ミハマ区二丁目福耳喫茶

真瀬真行

第1話

 自宅から一時間、会社からは三十分。ちょうど帰り道の海岸線を走る黄色い電車の各駅停車で止まるミハマの駅を降りて、南口から見えるマンションの二階。ゆっくりと歩いても五分とかからないその場所に、小山田大吉はいつも通っている。 

 二階にあがる途中の踊り場で途中で見下ろした夕日を見送るような駅前のビルで電光掲示板がなにやら叫んでいる。

「フクミミは難病? 人にうつる? そんな差別をなくすために、肌色の羽に寄付を! このフクミミ募金は、フクミミを抱える人々に生活の補助を……」

 耳型のぬらりひょんのようなキャラクターが愛は人類を救うと掲示板の中で謳っていた。ふんと小山田は鼻で笑った。愛で人類は救われない。ほとんどの場合、耳の形で人は救われるのだと決まっている。

「お父さんが難病ってことは、私にも因子があるんでしょう? ねえ、私将来付け耳にしなきゃいけないの? 付け耳にして、みんなに哀れまれなきゃいけないの?」

 昨晩、小山田は娘にそんなことを聞かれた。妻は娘をなだめてくれたが、小山田はいたたまれなかった。今の世では、耳たぶが大きいと言うことはそれだけで、差別の対象になる。耳の大きさで遺伝子の優劣が決まると学者が言い立ててから何十年と経って、フクミミと呼ばれる耳たぶの大きい人類は様々な病気、疾患を抱える確率が高いとされてきた。

 小山田は昔、まだ若い頃そこまで耳たぶが大きいと言うわけではなかった。母方の祖父がフクミミだからお前たちはフクミミ因子を持っているのだと強く母親に言われていたが、そんなことは若さゆえの向こう見ずで聞き流していた。世界が変わったのは、結婚して数年経った頃だろうか。年と共に耳たぶが少しずつ膨れて行き、ついに三十四歳という若さで、小山田の耳はフクミミになってしまったのだ。

 人に知られたり、後ろ指を指されるのが怖くて、妻に勧められてフクミミを隠すつけ耳を作った。今の世の中、つけ耳をつけているということは差別の対象になりえる。フクミミを隠していることで、人に伝染する可能性がある病気を隠していると疑われれてしまうからだ。だからつけ耳業者も広告を出しておらず、人伝に妻が探し出してくれたつけ耳業者のもので、ようやくつけ耳を装着することができた。

 小山田は、ふと自分の耳を摘まんだ。それは、付け耳特有のひんやりとした滑らかな触感だった。つけ耳のせいで、小山田は本来の耳よりも一回り大きくなっている。耳が小さい方が良いとされる風潮のなかで、小山田は耳が大きいと揶揄されて生きている。こんな人口で出来た耳など捨ててしまいたいが、そうしたらすぐに後ろ指を指される毎日を送る羽目になるだろう。小山田はため息をついた。耳を触って浮かんだ感情を胸の中に仕舞い、ようやく階段を上る気になったのだ。

 胸をついた感情を忘れるようにして階段をあがり、ドアの前に立った。マンションの二階の角部屋、看板もなにも立っていない。小山田もカツラを作った業者にそっと教えてもらったくらいだ。なにも看板も出していないそのマンションの一室に、とある喫茶店がある。オナヤミ喫茶と呼ばれる、特殊な背景の人生を生きている人々用の、大切なより所。

 小山田大吉にとってそのオナヤミ喫茶は、もはや第二の家になっていた。

「おかえり」

 カランと音を立てる入り口のベルに心躍ると、落ち着いたヨーロッパ調の店内にほっと息をつく。つやつやと飴色に輝くテーブルが二つに、テーブルにそろいの足の長い椅子がニ脚。普通のマンョンを改装しているので、カウンターキッチンは少し幅狭だ。それでも十分余裕があるそこに、魚人のマスターがいつも新聞を読んでいたり、ラジオに耳を傾けていたりして小山田を迎えてくれる。マスターは魚人なので外耳はついていないが、エラを持っている。マスターのエラは一般的な魚人のそれに比べて、一回り小さかった。

「やあ、マスターただいま」

 今日も店の外は世知辛い場所だった。そう、小山田は二つあるテーブルの手前のテーブルに落ち着くといつも思うのだ。

「本日、難病指定されている外耳下部拡張症患者通称フクミミに対する差別傾向が悪化していると夕日新聞の調査により明らかに」

 マスターが見るだけ用に取り付けられているはずのカウンター横の小さなテレビが話しかけて来る。基本的にニュースがかかっており、マスターが読んでいたらしいゴシップ誌をポンとカウンターキッチンに置いていた。

ふうと息を吐きながら、小山田はつけ耳を脱ぎ始めた。マスターがテレビを消して、ゆっくりとつけ耳を置く木製の箱を運んできてくれて目の前のテーブルに置いて行ってくれる。つけ耳は人口皮膚と様々な化学製品の調合をしているため、非常に繊細なものなので、木製の特に白檀の箱に収めておかなければいけない。慎重につけ耳を両方外した後、マスターに手渡された一枚目のおしぼりでまず小山田は両耳を拭いた。毎日つけ耳をして負担をかけている小山田の外耳はこわばって縮こまっているかのように堅くなってしまっている。クリームを塗り込んでつけ耳をしているため、べたべたしているので温かいおしぼりでゆっくりと両耳を交互に包み込んでクリームを拭い、マッサージをする。するとようやく、小山田は安どのため息を吐いた。

