混乱
「竜吉公主よ。どうして宮廷を去ったのだ。そなたがいればしばらくは平和を保てたものを」
男の非難に竜吉公主は不満の表情を浮かべた。言いたいことを我慢するかのように口を噤む。
実際、竜吉公主は言いようもない不快な気持ちを抑え込んでいた。
請われて王宮に入ったはずが、気が付かないうちに歪んでいた。皇后になるはずだったのに、宮廷で政務に追われていた。婚約者が政治を執り行うなど、あるべきではないことが行われていた。
さらに、不幸だったのは、誤った体制の方が明らかに安定していた。皇帝は、婚約者を放り出して後宮に引き籠っている。
水面下で腹黒い駆け引きを行っていた林宗と楊暄国はお互いに不信感を抱いていたが、竜吉公主の平等さだけは高く評価していた。地位を上り詰めたが故に、下からの怨嗟に束縛される彼らは竜吉公主の信用の盾によって守られていた。不正を行うことは難しくなったとしても、黙っていても贈答品は届けられる。
多少の目先の金子の入手が難しくなっても、安全の方が明らかに大事だった。どうせ、死ぬまでに使い切ることのできない財宝が館の中に溢れている。これ以上の不正蓄財を行ったとしても、食客か遠縁の血縁者に持ち出されるだけだ。
食べきれない量の果実に蠅が集るのに似ている。手で追っ払ってもすぐに舞い戻ってくる。手を動かす労力の無駄だ。何もせずとも腐るだけの果実なのだから。
「再び、宮廷に戻る気はないのか?」
「わらわがか?」
竜吉公主は長い溜息を吐く。
今からでも宮廷に戻れば、権力者たちの緊張は和らぐに違いない。竜吉公主は讒言では動かない。甘言で弄されることもない。冷徹な政治家であるが故に、騙されることが無い。臣下たちは策謀に陥れられる不信感は失せる。明日に首を刎ねられる恐怖を夢に見ながら夜な夜なうなされることもなくなる。
当代で竜吉公主より行政能力の高い宰相を探すことは困難だ。
しかしながら、当人に宰相になる意思がない。
竜吉公主は仙人が歴史の表舞台に立つべきではないと考えていたし、身体上の制約もある。仙界でなくては寿命が飛躍的に短くなる。霧露乾坤網で多少は空気を清浄させることが可能とは言え、政治家になるために寿命を削る気にはなれない。
それに、そもそも政治的な能力だけであれば、母親の西王母の方が上である。行政能力であれば、同等以上の処理能力があるとしても、権謀術数を使いこなせると思えないし、使いたくもない。
「責任があるだろう? たとえ、皇帝からの寵愛が無くても義務がある。皇帝の后となることを一度は了承したのだ。女人として扱われなくとも、宮廷に残るべきであっただろう」
男の言葉に、竜吉公主は動じる様子を見せない。憤りを感じさせる表情などを見せるどころか、逆に慈愛を含んだ笑みを浮かべている。
「愛が無くて后となれようか?」
「何を言うか。国のために犠牲になるのは女人の役目だ」
「人であることは難儀なことじゃ。わらわは女仙である故、国に縛られる義務は無いのじゃ」
「竜吉公主よ。それならば、何故、争いを止めようとしているのだ」
「名を惜しむのみじゃ」
竜吉公主は、自らが婚約破棄したことを発端として戦争が起これば、歴史上に自らの名前が批判的に記録されるのが許せないと言っている。
だが、それは本当の理由ではない。仙人は人間界の動向を気にかけているが、それは仙界への影響度を測るために観測するだけの話である。人と比較できないほどの寿命を有する仙人は、記録より記憶を優先させる。歴史に多少の瑕疵を記述されたとしても、やがて文字は薄れ色褪せる。幾度にも文字が写されていく時の中で真実は消えていく。仙人たち自身の記憶と比較して人間界の記録など曖昧で脆弱だ。そのため、仙人たちが人間界の記録に興味を持つことは珍奇なことである。
そう。竜吉公主は名を惜しむと言ったのは嘘ではないが本心でもない。婚約を破棄し、蓬莱山に帰ったことで戦乱が起こるのを恐れたのだ。
