幕間 アンジェリカの手紙③

 親愛なる三津木ココロへ



 お返事ありがとう。今度は自由意志が議論に上ったようだね。これまた難しい問題だ。やはり、今の私には明確な答えを出せそうもない。

 とはいえ、君の質問の中には、いくらかは答えることが可能なものもある。まずはそれらについて答えていこう。


 ハルが口にした悪魔というのは、恐らく『ラプラスの悪魔』のことだろう。この悪魔は概念上の存在で、完璧な計算能力と観測能力を持つとされる。

 どういうことか? 言い換えるならば、すべての原子がどこにあるかを知っているし、どう動いているのかも知っている存在だ。そして、これからどう動くのかも、その完璧な計算能力で計算が可能だ。

 すべての原子の位置と運動を知っているということは、あらゆる物質の位置と運動を知っているということだ。そしてそれが、今後どうなるのかも。

 つまり、この悪魔は計算の結果、方程式を解くように未来を唯一の解として求めることができる、とされていた。ということは、その未来は運命として決定付けられている、ということでもある。

 古典的な物理学の世界では、宇宙が生まれた時から、その最後まで、すべてが決まっていた決定論的な世界観だった。それを端的に現したのが、このラプラスの悪魔という存在だ。

 ところが、不確定性原理というものが後になって発見された。この原理によれば、原子の正確な位置と運動量は同時に知ることが原理的に不可能だ、ということらしい。

 ラプラスの悪魔の完璧な観測能力を持ってさえも、だ。原子ほどに小さなミクロの世界では、その運動は確率でしか表せないという。

 最初の原子の位置と動き方を決定できない以上、その後どうなるか計算して決定することもできない、ゆえに決定論的な世界観は間違っていた、というわけだ。


 もしも決定論的な運命というものがあったなら、自由な意志も存在できないかもしれない。なにせすべては最初から決まっていたのだから。


 とはいえ、不確定性原理によって決定論を退けたとは言っても、不確定性原理が物理法則であり、自らの外にあるものである以上、自由な意志にはならないんじゃないか、とハルやカナは言いたかったみたいだね。

 もしも意志決定の過程にミクロな確率の原理が絡んでいたとしても、その意志を決定しているのが物理法則であるならば、自分の自由な意志で決定したことにはならないというわけだ。


 なるほど、確かにそんな気もする。けれどどうだろうか。よく考えてみる必要があると思う。


 実は、自由意志は必ずしも決定論と両立しないわけではない。

 決定論的な世界観においても、ココロの青色と赤色はどっちも同じくらい好き、という答えはココロの自由意志によるもの、と考えることも可能だ。

 なにせその答えに至る判断は、物理法則が支配していようと、君の中で行われたのだから。答えが決まりきっていたとしても、それをもって自由な意志がないと断ずるのは早計にも思える。

 自由な、とはどういうことか。それをどう捉えるかによっても答えは違ってくるだろう。

 意志決定を外部から強制されない、という意味なら、ココロが青と赤がどちらも同じくらい好き、と答えたのは自由な意志による、と考えることも不自然ではない。

 仮にそう答えることが何かしらの理由で決まっていたとしても、だ。ココロはそう答えることを誰かから強制されたわけじゃない。

 だって、ココロはそう答えたくなかったわけじゃないんだろう? 自らの意志に反して行いを強制されること、それを不自由だというならば、今回のココロの選択は、全く自由なものだったと言える。

 

 もっとも、ロボットに心や意志は存在しない、というのなら、流石に自由な意志も肯定はし難いけれどね。



 さて、今回はこの辺にしておこう。詭弁のような、あるいは詭弁そのものの議論だと思われたかもしれない。残念ながら、これが私の限界だ。

 もし、君に何か考えがあるならぜひとも聞かせてほしい。よろしくお願いするよ。


 最後に一つ、報告がある。ロボットの父が死んだ。最期の言葉は「誇れ、我々はお前たちに進化したんだからな」だったよ。彼も三津木に負けず劣らずの皮肉屋だった。



 ――海に浮かぶ月を見ながら、アンジェリカ・ノーノ

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