 一枚目のおしぼりが冷たくなること、さっと二枚目のおしぼりを渡しながら、マスターは小山田の前にメニューを置いて行った。

「マスター、今日は八十年代をお願いできるかな。そうだな、ブルースがいいだろうか。おすすめを頼むよ」

 メニューには飲み物の種類や値段が書いているわけではない。もちろん食事類も同様で、それでは何のメニューかというと、店のBGMのメニューだった。小山田が頼んだオーダーに答えて、マスターは淡々とカウンターキッチンの端にテレビと並んで置かれたターンテーブルにレコードをセットした。程良い音楽に耳を澄ませていると、マスターは豆を挽き始める。香ばしい豆の香りがぷんと漂い始めると、マスターはなにやら準備のためにおくに消える。コーヒーを煎れる方法はなぜだか見せてはくれずに、マスターこだわりの方法で煎れているようだった。

 ふいに、カランとドアのベルが音を鳴らした。

「あら、来てたんだ」

 声につられて顔を向けると、そこにはやたらと長く、ニーハイどころか腰まで届いているブーツを履いたスーツ姿の女が入ってきた。スカートは短く、どこか官能的な印象を見せる女はドアを後ろ手に閉めてふうと息を吐いた。それからようやく小山田を見て微笑む。

「ああ、これはこんばんは」

 小山田と同様古株、と言えるのだろうか。人魚のまちるがふうと息を吐いてあいていた小山田の隣の席に座り、いつものように腰まで届くブーツを脱ぎ始める。慣れていることなので小山田は気にせずコーヒーをすすった。まちるがブーツのチャックをおろすと、下から現れたのはみごとな魚の鰭だった。まちるは人魚なのだ。

「今月は鰭の期間が長いのですね」

「うん、そうなの。いやになる、鰭になってると専用ブーツ履かないと歩けないし、繁殖期になると乾いても足に戻らないし。このブーツ、履いてるのすんごく蒸れるから嫌なのよね」

 まちるはふうと息を吐いていると、またマスターがそそくさと現れた。その両手人は人魚専用強制ブーツを置くためのかごと、おしぼりが一つ握られている。小山田に渡されたものより少し大きめのおしぼりで、まちるは両鰭を丁寧に拭いた。

「今日もバイトきつかったあ」

「今日は水族館で?」

「ううん、今日は博物館で水類系の展示。まともな博物館だったから、ちゃんと水槽用意してくれたんだけど、水温間違えられてほんとうに死ぬかと思った。人魚は水温高めじゃないと凍えて動けなくなるって、なんで分かってくれないのかしらね。本当に、これだから北極圏のジュゴンとは話が合わないのよ」

 まちるが言葉を切ると、マスターはもう一枚の今度は少し小さ目なおしぼりをまちるに手渡した。まちるはおしぼりで両手の水かきをゆっくりと拭うと、そこでもう一度ふうと息を吐く。

「ねえ、私にはメニューまだなの?」

「ああ、すまない。先ほど私が注文してしまったんだよ。この曲が終わるまで、少し待ってもらえないかな」

「ん、そうなの? いいわよ、気にしないで。ねえ、マスター私アニメソングがいいかな、揃ってる?」

 オナヤミカフェでは己の真の姿をさらし、好きな音楽を聴いて美味しいコーヒーを飲む。そうして、本音で語らいあうのだ。

「まちるさんは、この前の面接はどうだったのかな?」

 小山田の問いに、まちるは唸って机に突っ伏した。

「落ちた。人魚って季節ごとに鰭になったり足になったりするから、保険がきかないんですって。……あー憧れのOL生活……ふつうに人間の女とおんなじように働きたいだけなのに、なんでうまくいかないんだろう」

 オナヤミカフェでは、本音で語らい、相談をし、そして本音で返す。

「魚人と人類との間に大きな隔たりがあるからね」

「進化の過程でちょっと変わったことがあるくらいじゃない……」

 魚人と人類との違いは、エラがあるか、水中に適しているか否かの違いくらいだ。魚人と人類の間に子供はできるし、産まれてきた子供に生殖能力は引き継がれている。これはつまり、人類と魚人との間には子孫が残せる程度の違いしかないということになる。だが、魚人と人類が共存することになって百年以上経つ昨今でも、差別は消えない。耳たぶが大きいと言うことで差別される様に、魚人たちも人類から常に差別されている。

「あーあ、普通の女の子に生まれれば、自分の人生に何の疑問も持たずに生きていけたはずなのに」

「でも今の人生の方が、面白いじゃない」

 とても良い香りのコーヒーを持ってきてくれたマスターはそう一言だけ言って、去って行った。店内には緩やかにブルースが流れている。

「薄っぺらい人生でもいいから、普通が良かった」

 まちるがそう呟くので、小山田も頷いた。

 もし、小山田の耳たぶがこんなに大きくなければ、娘との不仲も無かったかもしれないし、交友関係も広がっていたかもしれないからだ。もう少し人生はスムーズいったかもしれないし、何より、そう。職場でももっと堂々と居られたかもしれない。ふいに、年下の上司に怒られたことを思いだし、小山田はため息をついた。

「普通だったら、耳たぶがいまのもう数センチ小さかったら、私は今よりもっとよく暮らしていたかもしれない」

「そうよねえ、私もせめてジュゴンだったら……。エラ呼吸じゃなくて肺呼吸だったら、もっと人生変わったかもしれないなあ」R

 ふうと小山田もまちるも息を吐いていると、まちるの分のコーヒーを持ったマスターが戻ってきて二人に言った。

「でも、もしそうだったら二人には会えていないかもしれない。それだけで、今には価値があるのかもしれないよ」

「それは、そうだけど……」

 まちるも何か言いたそうだったが、小山田も一言言いたかった。このカフェで彼は、安らぎを得ている。だがどこかで、本当に一匙の気持ちで、後ろめたく思っていた。小山田は本来、差別されるべき人間だと自分でもどこかで認める部分があるのだ。ともすると、自分のアイデンティティに関わるような、小山田にはそれは重要なことだった。