自らがかかわらなかったのならば、傍観者になることもできたはずだ。しかし、竜吉公主は当事者でありすぎた。宮廷に入るまでに紛争の種は撒かれていたが、婚約を破棄し蓬莱山に戻ることで種を萌芽させる水となってしまったからには無視することは容易ではない。特に、仙人が関与するような大規模な戦乱を勃発させることは絶対に阻止をしなくてはならない。
「しかし、そなたが宮廷に戻らぬ限り、この戦は収まらぬことであろう。愛もないまま国のために働くしか道は残されていない」
男が自らの顎を撫でながら断定するさまは、挑発しているかのようだ。否、あからさまな挑戦でしかない。
「既に戦が始まっているならば止める術は無かろうが、今ならば止めることもできるはずじゃ」
「ほう? 伺わせてもらおうか」
男の目が怪しく光る。
「まずは、服と霧露乾坤網を返してくれないかのう」
竜吉公主は視線を受け流しながら訊く。
「それは出来ない」
「何故じゃ?」
男は腕を組み目を閉じる。
「そなたが皇帝の命を受けてこの場にいる可能性を排除できるのか? 保証もなく返すことで兵士たちが、その道具で殺されるかもしれない」
竜吉公主は、スンと鼻を鳴らす。問いの意味を測りかねているのかと言わんばかりに黙ったまま答えない。
少しの間、人形のように動かないまま沈黙していたが、一つだけ咳を小さく吐く。
「矛盾していると思わないのかのう」
「あらゆる可能性を否定するべきではないと考えなければならぬ。我が身だけではなく、兵士や領民の命を預かる身であるからな」
「困ったものじゃ。宝貝は奪われる、争いを止められぬ、では、ここまで来た意味が無いと言うものじゃ。少なくとも仙人の関与だけは阻止せねばならぬのう」
「仙人?」
「そうじゃ。わらわを捕えた旗、あれは間違いなく仙人が作った宝貝。この戦に仙人が関与していることの証左じゃ」
竜吉公主の言葉に対し、男は目を開いて口元を少しだけ吊り上げる。
「仙人が関与していたからと言って問題があるのか。既にこの国の命数は尽き果てている。そなたは知らないかもしれないが、白蛇が後宮に出現したり、大猿が禁城で暴れたりと天変地異が起こっている。天が皇帝を交代させよと命じているのだ」
「それが、本当に天が使わしたのならば、聞く耳を持っても良いのう。実際は、仙人が大暴れしていただけの話じゃ」
竜吉公主は天変地異の騒ぎが作られたものだと看破している。北州の挙兵と合わせた動きとまでは断定していないものの、反乱を起こす意図を持った仙人が引き起こしたと分析している。
「ほう。そのような騒ぎを起こすことが出来る仙人がいるとでも?」
「勿論じゃ」
「名を訊いても良いか?」
男はますます嬉しそうな表情を見せる。
「楊戩という名の仙人の仕業じゃ」
「楊戩?」
「そうじゃ」
「何らかの証拠はあるのか?」
「楊戩は変化の達人じゃ」
「それだけでは証拠になるまい」
「それに悪戯が大好きじゃ」
「面白い男のようだな」
「さらに、酷いことに、何よりも女が大好きなのじゃ。他の仙人でも同程度の変化の術を使うものもおる。しかしのう、他の誰でも、後宮で騒ぎを起こそうと思わぬところじゃ。さしずめ、後宮の女子に目を取られ口説いていたところを誤魔化そうとしたのがオチじゃろう」
竜吉公主が淡々と述べると男は大笑いをする。
「中々、好男児ではないか。きっと楊戩と言う男は傑物に違いないぞ」
男は心から会話を楽しんでいるように見える。自らの顎を撫でまわしながら、小さく何度も頷いている。
その態度に、竜吉公主も微笑みを見せる。嬉しさや楽しさより、素晴らしい演技を見せられた人が無意識のうちに心が満たされるときの表情だった。
「どうかしたのか?」
笑顔のままで言葉を止めた竜吉公主に向かって男が問いかけてくる。
不思議そうに眉間にしわを寄せ、軽く首を傾げた男に向かって竜吉公主は、
「そろそろ正体を現したらどうじゃ楊戩」
と話しかけた。
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