第壱話 『その女、最強につき』 其の参

 翌日、早朝。

 始まりの日に相応しい、晴れ晴れとした青空が澄み渡る天候の中。

 水彩のタッチの鷲の姿が描かれた掛け軸が象徴的な広い道場の中に、小気味の良い強烈な打撃音が、メトロノームのように全く同じ一定の間隔で、繰り返し鳴り響いていた。

「ふっ! ふっ!ふっ!」

 この道場の主である鷲峰恋火が、日課の朝稽古を行っていたのである。

 彼女は毎朝必ず四時に起床し、ストレッチと軽い準備運動を行った後で、正拳突きと蹴りの打ち込みをそれぞれ千回ずつ行っている。更に、夜にも同じ事を同じ回数だけこなしている。

 それは弟子達への稽古がある日であろうとも、休日であろうとも祝日であろうとも、今日のような新年度の始まりの日であろうとも、何一つ妥協は許されない——いや、彼女自身が許さない。

 日本最強の武術の頂点という立場にあるプレッシャーに押し潰されないため、また自身の『力』への飽くなき渇望を満たすため、彼女は日々の鍛錬への努力を惜しまないのである。


 鷲峰恋火が最強の座に立ち続けているのは、それを裏打ちするだけの天性の“努力の才能”があるからに他ならないのだ。


 まるで機械のような正確性で黙々とサンドバッグを蹴り続け、初回と変わらない力強い音を響かせて千回目に到達した時。

 約二時間程に渡った自主稽古が、終わりを迎えた。

「……よし」

 今日も変わらない調子を確認し、恋火は道着からジャージにTシャツというラフな格好に着替え、道場を閉め、自宅である隣の屋敷に移動する。

 風雅な雰囲気を醸す庭と池を備えた、小さな旅館にも見劣りしない程の立派な造りの和風家屋の中を歩き、彼女は服を脱ぎ捨ててシャワーを浴びる。

 髪も含め全身をサッと洗い流した後、バスタオルで全身の水気をよく拭き取り、ドライヤーで手早く髪を乾かす。女性らしさを残しつつも短く切り揃えられているため、さほど時間もかからずに終わる。

 次いで朝食の用意。炊き立ての米と事前に作っておいた味噌汁、こんがりと焼いた白身魚に出し巻き卵、そして漬物と、日本人らしい和食のメニューを手際良く調理し、よそい、テーブルに置いたトレーの上に続々と並べていく。

「いただきます」

 全ての用意を整えたところで、座布団の上に正座をして腰を落ち着け、感謝を捧げるように両手をキチンと合わせて挨拶をしてから、模範解答のように美しく整った姿勢で食事を始める。

 外の小鳥が時折 さえずる音と、箸が食器に当たる音、汁を啜る音。

 団体が泊まり込んでようやく丁度良く感じられる程度の大きさを誇る屋敷の中を、その三つの小さな音だけが、寂しく通り抜けていく。

 恋火はこのだだっ広い屋敷で、独りで暮らしていたのだ。

「……」

 湯呑みに入った緑茶を含んだところで、恋火はふと、動きを止めた。

 自分の生活音だけしかしない日常など、今に始まった事では無く、すっかり慣れたものではあった。

 けれど、何故だか今日は、少しばかり静かすぎると感じてしまった。

「ご馳走様でした」

 それでも、生活というものの歩みは止められない。一つ一つを味わいつつも、早々に全ての食器を空にした。

 両手をしっかりと合わせて挨拶をして食事を終えると、テーブルを片づけ、トレイを持ってキッチンに戻り、食器を全てサッと洗って棚に入れる。

 続いては着替え。道着と共に何年も慣れ親しんできたもう一つの正装を身に纏い、格闘家から華の女子高生へと変身するのである。

 クローゼットからシャツとブレザーとネクタイ、スカート、それとスパッツを取り出し、鏡の前で淡々とスムーズに着る。

 その次は、女性には特に大切となるお目かしであるが、恋火は華美な装いはしない。跳ねている髪があればそれを直し、軽く顔の肌を整える程度の簡素な化粧を施すのみで、準備は完了となる。