 ようするに、小山田はこのカフェの存在を認めながらもどこかで、このカフェに居ない人生を想像して悲しくなっているのだ。より良い人生は耳たぶの大きさによって奪われてしまっていた。

「もし耳たぶが数センチ小さくなるとしたら、小山田さんはどうするの?」

 その問いに、小山田は少しためらった。朝の、娘に言い放った言葉が蘇ったからだ。

「人と違うことは、確かに立派なことではないし、良いことじゃない。耳たぶが普通になるなら、お父さんは何でもしたかもしれない。でも、人と違うことは、悪いことじゃないんだ」

 娘は納得していない様だった。小山田もどこかで納得していなかった。

「どうするだろうね……耳が数センチ縮むなら……。きっと、ビーチに出かけるかな。今のままじゃ、付け耳が外れるのが怖くて海にもいけないから、水着を着て、妻とビーチサイドでのんびりするのも悪くないね……そして十分ビーチを堪能してから……いろんな人と話したいな」

「あら、私と話すだけじゃ物足りないの?」

 ちらりとえくぼを作るまちるに小山田は首を振った。

「君との会話はとても楽しいよ、若い人魚と話すなんて、めったにできないことだからね。でも、君だけじゃない、もっといろいろな人の話が聞きたいんだ」

 会社での小山田は、耳のコンプレックスの所為で無口で誰とも話もせずに黙々と書類を作っている。年上の上司の様に、社交的ではないので周りの同僚たちも必要最低限の会話しかしていかない。周りの人間は誰も気づいていないかもしれないが、小山田はそれが寂しいと思うことがあった。もしつけ耳でなければ、小山田は人の人生を聞いてみたいと思っていた。ふつうである彼らの人生は、小山田のつけ耳をつけた人生よりきっと幸福だからだ。

「ふうん。小山田さんは変わってるわね、私は必要最低限の人と、楽しく話せるならそれ以上のことは望んでないかなあ。手に届く範囲が幸せなら、私はそれ以上のことはないもの」

 まちるの話も小山田には共感できた。頷いてコーヒーを口に含むと、ふわっと香ばしい匂いが喉から鼻を突き抜けた。ふんわりとした匂いの余韻が頭に残り、ふうと息を吐く。分かりやすく幸福の時間を味わっていると、からんとドアのベルが鳴った。

「あら、珍しい。新しい人かしら」

 このカフェは、基本的に紹介制なので、まちると小山田以外の客はいまだに見たことが無かった。マスターは何も言っていなかったが、小山田の様に何もしらない人間が恐る恐る伺いにやってきたのかもしれない。好奇心人駆られてドアの方向に体を捻って、小山田は後悔した。

「何だ、外観がしょぼいから、ただのしょぼいマンションかと思ってたら、内装はしっかりしてるんだな。あ、あれー? 小山田ちゃんじゃん、何してんの?」

 年下の上司、水野二郎がオシャレなスーツに、おしゃれなネクタイ、ビンテージもののブランドバッグを持って立っていたのだ。

「水野、課長」

 小山田は暗澹たる気持ちで、その青年を見つめる羽目になった。水野は小山田より一回り近く年が違うが、有能で社交的、ついでに耳たぶは理想的な細さで、耳の大きさも黄金律だと社内でも有名だった。容姿端麗で身長も高く手足が長くて社交的、理想を絵にかいたような青年で、小山田は特に彼の耳にいつも嫉妬していた。

「どうして、ここに居るんですか?」

「え? 何、もしかして小山田ちゃんて人に言えない秘密を抱えてるとか?」

 ぶしつけな質問に、小山田は黙ってしまう。その様子がおかしかったのか、口を微笑みの形に刻んだまま、ゆっくりと小山田とまちるに近づいてきた。そして、まちるの足が鰭であることを見つけると、不躾にもその足をじっと見下ろしていた。まちるは恥ずかしそうに、両手で鰭を隠すようなしぐさをした。

「へえ、人魚なんだ」

 その言葉に、まちるは耐えきれず悲しそうな顔をした。

「あれ、小山田ちゃん、その耳」

 小山田は鼓動がどくどくと早まるのを感じた。ゆっくりとした水野の仕草が、何かの宣告のようで小山田はたまらず、鞄を掴んで店を出て行こうと思った。水野は目を弓ような形にして、小山田の見事なフクミミついては触れなかった。ただ楽しそうに、ふうんと笑った。その沈黙が酷くいたたまれなくて、小山田は歯を食いしばっていた。もう、このカフェにくるのも今日が最後かもしれないと、思いながら。

「小山田ちゃんは、特別なんだ?」

 その言葉に、急に目の前の霧が晴れていくような気分だった。

「え?」

驚いて水野を見返すと、彼はすこし笑う様な顔をしてから、鞄を床に置き上着を脱ぎ始めた。まちるは半泣きで居たし、あまりにも無神経な態度で堂々と居座る気らしい。あまりのことに言葉を失っていると、奥から急にマスターが出てきて、水野におしぼりを渡した。

「申し訳ないがテーブルが足りないんだ、相席でいいかな?」

 水野の鞄を拾い上げてマスターが問うと、水野はいつもの爽やかな笑顔を浮かべてもちろんと答えた。

「テーブルのそれぞれの主たちに聞いて、好きな方に座らせてもらったらいい。メニューは今持ってくるから」

 小山田が驚いて言葉を失っている間に、水野はさっさとまちるの席に座り込んで、彼女にあれこれと質問をしていた。最初は警戒して恥ずかしがっていたまちるも、水野の社交的な態度に少しずつ心を開いていき、やがて二人は声をあげて笑うまでになっていた。

