第弐話 『その女、始動につき』 其の壱

 時は遡り、七天しちてん高等学校の始業式が行われる前日。

「馬鹿者ぉおおお!!!!」

 東京のコンクリートジャングルの中に一際大きくそびえ立つ、地上108階の高層ビルの最上階に、ガラスが破れんばかりの強烈な咆哮が響き渡った。

 ここはアメリカの権威ある財閥——アンダーソン財閥が、日本の支社として建設したオフィスビルの会長室である。

 その窓ガラスの前に鎮座する大きなデスクにどっしりと腰を落とす、貫禄のあるスーツ姿の初老の白人男性——ガブリエル・アンダーソンが、広い部屋の中心にポツリと佇む一人の少女に対して説教を行っていた。

 彼女はミランダ・ヘイディ・アンダーソン——通称ミラ。ガブリエルの一人娘である。

 彼女はこの時より数時間前、日本で最強と謳われる武術の総本部に対して、自己中心的かつ短絡的な理由で無謀な殴り込みをかけにいった張本人でもあった。

 ガブリエルはその事実を執事のアルフレッドから報告され、娘のあまりに横暴な振る舞いに激怒し、厳しく叱り付ける事にしたのであった。

「日本に来て早々どこをほっつき歩いているかと思えば、お前はまた人様に迷惑をかけて……しかも道場に殴り込みなどと……! アンダーソン家の人間ともあろう者が野蛮人めいた事はするんじゃないと、アメリカでも散々注意したのを忘れたのか! 何故お前は私の言いつけを守れんのだ!」

 感情のままに、捲し立てるように責めるガブリエル。ミラはそれに、おずおずとしながらも反論しようとする。

「で、でも、前々から立派な日本家屋に住んでみたいと、お父様も仰っていたではありませ——」

「人様の物を無理矢理奪い取ってまで欲しいなどとは思っておらん! そんな理不尽な手段で手にした物をもらって、私が喜ぶとでも思うのか! そんな事も分からないのかお前は!」

「……申し訳ございません」

 いたって常識的で、一分の隙も無い正論に叩き伏せられ、謝罪と共に押し黙るミラ。

 言い訳など無意味。ミラの行為がどんな意図による物であったにせよ、何のお咎めも無しに済ませられるような軽罪でない事は明白。いかに肉親であるガブリエルと言えども、娘の愚行を寛容に許す気は無かった。

 目を伏せてジッと堪える様子のミラに、ガブリエルはデスク越しに言葉の乱打を浴びせ続ける。それはこんな巨大で近代的な高層ビルの最上階の一室で行われていると言えど、一般家庭の『躾』となんら違いはない。同室にいたアルフレッドと女性秘書も、居心地の悪そうな顔で説教が終わるのを黙って待つしかなかった。

 数分間に及びキツい小言の嵐を吹き荒らした後、ガブリエルは一息吐いて気を落ち着けてから、非常に神妙な面持ちで話を改めた。

「……そういうわけでだ、ミラよ。お前に一つ命令を言い渡す」

 すっかり気が沈んでしまったミラは、コーティングされた純白の床を見つめたまま従順に答えた。

「……はい、なんなりと」


「お前にはこれから、日本の共学の高校に通ってもらう」


「…………え?」

 しかし、あまりに予想だにしなかったその内容に衝撃を受け絶句する。

 ガブリエルは、その心中を窺う事もなく淡々と詳細を明かしていく。

「高校だよ、この日本のな。明日転入手続きを行い、明後日から通ってもらう予定だ。安心しろ、日本では一番と言っていいレベルを誇る学校だ。それでも少々物足りなく感じるかもしれんが、まあ少しは張りもあるだろう。それにあそこは、私の古い友人が校長をやっているところだ。困った事があれば何でも彼に相談するといい」

「ちょ、ちょっと待ってくださいっ」

 慌てて話を遮るミラ。

 いくらなんでも突然すぎる。何故わたくしがそんなところへ。ミラは父親の言葉を否定するように問いかける。

「お、お父様はこのわたくしに、日本の庶民の学校に行けと仰るのですかっ? しかも今までのような女子校ではなく、汚らわしいオスザル共がいる不潔極まりないところなんかへっ?」

 心の底から嫌悪と不安を露わにするミラに対し、ガブリエルは真っ直ぐに目を向け、はっきりと宣告する。

「そうだ。これは決定事項だ」

 そんな……と、ミラは絶望に暮れる。

 これまでずっと女の園、それも上流階級の息女ばかりが集う、高貴で上品な一流の環境で学生生活を過ごしてきた彼女にとって、“雄”という薄汚い不純物が混じった空間で青春の一時を過ごさなければならないなど、想像するだけで怖気が立つ程受け入れ難い物であった。

 そんなの、冗談じゃない。ミラは畏れながらも父親に意見する。

「お、お言葉ですが、そんなの絶対間違っていますわっ。お考えを改めくださいっ。高校に通うのはともかくとして、わたくしにはもっと相応しい場所が——」

「黙れ!」

 冷淡な一喝に気圧され、ミラはキュッと口を閉ざす。

 口を挟む余地さえ与えられず萎縮する娘へ、過去を悔やむように重々しい声色で、ガブリエルは経緯と思惑を明かす。

「私は、今までお前を甘やかし過ぎたと深く後悔している……お前は小さい頃からやんちゃだったが、これまで精一杯、アンダーソン家の女性として恥ずかしくない人間に育てるための教育や環境を与えてきたつもりであった。多くの失敗や問題も、娘だからと大目に見てやってきた。いつの日か、自分が犯してきた過ちから正しさを学び、反省し、成長してくれるだろうと信じてな。だがお前は、そんな私の期待を裏切り続け、こんなにワガママで横暴で、そして野蛮な娘に育ってしまった……父親として、代々続く名家の当主として、お前の好き勝手をこれ以上許すわけにはいかない。だから、転入を決めたのだ。勘違いしないでほしいのは、これは何も今回の騒動がきっかけというわけではない。これは、私達が日本に行く事が決まった時から計画していた事だ」

 更に、厳しい口調で、彼は娘に目的を告げる。

「いい機会だ。この海外での長期滞在の間に、学校も住まいも、今までとは何もかもが違う新しい環境の中で、一般の方々と共に過ごし、様々な事を経験して、慎みや謙虚というものを学ばせてもらいなさい。もっと広い視野で世界を見て、自分がいかに未熟で小さい人間であるかを思い知りなさい。我がアンダーソン家の娘として恥ずかしくない立ち振る舞いができる、誇り高く大らかな心を持つ人間になりなさい。それが、この日本で過ごす一年間の中でお前に託す、私の唯一の望みだ」

 父親としての、財閥を統べる者としての、一人娘に対する切実な願い。

 だが、ミラはそれでもまだ納得しかねていた。

「で、でも、わたくしは……」

 聞き分けの悪いミラに苛立ったガブリエルは、デスクを叩いて怒りを露わにし、彼女を黙らせる。


「やかましい! 時期当主を継ぐだけの資格も無い、一族の面汚しに過ぎないお前に、私に口応えする権利など無い!」


「っ……!」

 非情とさえ思える父の酷な言葉は、まさに決定的だった。

 深いショックを受けたように俯き、暗い闇をその顔に落とすミラ。垂れ落ちるブロンドの髪の裏で歯を食い縛り、のしかかるあらゆる感情に耐えるように、拳を力一杯握る。

 部屋の脇にいたアルフレッドは、この場でただ一人それに気付き、彼女に共鳴するように悲しげな表情をするのだった。

「話は終わりだ。詳しい事は明日、追って連絡させる。アルフレッド」

 もう何も言う事はないと判断し、ガブリエルは一族お抱えの執事に、娘を退室させるよう顎で促した。

「……さあ、参りましょう、お嬢様」

 若干後ろめたさを感じつつも、アルフレッドは忠実に主人の指示に従い、ミラの傍まで近寄り、優しく声をかける。

「…………失礼、致します……」

 ミラは少しの沈黙の後、口だけを動かしてぼそりと答え、回れ右をしてとぼとぼと歩き出す。

 彼女を気遣い、アルフレッドは小走りで先にドアを開けに行く。それに気づいてすらいないのか、ミラは変わらずずっと下を向いたまま部屋を出た。アルフレッドも決まりが悪そうな顔をして、主人とその隣の秘書に対して一礼して、ドアを閉めた。

