをかけられるなどという看過し難い屈辱に激しい憤りを覚えたミラは、すぐさま全身のバネを使って跳ね起きた。

「いちいちっ、謝らないでくださるっ!? バカにされているようで腹が立ちますわ!」

 怒声を張り上げ、再び殴りかかる。

「す、すみまっ……はいっ!」

 本腰を入れてきたミラの攻撃を落ち着いて対処しつつ言い直す葵。自分の発した言葉を冷静に考えられる程に、彼女には余裕があった。

 それとは対照的に、ミラは一手一手をいなされる度に焦燥感を募らせ、苛立ちの火を傷んだプライドで燃え盛らせていた。

 ブチのめす事など訳無いと信じ切っていた少女に、自分の力がまるで通用しない事が、何よりも歯痒く、何よりも許せなかったのだ。

(なによっ、なんなのよっ! なんでこのわたくしが、こんな小娘なんかにっ。こんな庶民なんかにっ、また……!)

 ミラの脳裏に、二日前の記憶がよぎる。

 それまで負け知らずで生きてきた中で初めて味わった、偽れようも無い程の完敗。

 消し去りたい記憶の扉から漏れ出たドス黒い物が、胸の内に雪崩れ込んでくるかのような、おぞましい感覚。


 また、敗けるのか?

 一度ならず二度までも、アンダーソン家の人間に並ぶべくもない下民如きに、またあんな思いを味わわされるのか——?


(認めない……そんなのっ、認めるものですかっっ!)

 奥歯を噛み締め、ミラは今一度誇りを燃え立たせて葵に喰らいつく。

「フッ、ハッ! シェアッ! ツァッ!」

 低い体勢で踏み込んでの、拳で押し込むようにしての肘打ち、そのまま肘を支点にしての裏拳、続けざまの水面蹴り、そこから更にもう一回転して放つハイキック、脚を振り切って背を向けてからの宙返りでの蹴り下ろし、横移動で躱されるも間髪入れずにその場で跳び、全身を円盤のように地面と平行になるように大きく横に一回転させながらの上段の二連蹴り——単調な手技、脚技だけでは埒が開かないと判断し、持ち合わせるあらゆる技を織り交ぜながら攻め続ける。煌びやかな黄金の髪が、皺の少ないスカートが、絶え間なく靡き、華やかに踊る。派手ながらも優雅さを失わない、華麗にして怒涛の攻撃の嵐で、激しく畳み掛ける。

 それでもなお、届かない。身体の最適な箇所で防がれ、すんでのところでかわされ、度々狙い澄ました反撃をもらう——その繰り返し。

 相手を完全に外見だけで弱者と決めつけていた分、ミラの胸の内に積もっていく屈辱と恥辱は、恋火と拳を交えた時以上に重いものであった。

(お〜お〜、軽く手合わせだけっつってたのに、完全にりき入っちゃってんな〜あれ……でも、やるねえミラちゃん)

 一方、二人の戦いを傍観していた隼弥は、気の抜けた顔をしながらも、ミラの動きを鋭く観察していた。

 組んだ手を頭の後ろに組み、ドアの横に身を預けてガムを膨らませながら、幼馴染に挑みかかる少女の健闘ぶりを、絶えず目で追い続ける。

(構えからしていろいろめちゃくちゃではあるけど、動きそのものには全くブレがねえ。自分なりのスタイルってやつをちゃんと確立させてやがる。いやはや、どこでどうやって身に付けたんだか知らねえが……素人とは思えねえほど強え。姉御が少しは認めてたのも納得だ)

 隼弥は素直に、ミラの実力に感心していた。高い守備力を持ち味とする葵にはさすがに通用しないものの、ここまで健闘できている時点で、彼女が素人にしては異常と呼ぶ他無い戦闘力を有しているのは言うまでもなかった。

 そして、そんなミラの戦いを眺めている内に、彼は段々と胸の奥が熱くなる感覚を覚え始めていた。

(……あ〜、なんか見てたら俺もウズウズしてきたぜ……)

 一泡吹かす事さえ叶わないながらも、一歩も後退する事無く全身全霊を込めて諦めずに戦い続ける、ミラの懸命な姿。鷲峰流の人間とは一味も二味も違う、そのアクロバティックで縦横無尽な立ち回り。

 格闘家としての性か——いや、彼が元々持ち合わせていた闘争本能故か、隼弥は武者震いを起こしていた。


 ——俺も、彼女の力を確かめてみたい。


 元々思考より感情が先走るタイプである彼には、それを抑える理由も、術も無かった。

 善は急げ。隼弥は思い立った瞬間に即、行動に移った。

「はいは〜い、そこまで〜」

 パンパンと手を叩きながら、お気楽なムードで交戦中の二人の間に割って入っていく。両者共に動きを止め、彼の方に目を向ける。

「ハァ、ハァ……なによ、サル……しゃしゃり出て、来ないでくださる? ゼェ……まだ葵との勝負は、ついて、ハァ……ませんわ……」

 息も絶え絶え、と言った感じで、たどたどしく強がってみせるミラ。

 まだまだ余力を残している様子の葵とは違い、呼吸は荒く、大粒の汗を流し、表情も一際険しくなっている彼女は、言うまでもなく体力と気力を激しく消耗している。まだるつもりでいるのかもしれないが、これ以上続けたところで彼女自身の苦しみが増すだけ。もちろんそれは、早く自分が体を動かしたいがための建前に過ぎないが。

