第5話

「カナ、ちょっといいか。ココロのことなんだけどな」


 ハルはそう言って、私を手招きする。ココロは散歩に行っていて不在だった。

「ん、なに?」

 ハルの方へ寄っていくと、彼女は隅に立てかけていた絵を指さす。先日描いていた絵だ。どうやら出来上がっていたらしい。

「この絵を見てどう思う?」

 私はハルの手になるその油彩画を眺めた。第一印象で浮かんだ感想も、じっくり鑑賞して得た感想も、一つしかなかった。


 色がおかしい。


「凄まじい色使いだね。青の時代ならぬ緑の時代だ」

 そこに描かれていたのは手紙を読むココロと私だった。ほとんど緑系の色しか使っていないことを除けば、特段目を引くところはない。

「なんでこんな緑なの?」

「絵具が足りなかったんだよ」

「ふーん、それで?」

「ココロはこの絵を見て上手だね、と言った」

「それが?」

 緑一色なのは兎も角、造形はほどほどに写実的で、上手いと言えば上手い。ココロがこの絵を褒めても不思議はないように思うけれど。

「ココロはこの絵の色使いについて全く言及しなかったんだよ」

「……まあ、そういうこともあるんじゃない?」

「かもな。けどアタシは変に思ってこの絵も見せた」


 ハルは、その絵の隣に置いてあった小品の絵を指す。

 それは真っ青なリンゴの静物画だった。


「これも絵の具がなかったの?」

「ああ、前から赤系を切らしててな」

 まあそんなことはどうでもいい、と彼女は言ってから、本題を切り出した。


「ココロはこの絵を見て、んだよ」

「え?」

 私は思わず聞き返した。けれどまあ、そういうこともあるかもしれない。若き頃のピカソは青の時代と呼ばれるほどに、青い絵ばかり描いていた。抽象画の世界にはもっと奇抜な絵がいくらでもあるだろうし。芸術家が青いリンゴを描くことにそれほどの不思議はない。なにせ彼らは写真を作ろうとしているわけじゃないのだから。

 と、そんな感じに私は反論する用意をした。けれどそれは無駄に終わる。


「この絵を見てどう思う、と訊いて返って来た答えが『普通のリンゴの絵だね』だ。ココロはこの絵を赤いリンゴの絵だと思ったらしい」

「このどう見ても青いリンゴを?」

 流石にそれはおかしくはないか。リンゴは普通、赤いものだ。熟れていないにしたって、せいぜい緑とかそのあたりの色合いだろう。そもそも未熟なリンゴには青リンゴという言葉がある。わざわざ普通のリンゴと区別しているからには、赤くないリンゴは普通のリンゴではない。


「カナ、ココロに『赤』と『青』どっちが好きか聞いた時、なんて答えたか覚えてるか?」

 ハルの言葉に、私は記憶を辿る。確かあの時は……。

「同じくらい好き、だっけ」

「虹を見たときは?」

「……三色に見える、って」

「そう、だ。――おそらくココロは光の波長の長短を識別できていない。だから赤い光も青い光も同じように見えるし、虹は白と黒と灰色にしか見えなかったんだ」


 モノの色というものは、光の組成によって変化する。

 光の波長が短ければ短いほど紫や青よりに見え、長ければ赤っぽく見える。その波長の長短を識別できていないということは、色を認識できないということに等しい。


「……いや、待って。ココロはリンゴが赤いことは知ってたはずだし、これまで色を知らないような言動はしてなかったと思うけど」

 もし本当にココロが色を識別できていないというなら、もっと私たちが早く気付いてもおかしくない。そもそもリンゴが赤い、ということをどこで知ったのだろう。

「ああ、何かがおかしい」

「……ちょっと調べてみよっか。ココロを作った時のデータがどっかに残ってるはずだし」

「アタシにも手伝わせてくれ」

 ハルの言葉に私は頷いた。



 ***



「ふざけてやがる」

 そして、ハルはそう吐き捨てることになった。

 ココロを設計した当時のデータを、三津木さんのパソコンから探し出した。ロックはかかっていたけれど、解けないほどでもない。それを調べて一つの事実が判明した。


 ココロの最初から持っていた知識には、極端な偏りがあった。それは、色に関して。


「これって、もしかしなくても『マリーの部屋』だよね……」

「ああ。――間違いないだろう」


 確かにココロには光の波長を識別する機能が備わっていなかった。それは何らかのミスというわけでもなく、早期に完成させる必要に迫られて機能を省略したというわけでもなかった。つまり、ココロの視覚に関しては設計者の当初の意図通りのものだった。