 ビッグサイズのベッドを置いても業務に全く支障が出ないと言える程広い部屋に残った二人。

 気まずい空気の残滓ざんさいのせいで、どちらもなかなか口を開く事ができない——と思いきや、女性秘書がすぐに低めの声でガブリエルに問いかけた。

「よろしいのですか?」

 彼は疲れを吐き出すように答えた。

「……ああ、ミラにはもっと真っ当な人間になってもらわなければ困るのだ。仮にもアンダーソン家の娘がいつまでもあんな幼い調子では、財閥全体のイメージさえ堕ちてしまいかねんからな。全く……ジェームズとは違って、とんだ厄介者に育ってくれたものだよ。日本にいる間に、我々の家名に傷を付けるような恥ずかしい真似だけはしないでくれるといいんだが……」

「いえ、そうではなく」

 即座に否定し、本意を伝える。

「わざわざ別居させて学校に通わせるくらいなら、初めから日本に連れてこなければよかったのではありませんか? 無理に慣れない環境を押し付けて、こちらでまたあの子に変な問題を起こされでもしたら」

 論理的だが、冷たささえ感じさせる直球な意見。

 ピシッとした黒スーツをより洗練させる、黒縁の眼鏡とクールな顔立ちが、彼女の言葉を一際機械的な物に仕立て上げていた。

 ガブリエルは彼女の話を理解し、けれどもどこか納得しきれていないような複雑な面持ちで答えた。

「……それはそうだがな。かと言って、あのお転婆娘をアメリカに“放し飼い”にして、向こうに戻った時に一体どれほどの問題が山積みになっているか、お前も想像したくはあるまい?」

「……確かに」

 これまでの体験から、悲惨なビジョンが嫌でも瞬時に頭に浮かんでくる。秘書はフレームに指を当てて眼鏡のズレを直すフリをして、それを振り払った。

 もしかしたら、少しは不安に思っているのかもしれない——表情からはほとんど窺えない僅かな心情の機微を感じ取ったガブリエルは、彼女を安心させるように穏やかに語りかける。

「私としても難しい判断だったが、きっとこれが一番お互いの、そしてアンダーソン家のためになる選択だろう。なに、あれが小さい頃に何度か日本で過ごしていた事もあるし、アルフレッドも付いているんだ。もし何かあればすぐ私に報告するよう指示もしてある、きっと大丈夫さ」

「だと良いのですが……」

「不安にさせたならすまない。わざわざ日本にまで付いてきてもらって、お前にはいつも苦労をかけるな……」

「貴方……」

 そっと秘書の左手に触れるガブリエル。鉄仮面が、ほんの僅かに綻びを見せる。その薬指には、細くも煌びやかな輝きを放つ金の指輪が嵌められていた。

 彼女はエヴァ・アンダーソン——ガブリエルの妻である。

 財閥の当主と直属の秘書という仕事上の関係から、次第に互いに惹かれ合い恋愛にまで発展、ついには結婚し家庭を持つまでに至ったのであった。

 しかし、契りの証の指輪を互いの指に嵌めるようになって十数年経った今でも、エヴァの超が付くまでのクールぶりは健在であった。

「今は仕事中ですよ。私情は抑えてください」

 垣間見せた笑顔を掻き消すように手を払い、事務的に注意する。

「す、すまん。ついな……」

 若干残念そうな素振りをするガブリエルに対しても、エヴァは何も反応を示す事は無かった。

「さて当主、仕事に戻りましょう。明日の朝十時からの打ち合わせですが……」

 完全に仕事モードに切り替わったエヴァ。それに先導されるように、ガブリエルもまた、財閥の当主としての責務を果たすべく、熱を入れて仕事をこなしていくのであった。


 ほんの少しだけ娘の事が気にかかったが、すぐにそれも忘れて打ち込んでいった。


* * *


 日本での長期滞在にあたって、ガブリエルが特別に用意した豪邸へと、アルフレッドと二人きりのリムジンで向かう中。

 後部座席の中央に孤独に座るミラは、相変わらず顔にかげりを落としたまま、数分前までの出来事を頭の中で反芻していた。

「……」

 また、お父様に叱られた。

 せっかくお父様のためにと動いたのに、それを本人に全否定された。その上、わたくし自身の事まで、また否定された。車に戻るまでの道中で通りすがった社内の人間にも、またクスクス嫌味ったらしく笑われた。隠してるつもりでもあからさまに分かる嘲笑を、またたくさん浴びせられた。

 また、また、また——!

「……っっ!」

 ギリリと奥歯を噛み締めるミラ。心を呑み込まんとする暗黒に必死に抗うために、爪が掌に食い込む程に力強く拳を握る。

 だが、ほんの僅かな隙間から容赦無く奥へと入り込んでくる負の感情は、不条理な程の力で心を侵食していく。御し難い苛立ちを、恥辱を、屈辱を、暴走させていく。

 このままでは、きっとどうにかなってしまう。そうなる前にと、ミラは腹に力を入れて、低く声を絞り出した。

「……アルフレッド」

「はい」

 一瞬だけミラーを確認して、アルフレッドは座席越しに呼びかけに答える。

「飛ばして」

「……かしこまりました」

 尋常ではない程重いトーンから瞬時に心情を汲み取り、アルフレッドはミラの望み通りに、アクセルを少しだけ深く踏み込んだ。

 早く、逃げたい。

 この苦しみから、解放されたい。

 ミラはこの車が一刻も早く避難場所に辿り着いてくれる事を願いながら、苛立ちと悲しみが滲んだ声で、誰にも聞こえないくらいに小さく呟いた。


「……お父様の、分からず屋……!」


 青黒く染まった空は、まるで彼女の暗い心情を皮肉るように、明るく輝く星々で覆い尽くされていた。


* * *


 そして時は現在へと戻り、ミラが七天高校へと転入してきた当日。

 窓際最後列の席に座る女生徒——鷲峰恋火わしみねれんかの机の前に立ち、ミラはほくそ笑みながら堂々と腕を組んで、彼女を見下ろしていた。

「フッフフ、また会いましたわね、アナタ」

「……」

 牽制のような挨拶にも答えず、早くどこかに行ってくれと訴えるように、冷めた視線で見上げる恋火。

 机を挟んで無言のまま向かい合う二人の光景を、クラス中がざわざわとしながら注目していた。特に、恋火の狂信的なファンである紅多美くれないたみ秋風雅あきかぜみやびは、一際ワナワナと震え取り乱していた。

 自分の振る舞いに奇異の目が浴びせられている事など歯牙にもかけず、ミラは恋火の隣に座る男子生徒の方を向き、高圧的な口調で命令する。

「アナタ、そこをおどきなさい。たった今より、そこをわたくしの席と致しますわ」

「は? え、いや」

「頼んでなどいませんわ、これは命令よ。わたくしがどけと言ったらどくの。さあ、早く」

 シッシッ、とまるでゴミを払うかのような動作で立ち退きを強要するミラ。相手の男子は、突然の事態を飲み込めず、その場であたふたとするしかなかった。

 その判然としない様子に苛立ったのか、ミラはより語気を強めてもう一度言い渡す。

「……耳が遠いのかしら、このサルは。さっさとどきなさい!」

「は、はいいっ!」

 威圧的な声に慄き、男子生徒は飛び跳ねるように席から立ち上がってしまう。

 来日早々この女王様っぷり。高校生離れした存在感に目を奪われていた生徒達も、さすがに冷静を取り戻し、動揺を見せ始めた。

 しかし彼女は一切悪びれる事も無く、相も変わらぬ上から目線で、これから一年間仲間となる者達を早々に見下していたのだった。

(フン……お父様も珍妙な事をおっしゃられたものですわ。わたくしには慎みや謙虚など無用。アンダーソン家の娘であるこのわたくしが、何故わざわざこんな庶民達へ敬意を払わなければならないというのかしら、バカバカしい)