 そこで一度、彼女は右腕に付けたシルバーの腕時計に目をやる。

 七時四十分。登校時刻の約一時間前。通っている学校は歩いて十分程の近場にあるが、あらゆる万事に備えて、彼女は身支度の完了をこの時間に済ませるように設定しているのだ。

 もう二年間も続けてきた生活スタイルは、当然のように身に染みついていて、今更変わりようがない。

 しかし今日は、いつもとは違う特別な事をしなければならない。


 それは彼女にとって、とても大切な“儀式”なのであった。


 恋火はスクールバックを手に取り、部屋を移動しようした。

 その時、右の胸の内ポケットにしまっていた携帯が震えた。

 取り出して液晶に映し出された通知を見てみると、そこには『真島柳江』という名前が示されていた。どうやらメールのようだ。

 後でこっちからしようと思っていたのだが——予想していなかったタイミングでの受信に僅かに目を見開き、ホーム画面のロックを解除して、文面に目を向ける。

 その内容は——「オッス! おはよう、恋火ちゃん!」と、文字だけで快活さが伝わってくるような挨拶から始まり、昨日道場に顔を出せなかった事に加え、今日もそちらに出向くのは難しそうであるという事への謝罪。そして、怪我の無いように毎日を楽しく過ごして欲しいという願いと、新年度もよろしくというお決まりの挨拶で締め括られていた。

「……ふふっ」

 日常的に鋭い面構えをしている事が多い恋火が、はっきりと穏やかに笑って、柳江なる人物からのメッセージを大切そうに眺めていた。

 彼は鷲峰流東京本部の師範代、事実上のNo.2とでも言うべき存在である。恋火が用事等で道場に不在の時には、彼が代わりに弟子達に稽古をつける事もある。その実力は、鷲峰流の師範代という立場に就けている時点で言及するまでもなく、恋火が全幅の信頼を置ける程に、高いレベルを有している。


 加えて彼女にとっては——柳江は大切な人生の恩師でもあり、家族も同然の存在なのであった。


 堅気な恋火らしく、柳江の砕けた調子に対しても丁寧な言葉を吟味して、まるでビジネスメールのような形式の整った内容で返信をした。いつも『堅い』と注意されてはいるものの、なかなか肩の力を抜いて接する事ができずにいるのであった。こと戦闘においては類稀な万能さを誇る恋火も、こういったところは不器用なのである。

 何はともあれ、電波を介してではあるが、ひとまずは自身が最も世話になっている人物への挨拶も無事に済ませられた。

 残るは、一つ。

 今度こそ恋火は、移動を開始する。

 数秒歩いて辿り着いたのは、南の方角を向いた神棚と仏壇が隣り合わせで飾られてあるだけの、神聖な雰囲気が漂った和室。

 まずは開けた襖を閉め、その付近に鞄を置き、簡単な掃除等必要な準備を整えた後で、神棚の前に立って丁寧な二拝二拍手一拝をもって参拝する。

 そして、向かって上の壁に二つの遺影が飾ってある仏壇の前に正座し、正しい作法に従い、深く念を込めてお参りを済ませる。

 ここまでは、朝夜の鍛錬と共に毎日欠かさず行っている日課。

 今日のような一年の中の節目となるような特別な日には、彼女はもう一つ、己のしきたりとして定めている儀式を行うのである。


 七年前の“ある事件”でこの世を去った亡き両親への、自身の現状の報告——


「おはようございます、父さん、母さん。こうしてお二人の前で話をさせていただくのは、年明け以来ですね」

 正座のまま、仏壇に向かいもう一度深々と頭を下げて挨拶し、恋火は敬意を孕んだ落ち着いた語りで、粛々と報告を進めていく。

「光陰矢の如し、という諺がありますが、まさに言い得て妙で、気が付けばあっという間に新しい年度がやって来てしまいました。時の奔流の勢いの強さに、私もとても驚いております」