 隼弥なりに気を回し、おどけたような言い方でミラを説得する。

「いやいや、そもそも軽く力を見るだけって話だったじゃんよ。もう葵っちの実力がどんなもんかよくわかったろ? 目的は達したわけだし、ここまでにしとこうぜ?」

 肩を大きく上下させつつ、ミラは鋭く細めた目で葵と隼弥を交互に見やる。

「……」

 例え相手が誰であろうとも勝負を諦めたりはしない——それがアンダーソン家の人間として戦う上で、己が魂に課したルール。

 ミラにとってそれは何よりも重く、何よりも大切としている信条であった。故に隼弥の提案など、聞く価値の無い戯言でしかないはずであった。

 しかし一旦冷静になって考えてみれば——確かに。これはあくまでも前座、死力を尽くしてまで臨むべきものではない。

 自分が本当に到達すべきゴールは、倒すべき敵は、もっと別の高みにこそ存在するはずなのだから。

 意地の張りどころを間違えて不必要に身を削るのは、敗北を認める事よりも遥かに愚かな行為。この腸が煮えくり返る思いを持ち帰させられるのは極めて不本意ではあるが、今は潔く退いてやるとしよう。

 だが、だからと言って、勝負そのものを諦めるわけでは断じてない。アンダーソン家の誇りにかけて、己の信条を破るような事は、家名に泥を塗るような事は、絶対にしない。

 いつか近い内に、必ず勝つ。勝ってみせる。


 いつかあの鷲峰恋火と同じように、この屈辱を二兆倍にして返してやるのだ。


「そうね……確かにもう十分ですわね。今回は、ここまでとしておきましょうか」

 隼弥の言葉で思いがけず頭が冷えたミラは、合理的に判断を下し、構えを解いた。

「あ、はい……いい機会を与えてくださって、ありがとうございました」

「ええ、こちらこそ……」

 落ち着いて丁寧な挨拶をする葵に、ミラは額の汗を白いハンカチで拭き取りながら、僅かに顔を引きつらせて返した。

 一切の悪意無く余裕に満ちた調子を見せつけられた事が、微妙に腹立たしく思えたのだ。

「お疲れ〜、葵っち」

 葵の元へ歩み寄りながら、緩い口調で労いの言葉をかける隼弥。

「ありがとうございます。お昼ご飯の前のいい運動になりました」

 そちらを向き、葵は軽く会釈して答えた。またもさらっと無自覚に嫌味を吐かれ、ミラは密かにムスッとするのであった。

「ああ、相変わらず安定感のある良い動きだったぜ。俺も見習わなくっちゃな〜。あ、あと、二回くらいパンツ見えたよ、ピンクの。さては今日学校で体動かすと思ってなくて、下にスパッツ履いて来なかったな〜?」

 褒めるのも早々に、ニヤニヤと嫌らしい笑みを浮かべて、隼弥は葵をからかい始めた。

 これも、二人の間では日常茶飯事である。

「っっ!!? も、もう、ジュン君のすけべっ!」

「はっは〜、ごめんごめん。でも見えちまったもんはしゃあねえだろ」

「仕方なくありません! なんでそんなに堂々としてるんですかっ」

「まあまあ、いいじゃんいいじゃん、ミラちゃんも下にショーパン履いてて見せてくんなかったしよ〜。それに、どうせ俺らの仲じゃんか」

「だ、だから、そういう問題じゃなくて」

「ちょっとアンタ達! 人を無視して勝手にラブコメを始めないでくださる!?」

 目の前でいつまでもいちゃいちゃを見せつけられては堪ったものではないと、ミラは疲労を脇に置いて憤慨した。

「あ、す、すみません……」

「お〜悪りぃ悪りぃ。それで、だ……ミラちゃん」

 と、隼弥が適当に謝るなり一度言葉を切って、ミラの方を向く。

 そして微笑を浮かべて彼女を見下ろしながら、しれっと誘いをかけた。


「次は、俺とろうぜ?」


* * *


「……ハ?」

「え、ジュン君?」

 同時に呆けた顔をする二人。すぐさまミラが笑止とばかりに嘲笑う。

「フン、ジョークは存在だけにしておきなさい。ただのギャラリーに過ぎないアンタ如きが、このわたくしの相手になるはずがないでしょう?」

 戦いに敗けたばかりだというのに、このとてつもない自信に溢れた上から目線の物言い。隼弥が不服そうに返す。

「おいおい、そっちこそ冗談キツいな。俺だって葵っちと同じ、あの道場の門下生なんだぜ? 一昨日だって、葵っちと一緒にあそこにいたんだけどな……ってか、話の流れで察してくれてるかと思ってたんだけど……」