 ミラにとって、目に映る者はことごとく取るに足らない下民でしかない。父親が自分を送り出した目的さえも傲慢に嘲笑い、一蹴する。

「田中君、戻りたまえ。君が席をどく必要など無い」

 故に、その下民が自分に楯突く事など、看過できない事態なのであった。

「なんですって?」

「横暴は止めろ。以前はどうだったか知らんが、ここでは生徒は決められた席に座るのがルールだ。貴様もここの生徒になったからには、それに従うのが筋というものだろう」

 高飛車な態度を取るミラにも、一切臆する事無く正論をぶつける恋火。

 対するミラも、一歩も引かずに強気に返す。

「フン、そんなもの知った事ではありませんわ。ルールとは、偉大なるアンダーソン家の血を引く人間であるこのわたくしの事。わたくしの思い通りに動く事こそがこの世界の法則であり、アナタ達庶民の務めにございますわ」

 臆面も無く豪言するミラ。それを恋火はクールに鼻で笑い飛ばす。

「くだらん。貴様が何者であるかなど、それこそ知った事ではない。そんな幼稚な傲慢が通用すると思うな。私の目が黒い内は、貴様に好き勝手はさせん」

「……やはりどうしようもなく生意気でございますわね、アナタ」

 ピキピキと青筋を立てながら、ミラはどこまでも反抗する姿勢を崩さない恋火に指を突きつけ、いちゃもんをつけるように疑問をぶつける。

「だいたいアナタ、さっきから気になっていましたが、何故スカートを穿いてらっしゃいますの? 男子生徒はズボン着用のハズでしょう?」

 一瞬にして静まり返る教室。今し方までざわめいていたのが嘘のようである。しかし不幸な事に、頭に血が上っていたミラは、その空気の変化に気付かなかった。

 配慮に欠けるストレートな発言を受けた当人は、見るからに不愉快そうに目を伏せながらそれを正した。

「……私は女だ」

 するとミラは、素直に驚いた様子を見せた後で、ニヤリと口元を歪め、わざとらしい口調で恋火に嫌味をぶつけた。


「まあ……これは失礼致しました。てっきり殿方なのかとずっと勘違いしておりましたわ〜? ずいぶんと男前な顔つきをしていらっしゃるし、声も低いし、喋り方もアニメで見たSAMURAIサムライみたいですし。それに、女と呼ぶにはもう見ていて哀れになるくらいの“貧乳”でございますしね〜?」


 瞬間、クラス中の人間の顔が、一人残らず蒼白に染まる。目の前に置かれた時限爆弾のタイマーが、今まさに0になってしまったかのような反応である。

「……」

 顔を伏せたまま、その場にのそりと立ち上がる恋火。

 心理的ダメージを与えたと、腕を組んだまま勝ち誇った表情をするミラの頬を——弾丸の如き勢いで飛んできた手が鷲掴みにする。

「フギュッ!」

 タコのように口をとんがらせた状態になったミラ。ギリギリと締め付けられ、まともに言葉を発する事もできない。

 女性の物とは思えない力で顔を歪ませる手の中でもがき、ヒューヒューとか細い息を漏らしながら足掻くミラに、恋火は静かに口を開いた。

「知らない事は注意のしようが無い、今回は警告だけに留めておいてやる。だが覚えておけ……」

 刃物を突き立てるように鋭い眼圧で迫り、僅かに赤面しながら、底冷えするような低音で言った。

「私の……む、胸を馬鹿にする者は、誰であろうと容赦はしない。次に余計な事を言ったら貴様をすり潰してやるからな……分かったか」

 『身も凍りつく』という表現が相応しい、凄まじい剣幕。

 精悍な顔つきから全面に放たれるそれは、当事者でなくとも身が縮み上がる程の威圧感であり、ミラは久しぶりに“恐怖”というものを感じたのだった。

「ふぁ、ふぁい……ふぁふぁひふぁひふぁ」

 解読不能な発音だったが、頭をガクガクと必死に縦に振ろうとしている様子から了解の意を汲み取った恋火は、ミラをひょっとこ状態から解放してやる。

「ハァ、ハァ……うぅ、なんてこと……わたくしの芸術品のように美しい顔に傷が付きましたわ……」

 さも自然に自画自賛しつつ、くっきりと手の跡が付いた頬を、ミラは慰めるように撫で回す。

「ふん。自業自得だ、たわけが」

 不満たらたらの様子で席に座り直り、恋火は頬杖をつく。同時に、ひとまずは事態がこの程度で済んだ事に安堵し、クラスの全員がそっと胸を撫で下ろした。

 恋火が自らの貧しいバストにコンプレックスを抱いている事は、七天の生徒達にとっては有名な話であり、また、それは『絶対に本人の耳の届くところで触れてはいけない』という暗黙の了解としても広く認知されていた。

 それを知らず、一切包み隠す事なくダイレクトに口走ってしまったミラの発言は、まさに巨大な爆弾そのもの。生徒達に怖気が走ったのも当然の反応なのであった。

「……え〜と、よろしいですかな?」

 騒動がひと段落したところで、担任の江藤えとうが低い物腰で口を開いた。

「え〜と、すみませんが田中君、君さえよければ、その席とミラさんが座る予定だった席を交換してもらえませんか? 元々この学校の事を、鷲峰さんの方からいろいろと彼女に教えてもらおうと思っていましたので。そうなると、隣にいた方が、鷲峰さんにも何かと都合が良い事でしょうし」

 思ってもみなかった突然の指示に、僅かに眉をしかめる恋火。

 頭で納得してはいるが、これからこんな面倒な奴の世話をしなければならないのかと、さすがの彼女も不満と不安を抱かずにはいられなかった。

「え〜と、勝手で申し訳ないですが、鷲峰さんも、それでよろしいですかな?」

「……分かりました」

 少し思い詰めるように考えた後で、恋火は渋々といった様子で江藤からの頼みを了承する。

 それを見たミラは、すかさず高飛車な笑い声を響かせた。

「ウォ〜〜〜ッホッホッホッホ!!! よかったではありませんの、このわたくしのために働けるだなんて。せいぜい幸福に思うが良いですわ!」

「黙れ」


 そんなわけで、ミラは恋火の隣に座る事になるのであった。

 初登場以来、その常識知らずな破天荒ぶりでクラス中の注目を集め続ける中、ミラは足と腕を組んでどっかりと席に腰を下ろす。周囲など気にも留めず、物憂げな顔で頬杖をついて目を伏せている、左隣の怨敵を見やる。

