act.1 襲来Ⅳ

 ここはビルの屋上だった。吹き抜ける強い風のなか、一人の男がフェンスの上に立ち、街を見下ろしていた。


 黒髪の男は黒いスーツを着込んでいる。赤いネクタイは風でなびいていて、胸元から覗く白いカッターシャツのボタンも、一番目を開けていた。うっとうしいものをわざわざ着用しているのが窺える。


「……あいつか」


 男は煙草を咥えながら呟く。その視線の先は、三人で歩く高校生たちに向けられていた。一人は茶色の髪で、おそらくはワックスで固めてある。三人のなかで背は一番高く、といってもそんな大差があるわけではない。ほんの二、三センチだ。見た感じ、調子のよさそうな男だ。


 もう一人は、黒い髪の女。小柄な体格である。屋上の男が見据えるのは、真ん中の男だった。深みのある緑がかった黒のショートヘア。前後左右と、針ネズミのように撥ねる髪が、かなり特徴的だ。それを除けば、外観は一般高校生と変わらない。

 ビルの屋上から、これらのことを確認するのは、当然常人の視力では不可能だ。


 不意に男の携帯が鳴る。

 携帯のディスプレイを見て誰かからなのかを確認すると、男は舌打ちをした。


「……何の用だ」


 もちろん誰かと話している。声から察するに、相手も男のようである。


「うるせぇよ。わざわざ機嫌をとるために電話したわけじゃねぇだろ。用件は何だ?」


 男の強い物言いに相手はたじろいだようだ。あわてて何かを言っている。


「じゃあ勝手にしろよ。しばらくは見といてやる」


 そのあと、相手はまだ何かを言っているが、男は用件が終わったものと判断し、通話を強制終了させた。


「さて……」


 そのあとに何が続くのか、分かるのは男一人。呟いたあと、男は空に身を任せた。重力に従い、男は落ちる。だが、地に落ちることなく、男はその場から消えていた。





 窓からは紅く射しかかる夕陽が見える。輝たちがカフェに入ってから、実に一時間が経過しようとしていた。

 強敵であったパフェは空となっていた。今はテーブルの上に大きな空のグラスがあるばかりだ。瑠璃はもちろんのこと、輝もなんとか腹のなかへと流し込んだ。


 それからはテキトーに思い付くまま、勉強や音楽、芸能人と、話題を構築させていた。



「あ、もうこんな時間」


 瑠璃が随分と長居したことに気付く。


「あ、ホントだ。そろそろ帰ろうか」


 輝の提案はあっさり承諾され、三人は帰宅することになった。輝が一括して払い、会計が済んだあと、二人から返してもらうという方法で、三人はカフェをあとにした。


 三人とも電車通ではない。ある程度の距離を歩く必要があったが、電車を使う程でもなかった。


 街全体は紅く染まり、帰る頃合いだと教えてくれていた。その時間ともなると、駅前という立地条件に恵まれたカフェから出ると、人の往来が見受けられた。


「んじゃまたな」

「今日はありがと」


 と手を振る瑠璃と柾に対して、輝は「また明日」と言って別れた。そしてそれは、しっかりと見計られていた。




「やぁ。君が八神輝君かい?」


 一人になり、自宅を目指す輝は歩道橋を歩いていた。前からの通行人に話しかけられる。レンズには縁のない、銀色の眼鏡をかけ、茶色のショートヘアの青年だった。


「えっと……あなたは?」


 輝は目の前の人物を知らない。少なくとも、記憶の内には存在しなかった。


「知らないのも無理はないよ。僕たちは今日初めて会ったんだから」

「はぁ」


 忘れていたわけではないようだが、異様であった。輝はよくわからない返事をしてしまう。


「ま、そこまで萎縮することはないよ。ただ従えばいいんだから」

「……」


 輝は戸惑った。無理も無い。現段階では話が全く見えてこないのだから。


「少し、歩きながら話そうか」


 男はそう言って親指を立て、くいっと自分の歩いてきた方を指す。

 輝はどうしようか迷った。いや、ここは逃げるべきではないか。しかし、そのわずかによぎった考えはすぐに崩れた。男が背を向け、歩き出そうとしていた。そこから顔だけを動かし、輝に向かって放った言葉によって。


「あぁそうだ。わかってると思うが、逃げようなんてことは考えないほうがいい。お互いのためにも……な」

「……!?」


 どうしてだかわからない。輝は思った。まだ話しているだけだ。それだけなのに、自分は何故こんなにも汗をかいているんだ。ドッと噴き出したように流れる汗。無意識に手を握れば、手が滲んでいたと初めて自覚する。

男の言葉に応対はしなかったが、無言のままの輝を肯定したものだと男は認識する。


「それでいい」


 そして男は進む。輝は後に続いた。こいつから逃げることは容易でないと思ったのだ。

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