seven


 二〇一七年六月。北極。

 太陽側の極となったこの海は、闇に沈むことがない。低い太陽が周回し、巨大な浮氷の大地を白く照らし続けている。この季節は地吹雪も少なく、気温は摂氏一〇℃まで上昇する。氷は溶けかかり、底面から海水に侵蝕される。周辺部では大きなクレバスが生じ、氷塊は結束を弱めて散り散りになりつつある。

 私は崖として屹立した氷片の頂点に立ち、凪いだ風からどうにか北極の片鱗を感じ取ろうとしている。いくら風を嗅いでも、肌をそばだてても、十分な冷たさは感じられない。探検隊を震撼させた大自然の凄味はどこか向こうの方へ消え失せてしまっていた。感じられる風はあくまで緩く、陽気すら感じられる。

 今の私には寒さが必要だった。身を震わせる寒さ、頭を冷やしてくれるだけでなく、身も心も削いでしまうような鋭い寒さが。どんなに厚いコートも意味を成さないような、厳然とした脅威を欲していたのだ。だがそれは叶わない夢だった。世界中から冷たさという冷たさが消え去ってしまったかのようだった。北極にすら寒さを求めることができないのなら、一体どこにあるというのか。圧倒的な太陽の熱量は、広く世界中に降りそそいでおり、逃げ場はどこにもないのだった。

 私の目前には湖があった。氷が四角く切り抜かれ、隠されていたはずの黒い海水を露わにしている。一辺数キロにもわたる巨大な水溜まり。切断面はどこまでも正確な直線からなり、幾何学的な造型を海中数百メートルまで沈めている。人工の海水湖。

 そこには無数の艦艇が浮かんでいる。世界中から集められた軍用艦。(艦艇名羅列)。他小型艦多数。しめて一一二八隻。沿岸には無数の地上兵器と航空兵器が、海面に倍する面積を占めて広がっている。

 ポッターによる破壊を免れた兵器が全て、視界の中に集められていた。世界に兵器と呼べるものは他にない。人類の保有する兵器は、全て眼下にある。

「人を害するために生まれたもの。暴力の結晶。兵器」

 私の隣へ、赤髪の青年が現れる。翻る白いマント。氷を踏みしめるスニーカー。私は視線を動かさない。二人の目は平行して兵器を鳥瞰する。ジェームズ・ポッターとヴォルデモート。

「探しましたよ、先生」

 そう。その通り。

 私がヴォルデモート卿である。

 『倫理の実践』を読み、ポッターに対抗すべく強力な魔法を編みだし、ポッターの源流を訪ね、ヴォルデモート卿を名乗ってポッターに敵対したのは、この私である。

「もう終わりにしようとは思わんか」

 パイプを取りだし、煙草を詰める。マッチを擦り、くわえたパイプの上にかざし、火をともす。

「煙草はやめた方がいいと、常々申し上げていたはずですが」

「こればかりは止められん。君のような学生を持つと特に」

 豊かな煙が顔面に沿って浮遊する。

 彼は嫌煙家だった。というよりも、古い因習というものをすべからく憎んでいた。歴史の文脈において形成された習わし、現在に歪みを生じさせている遺産は即座に消滅させなければならないと考えていた。煙草、ドレスコード、電子化されていない書類仕事、靴で判断される階級の差異、宗教、人種差別、古い建物に据え付けられた故障しがちなボイラー、不健康な食べ物、恣意的に設定されたアフリカの国境線、貧富の差、倫理観のダブルスタンダート。古き悪しきものはすべて彼にとって敵であり、問答無用で改善すべき対象だった。そしてチャンスさえあれば、断固として行動に移すのだった。

「もう終わりだ。君だって分かっているだろう。もはや全てが不可逆に、制御不能になっていることを」

「ええ、終わらせましょう。そのためにご招待へあずかったのですから」

 そう言って、ポッターは初めて私を見据えた。

 ポッターが来るかどうかは五分の賭けだった。私はこの兵器庫に、上空から見えないよう欺瞞を施していた。軍事衛星も偵察機も、巨大な湖の所在に気付くことはできなかった。ポッターもまた、あらゆる手を尽くして捜索していたはずだが、半年間のあいだ見つけ出すことはできなかった。

 その欺瞞は五分前、解除された。ポッターを呼び寄せるために所在を明らかにしたのである。既に衛星が探知しているはずだった。各国の軍はいま全力でここに向かっていることだろう。だがそれにはまだ時間がかかる。ポッターはどの国にも先んじてここへ到達することができた。私の予想どおりに。