 覚悟していなさい——この教室で再びその姿を目にした瞬間から固く胸に誓ったリベンジの念を、相手に送るかのように。

 そこでふと、ミラは思った。

 雪辱を果たすべき敵の名前を、まだ知らないままでいた事を。

「ねえ、アナタ」

 少し身を乗り出すようにして呼びかける。

「何だ」

 目線を変えず、クールに応答する恋火。

「そういえば、まだアナタの名前を聞いておりませんでしたわ。お聞かせ願ってもよろしいかしら?」

 裏表無く純粋にコミュニケーションを求めてくるミラに目だけを向け、すぐに正面に戻して、答えた。

「鷲峰、恋火だ」

 するとミラは、少し興奮したように目を見開かせた。

「鷲峰恋火……フッフフ、勇ましい響きね。いいですわ、それでこそわたくしが倒すべき相手に相応しいというものですわ!」

「……やかましい」

 しんどそうに注意を入れる恋火。

 こんなのと一年間も共に過ごさなければならないのか、と彼女は身に降りかかった災難に、改めて辟易するのだった。


* * *


 その後は、眠気を誘うような江藤からの冗長な連絡とありきたりな話がダラダラと続くのみで、あっという間に下校時刻となった。

 挨拶が終わった瞬間、ミラは待ち侘びたと言わんばかりに、意気揚々として恋火に指を差した。

「フッフフ、やっと終わりましたわ。さあ、早速あの時の続きを始めますわよ! 鷲峰恋火!」

たわけか貴様は」

「んなっ?」

 しかし即刻に切り捨てられ、間抜けなリアクションを取ってしまう。

「よもや忘れたわけではあるまい。私と貴様には、易々とは覆らない程の力の差がある。今戦ったところで結果は明白、それは貴様自身が一番良く分かっているはずだ。それとも、貴様は自分がそんな事も理解できぬ蛮勇であると、自らの手で知らしめるつもりか?」

「そっ、それは……」

 冷静に鋭く諭され、二日前の戦いの内容を思い出し、ミラは何も言えなくなってしまう。

 恋火の言う通り、自分は彼女に全く手も足も出なかった。力、技、気合、誇り、持てる限りの全てを尽くして挑みかかったが、それで証明されたのは——自分と恋火の実力差が歴然とした物であるという、受け入れ難くも確固とした事実のみであった。

「ぐっ、くぅう……」

 ミラとて、我流ではあるものの戦いに関しては十分な心得がある。故に、恋火の言う事は嫌でも頭が理解してしまっていた。そんな自分と、恋火との間に隔たる巨大な壁の存在をこの場で改めて認識させられた事に、ミラは激しい歯痒さと悔しさを覚えるのであった。

「それより、貴様に聞きたい事がある」

 唇を噛み締めるミラに、恋火は真剣な雰囲気を持たせて、話題を切り出した。


「あの技、どこで身に付けた」


「っ!」

 不意を突かれたような問いかけに、ミラは顔を強張らせた。

 見れば相手は、平常時以上に険しい顔つきでこちらを正視し、静かに回答を待っている。

 まるで、猛禽類の豪脚に捕らえられているかのような鋭利な感覚が、ミラの全身をガッシリと掴んでいた。

「…………それは……」

 少しの間、躊躇うように俯いた後、重く呟いて間を取り。

 ミラは、口を開いた。

「それはもちろんっ、このわたくしの生まれ持った才能の成せるわざに決まっておりますわぁ〜〜! ウォ〜〜〜ッホッホッホッホ!!!」

 チラリと姿を覗かせたシリアスなムードを吹き飛ばす、上品なポーズから放たれる特有の高笑い。

 恋火の威圧さえなんなく払いのけ、彼女は清々しく答えをはぐらかしたのだった。

「……くだらん」

 呆れるように吐き捨てて、恋火は明らかに誤魔化しているミラに追求しようとする。

「私をからかうなよ。貴様のあの技と立ち回り、どう見てもある程度戦いの経験を積んだ人間のそれだった。我流の素人が、ましてや貴様のような令嬢が、才能だけであそこまで熟練した動きができるとは思えん。何か」

「ほ、ほんとっ?」

「ん?」

 突然、打って変わって甘えるような声で割り込んでくるミラ。まるで親にご褒美を貰えると告げられた時の子供のような、嬉しそうな眼差しで恋火を見上げている。

(もしや、褒められて喜んでいるのか……?)

 これまでの言動を考えると意外と言う他ないミラのリアクションを、恋火は疑問の眼差しで受け止めた。

「アッ……ッ」

 しかしすぐに我に返り、ミラはボッと顔を赤くして、そっぽを向いて見栄を張るように言う。

「な、何を言っていますのっ?! わ、わたくしを誰だと思っているのよっ? あのくらい、このわたくしには息をするようにこなせて当然でございますわっ。アナタこそ、わたくしのポテンシャルをからかわないでいただけるかしらっ?」

 なんなんだ……恋火は慌てて取り繕うように早口でうそぶくミラに呆れ、物も言えなくなってしまった。

「あ、あの……」

 その時、二人の元へある人物が歩み寄ってきた。

「……?」

 ミラは横目でそこに視線を向ける。

 ナチュラルなスタイルの、混じり気の無い黒のセミロングに、少し長めの前髪に若干隠れた丸い茶色の瞳。淑やかな雰囲気を醸す整った顔立ちを引き立たせる、陽の光さえ反射させてしまいそうな透き通った白い肌。

 背の高さは平均程だが、“女性”を強調させる豊かな膨らみを持ちながらも弛みを感じさせない、細くしなやかな体躯。

 『大和撫子』という言葉が真っ先に連想される奥ゆかしい清楚な美少女、一文字葵いちもんじあおいが、少し遠慮がちに声をかけてきた。

「……」

「えっと……一昨日の、話ですか?」

 ああ、と恋火が肯定する最中も、ミラはじっとりとした目で葵の顔を凝視していた。

 直接顔を合わせるのは、当然だが初めてのはず。なのに、何故かその顔には妙に既視感がある。

 一体、以前にどこで?

「……アナタ、なんだか見覚えがありますわね」

「あっ。えっ、えっと……」

 疑問に思ってそう言うと、葵は何やらおどおどして言葉に詰まってしまった。

 と、そこでミラは、ようやく目の前の少女の情報を記憶から引っ張り出す事ができた。

「ああ、思い出しましたわ。確か道場にいらっしゃったですわね」

 すると、ポッと顔を赤らめて、しどろもどろになりながらも丁寧に頭を下げて挨拶する。

「は、はいっ。一文字葵と申します。よ、よろしく、お願いします……」

 同年代相手だと言うのにやけに低い物腰と、その控えめな性格を更に印象付けるような、ガラス細工を思わせる透明感のある声。

 このはきっと自分だけではなく周りからも“気弱な少女”と認知されているのだろう、とミラは率直に思った。

「……ふ〜ん」

 微妙な低音を鳴らし、ミラはそんな葵を細い目つきで見つめる。

(あの道場にいたという事は、このも武術を学んでいらっしゃるのよね? けれど、それにしては随分と気が小さそうなですこと……本当にこの女の弟子なのかしら)

 疑問を深めていきながら、いぶかしげな目で恋火を見やる。

「なんだ」

「いえ、なんでもありませんわ」

 誤魔化し、ミラは自慢の長いブロンドをかき上げて葵と対面する。

「フッフフ。よろしく、葵。……早速なのだけど教えてちょうだい」

「え、えっ?」

 挨拶も早々に、戸惑う葵に急接近し、恋火には聞こえないようにして、艶やかな声色で囁く。


「アナタは、どれ程の強さなのかしら?」


「へっ?」

 耳に直接送り込まれた直球な質問に、葵は思わず小さく身を引き、ミラを見た。

「わっ……」

 すぐ近くまで迫った、恐ろしいまでに鮮やかな翡翠色の双眸そうぼうを携えた、小悪魔のような悪戯な表情が、こちらの返答を興味津々な様子で待っている。

 問われた内容の意味を考える余裕さえ、その魅惑的なオーラに取り上げられ、満足に思考する事もままならなくなってしまう。

 『耳元で声をかけられ、間近で見つめられた』——たったそれだけの事で、葵は異国どころか異世界の住人のような現実離れした魅力を放つ黄金の美少女に、まるで魔術にでも掛けられたように釘付けになってしまっていた。

