第3話ガトーショコラ(中編)
「お気に召していただけましたか?」
はっと我に返った。気付けば、隣に少女が立っている。
(そういえば、こいつがいたんだっけ)
食べるのに夢中で、忘れていた。
まだ美味しさに
「あれ、あんたが作ったわけ?」
「はい」
「すげえな。……めちゃくちゃ、うまかったよ」
「ありがとうございます」
少女ははにかむような、本当に嬉しそうな顔をした。
それを見て、苦笑して俺は、背もたれに身をあずける。
「あーあ……なんだろうな。あんたみたいな小さな子でも、こんな美味いもの作れるっていうのに、俺はなんの特技もなくて、なーにやってんだろ……。毎日、なんとなく、ただ流されるように生活しててさ」
「……お客様、もしかして、私のこと子供だと思ってませんか?」
「は? え、子供じゃないの? ――いや、小せえからさ、悪かったよ。じゃあ、本当は何歳なわけ?」
「女性に年齢を聞くのは失礼ですよ」
「そんなこと気にするような年なの!?」
「まあ、私のことはどうでもよくてですね」
「俺はすげえ気になってきたけど……」
ぱらり。
と、少女はいくつかの種のようなものを机の上に置いた。
クリーム色で、楕円形をしている。大きなピーナッツみたいだ。
「……なに、これ」
「カカオ豆ですよ」
「これがカカオ!?」
思わずその種――カカオ豆らしいが――を手に取った。
しげしげと見つめる。顔に近づけても、何のにおいもしない。
「うそだろ? だって、全然チョコレートの色してねえじゃん。カカオって、チョコレートの原料だろ?」
「はい、そうです。よくご存知ですね」
「いや、それくらい知ってるだろ……。この種、茶色くないし、白いしさ。それに全然いい香りもしねえ。はっきりいって、まずそうだし」
「まあ、概ね正しい意見です。これ、このままではチョコレートになりませんから」
「あ? そうなの?」
少女はケースを取り出し、お皿の上に数枚の薄い板状のものを並べて見せた。
これは、今度こそ自分のよく知るチョコレートだ。
ただし、色の濃淡がどれも違う。
「チョコレートの……といいますが、カカオの味を決めるのは、まあ色々な要因があるのですが――大まかに言ってしまえば、産地、発酵、焙煎です」
「産地、発酵、焙煎……」
「ええ。試しに、どうぞ。このチョコレート、食べ比べてみてください。まずはこちらの3種類を」
「お、いいのか? じゃあ遠慮なく」
3cm四方程度の小さな板チョコを、順番にかじっていく。
「――面白いな! 香りが全部違う」
最初のは、どこか花の香りを思わせるフローラルなアロマ、次は爽やかでスパイシーな印象、最後はナッツのような奥深く重厚な風味。
「今食べていただいたものは、全て産地が異なるカカオ豆から作られたチョコレートです」
「産地でこんなに変わるのか。……でも、それなら、それだけでもう味って決まっちゃうんじゃねえの? ――生まれた時点である程度将来が決まっちまうって、なんか、面白くねえな」
「そう思いますか? それでは、次はこちらの3種類をどうぞ」
続いて並べられたチョコ片を、再び食べ比べる。
俺は再度感嘆の声を上げた。
「今度のも味が全部違う! チョコレートって、こんなに色んな味があったのかよ……」
柔らかな苦味とすっきりした酸味を持つもの、ローストアーモンドとキャラメルのようなナッティで香ばしいもの、そしてフルーティでワインのような香り高いもの。
「今食べていただいたものは、豆の産地と種は全て同じです」
「え、まじで!? だって、全然風味違ったぜ?」
「ええ。たとえ元が同じ豆でも、発酵や焙煎の方法や時間によって、カカオはまったく異なる表情を見せます。――ですからね、美味しいチョコレートも、もともと美味しかったわけではないのですよ」
「もともと、美味しかったわけじゃない……」
「正確には、カカオ豆からチョコレートを作るには、さらに複雑な工程を経るのですが、そこは省略いたしましょう。要するに、様々な工程――経験といいかえてもいいですが、それを通して、初めてチョコレートはチョコレートになるのです」
「……なんか、人間も一緒だな」
「おや、そう思われますか」
「人間も、ただ生まれただけじゃ生きていけねえだろ。俺なんかも、毎日毎日、やりたくもない、なんの役に立つかも分からない、勉強やら、委員会やら、塾やらやらされてるぜ。高校行くのは大学に行くためで、大学に行くのは就職するためで、じゃあなんで就職するのかっていったら――別に俺自身が働きたいわけじゃない。でも、働かないと生きていけない。人間らしい生活を送るためには」
「高校は、お嫌いですか?」
「好きではねえよ。意味もないことばっかやらされるしさ」
「では――」
瞬間、少女の瞳が真っ直ぐに俺を見つめた。
「では、あなたにとって意味のある勉強とはなんですか?」
「そ――」
それは、と。そんなものはと。
答えかけて、絶句した。
とっさに、俺には何も思いつかなかったからだ。
そんな俺を見て、少女はさらに言葉を重ねる。
「質問を変えましょうか。今、あなたにとって価値のある経験とは、なんですか? ――あなたは、将来どんなことをしたいと思っていますか?」
俺は答えられない。
考えたこともなかった。
俺が考えていたのは、現状への不満ばかりで――。
答えられない俺に、ふわりと、少女は表情を緩め、カカオ豆を手に取った。
「先ほど、チョコレートも人間も一緒と仰いましたが、確実に違うところがあります」
「違うところって……なんだよ」
「チョコレートは、どんな味になるか、自分で選ぶことはできません。けれど、人間はどんな自分になるか、自分で選ぶことができるということです」
「自分で選ぶことが、できる……」
「はい。――だって、そうでしょう? 今の毎日もお忙しいとは思いますけれど――がんじがらめに縛られているわけではない。現状がつまらないと言うのなら、空き時間でもっと楽しい、自分が本当にやりたい、他の事をすることも――もしそれが分からないのなら、探すことも、できるはずです」
「……」
「産地や種は決まっていても、発酵や焙煎でいくらでも味は変わります。どんな味になるのか――チョコレートと違って、人はそれを自分で選ばなければ」
「……」
「与えてくれないと嘆くのは、子供と同じです。現状がいやなら、あるいは将来の自分のために、今何ができるのかを考えなければ。のんきにしていると、せっかくのカカオ豆が腐ってしまいますよ」
そういって、にこりと笑う。
「まあ、私なんかは、どんな経験も何かの糧にはなっていると思いますけれどね。何事も、体感は値千金の宝です。とはいえそれも、本人の捉え方次第ですけど」
「……」
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