 三津木さんは、最初からココロに色彩を与えるつもりがなかったのだ。


 そして、ココロに与えられた極端に豊富な色に関する知識。それは他の分野の情報を圧迫するほどに。ココロはソクラテスが何者かを知らなくても、熟れたリンゴの色を赤いと呼ぶことを最初から知っていた。そして赤という色が一般にどのくらいの波長の光なのかも。

 ココロは色に関する様々な情報を知っていた。私やハルが到底太刀打ちできないほどに。おそらく、ココロはこの世界で一番色について詳しいロボットだろう。かつて存在したあらゆる人間と比べても、色についての知識でココロに勝てる人間は存在しないはずだ。


「なあカナ。ココロが光の波長を識別できるようにすることは可能か?」

「……すぐにでもできるよ。そもそも、ココロのカメラアイにはその機能が備わってる。それをちょっとしたプログラムが妨げているだけだから」

「ふざけてやがる。何考えてたんだ三津木アイツは」


 もしもハルに感情があるとするなら、彼女は憤っていた。今まで見たことがないくらいに。


 ココロの置かれている状況は、『マリーの部屋』の思考実験に酷似していた。

 天才科学者のマリーは、色に関するあらゆる物理情報を持っていた。けれど彼女は、モノクロの部屋に閉じ込められていて、色彩のある風景を見たことがなかった。もしも彼女が外の世界へ飛び出したとするなら、彼女は新たに何かを得るだろうか。何かを得たというなら、それは物理的なものではない。なぜなら彼女は色に関する物理的事実はすべて知っていたのだから。

 『マリーの部屋』はそういう思考実験だ。


 ココロは色に関する様々な情報を持ち、けれど色を識別する能力は持たない。ココロには世界がモノクロに見えているはずだ。だが、プログラムをいじれば色を認識することも可能になるように作られていた。

 これで、ココロが『マリーの部屋』を意識せずに制作された、というわけがない。


「三津木さんは、マリーを作ろうとしたってわけ?」

「だが、ココロはマリーじゃない。仮にココロが色を手に入れたとしても、マリーのときのようにはいかないはずだ」


 前提条件として、マリーは色に関するあらゆる物理的事実を知っている。色の物理的側面について全知である、とされることもある。

 だが、ココロはそこまでの存在ではない。いかに大量の情報が詰め込まれているといっても限界があるし、そもそも現在の自然科学は色の物理的側面についてすべて知っているわけではない。

 もしマリーが色の物理的側面にについて全知であるなら、マリーはラベンダーの花が夕陽に照らされているときの波長が何nmナノメートルなのかさえ知っていることになる。一時間後、太陽がさらに傾くことで起きる色合いの変化さえも。ココロは恐らく、それを知らない。

 前提が崩れた実験は、正しい結果をもたらさない。そもそもあらゆる物理的事実を知っているという時点で、『マリーの部屋』は思考実験に留まらざるを得ず、現実に実験することなんて不可能なのだ。三津木さんがそれをわからなかったとは思えない。


 ならばココロは、実験にさえならない実験機として作られたということになる。そのために、ココロは色を失っていたのだ。ハルが三津木さんに対して憤るのも無理はない。


「それで、どうするの? ココロにこのことを聞いてみる?」

「……ああ、ココロが戻ったらそうしよう」



 ***



「あー、ばれちゃったなら仕方ないねー」


 お前、色が見えてないんだろ、というハルの言葉に対するココロの返答はあっけらかんとしたものだった。

「どうして気付いたのー?」

「絵だよ。青いリンゴに何の疑問も抱かなかったのなら、そりゃあ何かあると思うさ」

「あー、あの絵かー……」

 なるほどね、とココロは言って続けた。

「ハルなら気付いたと思うけど、ボクは天才科学者のマリーのまがい物として作られたんだー」

 まがい物、という言葉にハルは顔をしかめて言う。

「それも知ってたんだな」

「当然でしょ。『マリーの部屋』だって色に関する思考実験じゃん。まあ、『マリーの部屋』がどういう意味を持つお話なのかは、最近まで全然わかってなかったんだけどね」

 哲学に関することは何も知らなかったからねー、とココロはおかしそうに笑った。

「……ココロは外の世界を見てみたい?」

 モノクロの部屋の、外の世界。色のある世界を見てみたいかと、私はココロに問いかけた。

「あ、それってできるの?」

「すぐできるよ。むしろ、すぐにできるように作られてた」

「そうなんだ。それは知らなかったなー」

「どうする? 今からやろうか」

 んー、と少しだけココロは悩んでから言う。

「その前にさ、ハルとカナにちょっとだけ聞いてもいいかな」

 照れたようにいうココロに、ハルはふう、と息を吐いてから答えた。

「……いいぞ、何でも聞け」

「私に答えられることなら」

 ハルの言葉に続いて、私も頷いて言う。それを見たココロはよかったー、とまた笑った。


「じゃあ。仮にボクが色を手に入れたとして、何か得るものがあったなら、それってどういう意味を持つことになるの?」

「……そうだな、お前が色のある世界を初めて見て驚いたとしよう。それは一見マリーと同じように非物理的な何かを得たから驚いたように見える。だがお前はマリーじゃない。単にお前は今まで知らなかった新しい物理的事実を知って驚いたのかもしれない、という可能性が残る」