 それは彼女にとって、恋火相手以外では初めての経験であった。

「……何をしている」

 しかし、自身が憧憬して止まない人間の一声によって、なんとか自己を取り戻す事ができた。

(や、やだ、私……鷲峰さん以外の人に見惚れてたなんて……)

 葵はホッとしつつも、胸中で複雑な罪悪感に駆られるのだった。

 その傍らで、ミラが白を切って恋火の問いに答える。

「別に? 大した事ではありませんわ。それより、ちょっと今からこのをお借りしますわね」

「ふぇ? か、借りるって……?」

 いきなりの物扱いにひ弱な声を上げる葵。すかさず恋火が止めに入る。

「貴様、出会って早々何を企んでいる。私の仲間をたぶらかすような真似は許さんぞ」

 不信感を露わにした様子で、強めに釘を刺す。

 自分を庇う雄々しい台詞に「鷲峰さん……!」と惚けた顔でうっとりする葵。しかしミラはそれを無情に流し、彼女の手をガッチリと掴む。

「あ〜ら、たぶらかすだなんて人聞きの悪い事。ちょっと彼女とお話がしてみたくなっただけよ。それでは御機嫌よう、鷲峰恋火。ウォ〜〜〜ッホッホッホッホ!!!」

「ふえっ? ああっ、鷲峰さ〜〜ん……っ」

 そのまま強引に葵を引っ張って駆け出して行く。甲高い笑い声とか弱い悲鳴は、瞬く間に遠くなっていく。

「はあ、面倒な真似をしてくれる……」

 今にも教室を飛び出て行かんとする二人を、億劫そうに追おうとする恋火。

「む」

 そんな彼女の前に、多美と雅の仲良しコンビが、横からスライドするように立ち塞がってきた。両者共に、合わせた両手を胸元に置きながら、何やら不安げな顔色で、潤んだ瞳を上目遣いでこちらに向けている。

「……何だ?」

 物言わずただジッと見つめてくるコンビに問いかけると、二人はこれまで抑えていた物を一気に解放するかのように、大声で喚き散らし始めた。

「恋火様ぁぁああああ!!! これは一体どういうことなんですかぁああ!!?? あ、あのミラってお嬢様な子となんで知り合ってたんですかぁぁああ!?? 二人は一体どういう関係なんですかぁあああ!!? まさか、まさか……あ、愛人じゃありませんよねぇえええ!!!?」

「どうなんすか!? アタシ達はレンカ様にとってはただの遊びだったんすかっ!!? だったらマジぱねえし! やべえし! チョー悲しいんすけどっ!」

「二人ともまず根本的なところから考え直してくれ」

 ヒステリー気味に騒ぎ立てる二人とは対極的に、実に冷めた指摘をする恋火。

 それをきっかけにして、今までミラの勢いに気圧され割って入れずにいたクラスメイト達が、ぞろぞろと恋火の周りに集まってくる。

「あ、わたしもそれ気になる〜」

「あんなお嬢様と知り合いとか、さすが鷲峰だよな〜」

「二人は一体どうやって知り合ったんですかっ?」

 ワイワイガヤガヤと盛り上がるクラスメイト達。

 七天が誇るスターが、転入生、それも外国人で財閥のご令嬢と既に関わりを持っていたとなれば、彼らがその事に興味を持つのも無理もない。皆が期待に満ちた眼差しで、恋火に説明を求めてきた。

 この集まりの中を通り抜けるのは、少々強引な手でも使わない限り難しいだろう。

 それに、もう早々に教室を出て行った二人の足音も聞こえてこない。今更追跡したところで手遅れだ。

「……まあ、葵ならば心配など無用か」

 諦観して、信頼に溢れた割り切りと共に、一層深い息を吐き出す恋火であった。

(——しかし、奴はどこであんな戦い方を身につけたのだ……?)

 はぐらかされたミラへの疑惑は、未だに頭にこびりついていた。



* * *


「あ、あのっ、どこに行くんですか……?」

 グングンと廊下を突き進むミラに足を動かされながら、葵は彼女の後ろから問いかける。

「決まっているでしょう、屋上よ」

 振り返らずに答えるミラ。葵がすぐさま指摘する。

「お、屋上? 屋上は普段鍵がかかっていて開いていませんよ?」

「What(なんですって)!?」

 階段の途中で足を止め、ミラは思わずネイティブな発音で驚愕する。

「冗談でしょうっ? 昼休みや放課後を学校の屋上で過ごすのが、日本の青春を象徴するイベントなのではなくて?」

「え? えっと、それはそうかもしれないですけど……うちの高校ではそうなってはいなくて……」

 なんて夢の無い学校なの……と頭を押さえ出すミラ。

 かと思いきや、すぐに振り返ると同時に命令を下した。

「仕方ありませんわね。少しの間ここでお待ちなさい」

「えっ? あの、ちょっと……」

 葵の制止も聞かず、ミラは早足で階段を降り、どこかへと行ってしまった。

 階段の中腹に突如置き去りにされ、独りポツンと立ち尽くす葵。律儀な人柄が災いし、この隙に逃げるなどという行動にも踏み込めず、彼女はただ待つ事しかできなかった。

(ど、どうしよう……)

 放課後にこんなところで独りで立っていたら、きっと不審がられる。変な目で見られたら嫌だな。先生に見つかったりしたら、早く帰りなさいって怒られちゃうかも……

 少々過剰なまでの不安に陥りながらも、気が引けるために立ち去る事もできず、葵はその場でもじもじとしつつ、健気にミラの帰還を待ち望む。

 それから少しの時間、段差を見つめて心細さと羞恥とに耐え忍んでいると、走って廊下に出てきたとある男子生徒が、彼女に声をかけてきた。

「っとと。あれ、葵っち?」

「あ、ジュン君っ」

 その慣れ親しんだ姿と声に、心から安堵した表情を見せる葵。

 彼女と、ジュン君と呼ばれた彼——暁隼弥あかつきじゅんやは、幼稚園からの幼馴染の間柄。例え学年が違おうと出来る限り一緒に帰るというのが、二人の間では昔から当たり前のルールとなっていたのだった。

 今日もそれに従って、隼弥は無駄に長引いた帰りのHRホームルームが終わるなり、葵に昼食を作ってもらおうと企んで即座に教室を飛び出して行ったのだが、その直後に不自然な場所に佇む捜索対象の姿を見つけ、疑問に思うのだった。

「なんでそんなとこにいんだよ? ……まあなんでもいいか、帰ろうぜ〜。俺腹減っちまったよ〜」

 腹を押さえ、空腹アピールをする隼弥。ご馳走になる気満々である。

 しかし、葵はバツが悪い顔をして目を逸らす。

「あ、えっと……実は……」

「ん?」

 何から説明したらいいものかと言葉に詰まった時、とうとう彼女が戻ってきた。

「お待たせ致しましたわ、葵」

「あ、ミラさん……」

 帰還した彼女は、手に何かを持っていた。葵がそれを問う。

「あの、それは……?」

「ああ。たった今、挨拶がてらに校長からこの学校の屋上の鍵を買い取って参りましたの。これからは、屋上を思うがままに使えますわ」

「ええっ?」

 タグを摘んで、見せつけるように鍵を揺らすミラ。

 使えないのなら力づくで使えるようにするまで——常人には思いつきもしない強引極まりない解決法に、葵は驚愕の声を上げた。

「そ、そんな無茶苦茶な……ま、まずいですよ、屋上は原則使用禁止なのに……」

「フッフフ、何を言っているの? この鍵はもうわたくしの所有物、つまり屋上それ自体もわたくしの物になったという事。使用を禁止するかどうかも、このわたくしの意思次第でございましょう、違って?」

