政争

 扉が開かれた。武装をしている男性が入ってきた。腰に剣をぶら下げ、皮の鎧を着ている。三十歳前後に見える男は鋭い視線をしている。いつでも腰の剣を躊躇いなく使用する気配が感じられる。そして、事実、男は戦う準備ができていたことを示すように、室内にいる全ての人間を威圧する。


 小さな部屋ではない。寝室として使用するならば十分すぎるほどの広さがある。だが、部屋の中に八人もいれば閉塞感が出てくる。北の土地と雖も、人の熱気で蒸し暑くなってくる。


「部屋から出ていろ」


 男がぶっきら棒に命令すると、椅子に座っていた妙齢の女性と侍女以外は無言で出ていく。このまま話を始めるのかと思いきや、男は妙齢の女性に対しても退出を促す。


「何故、私まで出ていかねばならないの」


 憤りを見せる女性に対し、男は押さえた声で勝手な行動を批判する。妙齢の女性は論理的な男の非難に対し素直に反省すると思いきや、徐々に怒りで我を忘れ、支離滅裂に文句を言い始める。


 この興奮状態がしばらく続くのかと竜吉公主が呆れていると、男は声を荒げ一喝する。


「姉上! あなたは政治に携わるべきではないと父上に言われたのを忘れたのか」

「お前はいつまでもその話を持ち出すのですね」


 妙齢の女性は不満の口調で応えたが、スッと立ち上がるとそのまま踵を返し部屋から出ていく。驚いたのが二人の侍女で、慌てて主に着いていく。


「申し訳ない。見苦しいものをお見せした」


 男は竜吉公主に向かって恭しく頭を下げる。


「気にせずとも良いことじゃ。それより、座られてはどうじゃ?」

「お言葉に甘えまして」


 男は、妙齢の女性が座っていた椅子に座る。部屋の外に出ていた童女を呼び寄せて新しいお茶を用意させる。


 竜吉公主は口を閉じたままだ。男が用意されたお茶を飲み終えるのを待って微動だにしない。それでも、室内は明るい雰囲気がある。竜吉公主がいるだけで、場の空気が清浄されていくかのようだ。


「尋ねても良いかの?」


 湯呑茶碗をおいた男に、竜吉公主は話しかけた。


「構わない」


 男は抑揚のない声で答える。


「兵を引く気はないのかのう」


 竜吉公主が訊くと、男は両腕を組む。そして、目を閉じて話を始める。



 男の領地は帝国の北部に位置する。良質の黒土と呼ばれる肥沃な大地に、鉄鉱石、石炭など豊富な天然資源が埋蔵されている。栄養価の高い牧草で育った良質な馬を供給すると同時に強靭な肉体を持った兵を有し、帝国を支える重要な屋台骨となっている。


 ただ、重要すぎる領土は帝国にとって危険な存在でもある。一度、反乱を起こせば帝国を破壊する要因となりかねない。


 それ故、信頼のおける人物が領地の管理を任されている。帝国に牙をむかない肉親や血縁者、もしくは功労者が配置されるのだ。


 だが、信頼される人間の胸中は簡単ではない。


 耳を塞ごうとも、自らの身が宮廷で、日々、肥沃な領地を奪おうとする野心家の誹謗中傷にさらされている情報が伝わってくる。皇帝の信頼が変化することに常々怯え続けなければならない。しかも、皇帝を信頼し、信頼されていたとしても安心はできない。政変で皇帝がいつ交代されるかなど、地方では予測すらできない。重用されていればいるほど、新しい皇帝から疎まれること間違いない。故に宮廷から遠く離れた領地では、自らの命運がいつ尽きるか絶えず不安に感じ続けなければならない。


 勿論、手を拱いているだけではない。自らの息のかかった人間を宮廷に送り込み、擁護し敵対意見を排除させる。当然のことだが、熾烈な宮廷工作が連日行われているのだ。


 平和であれば、勢力争いの激しさに比べ変動は緩慢となる。反乱を起こせば、どれだけ肥沃な土地であると言えども、帝国全軍と相対することは難しい。そのことを宮廷も領主も承知のことだ。弁明もしくは逃亡できる程度の時間的猶予が与えられるのが通常である。


 しかし、戦乱の時代となれば別である。皇帝の猜疑心の目はいっそう強くなる。何時、自害の命を告知する早馬が毒の塗られた剣を持ってくるか判らない。自分の身だけではなく、一族郎党の命を預かる立場の人間として、一時とも心休まることなどない。


 時代の変化を感じ取ったのは男ではなかった。


 多くの男は鈍である。一つ一つの挙動に注意をあまり払わない。見せ掛けの言葉を見抜く能力が圧倒的に女に比べて不足している。そんな男たちは、宮廷に送り込んでいた間諜からもたらされた情報を注意を払おうとしていなかった。


