楊戩の仙術
門の方から馬の嘶きが聞こえてきた。西王母が用意した馬であろう。竜吉公主は見送るために立ち上がる。
「りゅー様、楊戩様がいらっしゃいました」
碧雲女が明るい声を出す。
「私の馬を届けてもらったの。時間がないから私の代わりにお礼を差し上げてね」
西王母は門に向かって歩いていく。竜吉公主と侍女たちも続き、別れを惜しんでから立ち去るのを見送る。
西王母が用意したのは馬車では無かった。一頭の麒麟だ。一本の角を剣のように頭に生やし、全身が波打つ黄色い毛で覆われている。普通の馬の五割増しの体躯は威風堂々としている。
時間がない彼女は楊戩から手綱を受け取ると、軽く飛び上がる。重力の無視してフワリと麒麟の背に舞い降りると、手綱を引いて崑崙山に首を向ける。竜吉公主らに微笑むと、仰々しい言葉の一つすらなく麒麟に軽く鞭を入れる。首を僅かに傾げた麒麟はゆっくりと走り出したか、と思う間に天空に駆け上がり雲の流れる速度で小さくなっていく。
「相変わらず慌しいですね」
西王母を見送った竜吉公主らに楊戩が話しかけてきた。
西王母に負けないくらいのにこやかな笑顔を造っている。自分の長所を知っている演技だと理解していているから憎たらしいのだが、無意識のうちに釣られて微笑んでしまう。
「楊戩様、ゆっくりしていってくださいませ」
碧雲女が尻尾を振る犬となる。今すぐにでも飛び掛りそうな勢いで楊戩の横に移動する。
「どうして、一緒に馬を連れてこんのじゃ?」
竜吉公主が訊くと、楊戩は両掌を見せながら首を振る。
「麒麟と同じ速度で走れる馬などおりませんよ」
「ならば、馬車にすれば良いじゃろ」
「西王母様は馬車など望みますまい。何しろ自由のお方ですから」
「さすれば、もう一頭の麒麟を連れてくればよい」
「この仙界といえども、二頭も三頭も麒麟を自由に使えるわけではありませんよ」
「さすれば、そなたの……」
楊戩の言い訳に竜吉公主が新たな質問を加えようとする。が、その言葉は、近づいてくる楊戩の威圧感の前にかき消される。
「ええ、言い訳はよしましょう。本当のところ、貴女に御逢いしたかっただけですよ」
「ならば、さっさと帰ればよいのじゃ」
竜吉公主は窘めるように言うが、楊戩は白い歯を見せて笑う。
息を呑む竜吉公主は不本意にも金縛りに遭う。動けずにいると、不意に手を掴まれる。普段であれば、霧露乾坤網の前に弾き飛ばすはずの行為なのに、体は意思を無視して動かない。顔を反射的に楊戩から背けるだけで精一杯だ。
「私のお気持ちをご存知でしたのに、どうして地上に下りられたのです」
「ぶ、無礼者。手を離すのじゃ」
竜吉公主は口調をきつくするが、楊戩は動揺すらしない。
「地上の国のことなど忘れて、一緒になりましょう」
「まだ、そのような気分にはなれぬのじゃ」
「では、その気にさせて差し上げます」
竜吉公主は引き寄せられて抱きしめられる。楊戩の服の中で繭となる。
「は、破廉恥な……」
「愛するが故ですよ」
「嘘を言うではない。おぬしはあまねく女仙に同じように声をかける男じゃろ」
竜吉公主は楊戩を押しのける。軽い力であったが、楊戩は抵抗をせずに一歩身を引く。腕を胸に当てて頭を下げる。
「解りました。証拠を見せましょう。竜吉公主様のために、命を掛けて復讐をしてきましょう。そして、その約束が果たされた暁には、夫婦となる契りを結びましょう」
「わらわは、復讐など望んでおらぬ」
「蔑ろにする愚かな皇帝を封神差し上げましょう」
「楊戩、わらわはそのようなこと」
「今度は死ぬかもしれません」
「何を言っているのじゃ。わらわは無駄な殺生など望んではおらぬ」
空中に舞い上がる楊戩を竜吉公主は追いかけようとする。
しかし、竜吉公主は楊戩のように飛ぶことはできない。浮くくらいのことはできるし、霧露乾坤網を使えば空中を移動することも可能ではあるが、姿勢制御はできない。
楊戩も鳥のように素早く飛翔できるわけではないが、竜吉公主に掴まえられるはずがないことは理解している。
竜吉公主を見下ろした位置で右袖を軽く振る。
すると、小さな犬が一匹飛び出した。可愛らしい灰色の子犬だった。愛くるしい耳をピクピクと動かし、楊戩の周囲をクルリと一周する。そして、動きを止めたかと思うと、麒麟のように大きくなる。
哮天犬だ。
楊戩の宝貝である。普段は楊戩の袖口の中に隠されていて、戦いの最中に襲撃させる暗器(隠し武器)として使用できる。その能力は非常に高く、稲妻のように飛び出して攻撃できるだけではなく、襲撃の好機を判断することもできる。しかも、相手が自分より強いと見るや退くことすら知っている賢い宝貝だ。
また、乗騎にすることも出来る。麒麟ほどではないが、空を飛べる分、馬などとは比較にならない移動能力を保有する。空を飛べる楊戩だが、長距離を移動する場合は哮天犬を使うのだ。
「楊戩、戻ってくるのじゃ。わらわは争いは嫌いなのじゃ」
「ははははは、先程の話は冗談ですよ。ちょっと下界を見てくるだけです」
楊戩は竜吉公主の言葉など聞いていない。稲妻のように哮天犬に乗って飛び去っていく。
「りゅーさま、どうなさいました?」
碧雲女が訊いてくる。
だが、上手く返答をすることが出来ない。小さく一つ溜息を吐いた竜吉公主は、碧雲女に首を振って見せてから屋敷に向かって歩き出した。
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