「そ、それは……でも、やっぱり止めた方が……鷲峰さんが知ったら、きっと怒るでしょうし……」

「? 何故あの女が——」

「あー!」

 二人の会話を切り裂くように、隼弥が突然声を上げた。彼は葵と話すブロンドの少女に不躾にも指を差す。

「どっかで見た事あるなと思ったら、あんた一昨日道場に来たお嬢様じゃん! 三年生のクラスに転入してきたって噂の外国人って、あんただったんだ。はっは〜、こりゃすげえ、漫画みてえな偶然もあるもんだな〜」

 珍しい物でも見つけたような反応を見せる隼弥に、ミラはあからさまに不愉快な反応を見せた。生ゴミでも見るような侮蔑の目を彼に向けながら、葵に問いかける。

「なあに、このうるさいサルは。葵のお知り合い?」

「あ、はい。私の幼馴染の、暁隼弥君です」

「おいおい、サルって君ね……こんな良い男に向かって、それはちょっとご挨拶なんじゃないかな〜?」

 わざとらしくカッコつけた所作で髪を払って、茶目っ気にジョークをかます。

 一部に金のメッシュが入った、手入れの行き届いた洒落たスタイルの黒の短髪に、ニカッとした笑顔が映える爽やかな甘いマスク。スマートなシルエットを描きつつも、筋骨逞しい肉体で構成された長身。

 自賛するだけあって、隼弥は一般的に見れば十分に“イケメン”と評するに値する好青年であった。

 しかし、ミラはそれをゴミ箱にでも放り投げるように冷淡に笑い飛ばす。

「ああ、ごめんあそばせ。わたくし、身内以外の男性はほとんど皆、サルかそれ以下のブタにしか見えませんので」

「……そかー」

 こうぶっ飛んだ価値観を持った人間に、返せる言葉はなかなか無い。隼弥はただ相槌を打つしかなかった。

「んで……え〜っと、ミラちゃん、だったっけ? 屋上の鍵なんかゲットして何する気だい?」

 丁寧な物腰の葵とは真逆の、浮ついた態度で話を切り出す。

 なんたる無礼者か、とミラは眉をしかめた。

「口に気をつけなさい、サル。同級生やわたくしと同じ女であるならばまだしも、アナタのような汚らわしい下等なサルが、気安くわたくしに向かって口を開かないでちょうだい。それに仮にも日本人だと言うのなら、目上の相手にはきちんと敬語を使って話しなさいな」

 もはや相手を男どころか同じ人間としてすら見ていないような、容赦の無い棘だらけの言葉の数々。

 しかし隼弥は、それに反抗の意を示すように、おどけるようにして自分のポリシーを語った。

「あ〜悪りぃ、俺そういうの嫌いなんだよね〜。身分とか歳とか、そういうのの違いだけで無条件に敬え、みたいなやつがさ。そいつを敬うかどうかは、そいつがどういう人間であるかで決めるべきっしょ。だろ、ミラちゃん?」

 ミラの言い分を理解した上で、あえてもう一度ちゃん付けで呼びかける。

 サルの癖に一丁前なセリフを……不快に感じつつも、ミラはその威勢の良さに少なからず感心するのであった。

「フン……まあいいですわ。どうせすぐにわたくしを敬いたくなる事でしょうし」

「すんげえ自信だな〜」

 隼弥の小言も無視して、ミラは声高らかに葵を先導する。

「そんな事より! 屋上に行きますわよ、葵」

「あ、は、はいっ」

 高圧的な命令に気圧され、葵はミラを追いかけていく。

「……なんかおもしろそ〜っ、俺も混ぜろよなっ」

 その後ろを、隼弥もまた好奇心を剥き出しにしてついていくのだった。


* * *


 鍵を差し込み、ドアノブを回し、屋上へと続く扉を開け放つ。

「……Narrow(狭っ)」

 それがミラの第一声だった。

 周囲が低めの柵で囲われているのみで、他には防水用の装置が等間隔で三つ並べられているだけの開けた空間。普段人が使う事を考慮されていないのが一目で分かる、殺風景極まりない場所であった。

 とはいえ、もし何かの目的で使用するとなれば、よっぽどでない限りは不自由しない程度の広さは持っていた。それでもミラは、この簡素な光景を目にするなり真っ先に“狭い”と口にしたのだ。

「せ、狭いんですか? これで?」

 一般人の尺度から考えれば理解し難い発言に、葵が驚愕の様相で問いかける。

 ミラは持ち前の高飛車な態度で、失笑しつつ言う。

「ええ。アメリカでわたくしが通っていたハイスクールの屋上に比べれば、公園の砂場にも等しいというものですわ。やはり庶民というものは、スケールからして小さいんですのね」

 そうですか……と葵は空笑いした。もはや、他にどういうリアクションを取ったらいいのか、彼女には分からなかった。

「んでお嬢様よ〜、わざわざこんなところに来て、一体何を始めるつもりなんだい?」

 閉めたドアにもたれかかりながら、隼弥が軽い口調で問いかける。

 それには答えず、腕を組んで不快を露わにし、ミラは隼弥に遠慮の無い罵声を浴びせる。

「おかしいですわね、わたくしは葵だけをお呼びしたはずなのですが。誰の許しを得てこの場に立っているのかしら? サルは動物園の檻に戻ってバナナでもかじっていなさい」

「え〜なにこの言われよう……」

 基本的には大らかな性格の隼弥も、あまりに蔑まれ続けてさすがに傷ついたのか、およよと凹む姿を見せた。

「ま、まあまあ、ミラさん……別にいいじゃないですか」

 それを哀れに思ったのか、葵が隼弥の肩を持つように言う。

 こんな純朴で人の良さそうながどうしてこんなサルを庇うのかしら……その心理を理解しかねつつも早々に深入りを止め、ミラは早速本題に移る事にしたのだった。

「フン。そんな事より……始めますわよ、葵」

 三歩進んで距離を取ってから振り返り、優雅に腰に手を当ててミラは言い放った。

「え? は、始めるって、何をですか……?」

 その言葉の意味を問う葵。ミラはそれを小馬鹿にするように笑い、長髪をサッとかき上げる。

「フッフフ、察しが悪いのね。わざわざこんな所まで足を運ばせた理由なんて、ただ一つしかありえないでしょう?」

 ミラはワクワクしたような顔で、握った拳を目の前に掲げながら、好戦的な台詞を投げかけた。


「アナタの力を、わたくしに見せてちょうだい」


「え、ええっ? こ、ここで、ですかっ?」

 まさかそんな事を言われるとは露程も思わず、肩を上げて吃驚する葵。

 逆にその様子が意外だったのか、ミラは片眉を吊り上げた。

「何を驚いているの? あの道場にいたという事は、アナタも多少なりとも腕に覚えがあるのでしょう? 強い相手と戦う事をたのしいと感じるのでしょう? だったらその力で、わたくしを少しでもたのしませてみせなさいな」

「え、えっと〜っ……」

 その絢爛けんらんで高貴な印象からはかけ離れた武人然とした台詞に、葵は返答に困り果ててしまった。

 出会って間もなく、権力と金の力を行使してまでこんな場所に連行して来た理由が『一戦交えよう』などとは、思ってもみなかった。

 一昨日道場に襲来した時から気が強い人だと認識してはいたが、こんなにも“戦いたがり”だったなんて。

 どうしたものかと返答を考えようとした時、隼弥もまた驚いた様子でミラに詰め寄っていった。

「おいおいおいおい、ちょっと待てよ、そりゃ無理だぜ。俺らみたいな格闘家ってのは、正当な理由も無しに素人に手を出すなんて許されてねえんだよ。だいたい、なんの準備も無しにおっ始めようなんて無茶だ。ウチらのいつもの組手の時みたいに防具ぼうぐかなんか付けてやらないと、怪我するぜ?」

