1:この世界は面白くないⅦ

「ようやく見つけたぜ。今度のアリスはそいつか?」


 荒々しい声が響く。でも、声の主は現れず何処にいるのか分からない。兎はというと、上を見上げてきょろきょろと見回していた。


「まずいな」

「何、どういうこと?」


 全く事態が把握出来ていない私は、ただ目の前にいる兎に尋ねるだけだ。


「選定はもう済んでいるんだ。彩芽。君はもうアリスとして目覚め始めている」

「いや、だから、それが分からないんだって」


 余程不味いことになっているのか。兎は最初の紳士らしい振る舞いも、敬語すらも忘れていた。


「必ず迎えに行く。だから、俺が行くまで誰も信用するな!」

「え?」


 兎はそれだけ言うと、体が徐々に消え始める。さらさらと、足元から粒子みたいなものに変わってゆく。


「逃がさねぇよ」


 突如弾けるように、目の前に黒い影が現れる。反応するより前に影は私に手を伸ばした。本来なら掴まれたはずだと思う。だが実際には、影の手は私の体をすり抜けた。


「ち、もうズレが生じてるのか」

「な、何のこと?」


 見ると私の体も、兎と同じように消え始めていた。黒い影は見上げる程の大きさだった。僅かに顔のようなものが浮かび上がる。けど、認識出来るのはせいぜい鋭く光る眼だけだった。


「今に分かる。お前は俺のもんだ。絶対逃がさねぇからなぁ」

「……!?」


 ぞくっと戦慄が走る。一瞬遅れて、反論しようと口を開く頃には声が出なかった。恐怖のせいかと思ったけど、既に私の目元まで体が消えていたのだ。

 影は口角をつり上げてにやりと笑う。それを目にしたのを最後に、私の意識は途切れてしまった。


「んんっ……」


 目を開けると、私は自分の家である狭い部屋にいた。もう日は暮れてしまっていて暗い。電気をつけないと、ほとんど見えないような状態だった。


「何か頭痛い……」


 原因は何となく分かってる気がする。自分でも痛い夢を見たと思う。夢を覚えてるなんてことも久しぶりだ。ここまで鮮明に覚えているなんてことは、もしかしたら初めてかもしれない。奇妙な兎と黒い影。夢は心理状態を表すなんて聞くけど、何か病んでたりするのか。そう考えると、そうなのかもしれないと納得出来た。


 だるい体をむくりと起き上げると、よろよろとふらつきながら部屋を歩く。紐を引っ張って明かりをつける。鍋の蓋を開け、冷蔵庫を開いて、何か食べるものを探す。残り物の詰め合わせ。およそ夕食としては満ち足りないけど、贅沢を言うつもりはない。腹だけ満たすと、私は再び部屋の真ん中に体を投げ打って眠りに入る。布団を敷くのもちょっと面倒臭い。お風呂はもう、明日にしよう。


 眠りに入る真際に、もう一度夢の続きでも見ることになるかな。そんなことを考える。見たいか、見たくないかと言われると、正直分からない。妙に印象深いし、気にならないといえば嘘になるかもしれない。兎に角、腹を満たして睡魔に襲われるがまま、私はまた眠りについた。


 次に目を覚ましたのはもう朝になっていた頃だ。ふぁ……と欠伸を零す。結局妙な夢の続きは見られなかった。というより、今も夢の内容を覚えていることに少し驚く。その後、時間を確認すればとっくに学校の時間は過ぎていて遅刻である。けど、私にとってはいつもの時間とも言える。

 遅く起きてしまったものは仕方ない。例によって、母親がまだ帰って来てないのを確認しながら、軽くシャワーを浴びる為に風呂場へと向かう。水道代も馬鹿にならないし、最低限の水量で済ませた。


 多少シワが出来てしまった制服に、また腕を通す。随分目立つ赤いブレザーだけど、同年代と比べて、明らかにまともの服なんか持ち合わせていない私には、制服の存在は有難い。何も考えず、ただ着ればいい。


 体を通し終えると、私は一応外に出る。家の中に籠もる選択肢など最初からない。引きこもりみたいことはしたくなかったからだ。一瞬何処に向かうか迷う。昨日の件で行きつけのゲーセンは論外だし、というかお金もそんなにない。こんな時間だと億劫だけど、学校に行ってみようかと思う。まぁ途中で気が変わるかもしれないし、自分の気まぐれに任せてみよう。


そんなことを思ってみたものの、気付けば学校にまで来てしまった。それも自分の気まぐれだろう。授業中の今は誰もおらず、静かな廊下のなかを歩く。


「おい。お前何をしている?」

「……!」


 背後からの呼び掛けに反応する。きびすを返せば、運の悪いことに生活指導の海野である。長身痩躯で、うっすらとした緑のスーツを着ていた。銀縁の眼鏡から、人を物差しする視線を向けていた。堅物で有名な、厄介な教師だった。


「今は授業中のはずだが?」

「遅刻しました」

「そんな報告は受けてはいない。何年何組……と聞きたいところだったが、お前か。神條彩芽」


 素行が悪い私のことも、さすがに海野も知っていたようだ。さて、どうやって切り抜けようか。

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