 さて、と前置きしてから、少しだけ誇らし気な声色で続ける。

「お二人からも見えているのでしょうか。本日は、そんな節目に活気をもたらしてくれるような、例年以上の晴天となりました。その暖かい日差しに祝福されながら、私は本日をもって、高校三年生となります。大きな病気や怪我をする事も無い幸運に恵まれ、柳江さんや弟子の皆、学校の先生方や生徒会の面々、クラスメイト達……かけがえの無い多くの人々に支えられ、私はここまで成長する事ができました。……未だに一向に育ってくれない部分もありますが」

 突然、ガクッと下がったトーンで自虐するように言って、自分の胸を両手でペタリと触る恋火。掌に返ってきた感触の貧しさに、ガックリと項垂れる。

 彼女は、自他共に認めざるを得ない貧乳だった。中学の頃から本格的に気になり始め、すっかり自身のコンプレックスとなっていた。女性にしては背が高い事に加え、運動に適した短い黒髪と、涼やかでキリッとした端整な顔立ちも相まって、格好によっては初対面で男性に間違えられる事もしばしばあり、その点もコンプレックスに拍車をかけていた。

 完全無欠を誇る恋火の、自身にとって希少な弱点と言えるポイントなのである。

「……コホンッ」

 自ら話を脱線させてしまった事に気づき、恥じらいを誤魔化すように咳払いを一つ。

 改めて姿勢を正して、恋火は真剣な声色で再開する。

「とにかく、私がここまで何不自由無く元気に過ごしてこられたのは、繰り返しになりますが、私の周りにいてくれるたくさんの人達のおかげです。そしてひとえに、私を丈夫な体に産んで優しく育ててくださった母さんと、肉体からだこころを逞しく鍛え上げてくださった父さんのおかげです。この新年度の始まりという機会に、改めてお二人から頂いた数多の授かり物への深い感謝を実感する次第であります。この恩恵を無駄にする事のないよう、お二人に胸を張って生きていけるよう、本年度も一層精進していく所存です。ですから、どうか安心して、安らかにお休みください。鷲峰の看板は、これからも私が必ず護り通してみせます。私がこの先の道を歩んでいく姿を、空の上から温かく見守っていてください。それでは、本年度も、よろしくお願い致します」

 確固とした意志を声に乗せ、自らの抱負と決意を語り、恋火はもう一度頭を下げ、儀式を締めくくった。

 事も済んだところで、ゆっくりと立ち上がり、視線を上げる。

 もう生きている姿を見る事も、肉声を聞く事もできない両親の写真を、言葉も無くジッと見つめる。

 まるで、二人と対話できているような感覚に浸れるこの時間との別れを名残惜しむかのように。

 どれほどの間か、そうして無音の時を過ごした後、恋火は覚悟を決めるように小さく拳を握り、前を向く。

 その力強い眼差しは、己が語った、この先歩んでいく未来——ただそれだけを一点に見据えていた。

 襖の前に置いていた鞄を取り、彼女はもう一度仏壇と、写真の両親の前に立ち、深く頭(こうべ)を垂れる。


「行ってきます」


 天国にいる父と母に届くように、確かな想いを込めて言葉をかけ。

 恋火は、学校へと向かうのであった。


* * *


 七天しちてん高等学校。

 日本に現存する高等学校においてトップと呼べる学力を誇る、比較的歴史の長い共学の進学校である。

 恋火はこの学校の入学試験を全教科満点という成績で合格して以来の二年間を、仕事でもある師範の務めによる欠席、早退以外で、一日も欠かす事無く通い続けていた。

 桜に彩られた通学路を、今日もいつものように歩いて行き、なんだかんだ登校時刻の三十分前には校門に到着してしまった。一階廊下の掲示板に張り出されているクラス分け表を確認するため、早速歩みを進めていく。