「大陸間弾道ミサイルが、ここへ向かってきています。核弾頭です。あと20分もすれば到達し、貴方のコレクションを灰燼に帰するでしょう」

「まだ残っていたのか? 核兵器は君が全て破壊したと思ったが」

「残しておいたのですよ。貴方のために」

「それは光栄だ」

 さらに数人の気配が背後に現れる。マントの衣擦れ。黒い影。不死鳥の騎士団。

「探したぜ、ヴォルデモート」

 若い男。シリウス・ブラック。

「言っただろう、俺たちはポッターさんと一心同体だってよ」

「そうだったかな?」

「よもや貴方がヴォルデモート卿だとは、家にお招きしたときは思いもしませんでしたがね。確か社会学者だったはずだが」

 ハワード・シュトラウス。ファンウェイ・ヒルズの老人。

「騙していたつもりはありません。あの時はまだ、ヴォルデモートではなかった。私が決意を固めたのは訪問の後です。当時はまだ、ただの老いた学者でしかなかった。それよりも、貴方が騎士団へ参加していたことの方が意外です」

「貴方の知らない事情というのもある」

 彼らは私を包囲し、崖の端へ追い込んでいた。私は絶体絶命というわけだ。

「そして、全員が集合したわけだが、それで私をどうしようというのかね、ポッター君」

「貴方のコレクションが見つかった以上、生かしておく理由はありません。残念ですが、先生、辞世の句を」

「殺すというのかね、私を?」

「世界の解放のために」

「罠とは考えなかったのかね? 君たちを亡き者とするために、私がわざと結界を解除し、所在を明らかにしたとは?」

「勿論そうでしょうとも。しかし我々にも考えがあります」

「ほう。お聞かせ願おうか」

 北極の空に紫煙が煙る。また一段階、暖かくなったようだ。

「単純ですよ。核ミサイルの飽和攻撃。我々は貴方をここへ足止めしておく。兵器の移動もさせない。兵器は灰燼に帰し、貴方も炭へと散る。それで私の目的は果たされるわけです。世界にある全ての兵器を消滅させるという目的は」

「君たちはどうするのだ? 私はただで殺される気はないし、足止めされるつもりもない。核ミサイルにやられるつもりもない。直前に逃げるような余裕は与えない」

「死にますとも。貴方と共に」

 ほう、と私は声をあげる。

「覚悟がある、というわけだ。なかなかの心がけといえる」

 私は黒マントの五人を見渡す。ポッターの発言にも動揺した様子はない。みな覚悟を決めてきたようだった。カミカゼ・スピリットの狂信者たち。たしかに、厄介ではある。

「君たちが命を賭するというのなら、私も手の内を隠してはおけまい。紳士の良心に反する。実のところ、核ミサイルに対する防備も私にはあるのだ。そのためには空母の甲板上へ赴き魔方陣を展開せねばならない。私は今から諸君の手を逃れ、一番近いニミッツ級ジョージ・ワシントンへ――あれだ、見えるだろう――へ向かう。君たちはそれを阻止する。いいかね?」

 言葉はない。全ては了解されていた。このメンバーは半年間、ひとつひとつの兵器を巡って争ってきた者たちだ。様式化された戦闘行為は、有終の時に懐かしさすら感じさせる。そう、我々は双方共に戦いを楽しんでいた。日を追って高度化する戦闘。新たに投入される強力な魔法、命をめぐる戦いのスリル。相手の裏をかき、更にその裏をかこうと双方向的に発展してゆく戦術の愉悦。戦術教義がリアルタイムで更新されてゆくリズム。そしてなにより、暴力性への志向。精神の賦活。それもここで終わる。

「よろしい。最後の戦いだ。存分にやろう」

 私は後ろへ一歩、崖から足を踏みはずし、頭から逆さまに落下して、それを合図に戦いが始まる。

 騎士団は一斉に束縛魔法をかけにくる。私は崖を蹴り、水平方向へ跳んで射程外へ逃れる。それを追い、一つの白いマントと五つの黒いマントが崖から飛び出る。みな身体強化と飛翔魔法は心得ている。その強度が私は一段強い。飛翔速度では私が一歩抜きんでる。ポッターたちは扇状に散りながら私を追ってくる。

 私の目前で巨大な水柱が立ち、進路を遮られる。海を操る魔法が出てきたのは1月、米空母艦隊を襲撃したときだった――あの時は参った。一〇隻もの船が転覆して、ビリヤードのようにぶつかったのだ――。私も対抗すべく海を立ち上げ、追っ手との間に壁をつくる。だが速度を落としてしまう。壁の左右から高速の火の玉が飛んでくる。数は百以上。捌ききれる数ではない。私は降下し、どこかの駆逐艦――おそらくフランス製――へ着地する。そこへポッターおよび二名が追いつき、同じ船へ降りる。他三名は周囲の艦艇に降り、艦橋の上で次の動きへ。

 艦内へ侵入した私に対し、ポッターたちは三人で連座魔法を組み、巨大な火球を生成し、船ごと破砕しようとする。私は更に逃れ、船底を突き破って海中に潜る。待機していた三人が即座に海へ飛び込み、私を包囲して束縛魔法を仕掛ける。私は海流を操作し、三人を遠くへ押しのけつつ自分の身体をジョージ・ワシントンの方向へと流す。そのまま海中を進むも、途中で海が切れている。モーセの海割りだ。このまま進めば海水から飛び出したところで集中砲火を浴びるだろう。私は方向を転換し、巡洋艦の影から水中を脱し、船体を避けて蛇行しつつ海面を飛ぶ。

