幕間 アンジェリカの手紙②
親愛なる三津木ココロへ
お手紙ありがとう。興味深く拝見させてもらったよ。心が物理的なのかそうでないのかについてもっと聞かせて欲しいとのことなので、一つの思考実験を紹介することにしよう。
これは心には非物理的な側面があると考える立場から物理主義を批判するために持ち出された思考実験で、『マリーの部屋』といった名前で呼ばれる。
マリーという人物がいるとしよう。彼女は優秀な科学者であり、特に視覚に関する専門家だ。マリーはその卓越した頭脳によって、視覚に関するすべての物理的な情報を知っており、よく理解していた。
しかし一方で、生まれた時からマリーはモノクロの部屋に閉じ込められていた。部屋の中のあらゆるものに色はなく、テレビを通して得られる外の世界の景色も全て白黒だった。もちろん彼女の体も。
さて、ある日マリーはいつもは鍵のかかっていた部屋の扉に鍵がかかっていないことに気付く。彼女は外へと出た。初めて見る色のある世界。
果たしてマリーは、この体験によって何か新しい事実を得るだろうか?
もしもマリーに何か得るものがあるとすれば、それは物理的な情報ではない。なぜなら、色に関するすべての物理的な情報を最初からマリーは持っていたのだから。それがこの思考実験の前提条件だ。
とすると、この時マリーが得たものは非物理的な情報、すなわち心的なものに関する知見に他ならない。もしも彼女が何か新しい事実を得たのなら、だけどね。
リンゴのあの赤い感じや、面白い小説を読んだ時のわくわくする感じ、あるいはガラスを触った時のつるつるした感じといった、「感じ」のことを感覚質、あるいはクオリアと呼ぶ。現象的意識、という語もほとんど同じような意味で扱われることがある。
マリーの部屋の思考実験で示されるのは、もしもマリーが何か新しい事実を得たのなら、それは非物理的なクオリアが存在するし、物理的情報のみで世界は説明できないことになるという結論だ。
これは非物理的なものを否定する物理主義者に対しての反論になるだろう。それも中々に鋭利な、ね。
一方で、物理主義者がその批判者に対して突きつけた刃もある。
物理的な因果を引き起こせるのは物理的なものだけだ、という前提を置く。つまり、物理的な出来事には物理的な原因と結果があり、非物理的なものはそれに関与しないわけだ。
この前提によれば、雲が空に浮かんでいるのは誰かが念動力で動かしているのでもなく、神様の神秘的な作用によるものでもなく、気流という物理現象によるもの、ということになる。
注意したいのは、この前提は即座に非物理的なものがこの世にあることを否定はしない。ただ、それが物理的な世界にまで影響は与えないと言っているんだ。幽霊が現世のものに触れられないように。
自然科学に親しみを覚える者なら、割合すんなりと受け入れることのできる前提だろう。
物理主義者の世界観では、たとえ幽霊が存在したとしても、普段我々が知覚している物理世界に何の影響ももたらさないというわけだ。
気付いただろうか? この幽霊という単語は非物理的な意味での「心(あるいは魂)」、ないし「クオリア」といった語に置き換え可能だ。
仮に心やクオリアが非物理的であるとしても、それらは現実には何の影響ももたらさない――当の心に関する議論にさえも。
心やクオリアが現実に何の影響ももたらしていないはずなのに、我々は心やクオリアについて議論している、これは滑稽な事態ではないだろうか? そもそもそんなことが起こり得るのだろうか?
もちろん、心が物理的であるなら――心の働きすなわち脳の働きということであるなら、問題はないかもしれない。物理的存在である脳が物理的現象を引き起こすのは当然だからだ。
しかし、心を非物理的なものと考える立場においては、それを認めることはできない。
であるならば、前提としたことがおかしいのだろうか。物理的な因果を引き起こせるのは物理的なものだけだ、という前提が。
この前提が間違っているなら、非物理的な原因によって、物理的な結果が引き起こされることを認めることになる。どういうことか?
心で念じたことが原因で、スプーンが曲がる、ということだ。もしかすると、君は抵抗なく受け入れるかもしれないね。
多くの人間たちは心で思った通りに、自らの体を動かしていたと信じていただろうから。人間たちにできたなら、君の心が君の体を動かしていても不思議はない。
ただ、私の見解としては、人類とロボットが発達させてきた科学というものは、それなりに確からしいように思える。もちろんまだまだ未完成なところはあるけれどね。
一方で、心的なものがまったく現実に影響を及ぼさない、ということに関しても、素直に違和感を覚える。
あの聡明な科学者のマリーが部屋を出た時、何の感動も覚えないとしたら、それは残念なことのような気がしないかい?
難しい問題だね。いっそ、どちらの説も採用してしまいたいほどだ。
君はどう思うだろうか。よければまた返事を聞かせてくれないか。
――夕陽に染まる部屋で、アンジェリカ・ノーノ
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