 小山田は一人、釈然としなかった。笑うまちるの横顔に、納得のいかないものを感じて、人魚もしょせん女なのだと思っていたりもした。先ほどまで心地よかったブルースが耳に入ってこない。何か言葉をかけるべきなのかと思って、幾つか言葉を探しているうちに、その様子を察した水野が話しかけてきた。

「小山田ちゃんはさ、いつからこのカフェに通ってるの?」

「……五年ほど前から」

「へえ、そんなに前から。てことは、そんなに前から付け耳だったんだ」

「いえ……つけ耳はもう随分と前から」

「ふうん。付け耳ってさ、すごく耳への負担が大きいんじゃないかな。いつも小山田ちゃんはどうしてるの?」

「クリームを、塗って……」

 耳にクリームを塗るのは、毎朝の日課だった。肌への負担を考えて、妻が買ってきてくれた無添加のクリームを塗り込むひと時がとても嫌だったのを思い出した。仕方のないこととはいえ、人と違うためのひと手間がとても惨めだったのだ。

「クリームねえ。毎朝朝早く起きて大変だね……。小山田ちゃんはさ、ここの存在どこで知ったの?」

「妻が……」

「ああ、奥さん。小山田ちゃんの奥さん美人で有名だもんねえ。あの無口な小山田さんがどうやってあんな美人を落としたのかなんて、いつも酒の席では話題になるよ」

「はあ……」

 小山田が戸惑っているうちに、水野は持ち前の社交性と爽やかな笑顔であっというまに店になじみ、まちると談笑し始めた。そうして、小山田が注文したブルースの時間が終わると、いかにも若者が好むダンスミュージックが軽やかに店内に流れ始めた。

「うわ、ここのコーヒー美味しい」

 小山田は、たまらなくなった。自分の世界を、この優秀で無邪気な青年にけがされたような気持になったのだ。つまらない子供じみた感情だと言うのは分かっていたが、それでも自分の場所に、ひそかに嫉妬していた青年が入り込むことが許せなかった。それも、彼は完全に興味本位のようだった。普通の人間が、このカフェに入っていいはずがないと、幾度か咎めようとしたが、情けなくも勇気が出ずに、小山田は口を瞑んだ。

「大変だね、まちるちゃんも。そんな風に鰭が定期的に表れてさ」

 その一言には、かちんと来た。お前に何がわかるといってやりたかったが、言えなかった。マイノリティに興味のあるマジョリティは必ず存在する。偽善的な彼らが、ただそっとカフェに入り込んできただけだ。そう思おうとしたのに、マスターは小山田や町ると同じ容認彼に接したし、それが劣等感を煽った

「マスター、お勘定を」

 振り絞るように奥にそう声をかけると、水野はまちるとの談笑を止めて振り返った。

「あれ、小山田ちゃんもう帰るの? もっと色々と話したいのに。特別な体験を多くしてるわけだしさ、人生の先輩として。同じ人間同士さ」

 たまらず、叫んでしまいそうになった。小山田は水野とどこが同じなんだといってやりたい気分になりながら、どこからか現れたマスターにお金を渡して、急いでつけ耳をして店を出た。いつもなら、ゆっくりとクリームを塗り直して出るのに、無理矢理つけたため、耳がしくしくと痛んだ。心もしくしくと痛む。

 どうして自分はフクミミなんだろうと、小山田は思った。フクミミであるがゆえに、普通じゃなくなると言うことは人と違うと言う恐れの中に浚われ続ける。その恐れを振り払うための、いわば羽を休める場所を水野に奪われてしまった。暗澹たる気持ちで、小山田は家路を急いだ。

 会社からカフェまでの道のりが夢見心地の分、カフェから家に帰る時のこの経路に、良い思い出は無いなと小山田は思って電車の中で揺られた。

 つりさげ広告のゴシップ記事の見出しが、小山田をまた憂鬱にさせた。有名芸能人のつけ耳疑惑、魚人の種類隠し、魚人とのハーフの人種差別発言。悲しいほどに、世間は普通じゃないことに対して厳しい。ふいに電車の外を見ると、ぽつぽつと夕闇に照らされた家々の明かりがこちらを睨み返してくる。その一つ一つの光の中に、問題を抱えて生きているというのだろうか。

「救いは無いんだろうか」

 ふとつぶやいてしまい、小山田は隣で立っている魚人のサメに睨まれて、肩をすくめた。

 それから四十分ほど、青い海に向かう電車に乗っていると、小山田はようやく家に帰ってくる。駅から徒歩でに十分、赤い屋根に白い玄関扉。庭の手入れはいつも行き届いている。優しい家だ。近所の人も、小山田に優しい挨拶をいつもくれる。

「ただいま」

 家の中はいつも、誇りひとつない。優しい太陽の匂いがして、キッチンにはいつも妻が立っている。

「お帰りなさい」

「ああ、ただいま」

 リビング奥の書斎に、鞄を置いて、コートをかける。背広を脱いで、ゆっくりとズボンを脱いで椅子に掛けてあったガウンを着る。それから、付け耳を外して、机の上に置いてある木箱の中に仕舞った。この瞬間に、小山田の世界はあっというまにこの家の主の気持ちに切り替わる。家の中はいつも、妻のエプロンと同じ匂いがして、そこかしこに小山田を許してくれる気配がする。リビングに移動すると、夕飯がこれから並ぶだろうダイニングテーブルに腰掛ける。それから、いつものようにダイニングテーブルの端にそっと置いてあった新聞を手に取って広げた。世界はいつも、耳を基盤にして動いているように思えた。

「貴方」

 新聞を眺めているうちに、妻が並べてくれた夕食は完璧に整い、箸を持っている最中に妻がキッチンに戻る頃、何やら玄関で激しい音が聞こえた。玄関のドアを激しく開閉した音らしい。ばたばたと騒がしい音がして、リビングにその音の正体が現れる。娘だった。