 しかし、彼女はさほど興味が無さそうな薄いリアクションを見せた。

「あら、そうでしたの。生憎サルの顔なんていちいちちゃんと見てもいないし憶えてもいませんので、全く気付きませんでしたわ」

「はっは〜……泣いていい?」

 乾いた笑いでジョークを零すも、無慈悲にあしらわれる。

「どうぞ、ご自由になさい。アナタのようなサルには、床に這い蹲って泣き喚く惨めな姿がお似合いよ」

「うぅ、容赦ねぇぜ……」

 なんでここまで酷い扱いをされなきゃいけないんだ……と、隼弥は涙目で弱々しく笑った。

 それを清々しく無視して、ミラはいかにもしんどそうに話を戻す。

「それで? わたくしの次の相手をしてくださると、そう言ったのだったかしら?」

 すると隼弥は、スッと普段の明るい顔に戻り、一つ提案を持ちかけてくる。

「おう。……つっても、君はもう今のでずいぶん疲れちまってる。続けて手合わせするってのは、その体力じゃちと厳しいだろうし、なによりフェアじゃねえ。つか、それじゃ普通すぎてつまんねえ。そんなわけで、ちょっとしたゲームで互いの力を見るとしないかい?」

「ゲーム……?」

「そそ。超分かりやすくて簡単なお遊びさ」

 小首を傾げるミラに、口の中のガムを一度大きく膨らませ、それを指で突いて割る様を見せつけて、端的にルールを説明する。

「俺が噛んでるこの風船ガム、こいつを……ん〜、そうだな、三十秒以内に一回でも割れたらミラちゃんの勝ち、割られなかったら俺の勝ち。どう? ちょうどいいハンデにもなるし、普通にやるよりちょっとは面白くなるっしょ?」

「ハ……?」

 まるで妙案を思いついたかのような口振りで、さも得意げに同意を求められ、ミラは反射的に間の抜けた声を上げてしまった。

 なんとも真剣味に欠けた、遊び半分な発言。子供扱いもいいところだ。ミラでなくとも、呆気に取られるのは止むなしである。

「じ、ジュン君、そんなのミラさんに失礼ですよ……」

 葵がミラの気高いプライドを気遣い、窘たしなめようとする。だが、隼弥はニカっと歯を見せて、強引に押し切った。

「だいじょぶだいじょぶ、任しとけって。二人を見てたらジッとしてらんなくってさ〜。俺にも食後の運動させてくれよ、あのに怪我はさせねえから、な?」

 子供のように無邪気にはにかんで、彼は長年の相棒の頭をポンポンと優しく叩く。

「っ、もう……」

 ああ、ダメだ。経験で分かる。

 この顔は、完全に“遊びたがってる”時の顔だ。こうなったら、もうちょっとやそっとじゃ動かない。事が悪い方向に運ばない事だけを、ただ祈るしかない。

 葵はぶうたれながらも、大人しく引き下がる事に決めた。

「うっし! さ〜てミラちゃん、準備はいい……か?」

 “無事”了解も得られたところで、一発気合いを注入し、張り切ってミラに向き直る。

 しかし当の彼女は、なにやら立ち尽くしたまま俯き、小刻みに肩を震わせていた。

「……ミラちゃん?」

「フ、フフフフ……」

 呼びかけると同時、呻くような笑い声を上げ、肩の震えが大きくなる。かと思いきや、すぐさまピタッと動きを止め、のそりと顔を上げる。

 そして露わになった、憤怒で思い切り歪んだ笑みで隼弥を睨みつけながら、憎々しげに言った。


「ええ……面白いですわ、超面白いですわ……あまりにも面白すぎて、アナタを徹底的にブチのめすまではしゃいでしまいたくなりましたわ……!」


 低音に震えた、本心とは程遠い皮肉たっぷりの台詞。隼弥の悪童めいた遊び心が、彼女を完全にご立腹の状態に仕上げてしまったようだ。

 ミラは膨れ上がる苛立ちを溢れさすかのように、力強く拳を掌に打ちつける。怒りで瞳を染め、疲労さえも恐れをなして逃げ去ったかのように、ギラギラした闘志を漲らせてボキボキと拳を鳴らす。まるで獣が威嚇のために唸っているかのようである。

 燃え盛る炎が浮かび上がって見えるかのような凄まじい気迫に、やはりと言うべきか、葵は「あわわわわ」と頼りなく怯えた。だが隼弥は、それさえも飄々として受け止め、軽口と共に葵に頼んだ。

「はっは〜。そいつは良かった、やる気出してもらえたみたいでなによりだ。んじゃ、さっそく始めるか〜。葵っち、タイムよろしく〜」

「はっ、はいっ。わ、わかりました……っ」

 慌てた様子でスマートフォンを取り出し、タイマーを設定する葵。若干もたついたものの、すぐに準備は整った。

 「じゃあ始めますよ」と声をかけると、隼弥は「ん〜」と喉を鳴らすだけのとぼけた相槌を返した。対するミラは、もはや目の前の不敬な輩を叩きのめす事しか頭に無いのか、無言のままに構えを取り始めたのだった。

(サルの癖にナメたマネを……三十秒ですって? フンッ、十秒でその腹立たしいバカ面ごと粉々にして差し上げますわ……!)