 納得させようと試みるも、ミラはそれを高慢さと自信に溢れた口調で受け流した。

「大丈夫よ、軽く力を見る程度に手合わせするだけですので。それに、わたくしはそこらの有象無象とは違う。怪我なんてするはずもございませんし、余計な心配など無用ですわ、このままで結構」

「いや、でもよぉ……ん〜……」

「……っ」

 理屈が通っているような、いないような。

 ポリポリと頭を掻き、隼弥は葵と顔を見合わせる。彼女もまた困惑した様子で、二人とも判断しあぐねる事となった。

 しかし隼弥は、考えるのが面倒になったのか、すぐに思い切ったように返答した。

「あ〜〜……よし、まいっか!」

「フッフフ、そう来なくては」

「ええ?」

 承諾を得て、ミラは満足そうな反応を見せた。だが、葵はあっさりと答えてしまった隼弥に声を上げ、不安げに問いかける。

「そ、そんな勝手に決めちゃって、大丈夫なんですか? もし鷲峰さんにバレたりしたら……」

 すると、なんとも重みに欠ける回答が返ってきた。

「ん〜、まあちょっとくらいなら大丈夫だろ。まさか姉御も、俺らが今こんなところにいるなんて思ってもいねえだろうしよ。それに、別に本気でり合うわけじゃないし、互いに怪我しなけりゃ問題無いっしょ。一昨日の動きの良さから考えても、ミラちゃんならたぶん、変な怪我もしないだろうし」

「……でも……う〜ん」

 軽い口調ではあったが、隼弥の言い分は十分理解できる。

 しかし根の真面目さと、師であり恩人でもある恋火への尊敬の念故に、葵はどうしても後ろめたさを拭い切れず、すぐに納得する事ができなかった。

「安心なさい、葵」

 逡巡してなかなか踏み切れずにいる彼女を、ミラが後押しする。

わたくしは、自分とアナタの力を試したい、ただそれだけなのよ。難しい事は考えずに、アナタ達がいつもやっているスパーリングの一環だとでも思って相手をしてくださればいい。もし後で何か言われたら、全てわたくしの責任にしてくれて構いません。それにアナタにとっても、その辺にいる小者風情ならまだしも、わたくしと戦う事はきっといい経験値になるはず。例えあの女がこの件を知ったとしても、彼女が仮にも格闘家ファイターを名乗る身であるなら、それを理解してくださる事でしょう。アナタが今以上の強さを欲するのなら、戦いの経験を積む機会を見逃す理由なんて、何一つ無いと思うけれど?」

 不安を一つずつ潰していくかのような、豪気だが説得力のある語り。不思議と、胸に渦巻いていた戸惑いが晴れていく。

「……」

 もっと強くなりたい。もっと憧れの人に近づきたい——その想いは確かだ。

 彼女の言う通り、実戦形式の鍛錬は多く積むに越した事は無い。それに、いつもとは違う相手と手合わせをする事で、新たな発見があるかもしれない。それが自分を更に強くする材料になるかもしれない。ミラの言う通り、恋火もきっと、それに少なからず理解を示してくれるだろう。

 ならば、ここは逃げずに応じるべきだ。

(……すみません、鷲峰さん)

 葵は内心で謝罪し、決意した眼差しでミラを真っ直ぐに見て、言った。

「わかりました……私でよければ、精一杯相手を務めさせてもらいます」

「フッフフ……Good(よろしい)」

 上手く彼女の闘争心を焚き付ける事に成功し、上機嫌に振る舞うミラであった。

 と、そこで水を差すように、隼弥の体から盛大に空腹を知らせる音が鳴った。

「あ〜、これからって時にごめん……俺、腹減ったんだけど……今日は葵っちに昼飯作ってもらうつもりだったんだよな〜」

「え、そうだったんですか? もう、そういう時はちゃんと事前に教えてくださいっていつも言ってるじゃないですか。材料とか事前の準備とかいろいろ……」

 それを皮切りに始まった、互いの付き合いの深さが窺える睦まじい二人のやり取りを、ミラは苛立ちを孕んだ言葉で断ち切った。

「ああもう、やかましいですわね。サルはバナナでもかじっていろと言ったでしょう? これから戦うわけでもないアンタの胃袋の事情なんて知った事ではありませんわ。邪魔をしないでちょうだい」

「え〜、ひでえなぁ……」

 手をダラリと下げてダメージをアピールする隼弥。

「あ、あの……」

 おずおずと手を挙げる葵。頬を赤く染めて、躊躇いがちに申告する。

「じ、実を言うと……その、私も……」

 チラチラと上目遣いでミラの様子を窺いながら、彼女もまた空いた手で空腹を示す。卑しいと思われたくないがためにハッキリと申し出ないところが、葵の控えめな性格を表していた。

「……全く仕方のない庶民達ですわね。少々お待ちなさい」

 暫しの間葵を見やって考えた後、やがて諦めたように了解する。

「……アルフレッド? 今すぐ手配してもらいたい物があるのだけど……」

 二人に背を向け、耳に指を当てて何やら小声で話し始める。

 すぐにそれが終わると、ミラは眼を閉じて腕を組み、その場に仁王立ちし始めた。まるで、点々と浮かぶ雲以外何も無い青空から、何かがやって来るのを待ち望むかのように。

 後ろの二人には、そんな彼女の行動の意図がどうにも計りかねていた。隼弥が思わずその背中に問いかけようとする。

「え、なに、今のって、無線? てかなんで無線?? つーか何話して」

「お黙り。行儀よく待っていなさい、サル」

「……へーい」

 背中越しにバッサリと切られ、諦観気味に返事をするしかなかった。


* * *


 それから三分程が経過した時。

「来た」

 ミラは開眼と共に、呟くように声を上げた。

「来たって、なにが……あっ」

「なんか、見えるぞ……?」

 葵と隼弥はそれを聞き、彼女が向く先に眼を凝らす。すると遥か向こうの青の中に、極小の黒点が微かに見えた。

 あれはなんだ? その正体を考えている間に、謎の黒点はみるみる内に大きくなり、段々と輪郭が露わになってくる。

 丸みを帯びたボディと、その下部に付いている二つの足のような突起。そして上部で時々チラついて見える、円状のような大きな物体。

 あれはまさか——


「…………ヘリ?」


 口をついて出た葵の予測は果たして、すぐにババババと鼓膜を叩き始めたプロペラの音によって、確信へと変わったのだった。

「あれ、ミラちゃんが呼んだのか……?」

「ええ、これが一番早いと思いましたので」

 だからって飯の調達のためだけにヘリ飛ばすかよ……常識外れにも程がある行動力を平然と取ってのけた令嬢の大胆さに、隼弥は溜息を零した。

 ヘリは学校のちょうど真上の位置を通過するタイミングで、パラシュートの付いたプラスチック製の箱を屋上に投下した。ゆっくりと小さく揺れながら高度が下がっていき、最終的に狙い澄ましたかのように屋上のほぼ中心の位置に落下する。

「ありがとう、アルフレッド。ご苦労様」

 無事注文した品が届いた事を確認すると、ミラは何処へと飛んでいくヘリの背中を見送りながら、無線に指を当てて柔らかい声で言う。

「あの……アルフレッドさんって、一昨日道場にいらっしゃった高齢の執事の方、ですよね?」

 随分と親しげに話す様子を見て、葵は二人の関係が気になり、そう確認する。

 するとミラは、誇らしげに一族お抱えの執事の紹介を始めた。

「ええ、そうよ。彼はアルフレッド。我がアンダーソン家に一族に渡って仕えてきた優秀な執事の家系の人間よ。ついでに言うと——彼は元SEALsなの」

「シ、シールズゥゥ!!??」

 執事としては異色すぎる経歴に仰天する幼馴染コンビ。

「シ、SEALsって、あのSEALsか? 映画とかでよく出てくる?」

「ええ、そのSEALsよ。過去にいろいろあってそういう道に進んだらしくてね。まあ、残念ながら訓練の時に大きな怪我をしてしまって退役したらしいのだけど。でも、彼はそれが高じて退役後も軍用アイテムの収集が趣味になってしまったらしいのよ。今飛んできたアパッチも、アルフレッドの“私物”なんですのよ。もちろん、武装は全て外されておりますけれど」

