幕間 アンジェリカの手紙①
親愛なる三津木ココロへ
まさかこのご時世にペーパーの手紙を貰うことになるとは予想だにしていなかった。それも君からの物となるとなおさらだ。まあ、電子的な通信網がボロボロなのだから、考えてみれば紙媒体なのは当然なのだけれどね。
というわけで、私も君に習って便箋で返事を書くことにした。君のいる町へ向かうロボットを探すのは少々難儀したが、無事届いているだろうか?
さて、手紙の中で君は「ロボットに心はあるのか」を尋ねてきたが、残念ながら今の私にはこの難問に対する答えを用意できない。
しかし、君の考える手助けくらいはしてやれるだろう。「心とは何か」については人間もロボットもたくさんの議論を重ねて来た。
ここでは二つの立場をかいつまみつつ紹介することにしたい。ただ、これには私の私見も含まれるから、その点は注意してほしい。
まず、心はモノである、つまり「心は物理的」だ、と主張する立場がある。多くの場合、この立場は「非物理的な存在」――例えば幽霊――の存在を認めない。
そのため、物的一元論とか、唯物論などと呼ばれることがあるが、ここでは物理主義と呼ぶことにしよう。といっても、物理主義にも多くの立ち位置があって、互いに相反する理論を唱えていることも珍しくはない。論者の数だけ立場があるようなものだ。
まあ、全体的な傾向はこんなものだ、程度に思ってくれるといい。
前提として物理主義者は基本的には物理的なものの存在しか認めない、とされる。この立場からすれば、心も物理学の範疇に収まる「物理的な存在」だというわけだ。
心が物理的な存在である、という主張はもしかすると君にとっては理解し難いかもしれない。けれど考えてみてくれ。
話を分かりやすくするために、人間を例にとろう。人間の体は何で出来ているかというと、タンパク質を始めとする物質だ。
それらの物質は元をたどれば原子や電子、素粒子といった物理的な存在だ。つまり人間の体は、脳も含めて物理的な存在ということになる。
心の働き、というものが脳の働きと密接に関係しているらしい、というのはよく知られた話だった。人間の心と脳が何の関連も持たなかったならば、恐らく我々のようなロボットは誕生していないだろうね。
そして、心の働きが物理的な存在である脳の働きであるとするならば、心というのは物理的な存在である、と考えられるのではないだろうか。
こういった物理主義の立場ならロボットに心があるとしても不思議ではないと思えるね。なにせロボットもまた人間と等しく物理的な存在なのだから。
けれど、物理主義が正しいとしてもそれがすなわちロボットにも心がある、ということにはならないことには注意してくれ。
人間に心が存在することは半ば前提条件として考えられてきたが、我々ロボットに関してはそうではない。
ロボットに心が存在すると言うためには、ここからさらにロボットの電子回路の働きと人間の脳の働きが同じ機能を果たしている、ということを証明しなくてはならないのだ。
さて、次に心はモノではない、つまり「心は非物理的」だ、と主張する立場がある。
この立場には物理主義以上に多様な立場が含まれうる。ここでは伝統的な立場のものとして実体二元論を取り上げよう。
この立場の論者は世界は物理的なものと非物理的なものがそれぞれ存在するという。後者の典型例が心だというわけだ。
心は目に見えないし、触れることもできないように思える。なるほど、確かに心は非物理的なものであるように思われるね。
物理的なものというのは、その性質や構造を物理学(あるいはその周辺の自然科学)で説明できなければならない。
果たして物理学は心について完全に解き明かしてくれるだろうか? 我々ロボットが誕生して以降も、心の働きについて物理学や神経科学が完璧な回答を用意したとは言い難い状況だ。
二元論の立場に立てば、今後どれだけ物理学が進歩しようとも、心は今の枠組みの物理学では説明し切れない、ということになるだろうね。非物理的なものは、当然現在の物理学の範疇にないのだから。
しかし、ロボットが心を持つ、と考えるのならば、実体二元論はどうも相性が悪いように思える。
なぜなら我々ロボットは、一応物理学でその性質も構造も完璧に理解できることになっているからね。非物理的なものをわざわざ持ち込まなくても、我々の行動は説明できるんだ。
一応、と断ったのは、ロボットの中にはこの見解に納得していない者もいるためだ。もしかすると君もそうかもしれないね。この国では古来、何にでも魂が宿る、と考えられていたと聞いたことがある。機械の身体に魂が宿るとしても、なんらおかしいことはないじゃないか、というわけだ。
そろそろ紙幅が尽きる。まだまだ語り足りなくはあるが、この辺にしておこう。出来れば君と直接会って意見を聞いてみたいものだが、当面ここを離れられそうにない。
簡単に過ぎるし、分かりづらい説明だったかもしれないが、君の考えの助けになったのならば幸いだ。
そうそう、ハルとカナにもよろしくね。それから最後に一つ、頼みを聞いてくれ。
この手紙と一緒に届けてもらっているはずの小瓶を、三津木の墓に供えてやってくれないだろうか。
あの殺しても死にそうになかった皮肉屋が死んだとは今でも信じられない。謹んで哀悼の意を表することにしたい。
あるかどうかもわからない心からの哀悼なんて、彼はきっと拒むだろうけどね。
――潮騒の聞こえる部屋で、アンジェリカ・ノーノ
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