 己を愚弄するうつけ者に、この拳による制裁を——ミラはより一層戦意を剥き出しにする。

 それを戦闘準備完了の合図と見た葵は、スッと片手を高く挙げる。それを見て、隼弥は肺に大きく空気を取り込んでからガムを膨らませ、クイックイッ、と手招きするような仕草をミラに見せつけた。なんとも分かりやすい、明らさまな挑発である。

「〜〜っ!」

 まんまとそれに乗せられ、彼女のこめかみにピキッと青筋が立った直後、葵が手を振り下ろしながら開始を告げる。

「始め!」

「Kick your butt(ブッ飛ばしますわ)!!」

 その瞬間、ミラが荒いセリフを吠えながら突進した。抑えていた怒りを解放し、コンマ一秒でも早く愚かな猿に裁きを下すべく、最初から全開で仕掛けにいく。

「ハアァッ!!」

 前方に勢いよく跳びかかりながらの、空中で放つ二連続の上段回し蹴り。対恋火時にも披露した、豪快極まる大技である。

 出し惜しみなどせずに速攻でカタをつける——そんな尖った意志が込められた破壊力抜群の攻撃は、猛々しい風切り音を轟かせて、虚しく空を殴りつける結果に終わった。

 隼弥は棒立ちの姿勢から、背筋をフル活用して瞬時に後ろに倒れ込み、自身を飛び越えさせる事で、襲い来る少女の身体ごとキックを回避したのである。当然、ガムはその球状を保ったまま。

「!?」

 着地し、すぐさま驚愕の表情で振り返るミラ。隼弥もまた、背が地に着いた瞬間に脚を上げて勢いよく振り下ろし、身体の反動だけで跳ね起きて、彼女と向き合う。

 彼は大っぴらに手を広げ、おどけるように首を傾げるポーズを取った——それで終わり?——とでも挑発しているかのように。

(きぃ〜〜! どこまでも人をおちょくるのが好きなサルですわね……!)

 火に油を注ぐようなパフォーマンスは、その目論見通り、ミラの思考をより攻撃的に染め上げた。

 肥大した炎に焚き付けられるように、彼女は即座に間合いを詰め、次なる一手を打つ。

 前に小さく跳びながらの、左、右と間を置かず真上に振り上げる二段キック。その隙間の無い連続技は、初段の時点で素早く左サイドに回り込まれ、身体どころかガムにも掠りもせずに回避される。

(これではどう……!)

 ならば——上げ切った右脚を、脚力だけで強引に逆向きに振り回す。天性の体幹を存分に活かし、攻撃から攻撃へ予備動作無しに移行する。相手の予想の外からの差し込みを狙った、意表を突く一撃。

(お、やるね〜。でも……)

 だが、その鎌の一薙ぎのような回し蹴りも、隼弥にとっては予想した結果の内の一つでしかない。深く身を沈めて躱した上で、無防備となった軸脚を後方から腕で払う。

「ウッ!」

 派手に転ばされ、背中から内部へ流れた衝撃に押し出されるように、ミラの口から苦しそうに短い空気が漏れる。

 裏をかいたつもりが、逆に文字通り足を掬われる結果となってしまった。

「あ、あと二十秒です……!」

 強制的に空と対面させられる形となったミラに、葵が追い打ちのように経過を報告する。

 それは同時に、ミラが当初の思惑を果たせなかった事を意味していた。またも結果が自分の思い通りに運ばなかった事に、彼女は奥歯を噛み締めた。

「Damn(このっ)……!」

 怒気を吐き、脚を竜巻のように振り回してスムーズに起き上がる。間髪入れずに接近し、今度は手技を中心とした連続攻撃で猛攻を仕掛ける。

 しかし、ボクサー並の鋭利なパンチも、全く当たらない。ガムにさえ掠る事すら叶わない。ばかりか、後ろに横にと軽快に運ぶ隼弥のフットワークについていくのがやっとであった。

 特に反撃も無く、ただ足と手を余分に動かされるだけ。おまけに、度々額や頬を指で小突かれたりなど、完全に遊ばれている。

(ああもうっっ! この、サルが……っ……!)