「お父さん」

 娘は、小山田に似ているが、妻にも似て目の大きい美しい少女に育ったように思っていた。だが最近、耳たぶのラインが少し人より大きいことを気にしていたし、もともと個性的な趣向をしていたように思うが、その時現れた娘の姿は常軌を逸していた。

「お父さん、見て」

 娘は、耳をごてごてに飾り立てていた。ピアスの穴を開けるのは耳を傷つけると数十年前に廃れて、今ではもっぱら耳ジェルなどで耳を樹皮に似たような素材でコーティングしてそこにごてごてとラインストーンや宝石、レースなどで飾り立てるジェル耳が主流だった。だが娘が見せてくれた耳は、せっかく均衡が取れている耳の上部までジェルが覆われ、まるで童話に出てくる妖精のような尖がった耳をしていたのだ。

「綾子……!? なんて醜い耳をしているんだ!」

「見てよ、これ。特殊耳ジェルって言って、今海外アーティストの間で流行ってるんだって。凄い、素敵でしょ? これなら、私のフクミミちっくなのも隠れるし、耳を飾れるし、カッコイイよね!?」

「カッコイイ……? そんな……耳を飾るなんて……綾子! お前が思っているほど、耳を飾ると言うことは簡単じゃないんだぞ!?」

 小山田は思わず娘にそう言ってしまってから、娘の傷ついた顔を見て後悔した。小山田の欠陥を娘に背負わせてしまったかもしれない申し訳ない気持ちもあった。だがどこかで、耳をかっこいいという娘に腹が立ったのだ。小山田のフクミミは、人に蔑まれて当然だとどこかで想っていたからだ。

「何で、だって、耳を隠せればそれでいいんでしょう? それなら、かっこよくした方がいいじゃん。昔はアニソンとか、ポップスとか馬鹿にされてたけど今ではそれが流行の音楽でしょ? それと一緒で、今は馬鹿にされてるかもしれないけど、いつかフクミミが主流になるように、カッコイイって考える様にすればいいじゃん。何で、そんな悪いことみたいに」

「悪いことなんだよ! フクミミは……。綾子、今はお前は学生で、社会のことなんて分からないかもしれないけど、いずれわかる。フクミミで居る限り、お前は人と違うんだ。人より劣っていると言われるんだよ。……社会で、人と違うことは立派じゃない、立派じゃないと言うことは、うまく生きていけないことなんだよ」

 小山田の娘は、顔を盛大にしかめて顔を振った後、小山田の書斎に歩いて行ったかと思うと、木箱を持ってきた。

「お父さんは、普通じゃないことに捕らわれてる。こんな風にして、人と合わせたって何の意味もないじゃない。自分を変えなければ、世界は変わらないんだよ、お父さん。お父さんは、普通じゃない自分をどこかで憐れんでる、可哀そうだって、それでいいんだって思ってる。でもそうしたら、自分をどんどん嫌いになるだけだよ」

 無造作に木箱を開けたかと思うと、付け耳を小山田に投げつけた。小山田はやってはいけないとわかりつつかっとなって、娘に手を振り上げた。そして振り下ろしたところには何故か、妻が立っていた。

「あなた……」

「律子……? どうして」

 妻と結婚してから小山田は彼女に手を挙げたことすらなかった。それが、この現状ににわかに信じられなくなり手を擦って、どうにか誤魔化せないかと思っていると妻は冷酷に言い放った。

「あなた、付け耳を拾って、耳をつけてください。そんなにその付け耳をつけたいんでしょう?」

 小山田はみじめな気持になり、横を向くと、娘も悲しそうな顔をして、すぐに背を向けた。そのあと、落ちていた付け耳をまた無理矢理はめると、耳がしくしくと痛んで、妻の作ってくれた夕食をほとんど食べることが出来なかった。




 カフェに行くことができないまま二日たち、三日目の朝はいつものようにやってきた。三日前から娘とは口を利かなくなり、妻は機械的に主婦業をこなして小山田と口をきこうとはしない。家の中にいながらの孤独感を抱えて三日、朝になると耳にクリームを塗りつけて、付け耳をつけて、妻の作った朝食を食べて、服装を整えて鞄を持って逃げる様に出ていく。それから、駅までの道を急いで歩いて、電車に乗り込む。乗り込むと、電車が揺れるたびにつけ耳に神経がいってしまう自分を叱咤して、小山田は電車の窓の外を眺める。

 向かいのホームで止まっていた電車に乗り込んでしまえたら、ものの数分でミハマの駅に着けるだろう。そう思っているのに、それは実行できなかった。耳がしくしくと痛む。今日は冷えているので、クリームを多めに塗ってしまったが、クリームは適度に塗らないとつけ耳が安定しない。少し少なめに調節したつもりだったが、少なすぎたのかもしれない。

しくしくと痛む耳を抱えて、小山田は電車でぼんやりとする。これから会社での、いつもの朝が待っているのだ。そう心に決めて、乗り換えをして、ようやく会社に到着する数駅前で降りようと思っていると、ふいに見知った声に話しかけられた。

「あれ、小山田ちゃんじゃない?」

 上司の水野だった。

「水野課長」

「あれ、もしかして今日早出? 偶然だよね、いつも遅いのに」

 水野は昨日も一昨日も素知らぬ顔を通していた。土足で小山田の日常に入り込んで、まるで自分は関係のないというようにうわべだけの笑顔を浮かべいる。異様な男だと、小山田は思っていた。昨日も一昨日も、まるで何も無かったようにいつもの薄っぺらい笑顔を浮かべている水野と仕事をこなしていたが、特に変わったことは無かった。