 その途中、通りかかった生徒が、各々の形で恋火に挨拶をかけてくる。

「あ、おはようございます、鷲峰会長」

「おはよう」

「おはよう、鷲峰さん」

「おはよう」

「オッス、鷲峰!」

「ああ、おはよう」

 更には教師も、その姿に安心したように笑って声をかけてくる。

「おう、おはよう鷲峰。始業式だってのに今日も早いな」

「おはようございます。早めに登校する癖がなかなか抜けなくて」

「はは、そうか。今年度もよろしくな」

「はい。ご鞭撻の程、よろしくお願い致します」

 自分に声をかけてきた全ての人間に対して、恋火もまた律儀に挨拶を返していく。

 彼女は、この学校の生徒会長も務め上げていた。それも——推薦によって、一年生の時から。

 持ち前の高い能力とリーダーシップ、それを横暴に振りかざしたり自分の意見や思想を押しつけたりはせず、他の生徒の事を第一に考え行動できる、謙虚で思いやりのある姿勢、そして天性のカリスマから、生徒ばかりか教師からの信頼も極めて厚く、鷲峰恋火は誰もが認める七天のスター的な存在となっていたのであった。その人気ぶりは、“本人非公認”のファンクラブが作られている程である。

 故に、このように校内で誰かしらに顔を合わせる度に声をかけられる事も、なんら珍しくはなかった。

 変わらない日常を実感しながら、目的の掲示板へと辿り着く。こんな時間とはいえ、それなりの数の生徒達が群がっていた。もう少し早く来るべきだったか、と恋火は僅かばかりの後悔を覚えた。

 一喜一憂する小さな人の群れの少し外から、恋火は目を凝らして自分の名前を探す。

 見知った人間の名前を何人か通り過ぎていき、果たしてそれは一つ目のクラスの一番下に書かれていた。

(3-A、か)

 これから卒業までの期間を過ごす事になる、高校生活最後のクラスを確認し、早速そこに向かう。

 その時、彼女の横から、二人の人物が物凄いスピードとテンションで迫り、正面に回り込んできた。

「あ〜〜〜ん♡ 恋火様ぁ〜〜、おはようございます〜〜〜っ! 今日もイケメン麗しゅうございま〜〜〜す!!」

「おはようございまっす! 朝からレンカ様に会えるとかマジぱねえし! やべえし! うれしーし!」

 竜巻のような高速スピンで急接近するなり、目にハートマークを浮かべながら興奮気味に話す女生徒と、羨望の念に輝く星を瞳に映し、語彙力の無い感覚的な言葉で歓喜を伝えてくる女生徒。

 彼女達は、それぞれ紅多美くれないたみ秋風雅あきかぜみやびのコンビである。一年生の時、彼女らに対する告白を一度キッパリと断ったにも関わらずしつこく付きまとっていた軽薄な男子生徒を、“話し合い”にて追い払ってもらって以来、二人は盲目的なまでに恋火に心酔していた。

 しかし残念な事に、波一つ無い静かな海のように落ち着いた調子が平常である恋火にとって、このコンビは迷惑とまではいかないものの、確実に苦手と言える部類の存在なのであった。

「あ、ああ、おはよう。今日も元気だな、君達は」

 対応に戸惑う恋火とは対極的に、ハイテンションコンビはその騒々しさを遺憾無く発揮し、感情のままにひたすらはしゃぐ。

「そんなの当たり前じゃないですか! だって恋火様が同じ学年に、いや、この学校に、いや! この世に存在しているってだけでも奇跡みたいに幸せだっていうのに、朝からこんなところでお会いできたんですよっ?? しかも新年度の初っ端から! 嬉しくないわけありませんよ! さっすが私の親友、掲示板混むから今日は早く行こうって言ったあなたは天才だわ!!」