「……なんだか、もう驚くのも疲れましたね……」

「だな……」

 スケールの違いを立て続けに思い知らされ、二人はもはやリアクションを取る事さえ放棄したのだった。

 その様子に満足そうに口角を上げて、ミラは投下された箱を開き、その中身の一つを取って葵の前に差し出した。

「さあ、それよりも早くお食べなさい。我がアンダーソン財閥の金で購入した、オリンピック選手も愛用するこのスポーツ食品を!」

「おお? ……ってこれただのウィダーじゃねーか! わざわざヘリで持ってこさせるくらいだからどんだけ凄いもんなのかなって思ってたら、あんたの金で買ったってだけでめっちゃ普通の安もんじゃん! どんだけ贅沢なお使いさせてんだよ!」

 横から激しくツッコむ隼弥。無駄以外の何物でもない荒すぎる金の使い方に、口を閉じてはいられなかったようだ。

「お黙り! 戦う前なのだからこの程度で十分なのよ。さ、葵、とりあえずはこれを食べてちょうだい。安心なさい、後でもっとちゃんとした良い物を差し上げますから」

「は、はい。ではありがたく、いただきます」

 さらりと流して、葵にゼリーを手渡すミラ。続けて自分の分を取り出そうと、再度箱の前に腰を下ろす。

「……サル?」

 唐突に、ミラが背中越しに隼弥に声をかけた。

「だからサル言うなっ……って、おっと」

 文句を言い切る前に、彼に向かって何かが山なりに放り投げられた。難なく片手でキャッチし、隼弥は手元に収まった、程良く温かいそれに目を向ける。

 世界で最も有名なファーストフードチェーンのマークがプリントされた包装紙に包まれた、ハンバーガーそのものであった。

「これは……?」

 丸くした目を向けながら問うと、彼女は手にゼリーを持ちながら腕を組み、面倒臭そうに答えた。

「もちろんアナタには物足りないでしょうけれど、それで少しは空腹を我慢できるようになるでしょう。いらないと言うなら捨ててしまいますが?」

 この場には数えるまでもなく、ミラと葵と隼弥の三人しかいない。内二人がこれからそれなりに激しい運動を行うという事を考慮して、ミラは吸収率の高いスポーツ食品を注文したのである。自分を含めた二人のため、だけに。

 つまりこのバーガーは、彼女が二人とは別に、隼弥のためだけに手配させた物、という事になる。

「いや、いるっ。いるけどさ……い、いいのか、もらっちまってっ?」

 サル、サルと散々バカにしていたのに、まさかこんなお恵みをくれるなんて。空腹に耐えかねていたのに加えて、今までの仕打ちの反動も相まって、自然と嬉しい気持ちが湧いてくる。

 腕白な子供のように明るい目で真っ直ぐ見つめてくる隼弥から鬱陶しそうに顔を逸らし、ミラはぶっきらぼうに答えた。

「……勘違いしないで。いつまでも腹が空いたと喚かれては、気が散って戦いに支障が出るかもしれないから特別に手配してあげたのよ。でもいいこと? アナタのような下等なサルにこんなサービスをするなんて奇跡にも等しい珍事なんですから、そんな適当な物でもありがたく」

「お〜、たまに食うと意外とうまいもんだな〜。あんがとミラちゃん」

「ってコラー!」

 彼は湧き上がる本能を抑えられず、話の途中で早速手をつけ始めてしまっていた。

 せっかくの下賜かしをなんだと思っているのかしらこのサルは……と、ミラは腹を立てるのだった。

「す、すみません。ジュン君が失礼な事を……」

 ある意味ミラよりも自由な幼馴染の不敬を、葵が代わりに謝罪する。

 実に許し難いところだが、今回は葵の人の良さに免じて見逃してやろう。ミラは不満を残しつつも寛容に流してやる事にした。

「……フン、まあいいですわ。それよりも……」

 蓋を開けて飲み口を咥え、握り潰すようにしてゼリーを一気に口内に流し込む。喉仏が上下する動きに合わせて瞬く間に萎んで行き、ものの十秒足らずで完全に空となった。

「フウ……さあ、早速始めますわよ、葵。覚悟はよろしいかしら?」

 深く息を吐き出して、ゴミとなった物を箱にシュートし、揚々と戦闘を促す。その表情は、やはり明らかに楽しげであった。

「は、はいっ。あの、ゼリーごちそうさまでした。よ、よろしくお願いします」

 葵はそれを受け、丁寧な言葉と共に腰の引けた動作でぺこりと頭を下げる。

「がんば〜、葵っち〜」

 ドアの横にもたれかかり、バーガーを食べながらの観戦を決め込んだ隼弥から送られたエールを背中で受け、葵は緊張の面持ちで戦う準備を整える。

 左足を軽く前に出し、僅かに膝を曲げてバランスの良いスタンスを取って、安定した重心を作る。手は指先までしっかりと開き、右腕は肘を腰元に据えた形で、左手は正面に少し伸ばした形で構える。

 無駄な力を抜きつつ、対峙する相手に万全に備えた、防御に秀でた堅実な戦闘態勢。鷲峰流における構えの一つであり、他の多くの門下生と同じく、葵が最も愛用する構えなのであった。

 表情は固いながらも、その立ち姿に余計な力みは一切無く、恋火の刺すような鋭い威圧感とは違う、穏やかでありつつも内側に確かに熱く燃える物を感じさせるような——そんな静かな闘気を放っていた。

「へえ……」

 自分に対してはっきりと戦う意思を見せる葵に、ミラは感心したように笑った。

「アナタはちゃんと構えてくださるのね、あの女と違って」

「わ、私には、鷲峰さんのような戦い方はできませんから……」

 構えはそのままに、葵は焦ったような様子で自らの師を讃える。

「ふ〜ん……」

 軽く反応して、ミラは腕を組みながら、細い目で眼前の相手を見定める。

(構えこそそれなりに立派であるけれど、あのいかにも戦い慣れしていなさそうな強張った顔……あの女の弟子とは言え、まだまだひよっ子という事なのかしらね。もうこの時点で勝負は付いたようなものですわ)

 戦いでは気迫こそが肝要。敵に自分を一目で脅威と感じさせてこそ真の強者——そう考えるミラにとって、目の前のいかにもな手弱女たおやめなど、蝋燭で頼りなく揺れる灯火にも等しい。一息で吹き飛ばしてしまえそうなその姿に、思わずニタリと笑みが零れる。

 彼女は戦いの前であるにも関わらず、自らの揺るぎない勝利を確信した。

(アンダーソン家の娘であるこのわたくしが、こんな気弱な小娘に遅れを取るわけがない。フッフフ……鷲峰恋火。お気の毒ですが、この場でアナタの弟子をあっけなく倒させていただきますわ)

 もはや消化試合も同然。景気づけに清々しい勝利を収め、リベンジの狼煙を盛大に上げさせてもらうとしよう。

 二日前に味わわされた屈辱を、ここで少しでも晴らしておくという意味も含めて。

「さあ、行きますわよ」

 小悪魔のように笑い、右の拳を力強く掌にぶつけ、ミラは自身の決め台詞を吐いた。


「このわたくしが、アナタを直々にブチのめして差し上げますわ」


 かくして、ミラと葵の初めての対戦が行われる事となるのであった。

(軽く力を見るだけじゃなかったんかい……)

 この場においても変わらない好戦的過ぎる言動に、内心でツッコミを入れる隼弥であった。

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