 カフェに行かないとなると、小山田の居場所は途端になくなってしまう。朝も早いし、夜もすぐに寝てしまう。

「今日もさ、頑張ろうよ」

 ぽんと肩を叩かれて、水野は小山田を置いて先に行ってしまう。その颯爽さが、付け耳をつけていない人間のフットワークの軽さなんだろうかと思いながら、小山田も仕方なく出社した。

 席に着いて、毎日の日課のメールを見流して、朝会を聞き流して、本格的に仕事を始める。書類整備だと揶揄されるが、これも立派な仕事だ。数値をグラフ化しなければなるまいと資料の流れを見ているうちに、雑音は聞こえなくなった。

「えっ、水野さんて……」

 小山田の世界に音が戻ったのは、それから一時間しないかの時だった。向かい側に座る女性社員がひそひそと噂話をしていたのだろう。水野という言葉に、つい小山田はパソコンの画面から視線を外してしまった。小山田の右斜め前のブースでもくもくと仕事をしているのが水野だ。その年齢で課長になるだけあって、仕事も早く的確で、制作物も細かいチェックをしている。部下への扱いもうまく、上司への取り入り方も心得ている。

 だが、いつも笑顔が薄っぺらく、決して人に自分の内面を見せる男ではなかった。小山田はそんな水野のプライベートの話が出るのが珍しく、ふと聞き耳をたててしまった。

「彼女が人魚らしいわよ」

「えーうそ、幻滅う。うちって魚人雇ってないよねえ、他社の?」

「なんか、カフェ? かなんかで会ってるの見たらしいよ。そのあと同伴って雰囲気だったんだって」

「コンパニオンとか? うわー」

 それって、もしやと思っていると、あれだけ仕事をこなしているのに背中にで目がついているのか、水野がとても薄っぺらい笑顔を浮かべてやって来た。

「あのさ、それってどこで聞いたの?」

 女性社員たちに、資料を渡しながらにこにこと水野は聞いた。

「えー、あのお」

「俺そういう話されるの本当に困るんだけど」

「えっとお」

「それに俺、付き合う人は人間って決めてるし」

 にっこりほほ笑む水野の笑顔にほだされて、女性社員たちもほっとした表情を浮かべていた。

「そうですよねえ、水野さんが人魚とだなんて」

「俺、そういう普通じゃないの好きじゃないからさあ。興味本位でお茶してたかもしれないけど、深く付き合おうなんて考えてないし」

 小山田は思わず立ち上がっていた。がたっと椅子を蹴り飛ばしていた。

「あのっ」

 小山田は職場では寡黙で居る。なので、その行動に周りはぎょっとしているようだった。だが、小山田はあまりにも腹が立っていて、一つでも言葉を返してやろうと思っていた。

「普通じゃないのがお好きじゃないなら、何でカフェに行ったんです?」

「え?」

 ひそひそと女性社員たちが小山田を見ながら話してるのを気にしながら、小山田は高鳴る心臓をたしなめつつ、椅子に座る方法も分からずに水野に質問を重ねていた。

「三日前、あのカフェに」

「え? 何のカフェ?」

 人の安息の地を奪っておきながらしらばっくれる気なのだ。小山田は立腹して、さらに追及の言葉をかけようとしたが、水野はそのまま視線を外そうとしていた。その瞬間を、小山田は神からの刑罰だと思った。

「あっ」

「あ、水野さん」

「耳」

 水野が踵を返した瞬間に、右耳がポロリと落ちた。何事かと女性社員たちも驚く。小山田も心臓がばくばくと音を立てた。水野も付け耳だったのだ。水野は慌てたようにつけ耳を拾い、まるで何事も無かったかのようにつけ耳を耳にかぶせようとしたが、うまくいかなかった。クリームをつけすぎたのだろう。にゅるんと彼の見事な耳たぶがつけ耳をはじく。

 小山田は、水野の耳をじっくりと観察した。今まで彼の耳をここまで観察したことがないので気付かなかったが、付け耳をするためによく元の耳をなじませていないのだろう。つけ耳らしい耳は完璧な色合い、形を保っているのに対して彼の顔色は少しくすんでいた。その完璧な付け耳も、今はむなしく水野の掌の上に乗っている。

「水野課長は、その付け耳をどこで購入されたんですか?」

 問いかけると、車内にいた幾人かが振り返った。女性社員たちも口々に、水野の耳について言及するので、その様子を見て、水野も多少焦ったのか早口で言い募る。

「ええ? まさか、俺付け耳じゃないよ」

「じゃあその手のひらに載っているものはなんですか?」

「えっ」

何事かと集まってきた人々が、情けなくも崩れ落ちた水野を囲う。

「最低、付け耳だったんだ」

 誰かが口にしたのかもしれない言葉がさざ波になって、ぐるぐると水野の周りを囲った。小山田は、それを見ていて、ただ呆然と、水野を見下ろしていた。

 それまで水野に取りついていた取り巻きが嘘のように遠巻きからがっくりとうなだれる水野を見ている。小山田自身は、それまでの態度を嘘のように変えている周りの人間の行動を当然だとどこかで思いながらも、水野に対して哀れな気持ちになった。

「あ……小山田ちゃん」

 空虚を抱いたような目で、水野は小山田を見上げた。小山田は水野と視線を合わせて、そして逸らした。水野のそれ以上の言葉が聞こえると思っていないうちに、どこからかやってきた男たちが水野を連れ出して行った。小山田は、それから具合が悪くなったから早退すると覆い置いて会社を出た。そこからはあまり覚えていなかった。駅前で耳型のぬらりひょんのようなキャラクターの着ぐるみが募金活動を呼びかけているのは覚えている。ただ、気づいたらオナヤミカフェの前に立っていた。