「でっしょ、アタシマジぱねえっしょ!? やべえしょ? すごいっしょ??」

「うん! あ、てかクラス確認しなきゃっ。見よ、雅」

「オケー、タミ。え〜っと、アタシらは…………っ、ファ〜〜〜!! アタシらまた一緒じゃーん! しかもレンカ様もだしー! 超嬉しいしー!」

「あ、ほんとだっ! きゃ〜〜〜〜っ、やった〜〜〜! 雅とも恋火様とも一緒だぁ〜〜キャハ〜〜! 恋火様〜、三年生になっても恋火様と同じクラスだなんて、私感激ですぅ〜〜〜!」

「アタシも感激だし! 三年間もタミとレンカ様と同じとかマジぱねえし! やべえし! うれしーし!」

「それでは恋火様っ、私達は先に教室に行ってますね? 卒業までの一年間、よろしくお願いしま〜〜す!」

「よろしくーっす!」

「……ああ、よろしく……」

 自由気ままにやりたい放題やって、まるで姉妹のように二人仲良く手を繋ぎながら、ルンルン気分で教室へと進んでいく。それを無心で見送る恋火。

「はあ……退屈はしなさそうだな」

 特に何をしたわけでもないのにドッと疲れを感じた恋火は、この先の日々に一抹の不安を抱きつつも、ひとまずの安心を得て、苦笑いと共にホッと一息吐いた。

「あ、あの、鷲峰さん。おはようございます……」

「オッース、姉御〜」

 落ち着いたのを見計らったようなタイミングで、今度は登校してきたばかりの様子の葵と隼弥が声をかけてきた。

 振り返り、今し方の二人とは全く違う静かな空気の到来に安堵した。

「ああ、おはよう、二人とも。さっき掲示板を見たが、今回私と葵は同じ3-Aのようだぞ」

 報告すると、葵はパアァッと表情を明るくさせた。

「え、ほ、ほんとですかっ? わぁああ……は、初めて鷲峰さんと一緒のクラスになっちゃった……夢みたい……えへへっ」

 赤らめた頬を手で覆って、葵はニヤけるように笑いながら一人悦に入る。

 少々過剰な程の喜びっぷりを、恋火は半笑いで流しつつ、挨拶の言葉をかける。

「なんだ、大袈裟だな。だが私としても、気心の知れた人間がクラスにいるというのはとても心強い。高校生活最後の一年間、よろしく頼むぞ、葵」

「は、はいっ。こちらこそ、よろしくお願いします!」

 嬉々とした様子で頭を下げる葵。

 先のコンビと同様、葵も一年生の時期にとある問題を恋火に解決して救ってもらった経験があり、以来彼女を強く慕っていた——というよりも、葵の場合は同性でありながら、もはや恋心にも近い感情を抱いていた。

 彼女のような強い女性像に憧れ、自らもそれに近づこうとするあまり、当時長めだった髪を現在のセミロング程の長さに切り落とし、一年近くみっちりとトレーニングを積んでから鷲峰の門を叩き、今日まで根を上げずに真剣に鍛錬を積んできた事からも、その想いの程が窺える。