 上空から砲火を浴びる。私は船体を盾にし、避け、加減速を繰り返す。一方向に誘導されているな、と考えた瞬間、アイオワの影から白いマントが飛び出す。待ち伏せていたポッターは既に強力な火球を手にし、発射する態勢に入っている。強行突破すべく防御魔法を前面へ集中展開。だが上空からも攻撃が来る。

 火焔の渦中へ。視界が紅蓮に染まる。前方の防御は無事だ。だが上空からの放射に数発の直撃を食らう。身体が吹き飛ばされ、一瞬の三半規管の混乱。私は海へ落ちる。火は消えたが、トラウザースのウールが焼け縮れている。重度の火傷を負ったはずだ。

 痛みはない。アドレナリン値の上昇。私は今まさに興奮しており、身体を欠損したことが高揚を倍加させている。咳き込み、海水を飲む。酸素がない。自分の全神経が戦闘へと集中しており、身体と精神の全資源が戦いのために動員されているのを感じる。原初の本能、暴力性。捕食者としての私が、逃げから攻撃へ転じよと求めている。人を害せよと求めている。身体が火のように熱い。私は灯された火の語るままに、行為のすべてを譲渡する。

 手近にある艦艇を思い出す。イージス艦が一隻ある。遠隔コントロール。ミサイルサイロ開放、対空ミサイルを全て発射、ファランクスを掃射、煙幕を展開。海面上に混乱を引き起こす。魚雷管から一本の魚雷を射出、誘導して海面からジョージ・ワシントン方向へ飛び出させる。デコイ。

 私はその反対方向から飛び出す。ポッターは魚雷のデコイに引っかかっている。黒マントもポッターに続くべく、煙幕から脱出している。囮に釣られた集団の裏をかき、目標を探す。一人の黒マントがミサイルとファランクスの処理に手間取っている。接近。火球を生成、至近距離から発射。

 1人。

 それはシリウス・ブラックだった。彼は自分に起きたことを理解しないまま、背中をくの字に曲げ、火達磨となり、ミサイル艇へ激突する。

 続けてもう一人。彼は何が起きたかを悟り、私を目視で確認してから、仲間の元へ逃げようと加速を開始する。だが遅かった。私は既に近接しており、私の火球は彼らのそれよりも強力で、容赦がない。

 2人。

 煙幕が晴れてゆく。ポッターはデコイに気付き、残った三人の黒マントと再集合を果たしている。四対一。ポッターの顔は笑っている。彼にとって仲間を失った経験は初めてではない。私が半年間のうちに四人を殺している。彼は仲間を失った後、常に笑っていた。怒りのあまり気が狂ってしまうわけではない。心中の怒りを反転させ、逆の表情を浮かべているわけでもない。殺人によって、暴力性の発露によって、私の顔が愉悦に歪んでいることに対して喜んでいるのだ。

「その愉悦を知ってもなお」

 ポッターは語りかける。

「それでもなお、暴力性を解放することが不正義だと考えるのですか」

「正義とはそのような種類のものではない。倫理とはゲームのルールのようなものだ。それ以上でもそれ以下でもない。君はそれを最後まで了解しなかった」

「貴方は自分に嘘をついている」

 私は焦げたジャケットを脱ぎ捨てる。ベストの背中を締め直し、魔法の発熱でシャツを乾燥する。

「君は不出来な学生だったよ」

 私は火球を更に発生させる。データリンクに対応した近代艦を二隻掌握。臨戦態勢。残るは四人。簡単な狩りだ。

 正面突破。ポッターは弾幕を張りながら後方へ逃げる。避け、一部を正面から防御しつつ、突貫し続ける。対空ミサイル、ファランクス、煙幕。火球の3発を発射。避けられる。だが隙が生まれる。端に陣取った一人へ接近。彼は下へ逃げる。仲間を守るべくポッターたちが迫る。私は海水を立ち上げて撹乱。背中に一発の直撃を受ける。だが止まりはしない。戦いの高揚が私を後押しする。

 3人。

 一人一人、確実に戦力を削ってゆく。これが最も効率の高い戦闘方法だ。

「撤退しないのかね。もう君に勝機はない。たった三人では私に対抗できないと、半年間で学んだはずだ。数的有利を失ったとき、君は常に撤退してきただろう」

「今日は決戦ですから」

 ポッターはあくまで不敵。命を守ろうともしない。

 彼は狂信者なのだ。自らの理想に対して。

 ポッターは円周状に火球を生成。他二名も続く。防御を捨てた正面攻撃の構え。

 私も応戦せねばなるまい。彼の理想に報いるために。騎士道精神の元に。

 火球が交錯する。そして――



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