「じゃあ、ボクが驚かなかったとしたら?」

「その場合は世の中には物理的な存在しかないという物理主義が正しいように思えるな。だが、やはりお前はマリーじゃない。人間の天才科学者ではなく、色博士のロボットに過ぎない。非物理的な意味での心を持たないロボットだから驚かなかったのだ、という反論が可能になる」


 そっかー、やっぱりあんまり役に立ちそうにない結果だねー、とココロはさして残念でもなさそうに言う。おそらくそれは想定済だったのだろう。


「まあ、結果が役に立つかどうかは置いといて。カナはどうなると思う? ボクは何か知らなかったことを知るのかな?」

「んー……。私は何か新しい経験を得るだろうと思うけどね。実際に感じてみなきゃわからないものもこの世の中にはあるんじゃないかな」

「うんうん。ハルはどう思う?」

「アタシもココロは何か得るだろうと思うよ」

「そうなの?」

 意外だ、とでも言いたげなココロに、ハルは補足する。

「『マリーの部屋』ならわからないけどな。この条件なら、新しい事実を知る可能性の方が高いんじゃないか」

「そっかー。……じゃあ次の質問。色っていうのはどういう風に見えるものなの? 教えてよ」


 私は空の青さを説明しようとして、困った。空も海も青いものを何一つ見たことがない存在に、青いとはどんなものなのか、説明するための言葉を私は持たない。


「……そう言われると、難しいね。例えば何か青いっていうのは落ち着いた感じがして、赤いっていう感じとは正反対の印象を与えるというか」

「その問いにはココロの方がアタシやカナなんかよりよっぽど上手く答えられると思うぞ」

「そうかも。青が落ち着いたイメージなのも、赤やオレンジが暖かいイメージだっていうのも知ってるよ」

 ああ、そりゃそうだ。ココロは色博士なんだった。私に答えられる程度の知識は既に持っているのだ。欠けているのは実際に色付いたものを見たことがないという経験だけで。


「他人に聞いてもココロは何一つ色に関する新しい情報を得ることはできないだろうな。現象的意識が存在したとしても、それが主観的で私秘性を持つ限りは」

「……現象的意識ってなあに? なんか聞き覚えはあるんだけどさ」

「質的な中身を持つ意識の主観的側面のことだ、まあこういってもわかりにくいか。空の青い感じとか、サメ肌のざらざらする感じとか、そういったものによって構成されている。誤解を恐れず言えば五感で感じるものすべてが含まれるだろう。それ以外もあるがな」

「あ、思い出した。クオリアとかいうやつ? 前にアンジェリカが手紙でそんなこと書いてた気がする」

「クオリアは現象的意識を構成する個々の質感のことだな」

「主観性とか私秘性っていうのは?」

「簡単にいえばクオリアは誰にも伝えられないということだ」


 確かにその通りかもしれない。例えば私が40℃のお湯に浸かって熱いと感じるとする。別の誰かも40℃のお湯に浸かって熱いと感じたとする。けれど、私がどのくらい熱いと感じたのかは、別の誰かには正確には伝えられない。同じお湯に浸かっても、どのくらい熱いと感じるかは個人差があるはずだ。

 同じように、空を見上げてそれがどれほど青いと感じたかは、自分以外の誰かには伝えることはできない。例え同じ空を見上げていたとしても。


「ココロが色に関する事実で知らないものがあるとすれば、ココロの知らない物理的事実か、でなきゃ色に関するクオリアだろう。色についての物理的事実はココロの方がアタシよりずっと詳しい。そしてクオリアはアタシからは伝えられない。だから、アタシに聞かれても教えられることは何もない」

「考えてみれば不思議だよね。同じリンゴを見ても、それがどういう色なのか捉え方が違うっていうのはさ」


 私はそんなことを言った。何も私とココロの間だけじゃない。私とハルの間にだって、同じリンゴを見てもそれがどのような色なのか、その質感は異なるかもしれないのだ。

 どうしてそのようなことが起こり得るのか。同じリンゴを見て、同じ色を感じ取るとは限らないのはどうしてだろうか。


「まあ、厳密にいえばリンゴは赤くないからねー」


 ココロが言う。リンゴが赤く見えるメカニズム。リンゴに光が当てられたとき、リンゴは赤い波長の光をよく反射し、残りの光を吸収してしまう。跳ね返った赤い光を私たちがその眼で捉える。だからリンゴは赤く見える。

