終末の希望を桃に 2/4
僕はときどき日本人の心性について考えることがある。
滅亡することが決まった人類社会のなかで、われわれ日本人は稀有な行動様式をもつ人種として、世界から注目されることとなった。そこにあるのは称賛であり、そしてある種の呆れだった。
僕たち日本人は、とても律儀で寛容だった。
人類が消え去るその瞬間まで、われわれは学校に行き勉強をするし、会社に行き仕事をするし、恋に落ち結婚をするし、ラーメン屋の行列に並びもする。
科学技術が発達し、人間の代替不可能な役割はもはや有性生殖しかないんじゃないかという世の中になっても、僕たちは社会性を失うことはなく、日本人を全うしていた。
*
「あとどのくらいかしら」と妻は言った。「もうかれこれ30分は並んでいるんじゃない?」
「まだ15分しか経ってないよ」と僕は言った。腕時計は午後7時を指し示している。
「15分も、」と妻は憤然として言った。「15分も、30分も、このさい同じことよ。空腹で待たされるのって、私嫌なのよね。なんだか餌皿の前でお座りさせられている犬になった気分」
「そうだね、たしかに」と僕は笑った。「でも、ここのラーメン屋は旨いんだ。豚骨ラーメンがとくにね」
「私、つけ麺にする。味噌つけ麺」
「それも、とても美味しいよ」と僕は笑った。
僕が豚骨ラーメンに、妻が味噌つけ麺にありつけたのは、それから20分後のことだった。空間的にゆとりがある店内の、2人用のテーブル席に僕たちは座っていた。
「ねえ」と妻は言った。「今回もダメだったね」
そうだね、と僕は言った。不妊治療のことだった。そして僕は何か励ましの言葉を掛けようとしたけれど、うまく言葉を接げなかった。それはスペースシャトルの部品を製作するよりも微妙で繊細な注意を要するタスクだと僕は考えていた。
「やっぱり、こんな世界で子供を産みたいっていうのがいけないのかな」
そう言うと妻は、器に盛られたつけ麺を箸で掴み取りスープにくぐらせてから啜った。「すごく味が濃いわ、やっぱり」
「なあ、僕は君のことが好きだ」
「いきなりどうしたの?」と彼女は呆けた顔で僕を見た。
僕は言った。「僕は君のことが好きだし、君がやろうとしていることは何だって応
援したいと思っている。滅びゆく運命の中でも子どもを産みたいというなら協力したいし、科学の力に頼らずに自分の内側で子どもを慈しみたいと思うならそうして欲しいと思う」
「ありがとう」と彼女は言った。
「けれど、僕は男として、少しばかり気になっていることがあるんだ」
「何?」と彼女は言って、また麺を啜る。「あー、味が濃い」
「どうして痛い思いをしなくちゃいけない胎内妊娠をわざわざ選ぶんだい? ここまで科学が発達したんだから、その、もう少しそれに頼ってもいいんじゃないかと。言っておくけど、別に批判するつもりなんてないよ。ただ、君の考え方が知りたいんだ」
「さあ」と彼女は言った。「自分でもよく分からない。でも、そうした方がいいと思うだけ」
「それは直観的に?」
「分からない」と彼女は言った。「直観というより、宿命って感じかな」
「宿命?」と僕は訊いた。「それはどういう意味だろう?」
しかし彼女は僕の質問には答えずに、麺を啜った。そして僕も麺を啜り、レンゲでスープをすくって飲み、そしてグラスの水を飲んだ。
「君はもしかしたら怒るかもしれないけど」と僕は言った。階段を4段分飛び降りるくらいの勇気を出して。「実は君に内緒で、先生から試験管をひとつ預かっているんだ」
「試験管?」と妻が訊いた。
「そう、試験管。中に僕たちの子どもがいる。まだタツノオトシゴみたいな形をしているけど」
妻は何も言わなかった。何も言わずに、ただ店員がテーブルの上に置いていった会計伝票のバインダーを曖昧に見ていた。
「特別な培養液に浸さないかぎり成長はしないらしい。彼か彼女か分からないけれど、この子はずっとタツノオトシゴのままだ」
「今も持ってるの?」と妻は言った。「もし持っているなら、見てみたいんだけど」
「ああ、上着のポケットに入れて連れてきている」
僕はジャケットの上着の左ポケットから、親指サイズのとても小さな試験管を取り出した。試験管の口はしっかりとゴム栓がはめ込まれたうえ金属のストッパーで厳重に固定されている。その内部にエメラルドグリーンの溶液が満たしてあり、1ミリにも満たないタツノオトシゴが塵か砂金のように漂っている。
それを、僕は彼女に手渡した。
「へえ、これが私たちの子どもなの」と彼女は掌に載せた試験管を見ながら言った。
「こんな小さな粒から手足や頭が生えて、脳が作られて、口が開くの?」
「そうだよ」と僕は言った。
「ねえ、そんなのって信じられる? 私は上手く信じられない」
「どうだろう。きっとそうなるんだろうな、としか思えないかな」と僕は率直に言った。
「きっとそういうことなのよ」と妻は言った。そして試験管を僕に返した。「じゃあね、タツノオトシゴちゃん。あなたは私たちの子どもだけど、私の子どもじゃないの」
「なるほど」と僕は言った。
そして僕は手元に戻ってきた試験管をそっとジャケットの左ポケットにしまってから、ささやかな食事を再開した。
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