 だが、女たちは宮廷の異変が異常なことだとすぐに察知した。


 竜吉公主が去ってしまった宮廷はそれほど長く持たないと予言をしたのだ。


 洞察力があれば、容易に推測できる予言だ。


 前の皇帝も自らの責任を放棄したいとの理由で地位を捨てるほど政治に興味を持たない人間であったが、現皇帝は輪をかけて酷い。後宮に引きこもり、参内したことが両手の指で数えることができるほどでしかない。


 そんな状況で破綻させずに国を運営していたのは、竜吉公主である。皇帝の不在を良いことにして自らの利益拡大を図る外戚や官僚たちの暴走を押し留めていた最後の良心だったのだ。


 その人物が国を放り出したとなれば、国の未来は昏い。権力者たちが、自らの欲望を満たすために皇帝の意向を無視して政治を行うことは明白だ。


 それでなくても、宰相である楊暄国と北州総管である李林宗の対立が激化している。戦乱の渦が萌芽しようとしているのだ。


 楊暄国は、皇帝が立てこもっている玉環の父である。つまり、前皇帝の姉の夫である。


 暄国は、皇帝と玉環の関係を利用して野放図に地位を駆け上がった。前皇帝の時にも、能力に対して厚遇されていたが、現皇帝になってより一層厚かましい存在になっていた。自らの地位を利用してわが世の春を謳歌している。皇帝が政治を一切執り行わなくなった現状では、国民のことなど見放して、自らの享楽を得るために地位を利用しているのだ。


 この現状が面白くないのが、林宗である。ただ、国にとって不幸なことは、林宗も清廉の人物ではなかったことだ。林宗は皇帝の叔父にあたる。前皇帝が皇帝になる際に助力した恩で、北方に強大な権力を手にし維持している。


 似たような二人の天秤が釣り合っていた時代はまだ良かった。二人とも、優秀な才能を中央から排除する悪だくみを働かせて協力し合っていた。


 だが、天秤は傾いた。


 皇帝が玉環の意のままに動かされるようになった今、林宗の立場は弱くなった。ましてや現皇帝が感じる恩などない。林宗の謀略で父が地位を得た話は、単なる昔話でしかないのだ。


 林宗が焦りを感じたのは当然のことである。まだまだ、安泰だと思っていた矢先に前皇帝が禅譲したために予定が狂っていた。気が付けば吹けば飛ぶような立場だ。明日にでも宮廷に呼び出せれて、謀反の咎で縊られるかもしれないのだ。


 謀略に精通している林宗のことだ。面従腹背は日常茶飯事である。協力体制にあった暄国がいつ讒言するか考えると息苦しくなってくる。目の上のたんこぶとは自分のことだ。暄国は最高権力者になったが故に、林宗が排除されるのは時間の問題となったのだ。


 だからと言って、在野に下る気にはなれない。部下のように見ていた暄国に頭を下げて余生を保とうとするなど、林宗の矜持からして耐えられるものではない。それなら、死んだ方がまだ望ましい。


 完全に追い詰められたと言える。進むしかないのだ。自らの権力を維持するためには、暄国を排除するしかない。しかし、皇帝、玉環、暄国の関係に隙はない。いくら謀略の天才と称された林宗でも短期で楔を打ち込むことは不可能だ。


 残された道は兵力を使うしかない。


 林宗の手元には十万の兵力がある。国境を越境してくる蛮族との戦いのために与えられた辺境軍である。


 皇帝が統べる全軍の三分の一の兵力だ。

 数の上では林宗に勝ち目などない。


 だが、それは机上の計算である。他の二十万の軍は南方と西方の国境に向けられている。すぐに首都に呼び寄せることができるわけでも、討伐軍として使用できるわけでもない。ましてや、緊急で兵を参集したところで、練度も低い割にすぐに揃えられる人数は限られる。


 林宗は狩りの名目で将軍たちを呼び寄せて計画を討論させた。勿論、議題はあくまでも狩りである。ただ、戌を自分の軍に見立て、狼と鹿を暄国の軍に見立てての話である。


 予想以上の優位に顔が綻びそうになっていた。林宗は喜びを我慢して顰め面を作る。一度挙兵してしまえば後に戻ることは出来ない。決断するまでは眉の動き一つにも注意を払う必要がある。中央に密告するような愚かな部下はいないと知っていても、体裁は保つ必要があるのだ。


 そして、林宗が大規模な狩りを行ったのが、丁度、竜吉公主の館に噂が届いた日であった。


 敏感な一部の群衆が戦乱が地に満ちる気配を感じ取った日であった。

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