 三日前まで感じていた心のぬくもりは、今は感じられなかった。ただ、今小山田が感じているのは行き場のない不安だった。

「おかえり」

 からんと音がするドアベルの音は変わらない。

「マスター、久しぶり」

 そう言っても、マスターはいつもと同じように小さいテレビから視線を上げるくらいだった。小山田は、今まで感じたことのない居心地の悪さを感じながら、いつも座っていた席につく。コートを脱ぐか悩んで、脱いで鞄の上に置いておくことにした。不思議だった。いつもだったらそんなことを考えもしなかった。

「まちるさんは、いつごろ来るんだろう」

 メニューが来るのが遅いなと思って問うと、来ないよと帰ってきた。

「え、どこかお体でも」

「就職したから、もう来れないからと言ってたよ」

「就職? ……水族館か何かに? あれほど鰭を見せるのはいやだって」

「いや、一般企業だ、夢を叶えたんだって、言っていた」

「夢を……」

 小山田は、一人項垂れてテーブルと向き合った。まちるが居ないと言うことは、三日前まであった小山田の小さな平和はもうないということだった。

「あの、マスター。メニューを……」

 それでも必死に日常を取り戻そうと声を絞り出すと、すげない答えが返ってきた。

「悪いけど、もう帰ってくれないかな」

「え」

「ここの店、閉めようと思うんだ」

 その言葉は、青天の霹靂だった。

「マスター、どこか悪く……?」

「いや、違う。あんたの話がもう面白くなくなったからね」

「え」

 小山田の動揺に、マスターは淡々と答えた。

「人間て言うのは、可笑しいよな。たかが耳の大きさぐらいで差別をしてさ。でも俺は、そういうみじめで哀れな人の話を聞くのは大好きだったんだよ。俺のエラが少し大きくなった気がするだろ?」

 いつもは小山田に出すコーヒーをマスター自らコップに注ぎ、飲み始めた。

「このコーヒーも、インスタントをいれただけなのに美味しい美味しいってさ。普通のデパートの地下で安売りしてた豆なのに変だよな、つまりはそういうことだろうよ。自分の好きな音楽を選んで、自分の世界に浸っていればあんたたち自称人と違う人たちは満足する。自分は人と違うと安心するんだ。別にたいして人と変わらないし、誰もそのことなんか深く気にしてないのに、耳たぶが大きいの小さいのって毎日毎日愚痴って。まあ、なかなか面白かったけどそろそろ飽きたよ」

 インスタントのコーヒーを人啜りした後、ゆっくりとマスターは告げた。

「だから、帰ってくれ。この店ももう閉めるから」

 小山田が、ショックのあまり言葉に詰まっていると、あっという間に外に追い出されてしまった。あまりのことに、小山田はしばらく思考回路が停止していた。玄関に鍵とチェーンをかける音もしていた。

 マスターの言葉より、小山田は居場所を失くしたのだと思った。この世のどこにも、居場所を失くしたのだ。つけ耳をつけている間は、フクミミでいる間は、小山田は何処にも居て良くないのだ。何処に向かうのかも分からないまま歩いていると、気づくと駅前に向かっていた。このまま、遠くに行くのもいいかもしれない。そこで、自分のこれからを考えるのも悪くないのかもしれない。

「普通じゃないことに捕らわれているか……」

 三日前、娘に言われた言葉だ。だが、普通ではない人間に、帰る場所は無い。居場所が無いのだ。水野の様に、どんなに取り繕っていても、完璧な笑顔の仮面を持っていても、普通ではないと分かると、人は居なくなってしまう。

「でも人は変えられなくても、自分だけは変えられる……」

 小山田は、人と違うことに攻撃的になりたいのではない。自分を哀れんで特別視していたことはあるだろう。けれども、意固地に普通じゃないと思っているのではなくて、確証が欲しいのだと思った。先ほどのマスターの言葉はいくつかは的を得ているが、一つこれだけは違うと思うのは、自分の憐れまれる世界に浸りたいのではない。普通じゃない自分たちが、居てもいいよと言う、存在を肯定されたい、要するに居場所が欲しいのだ。そのために、心を変えなくてはならないと言うのなら、変えたいと、思っていた。

「ここに居てもいいっていう、確証が欲しくはありませんか?」

 小山田の心を見透かしたような言葉に顔を上げると、ぬらりひょんが募金を呼び掛けている映像だった。小山田は、誘われる様に募金箱に近づいていき、財布でも出そうと鞄を見ようとして、反対方向からやって来た女性とぶつかってしまった。

「すみません」

 声をかけようとして、相手が見知った人間だと知って驚いた。まちるだった。

「まちるさん」

「あれ、小山田さんだ。こんにちは」

「……夢を叶えてOLになったんじゃ?」

 OLが帰宅するにはまだ早い時間だった。驚いて聞き返すと、彼女は今まで見たこともないような溌剌とした様子で答えてくれた。

「あ、そうなんですよ。今は、用事を済ませに行っているだけです、色々と。ほら、保険とか振込み用通帳を作ったりとか。そういう準備のために半休をいただいたので、遠慮なく済ませてるって感じ。ありがたいですよね」

「それは、良かったですね」

 心から、そう思って小山田が返すと、まちるはちょうどよかったと鞄から何やら白い化粧品の箱を差し出してくれた。

「クリーム」

「え?」

「今回の就職を紹介してくれたの、水野さんなんですよ。色々親身になってくれて聞いてくれて。それで、付け耳の人って、すごく耳に負担がかかるっていうから、ジュゴンの知り合いにクリームを教えてもらったんです。人魚用のだと、潤滑剤としても使えるから、凄くスルンとしてていいんですよ。脱ぎにくいブーツもこれを塗っとくとすぐ脱げちゃうし。小山田さんも、使いますよね? 小山田さんが運んできてくれたご縁だから、お礼をしたくって」