 自身が嫌悪する“雄”という醜い存在の掌の上で弄ばれている耐え難い現状が、彼女の胸の黒い炎を更に燃え立たせた。

「あと十秒です!」

 そこで再び告げられる残り時間。

 余裕は無い。体力も厳しい。何より——ムカつく。早く決着を付けなくては。

「フッ!」

 そんな焦りと苛立ちに突き動かされ、ミラは勝負を急ぐあまり、ワンツーパンチからの流れで大振りの後ろ回し蹴りを放った。狙いは悪くなかったが、スタミナの消耗で些か精彩を欠いていたために、容易くダッキングでかわされる。

「っ!!?」

 直後、彼女はパチリと目を見開いて衝撃を露わにする。

 攻撃後の隙を突いて、子犬を愛でるように、隼弥がミラの頭をサッと撫でたのだ。

(うお〜すっげ〜、ちょ〜柔らかくてさらっさらだ〜。さっすがブロンド美人)

 ほんの一秒にも満たない時間ではあったが、彼は至福の感触をたのしんだ。

 互いの力の差から生じた余裕を持て余した故に、隼弥は刺激を求めて、大胆な悪戯に走ったのだ。

「〜〜〜!! F××kッッ!」

 当然の結果であるが、ミラは硬直を解くなり頬を真っ赤にして激怒し、乱暴な回し蹴りで身体ごと払いのけた。その弾みで、とても財閥の令嬢が使うべきではない汚い言葉まで出てしまう。

 隼弥はその反応を見て、幼さの残る笑みを浮かべていた。

「もう、ジュン君……」

 悪ふざけが過ぎる幼馴染の振る舞いに、悩ましげに頭を押さえる葵。

 そんな彼女の手のスマートフォンが示すタイマーは、既に残り五秒を切ったところであった。

「あ、えっと、三!」

「っ!」

 慌てた様子で始まった最後のカウントを聞き、ミラは焦ったように攻めの勢いを強めるも、時は既に遅すぎた。

「これまで! ……です」

 ジリリリリ……ゲーム終了を知らせる電子音と葵の張った声が、昼下がりの屋上に無情に響き渡る。

「ハァ……ハァ……ハァ……」

 それを聞き、動きを止めるミラ。途端に、張り詰めていた糸がプツンと切れたように、膝に手をついて荒い呼吸を繰り返し始める。感情によって無理矢理に外へと押しやっていた疲労の皺寄せが来たのだ。

 それでも彼女は、依然鋭い敵愾心を目に宿していた。しかし、その矛先を向けられている隼弥はと言うと、平静としてガムを口の中に戻し、彼女とは対極的な涼しい顔で言った。

「は〜い、俺の勝ち。やっぱミラちゃんいい動きしてんね〜、楽しかったぜ。疲れてんのに付き合ってくれて、サンキューな」

 嫌味も煽りも無い、素直で純粋な色を帯びた言葉。それを伝える彼は幾分か楽しげで、満足げであった。

「お疲れ様でした、ジュン君」

「おう、あんがと。いや〜、やっぱミラちゃんやるよ。ウチの連中とは全然違う動きで、なかなか新鮮だったわ」

「そうですね、私もいい経験が出来たと思います。脚の使い方とか、参考になりましたし。でも……ジュン君はちょっと遊びすぎです」

「はは、悪りぃ。つい楽しくてな」

 息一つ乱さず、葵と平然としてやり取りを交わす隼弥。

 葵といい、隼弥といい、疲れというものが欠片も感じられない。二人とも、今の戦いをあと十回は平気で繰り返せそうな、そんな大いなる余裕さえ見て取れる。

 こっちは余裕どころか、気を抜ける瞬間だって、一つ足りとも無かったというのに。


 これが、現実か。

 これが——力の差か。


「……」

 ミラは、噛み付くような眼差しで、二人をジッと睨みつけていた。

 彼女はこれまで、ずっと負け知らずで生きてきた。同年代はもちろん、大人の雄だって、格闘家を名乗る“本職”の人間だって、敵と定めた者は一人残らずその手でブチのめしてきた。その戦績と経験から、自分の実力には絶対の自信を持っていた。

 自分を打ち負かせる者など、この世にいるはずがない——そんな風にさえ思っていた。

 だがどうだ。

 一昨日に日本を訪れてからというもの、恋火には言い訳しようもない完敗を喫し、その弟子である葵にさえ手も足も出ず、同じく弟子であり、侮蔑の対象としてきた雄の隼弥にまで弄ばれる始末。しかもその全員に本気を出させるまでもなく、子供の遊びにでも付き合うかのように、軽くあしらわれてしまった。

 これまでの輝かしい戦歴に、崇高なプライドに、まさしく爪痕のような深い傷を刻み付けた、立て続けの三連敗。

 勝利だけを当然のように喰らい続けてきたミラには、ここ三日で泥のように流れ込んできた敗北の味は、あまりに苦く、あまりに重く、あまりに受け入れ難いものであった。


 その未曾有の体験は——生まれてから一度も知り得なかった感覚を、彼女の心に芽生えさせるまでに至った。


「…………フフフフッ」

 突如、吹き出すミラ。葵と隼弥は話を止め、目を丸くして彼女を見る。

 暫しの間、俯向くようにして静かに身震いしていたのが一変、大っぴらに手を広げて空を仰ぎ、爽快に声を上げた。


「ハァーーーッハッハッハッハッハッハ!!!」


 澄み切った晴天の青空を、盛大な笑い声がつんざく。彼女のあまりにも突飛過ぎる行動に、葵も隼弥もただ固まるしかなかった。

 そんな呆気に取られる二人にも構わず、ミラは心底愉快そうに笑い続けた。腹の底から込み上がる物をありったけ吐き出すかのように、半ば壊れてしまったかのように、大口を開けてひたすら笑い尽くした。