 だからこそ、卒業までの最後の一年間を同じクラスで共に過ごせる事になったという幸運は、葵にとって至福極まりないものなのであった。

「はっは〜。三年生になっても相変わらず姉御にご執心だね〜、葵っちは」

 喜びに浸る彼女に水を差すように、隣に立つ隼弥がニヤニヤと笑いながらからかう。

「じ、ジュン君? な、何を言ってるんですか、私は別に、そんなんじゃっ」

「いいっていいって。今さらごまかしたところで、葵っちが姉御にゾッコンなのはバレバレだし」

「ぞっこ……わ、私はただ、鷲峰さんと同じクラスになれてう、嬉しいなって、そう言っただけですっ」

「はいはいそうだね、夢みたいに嬉しいんだもんね〜。わかってるわかってる」

「〜〜、ジュン君のいじわるっ。もう勉強教えてあげませんから」

「だぁ〜〜っ、それは困る! 悪い悪い、俺が悪かったって。そんな怒んなよ葵っち〜」

 からかわれるあまりそっぽを向いてしまう葵。それを慌てて宥めかかる隼弥。

 傍から見れば夫婦漫才のようなやり取りを、朝から堂々と公衆の面前でかますこの二人は、幼稚園からの幼馴染という関係なのであった。隼弥の方が歳下で、学年も一個下ではあるが、昔からいつもやんちゃな隼弥が気弱な葵を弄り、やり過ぎて葵が拗ね、それを隼弥が宥める、というのが定番の流れとなっていた。

 もう何度目になるかわからない、そんな二人の微笑ましい光景を眺め、恋火は半ば呆れたように感想を垂れる。

「本当に仲睦まじい事だな、お前達は」

「ま、伊達に幼稚園から幼馴染やってないっすからね〜。あ〜あ〜、俺も二人とおんなじクラスが良かったな〜。寂しいぜちくしょう……」

「そもそも学年が違いますからね……」

「私は騒々しいのがこれ以上増えなくて良かったと思っているがな」

 先のコンビの事を思い返し、若干本音を混じえたジョークをかます恋火。

「ちょ、それひどいっすよ姉御??」

 ショックを受ける隼弥に、小さく微笑んで返す。

「冗談だ。学年は違えど我々は同じ七天の生徒だ、言ってくれればいつでも力になる。二年生もしっかりやれよ、隼弥」

「うい〜っす」

 なんとも気の抜けた雑な返答に、葵が注意を入れる。

「もう、ジュン君。せっかく鷲峰さんが親切に言ってくれてるのに、そんな適当な返事しちゃダメですよ」

「わーってるって、ちゃんとありがたく思ってるよ。それじゃ二人とも、今年度もよろしく! そんじゃ〜」

「ああ、よろしくな」

 ヒラヒラと手を振って、隼弥は反対側の階段へと向かっていく。

 その軽い態度に、葵が代わりに申し訳なさそうに謝罪する。

「すみません……ジュン君相変わらずで」

「なに、あいつらしくていいさ。むしろ安心したよ。では、私達も行こうか、葵」

「え、あ、はいっ」

 寛容に受け止め、恋火もまた葵と共に自分の新たな教室へと向かって行く。

 騒がしくも、賑やかで楽しい一年間になりそうだ。

 恋火はそう、確信した。


* * *


 その後は、恋火が始業式にて生徒会長としての挨拶を済ませたのみで、学校は何事もなく半日で終わった。

 翌日も入学式が粛々と行われ、恋火の挨拶も含め、問題と言えるような事など何一つ起きず、あっという間に閉式まで流れていった。

 予定としては、この後教室に戻り、昼の下校時刻まで、生徒にとっては退屈な話が担任によって延々と進められていくだけとなっていた。

 しかし、恋火達の所属する3-Aだけは、その話の前に大きなサプライズが待ち受けていたのだった。

「え〜と、早速なんですがね、今日このクラスにですね、え〜とね、新しい仲間が加わります」

 担任の男性教師、江藤えとうが独特の喋り方で伝えた一報に、クラスは騒然となる。

 更に、続く詳細を耳にして、そのざわめきは一層大きなものとなる。


「え〜〜と、なんでも父親の仕事の都合でアメリカからやって来たそうで、え〜皆さん含め日本人にはあまり知られていないかと思いますが、アメリカではとても権威のある財閥のご令嬢であると……」


 “アメリカからやって来た”、“財閥の令嬢”——この二つの情報を得られた時点で既に江藤は用済み。一人淡々と紹介を続ける担任の話になど誰も耳を貸さず、生徒達はまだ見ぬ大物らしき新参者について、自分達であれこれと好き勝手に意見を交わし始めた。