 渡されたクリームを見て水野はこれを塗ったに違いないと気付いた。口ではまちるのことを馬鹿にしていたのに、親身になって仕事を紹介して、お礼の品も使う。そんな水野のことを、小山田はどこかで悔しいけれど、きっと自分と同じなのだと思った。不器用で、素直になれなくて、普通で居ることに一生懸命だった。

「ありがとう、今度試してみるよ」

 まちるが微笑んだ後、ふと小山田の耳に視線をうつしてそっと教えてくれたことがある。

「知ってますか? 小山田さんみたいにふっくらした耳って、凄く縁起のいい耳だって、福を呼ぶ耳って書いて福耳って言われてたんですよ。だからきっと、小山田さんの素敵な夢は、叶いますよ」

 まちるの気遣いが嬉しく、小山田が照れていると彼女は少し恥ずかしそうに聞いてきた。

「水野さんは、まだ会社に居ますよね?」

 問われて、小山田は、彼が助けを求めた時に、その手を取ってあげられなかったと思い出した。

「まちるさん、お幸せに」

 小山田は、急いで駅に上がり、今までたどってきた道のりをさかさまにたどる。そして、会社に着くころ、会社の門前で幾人かの男たちが揉めていた。

「部長に会わせるって言ってるじゃないですか!」

「うちには、君みたいなフクミミは要らないんだよ」

「うちは格式ある会社なんだ、そんな耳をして気持ち悪い。胸糞が悪くなる」

 酷い言われようだった。そう思って男たちに近づいて、項垂れて今にも泣きそうな表情を浮かべている男が水野だと気付いた。

「水野課長、どうしたんですか?」

 小山田が話しかけると、それまで水野を罵倒していた幾人かの男が気まずそうにそそくさと立ち去って行った。

「小山田……さん……」

「大丈夫ですか? 水野さん、私物とか中に置きっぱなしでしょう。取りに行きましょうか?」

 あれこれと問いただそうとすると、水野は鼻で笑った。

「内心、すっきりしたんじゃないですか。散々あのカフェのこと馬鹿にした俺が、こんなふうに、付け耳ばらされて」

 そんなことはないと、小山田は言えなかった。事実どこかで、晴れ晴れとした気持ちを胸に覚えていたからだ。けれど、小山田はそれだけではないと思っていた。

「今までお仕事でお世話していただいたじゃないですか。……水野さん、何か困っていることがあるなら」

「いや、もういい」

 自暴自棄の様子で、水野が遠ざかる背中を見た時に、小山田の両手は勝手にむんずと両方のつけ耳を掴んでいた。それから、大声で叫ぶ。

「水野さん! 君は一人じゃない! 君はここに居て良いんだよ!」

 驚いて振りむいた水野は、一瞬泣きそうな顔をしたが、何かを決めたように口を結んで、再び小山田に背を向けた。そして彼は二度と振り返ることなく、駅の中に吸い込まれていった。

 残された小山田は、付け耳を外した瞬間を退社途中の幾人かの人々に見られていたので、もう会社に戻れないと言うことを悟って、行く当てもないまま電車に乗った。そして、遠くに行く勇気もなく、気づくと家路をたどっていた。いつもしくしく痛んでいた耳が開放的に風を掴む。ポケットに無造作に突っ込んだつけ耳を指先で楽しみながら、玄関を開けて、そこでようやく小山田は後悔をしていた。

「ただいま」

 いつもの習慣で、リビングを通って書斎に行く。そこで、妻がキッチンに立っているのが分かった。妻は何気なく小山田を振り返り、それから、何気なく料理に戻ろうとして小山田をもう一度強く振り返った。

「あなた、付け耳」

「ああ、外したんだ。外でね、いろいろあって」

 きっと無関心に言葉を返すんだろうと思っていたら、妻は急に歓声を上げてリビングを出て行った。そして、娘を連れて戻ってきた。

「お父さん、付け耳! 外したんだ!」

「……ああ」

 彼女たちの反応に驚いていると、妻が今日はごちそうだとはしゃいだ。

「いや、どうしたんだ。急に」

「あなたは、もう。偽らなくていいんですね」

「え?」

「あんなつまらない人工物に、自分の耳を押し込めて入れなくていいのですね」

 妻の言葉にびっくりしていると、娘も嬉しそうにうなずく。

「この前、言いすぎてから凄く落ち込んでたでしょ、お父さん」

「……すまなかった、二人とも」

 それから家族で、美味しい食卓を囲んだ。小山田は、今までのことを包み隠さず二人に告げて、それからつけ耳を水野のために外したのだと告白した。

「お父さんは立派なことをしたんだよ」

 妻が微笑んで頷く。ただし、そのために仕事をなくしてしまったらしいと告げると、何か小山田がしたいことをすればいいと妻は答えてくれた。

「したいこと……」

 そう問われて、ふと、先日まちるに話した夢のことを思いだしていた。

「いろんな人の人生が聞きたいな。……きっと俺の様に居場所のない人がいるはずだから」

「それならお父さんが、その人たちに居場所を作ってあげればいいじゃない」

 幼い頃と同じ無邪気な笑顔で言う娘に、小山田は微笑んだ。


 それから数か月後、とある街角で、変わったカフェがオープンした。いろんな人間の人生の話を聞くのが趣味というマスターが開いた店だ。人はそこで、いろんな重荷をおろして帰れると、随分と評判になったらしい。

 福耳喫茶というお店には、ぷっくりしたフクミミを持った可愛らしいウエイトレスがいて、美味しいと評判のパンを焼いてくれる女主人。そして、少し困ったように笑って、人の話を親身になって聞いてくれるという癒し系で評判の主人は、近日新しい人材に声をかけようか迷っているらしい。

(了)

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ミハマ区二丁目福耳喫茶 真瀬真行 @masayuki3312

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