「……ミラ、さん?」

「き、急にどうしたんだよ?」

 ようやく落ち着きを取り戻した二人が、心配と不安が入り混じった面持ちで、恐る恐る声をかける。

 ミラは目尻に浮かんだ涙を拭い、息を整えながら、胸の内の心境を包み隠さず明かす。

「ハァ、ハァ……あ〜〜全く、なんて愉快なのでしょうっ。まさかこんなにも腹立たしい事がこの世に存在するなんて、実に爽快な気分でございますわ〜。フッフフ、不思議ですわ……怒りもここまで来ると、笑いが込み上げてきますのね」

「い、怒り、って……」

「おいおい、なんだよ。俺らに歯が立たなかったのがそんなに悔しかったってのか?」

 隼弥の問いかけに、ミラは声を低くして即答した。

「当然でしょう? でもそれ以上に、ムカついて仕方がないのよ——自分の弱さが」

「え?」

 笑みを完全に引っ込め、ミラは心情を吐露する。


「偉大なるアンダーソン家の娘であるこのわたくしが、あの女どころか、その弟子であるアナタ達にすら全く敵わなかった。全力を引き出させる事にさえ至らなかった。我が名家に及ぶべくもない、たかが庶民に過ぎない人間にね……これが屈辱でなくてなんだと言うの? この屈辱を恥と感じずして、何が誇りある名家の人間だと言うの? こんなにも……吐き気のするくらいに許し難い感覚を覚えたのは、生まれて初めてですわ……!」


 静かながらも明確に激情を露わにして、手元で強く握り締めた拳を恨めしげに睨みつける。

 彼女は許せなかった。憎くて憎くて堪らなかった——己の胸に積もった敗北の重みが。己に辛酸を舐めさせた下賤げせんな者達が。己の貧弱さが。

 ミラの気高いプライドは、周囲の人間はおろか、ついに彼女自身にさえ、その牙を向け出したのだ。

 自分達の存在などそっちのけで、迫真の表情で一人プライドを燃え立たせるミラに、葵と隼弥も反応しあぐねて、言葉に詰まるのみだった。

「そこで!」

 困惑する二人に、ミラは不意に声を張り上げて切り出す。

わたくしは今、一つ決心をしましたわ……しかと聞きなさい、庶民ども!」

 もったいつけた言い回しでビシッと指を突きつけて、上からの態度で二人に指令を下す。

わたくしは……」

 しかし、その真剣な気迫に不思議と凄味を感じ、葵と隼弥はそれに服従するかのように、息を呑んで続きを待った。

わたくしは……!」

 更に語気を強め、ミラはオーバーなアクションと共に、己の決意を高らかに表明した。


わたくしは本日より、トレーニングを開始致します!」


「……え」

 ポカン、と拍子抜けを露わにする幼馴染二人。

 補足するように、ミラは詳細を話し始めた。

わたくしはこれまで、戦いに関してトレーニングというものをした事がありません。わざわざそんな事をしなくても負ける事が無かったのですから、する必要もありませんでした。けれど……今のわたくしのままでは、あの女どころか、アナタ達を倒す事さえ到底叶わない。認めたくはありませんが、ここまではっきりと力の差を示された以上、そこはもはや諦めざるを得ないでしょう……このわたくしがトレーニングを強いられるなど、憤懣ふんまんやるかたない思いではございますが……この許し難い感覚をずっと抱えるよりは遥かにマシというもの……甘んじて、その屈辱を受け入れると致しましょう」

 そして、真剣さを伴って低くなったトーンを一気に急上昇させて、ミラはこの上無く力強く息巻く。

「しかし! わたくしは生まれながらの天才! わたくしの想定では、おおよそ三ヶ月も真面目に鍛えれば、アナタ達はもちろんあの女だって容易く、それはもう赤子の手を捻るようにあっさりとブチのめせるようになる事でしょう。フッフフ、今からその時が、待ち遠しくて堪りませんわ〜! ウォ〜〜〜ッホッホッホッホ!!!」

 一切の疑いも躊躇も無く豪語し、お決まりのポーズで得意の女王笑いを存分に響かせる。

 さっきまでシリアスな雰囲気で怒りに打ち震えていた少女の姿は、もはや影も形も無い。

「やれやれ、自由なやっちゃな〜……」

「あ、あはは……」

 一人で勝手に野望に燃え、表情と感情を忙しく入れ替えてテンションを復活させたミラに、二人は驚いたような呆れたような、一口では言えない反応を見せた。

 しかしその裏で、隼弥は一筋の冷や汗を垂らし、無視などできようもない疑問に捉われていた。

(おいおい、さらっと言ってくれやがったが、ちょっと待てよ……このは今までなんの鍛錬もしてこなくて、あそこまで戦えてたっつーのか? そりゃ冗談キツいぜ……)