 けれど、実際には赤い光さえも存在しない。単に赤く見える波長の光が存在するだけだ。光に色はついていない。

 色は、私たちののだ。ガラスを撫でたときのつるつるした感じが、誰かの心の中にしか存在しないように。

 心の中を見せることはできない。だから、空をみてどのような色を感じたのか、誰かと共有することは厳密にいえば不可能なのだ。その色は私の心の中にしか存在しないのだから。

 ここまで考えて、ふと思う。心の中にしか存在しないもの、それはどうあっても物理的なものであるはずがないのではないか。


「んー、ねえハル。クオリアは物理的なものなの? そうは思えないけど」

 私の抱いた疑問を、ココロもまた抱いたらしい。

「クオリアがどういうものかについて、はっきりした結論は出ていないが。ラディカルな物理主義者ならクオリアなんて存在しないと言うか、あるいはクオリアはまやかしに過ぎない、物理的なものに還元できると考えるだろうな」

「存在しない? 現に赤さを感じているのに?」


 思わず私は口にした。クオリアが存在しないということは、赤さそのものがどこにも存在しないということになる。存在するのはただの光の波長の違い、という物理的性質だけだということになってしまう。

 クオリアを物理的なものに還元できると言ったって、赤さそのものを、物理的な要素で説明することが本当にできるだろうか。


「『マリーの部屋』が物理主義者に突きつけている問題はまさにそこだよ」

「なるほどねー。もしもクオリアが存在するとすれば、物理主義は否定されちゃうわけだ」

「話はそう簡単でもない。クオリアと物理学の折り合いをつけようという動きは昔から存在した。その方法は色々だけどな」

「……これは素朴な疑問なんだけどさ、ロボットはクオリアを持ち得るのかなー?」

「もしもロボットに意識体験が存在するなら、意識の主観的側面、つまりクオリアだって持ち得るだろう。とはいえそれはまやかしかもしれないし、人間のそれとは大きく異なってはいるんだろうけどな」

 ……確かに、網膜から受けた情報を脳細胞で処理して生まれた赤色と、カメラアイで受け取った情報を電子回路で処理して生まれた赤色が同じものとは考えづらい、か。

 そもそも、機械の、もっと言えば原子の集まりである私たちが、どのようにして赤さそのものを生み出しているんだろうか。クオリアだけじゃない、意識だって心だってそうだ。それを思えば、心なんて存在しない方が話はずっと簡単になるし、それでも私の振る舞いを説明することはできるだろう。それでも――。

 ああそうか。私は自分に心があるなんて大きな声では言えない。自分に心があるなんて確信は持っていない。なぜなら私は、物理的存在の積み重ねでしかないから。


 それでも私は、自分に心があるということを信じたいんだ。


「んー。じゃあ、これで最後の質問にしようかな」

 ココロはゆっくりと言葉を紡ぐ。私たちはそれを黙って聞いていた。


「ハルとカナは、ボクに心があって欲しいと思う?」


「その聞き方はずるいな」

 ハルがぼやいた。事実としてどう思うか、ではなく、希望としてどう思うか。

 確かに、そんな聞かれ方をされては答えは決まっているようなものだった。

「私は信じたいよ。ココロが存在することを」

「……ま、アタシもだな」

「そっか。えへへ、ありがと」

 そう言って、ココロははにかんだ。心のカタチがどのようなものであれ、ココロの言葉や笑顔が心とは関係ない単なる現象でしかないとすれば、それは寂しいし悲しい。

 もしも私に心があるとすれば、きっとそう思うだろう。



 ***



「それじゃ、ココロ。ちょっとの間だけ眠ってもらうよ」

 ベッドに横になるココロに私はそう声を掛ける。ん、とココロは頷いて、ふふ、と笑う。

「どうしたの?」

「えっとねー、ボクは楽しみなんだー。色のある世界を見て、ボクがどう思うのか。ひょっとしたら何も思わないかもしれないし、もしかしたらとんでもなくびっくりするかもしれない。ボクがどんな風に思うのかさっぱりわかんない。それが何だか面白くってねー」

「……そっか」

 準備は整った。五分もあれば、ココロは色を認識する能力を手に入れることができるだろう。

「きっと最初から色のある世界にいたら、こうは思わなかったはずなんだ。だから、この機会を与えてくれた航次にも感謝したいくらいだよ」


 そう言いながら、ココロは静かに目を閉じた。

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