1:この世界は面白くないⅧ
「普段からお前の非行は聞いている。正直目に余るとは思っていた」
海野はそう言って、私に近付く。
「今日こそはちゃんと話を聞いてもらうぞ。指導室まで来い」
目が据わっているようにも感じた。さすが堅物。今回ばかりはうまく逃げられそうになかった。それでも、そう安々と連れて行かれるわけにはいかない。
「すいません。今は担任の先生に呼ばれてて後に……っ」
面倒臭いという感情を出さない為に、努めて冷淡に言葉を紡ぐ。何も妙なことはないはずだが、目の前まで迫った海野は私の腕をガシッと掴む。逃げない為の予防策だとは思う。けど、その乱暴な掴み方、腕を握る力の入れようは、普通のものじゃなかった。
「いたっ、ちょっ……」
「来いと言ったら来い。教師である私に逆らうのか」
「は? 何言って……」
言動がおかしい。堅物で融通が利かないのは有名だし承知の上だけど、幾ら何でも度が過ぎている。見れば海野は、鬼のような形相で睨みつけていた。それだけでも十分おかしいのだが、口から泡を吹いている。異常と呼べるレベルだ。
「っ……離せ!」
掴まれたままの腕を引き剥がそうと、力を込めるがビクともしない。仕方なしに、掴まれた腕をひねって海野のバランスを崩す。その隙を狙って脛を蹴り飛ばした。
「が、っ……」
さすがに効いたのか。海野は腰を落として怯む。その隙に掴む力が緩んだのを確認すると、私は手を開いて力の限り引き抜く。さっきまでとは違い、あっさりと解放される。
「っ……」
「神條……彩芽……」
本能的に警戒して、私は海野から距離を取った。飛び跳ねるように後退する。その判断は後から正しかったと思えた。海野は私の名前をゆっくり噛み締めるように呟く。その眼光は、まるで身内の敵を見るかのように怒りに満ちていた。とても教師が(不良とはいえ)生徒に向ける視線ではない。と思いたいけど。
おそらく普通じゃない。言い知れぬ恐怖を覚えて私はその場を離れた。
「神條……彩芽っ……」
再度苦々しく呻く声が聞こえた。距離を作ったあとに一度振り向く。海野は、変わらず腰をかがめた状態で、憎悪を孕んだ眼で私を見ていた。
確かに自分が優等生じゃないのは知ってる。でも、海野の様子はいくらなんでもおかしい。薬でもやってるんじゃないかと思った。さすがに私のなかにも、今日のところは大人しく授業を受けるか。そんな真面目な考えが及ぶ。いや、もしまた絡まれても面倒だし、こっそり帰ったほうがいいかもしれない。
ちょっと悩む間に、私は自分の教室まで来ていた。計算式の声が聞こえるだけで静かなものだ。時間割なんて覚えていない私は、今は数学だったかと察する。よりによって自分の苦手な科目の時間に戻りたくはない。やっぱり今日はもう帰ろうか。そう決めた矢先、突然教室の扉が開かれる。
「っ……」
まさか向こうから開くとは思っていない。私は不覚にも、少しびくっと体を強張らせる。だが何のことはない。数学担当の伊藤である。ぽっちゃりした体型で頭が薄く、いつも耳にペンを挟んでいる。ここまで特徴ある人間もいないだろう。ただどうしたことか。比較的な温和な教師であった筈の伊藤は、目を見開いて私を見下ろしていた。
「おや、神條、彩芽さん……。遅刻ですよ。早く入りなさい」
「え、ちょっ……」
違和感は確信へと変わる。何故そんな顔をしているのか。いつも名字でしか呼ばない筈なのに、何故今はフルネームで呼ぶのか。そして、何故海野と同じように、人の腕を掴もうと乱暴に腕を伸ばしてきたのか。
まさかこいつも同じ?
私は掴まれる前に飛び退いて躱す。腕を引いて距離を空けた。
「……悪い娘だな。教師に逆らうのか……」
「何言って……」
海野ですら妙に感じたのだ。この教師がそんな台詞を口にするとは思えなかった。逃げるしかない。そう考えて足に力を入れた瞬間、教室の扉、窓が全開になる。そして授業中だったクラスメイトが全員廊下に溢れてきた。前の扉、後ろの扉、そして窓からも、一気に押し寄せる。
「な、何これ……」
全員同じだった。海野と同じように、眉間に皺を寄せて私を射殺すように睨みつける。その中には、ちょくちょく私を気遣う委員長も含まれていた。狭い廊下で私は取り囲まれてしまう。何が起こっているのだろう。これは本当に現実なのか。もしかすると、昨日見た妙な夢の続きなのではないか。そんなあさっての考えに至ってしまう。
「さぁ来るんだ。神條彩芽」
「いやっ……離せ!」
伊藤が先陣を切って私に手を伸ばす。私に逃げ場などない。やばい、駄目だ。その瞬間、伊藤とバリケードと化していたクラスメイトは、皆ずしゃっとその場に倒れ込んだ。
「うぅ……」
「く、くそっ。これは、重力(グラビティ)か」
分からない。分からない。けど、これは逃げるチャンスだった。へたれ込むクラスメイトを下敷きに踏みながら、私はバリケードを脱出する。そして、一気に走り抜けた。
「ま、待て。神條彩芽っ……」
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