 あれだけの動きを、何の訓練も無しにこなせるとは到底思えない。仮にそうだとしても、あの動きの良さは、どう考えても並のものではない——隼弥がそう感じる程に、彼女の戦闘センスは、素人にしては“高過ぎる”レベルで洗練されていた。

 やはり、どうにも疑わしい。

(……ま、見栄張ってるだけだな、うん)

 この出会って五秒で分かるくらいお高いプライドを持つお嬢様の事だ、きっと俺達に自分を凄い奴だと思わせたくて嘘を吐いてるんだろう。テスト前に「いや〜全然勉強してねえわ〜」とか言っといて実はちゃんと勉強してる奴と似たようなもんだ。なんのためかは分からないが、この子もホントは、今までに相当鍛錬を積んできたハズ。

 隼弥は自分なりに頭の中で論理立てて、ミラの発言を聞き流す事にした。

 信じ難い——信じたくない事実から目を逸らして、自分を安心させるかのように。

「というわけでよ!」

 そこに、ミラが再び大きく指を差し、二人に尊大な物腰で言いつけた。

「アナタ達にはこれから、わたくしのスパーリングの相手を務めさせてあげますわ。このわたくしの新たな力の糧となれる事をありがたく、そして光栄に思いなさい!」

「え、ええ??」

「いや、なんで俺らが下の立場なんだよ……」

 急な任命に淡白なリアクションをして、隼弥は頭を掻きながら眉根を寄せて唸った。

「あ〜、でもどうすっかな……トレーニングに付き合うってなると、さすがにちょっと今回とは違うからな〜。さっきミラちゃんが言ってた通り、こっちにとっても別に悪い話じゃないとは思うんだけど、俺らみたいな下のもんがよその人間に鷲峰流の技をむやみに見せたりとか、勝手に鍛えたりするってのは、やっぱり良くないだろうし……う〜ん……ここは一つ、姉御に相談してみっかな」

 特に良い案も浮かばず、隼弥は悩んだ末に、鷲峰流の全てを統括する恋火の判断に委ねようと決めた。

 葵としてもその決定に異存は無く、素直に同意する事にした。

「そうですね、それがいい——」

「ダ、ダメよ!」

 しかし、それをミラが焦ったように遮った。

「え? ど、どうしてですか?」

「あ、あの女を倒すためのトレーニングをする許可をあの女からもらうだなんて、そんなおかしな話がありまして? 大体、あのカタブツそうな雰囲気からして、頼んだところできっとNO(ノー)と言われるのがオチ……これは、この三人だけの秘密としなさい、いいわね?」

 ほんの少し焦ったような素振りを見せつつも、ミラは強引に了解を強要する。

 相手に鍛錬に付き合ってもらう立場であるはずなのに、一ミクロンも下手に出る気の無いこの言い草。隼弥の口から自然と悪態が零れた。

「うわぁ、めんどくせえ……」

「Shut up(お黙り)! いいから、アンタ達は黙ってわたくしの相手をすればいいのよ! ……そもそも、アンタ達のような庶民がこのわたくしよりも強いだなんて事自体があり得ないのよ……文句を言いたいのはこちらの方ですわ」

 悪びれるどころか、逆に不機嫌を前面に出して、ぶつくさと言い返すミラ。

 気さくな人柄の隼弥も、彼女の一向に改善の見られない身勝手ぶりにさすがに疲れが来たのか、呆れ果てたように答えた。

「はいはい、わかったよお嬢様……つーかさ、なんで君はそんなに強くなりたいわけ?」

「……どういう意味かしら?」

 何の気無しに投げかけられた問いを引き金に、ミラは何故か眉間に力を込め、険しい視線を返した。

 不意に向けられた威圧的な眼差しに一瞬気圧され、一抹の戸惑いを覚えながらも、隼弥は続けた。

「あ、いやさ……俺らや姉御に勝てないのはしゃあないにしても、君は今だって十分強いじゃん。格闘家とかスポーツ選手とかでもないわけだし、ミラちゃんがこれ以上強くなる必要も無くね?」

 ミラは強い。一介のお嬢様にしては桁外れな程に。自分の身を守るために力を付けたにしては、過剰と言える程に。

 これ程の実力があるならば、財閥の令嬢という立場である彼女が現状で不自由する事など、何一つ無いはず。故に、無理をして鍛えなければならない理由も存在しないはず。

 隼弥はそう考え、純粋に不思議に思い、彼女に問いかけたのだ。

 しかし、ミラはそれに対して、明確に不快を露わにした。

「フン、これだからサルは。誇りも持たずにただ生きているだけの愚鈍な存在には、そんな事も分からないのかしら。気の毒に思える程憐れですわね」

 溜息と共に、軽蔑するように吐き捨てる。

「……じゃあなんだってんだよ」

 文句のような言葉に、ミラは少しのブレも無い語気で、正面を切って堂々と答えた。

「決まっているでしょう——わたくしが、アンダーソン家の娘だからよ」

 眼前の二人を真剣な眼差しで捉えながら、真剣な調子で続ける。


「いかなる時も人の上に立たなければならない……それが、アメリカ合衆国が誇る財閥の人間として生を受けた、わたくしの宿命。例えどんな事であれ、たかが庶民に遅れを取るなんて、絶対に許されない、あってはならない。だからわたくしは、アンタ達も、あの鷲峰恋火も、必ず超えてみせる……いいえ、超えなければならないのよ……そうでなければ、わたくしわたくしで、いられなくなってしまうから…………」