「……」

 窓際の最後列で黙って話を聞いていた恋火も、担任の口から発せられた唐突な知らせに、非常に渋い顔を浮かべていた。


 正確には、その“やけについ最近どこかで聞いたような事ばかり”の内容に。


「いや、まさかな……」

 考えすぎだ。ここは映画や小説の世界ではない。そんな出来過ぎた話が、現実にあるわけがない。

 自嘲するように笑って、恋火は頭に湧いてきた可能性を投げ捨てる。

 しかし——まだ話を終えられない江藤に痺れを切らした怒声が、それを再び彼女の脳内に豪速球で投げ返してきた。


「ちょっと! わたくしをいつまでこんなところで待たせるつもり!? 自分の紹介くらい自分でやるわ、早く中に入れなさい!」


 ドアの向こう側からぶつけられる、部屋を震わす高慢な口調の要求。

 否定したい願望を力ずくで押し退けて現実を思い知らせてくる、やたらと耳に残る少女の叫び声が、恋火にますますの不安をもたらした。

「あぁ気持ちいい……じゃなかった。え〜とそれではね、後は本人に紹介してもらう事にしましょう。どうぞ、入ってきてください」

 教育の場には不適切な発言を即座に訂正し、江藤は廊下に待たせていた新たな生徒を招き入れる。

 が、どうにもそれだけでは不満であったようだ。

「……なに? このわたくしにわざわざドアを開けろと仰るのかしら? わたくしを誰だと思っているの? はあ、全く仮にも教師の癖に使えないわね……ここを開けなさい、レディの手を煩わせないでちょうだい」

 姿が見えずともはっきりと伝わってくる気位の高さに、一同は更にどよめく。

 そして、何故かご満悦な顔で「はい、ただいま!」とドアを引いた江藤に続いて、アメリカからやって来た新メンバーが、満を持してついにその姿を見せる。

「ぉぉおお〜〜!」

 瞬間、男も女も皆等しく、一斉に歓声のような声を上げた。

「うおぉ、なんだあれ、すっげ〜美人……!」

「スタイル良い〜、モデルさんみた〜い」

「凄い綺麗な髪ね〜……」

「ハリウッドスターみてえだぁ……」

 口にせずにはいられないとばかりに、多くの生徒が彼女に対する感嘆を漏らす。

 優雅な一歩を進める度に軽やかに揺れ動く、腰元まで伸びた、緩いウェーブのかかった華やかなブロンドの髪。色白で少し大人びた顔立ちに、宝石のように煌めくエメラルドの瞳。平均的な背格好だが、制服の上からでも誰もが一目で発育の良さを確認できる、抜群のスタイル。

 同年代とは思えないような、世界中の誰もが虜になってしまうだろうと思わせるような美貌を纏った異国の少女を、一同は歓喜と羨望を綯い交ぜにした視線で出迎えた。


 恋火と葵、ただ二人を除いては。


「…………馬鹿な」

 嘘だ。ありえない。何故、こんな事が。らしくもなく動揺を露わにし、目を見開かせる恋火。

 うんと小さい頃に、何気なくテレビを点けていたら流れていたアニメで、学生である主人公が朝の通りを歩いていてぶつかった女の子が、その後偶然にも主人公のクラスに転校してくる、という展開があった。その時でさえ、こんな都合の良い話があるわけがないだろうと、子供ながらに嘲笑してすぐにチャンネルを変えたものだった。

 ところが今の状況はまさに、彼女が昔見たその話と、ほとんど同じ結果になっていたのだった。

 『事実は小説よりも奇なり』を絶賛体感中の恋火を余所に、江藤に代わって尊大な態度で教壇の前に立ったブロンドの来訪者は、自慢の髪をファサリとかき上げて、自信に溢れた物腰で自らを語る。


