異空菓子処『ノン・シュガー』

神田未亜

第1話プロローグ

 ピー、ピー。

 厨房に、軽やかな音が鳴り響きました。


「とと、はーい、今開けますよー」


 焼き上がりを告げたオーブンに、私は慌ててかけよります。

 少し背伸びをして、取っ手に手をかけました。


「よいしょ、っと……。うん、いい感じですね」


 扉を開けた途端、辺りにただよっていた甘い匂いが、ぷわんとその濃さを増します。

 いい香りです。

 本当に、バターの焼ける香りは、何度かいでも飽きません。


 天板を傾けて、ざらり、とクッキーを流します。


「金網の上に移して……。後は荒熱が取れるまで放置ですね」


 放置……なのですが。

 目の前にある焼きあがったクッキーをみては、我慢ができません。

 火傷しないように注意して、一枚をつまみます。

 口に運ぶ前に冷ましましょう。

 ふうふうと。


 温度を確かめて、ぱくりと一口。


「うん。まだ温かいのでサクサク感はないですが……、柔らかくて、ほろほろ崩れて、これはこれで楽しい食感です」


 噛むほどにほどけて溶けるクッキー。

 控えめな甘さと、バターとバニラの香りが口いっぱいに広がります。

 たまりません。


「焼き加減もちょうどいいですね。あとは冷めるのを待って包装してっと……」

 クッキーは置いておいて、店内をぐるりと見回しました。

「さて、ではお掃除をして、今日も一日を始めましょうか」


 菓子処『ノン・シュガー』、開店です。

 店員はこの私、若干一名。

 ――さて、本日のお客様はどんな方でしょう?


***


「あ~、かったりい……」


 鞄を肩にかけ、とぼとぼと帰る。

 教科書の大半は教室に置き勉をしているので、鞄はさほど重くはない。

 それでも、その重くはない鞄を持つことすら、今は面倒だった。


 別に体調が悪いわけではない。

 いつものことだ。

 いつもの毎日が、ただ単に、だるくて仕方がないだけだ。


「学校行って勉強して、家に帰って宿題やって、また学校……。このルーチンワーク、なんなんだろうな。これやって何になるわけ? 微分積分とか、就職して使うのかっつーの」


 高校の勉強に不満を言えばきりが無いが――

 かといって。

 それでは、高校をやめて他にやりたいことがあるのかと聞かれれば、そんなことはない。


 いや、だって、高校って、だいたい皆行くじゃん。


 『だいたい皆行ってる』ルートを、外れるというリスクを犯してまで、したいこともない。

 かといって高校も楽しくない。

 部活動もやる気がしない。


「はー。なんかいいことねーかなー……」


 うつむいて歩いたその途中、こつんと段差に蹴つまづいた。

「うわっ!」

 二・三歩たたらを踏んだが、なんとか、こけることなく踏みとどまる。


「あーもう、最悪……」

 最悪と言うほど最悪なことが起きたわけではないが、これはもう口癖のようなものだ。

 立ち止まった拍子に、ふと顔をあげた。


「ん……?」


 目の前に、一つの建物があった。

 自分の真正面。

 こじんまりとした、木造りで、柔らかそうな印象の建物。

 『open』の札がかかっている。

 見たところ――


「カフェ……かなんかか? こんなところに、こんな店、あったっけ」


 その時、その店からふんわりと、香ばしく、甘く、濃厚な、えも言われぬいい香りがただよってきた。


 学校帰り。

 急に、空腹を意識した。腹が鳴る。

 もとより、暇は売るほど持ち合わせている。


 多少の買い食いは、小遣いでなんとかなるだろう。

 俺は引き寄せられるように、その店に足を踏み入れた。


***


 チリン、と。

 涼しげなベルが鳴る。

 

 店内は、いささか古風な――いや、これは言葉が悪いか。

 どこか、アンティーク調の内装だった。


 艶やかな、深みのある色合いをした木製の家具。

 柱時計に、ランプから広がるオレンジ色の光。

 棚に並んだたくさんの食器や置物。


 初めてなのに、どこか懐かしく落ち着く光景だった。


 そんな風に、店内を見回していると――。


「いらっしゃいませ」


 いつの間にか現れた人物に声をかけられ、仰天して声の主を探した。

 視線をさまよわせていると、


「お客様。こちらです。こちら」


 再び声がして、俺は視線を下に下ろす。


 見れば、斜め下、およそ身長140cm程度の人物が、ちょこんとたたずんでいた。


「改めて、いらっしゃいませ。菓子処『ノン・シュガー』へようこそ」

 

 びっくりするほど、可愛い女の子だった。


 わずかに青みを帯びたふわっふわの銀髪。

 ぱっちりと大きな瞳に長いまつげ。

 陶器のように滑らかな白い肌に、ばら色の唇。


 12歳ほどの少女が、にっこりと笑って、俺を出迎えてくれた。


***


「え……と」

「はい?」

「あんたは……この家の子? 手伝いでもしているとか?」

「うーん……」


 アルバイトにしても幼すぎる。

 そう思ってかけた俺の言葉は、なぜか少女をがっかりさせたようだった。


「無理もないご質問といいますか、もう恒例行事といいますか……。来店されるお客様は、皆様口をそろえてそう仰るのですが……」


 肩を落とした少女は、しかしすぐに、気をとりなおしたように顔を上げる。


「まあ、私のこの外見では、そう尋ねられるのも無理もないことと諦めましょう。ですが、不肖ふしょう私、僭越せんえつながらこの店の店主を勤めております」

「店主!?」

「はい」

「え……? じゃあ、何? あんたがこの店を経営しているってこと?」

「はい、そうです」


「はあ……」

 二の句が告げない。

 親は何をしているんだとか、

 いやいやそもそも子供って働けるんだっけ? とか、

 経営者に年齢制限ってないのか、とか。


 言いたいことはいろいろあったけれども。

 目の前の少女は、何か問題があるでしょうか、とでも言いたげに堂々としている。

 なんだか追求するのが面倒くさくなってきた。


「菓子処……っつったよな」

「はい、そうです」

「じゃあ、なに。なんか甘いもの、食わせてくれるわけ?」

「はい、おっしゃる通りですね」

「俺、金あんまりねーんだけど」

「お金はいただきません」


「は?」


 今度こそ聞き逃せなかった。


「何? お金はいらないって?」

「はい」

「なんなの、この店。慈善事業でもやってるわけ?」

「いいえ。その代わりといっては何ですが――」


 少女はにっこりと笑った。


「メニューはございません」

「はあ?」


「当店に、メニューはございません。お客様にお出しするのは、お一人一品のみ」


 俺はぽかんと口を開けてその言葉を聞く。


「その一品を気に入っていただけたなら、そのお気持ちをお代とさせていただきます」


 どうやら――

 何気なく入り込んだこの店は、とりあえず。

 珍しいという点においては、文句なく、この俺を満足させてくれるようだった。

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