 目にかげりが落ちていき、言葉までもが尻すぼみになり、暗みを帯びていく。体の横に下げた拳は、彼女の強い意思を示すように、微かに震えている。

 まるで、長年の想いが積もった並々ならぬ事情がのしかかっているかのような、重苦しく、そしてどこか悲しげな雰囲気を纏っていた。


 それはまさに——彼女が二日前に恋火と戦い、大敗を喫してもなお立ち上がり不屈の闘志を周囲に見せつけた、あの時と同じものであった。


「それは、どういう……」

 意味深な言葉と様子に、葵が固い声で躊躇いがちに問いかけようとする。

 ミラはハッとなり、ごまかすように少し目を泳がせてから、深々と腕を組んで話を戻した。

「と……とにかくよ……アナタ達にはこれからしばらくの間、わたくしのスパーリングの相手をしてもらいます。今日はとりあえず臨時でこの屋上を使いましたけれど、いつまでもそれでは不便でしょうから、近い内に別のきちんとした場所もこちらで用意しておきますわ。二人とも、それで文句は無いわね?」

 もう何度目になるか数えるのも億劫になる上から目線。隼弥は横目で葵の顔を窺った。

 小さく首を傾げ、「あはは……」と苦笑いを浮かべている。ミラの揺るぎない高圧的な言動に戸惑いつつも、そこに拒否の意は見えない。子供のワガママに付き合う母親のような慈しみに満ちた面持ちで、ただ見守るようにミラを見ていた。

「ふぅ……」

 葵っちがいいってんなら、俺がヤダってわけにはいかねえか……さっぱりした気持ちで一息吐いて、隼弥はミラの話を受諾する事に決めた。

「ああ、わあったよ……付き合っちゃる。その代わり、俺らは何も技を教えたりしない、ただ君の手合わせの相手をするだけ。そんで、俺らの予定が空いてる時しかトレーニングには付き合わない……それが条件だ、いいよな?」

 ミラはフン、とクールに笑って、即座に了承した。

「いいでしょう、それで構いませんわ。元より何も教わるつもりなどございません。アナタ達はあくまで、わたくしが強くなるための道具に過ぎない。自分の力は、自分の手で磨き上げてこそ意味があるのよ」

「……ん、じゃあ決まりだな」

「ええ、これからよろしくお願い致しますわね。葵、サル」

 腕を組んだままの強気な挨拶に「よろしくお願いします」、「ラジャ〜」とそれぞれの個性が出た返しをする二人。それを見たミラは、ニヤリと口元を歪ませた。

 これで、“踏み台”は確保した。これ程に上質な素材ならば、自身の努力と使い方次第で、現状よりも遥かに高いレベルへと到達できる事は間違いないだろう。

 この二人の力量と、わたくしの才能を持ってすれば、あの鷲峰恋火を超える事など、訳も無い。


 後は、リベンジを果たすその日まで、ただ邁進するのみ——


 ミラは、自身が打倒すべき最大の宿敵への闘争心を燃え上がらせ、天に向けて人差し指を突き立てながら、お得意のハイなテンションでの豪快な笑いを大空に轟かせるのだった。


「フッフフ……今に見ていなさい、鷲峰恋火。アナタ如き、すぐにでも追い抜いてみせますっ。そして正々堂々と、アナタを完膚なきまでにこの手でブチのめし、わたくしの前に跪かせて差し上げますわ〜〜! ウォ〜〜〜ッホッホッホッホ!!!」


「やれやれ……」

「あ、あははは……」

 その傍らで薄く笑う二人。さながら、やんちゃな子供を温かく見守る夫婦のようであった。

 だが、一見すれば明るく振る舞っているその裏で、ミラは至って真剣な心持ちで闘志を滾らせていた。

(絶対に、絶対にあの女を超える……超えてみせる……! お父様のために、アンダーソン家の栄光のために!)

 敬愛する父の顔を真っ先に思い浮かべ、いついかなる時も胸中に掲げる誇りある家名に、固く誓いを立てた。


 かくして——屈辱を晴らすために屈辱さえも受け入れたミラの、リベンジ成就のための特訓の日々が、今この時より始動したのであった。



 ちなみにこの後、葵は報酬として都内でも有名な、セレブ御用達の超高級レストランの食事無料券を贈呈された——のだが、慣れない場所に出向くのが恥ずかしいとして、結局隼弥と二人でいつものように自宅で昼食を取った。

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