「Hello、日本の庶民の皆さん。わたくしの名は、ミランダ・ヘイディ・アンダーソン。先程ご紹介にもあった通り、わたくしはアメリカ合衆国が誇る財閥であるアンダーソン家の娘にございますわ。だからと言って怖気づいたりせずに、気軽にミラと呼んでくださいな。わたくしも普段からそう呼ばれておりますので。あと、無理にヘタクソな英語は使おうとしなくて結構……というより、余計に会話がし辛くなるので使わないでください。既にお分かりの通り、わたくし日本語はとても堪能でありますので、普段の会話もそちらでお願い致しますわ。本日より一年間、留学生ではなく転入生という形で、不本意ではありますが、ありがたくも皆さんと共に庶民のなんたるかを学んで差し上げる事になりました。どうかくれぐれも、わたくしに無礼な振る舞いだけはなさらぬよう、お願い致しますわ。それでは皆さん、なにとぞよろしく」


 日本の礼儀作法に倣って、前に慎ましく手を組んでお辞儀をするミラ。

 直後に飛び交う拍手喝采。丁寧な口調で吐き出された、自分達を思い切り下に見た気位の高い発言の数々にも気付かず——いや、気付いてはいるがそれすらも気にならない程に、二人を除いた全員が、絶世の美少女の放つ美しさに酔いしれていた。

 こんな絵に描いたようなお嬢様口調のキャラクターに、“自分と家に関する者以外は全て下郎”とでも言うような極端な思考と価値観を持った人間など、この世に一人しか知らない。

 あの少女は間違いなく、『二日前に道場に殴り込みに来たミランダ・ヘイディ・アンダーソン』だ——

 よく似た他人ではなかったか……と、恋火は最後の淡い期待さえ木っ端微塵に粉砕された。

(フッフフ。これよこれ、やはりわたくしに対する人間の反応はこうでなくては……!)

 一方、これからクラスメイトとなる者達の熱烈な歓迎に、大層納得と満足のいくドヤ顔を浮かべるミラ。

 自己顕示欲と承認欲求の塊とも言える彼女にとって、この待遇はまさに理想と言っていいものであった。鳴り止まない拍手を一身に浴び、心地よさそうに目を細め、従順な群衆を高みから見渡していく。

「……ん?」

 すると早速、彼女は見覚えのある姿に目が留まる。

 黒い短髪に、鷲のようにキリッとした鋭い眼に、端整な顔立ち。


 忘れもしない、雪辱を果たすべき怨敵——!


「あ〜〜〜!!」

「……」

 とうとう見つかった。

 ミラが指を差し声を上げた方向に、全員が一斉に振り向く。

 恋火は諦めたように深く溜息を吐き、視線を受け止めた。

「ククク……フフフフフ……ハーーッハッハッハッハ!!」

 その場で笑いの三連コンボを決め、ミラは不敵な表情で高々とリベンジを宣言するのであった。

「こういうのを日本語で、『ここで会ったが百年目』って言うのだったかしら〜っ? まさかこんなところにアナタがいるとはLuckyですわ! いいこと? 近い内に必ず、アナタにあの時の屈辱を二兆倍にして返して差し上げます。せいぜいその時を、楽しみにしているがいいですわ〜っ、ウォ〜〜〜ッホッホッホッホ!!!」

 一度聞いたら忘れられない高笑いを教室に響かせ、すこぶる楽しそうに振る舞うミラ。

 転入生、しかもアメリカの財閥のご令嬢と恋火が既に知り合っていたという衝撃の事実に驚きを隠せないクラスメイト達。腑抜けた顔で呆然と立ち尽くす担任の江藤。なんと声をかけたらいいかわからない、という困った顔でこっちを見てくる葵。

 なんという偶然。なんという運命の悪戯。

 平穏そのものだった日常は、たった一人の人間の再臨によって、瞬時に混沌に塗り替えられてしまった。

 恋火は悩ましげに頭を押さえながら、深い深い溜息と共に、吐き捨てるように呟くのだった。

「はあ……くだらん」




桜咲き誇る始まりの季節。

奇妙な因果に導かれ再び巡り会った二人の強き少女の物語が、今——幕を開ける。

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