西王母来訪

 竜吉公主の母である西王母は、女仙たちを束ねる実力者である。小顔で肌は夏の雲のように白く美しい。不老不死を得ているため、竜吉公主に負けない若々しい容姿を持っている。違いがあるとするならば、冷たい印象を与える竜吉公主に対し、温かみを感じさせるところであろうか。


 にこやかな笑顔を見せ続ける西王母は、近くに居るだけで安らぎを与える。普段は、西方の崑崙山に住んでいるが、竜吉公主が蓬莱山に戻ってきたとの話を聞き、遊びに来ていたのだ。


 ただ、親子とは言え、数百年も一緒に過ごした間柄である。竜吉公主が独り立ちし、蓬莱山に住むことになってからは、お互いが仙人として認め合い距離を置いている。それゆえ、詰まらない慰めの言葉など発しない。それでも、母親としての情念は残っている。良くない噂を聞きつけて、竜吉公主を慰めようとしているのだ。


 竜吉公主、西王母、赤雲女と赤雲女は、竜吉公主の館、寺社ほどある庭園の一角で円形の机を取り囲むように椅子に座っている。淡い日差しの下で単にお茶を飲んでいるだけだが、茶会以上の優雅さが感じられる。


「蟠桃会を開こうかしら」


 香片茶を一口飲んでから、西王母は竜吉公主に訊ねる。


 蟠桃会は、西王母の聖誕祭である。高位の仙人や親族を招いて、蟠桃を食するのである。長寿や富貴を意味する会であるだけではなく、仙界での一大行事でもある。


 本来、気分によって開ける類の会ではないが、西王母が蟠桃会を開催すると言えば、誰も逆らうことは出来ない。たとえ、それが時期的に誤っているとしても。


「何故わらわに訊くのじゃ」


「でも、準備が大変かしら」


 西王母の返答に竜吉公主は、僅かに目を細める。


「母上は蓬莱山で蟠桃会を開かれたいのかの?」


「違う意味に聞こえて?」


 竜吉公主は視線を池に移す。翠玉色を湛えた池は、金木犀の花を水面に映す。仄かに漂ってくる甘い匂いに心を安らがせる。


「わらわが開くのならばまだしも、母上が開かれるとなれば、仙界は大騒ぎになるじゃろ。遠方から駆けつけなければならぬからのう。そもそも、先々月に開催したばかりではないか。それとも、これからは誕生日を変更する気なのか。どちらにせよ皆の迷惑じゃ」


「来れる者だけ来れば良くて?」


「そのような話ではないし、出来るはずなかろう。特に新しい仙女にそれは酷というものじゃ」


「つれないねぇ」


 西王母は悲しげな声を出すが、表情は相変わらずにこやかなままだ。


「お気遣いは感謝するが、わらわはのんびりするのが肌に合う。下界のせわしないのも、蟠桃会もしばらくは避けたいものじゃ」


「そんなことでいいのか? 下界の都では、このような歌が流行っていると言うぞ」


空碧江逾赤  空は碧く川はますます赤い

竜在城中怒  城の中にいる竜は怒り

身捨獨去城  身を捨てて一人城を去る

歡聲高千人  千人が歓声をあげる


 西王母が滔々と述べると、碧雲女が嗤う。


「西王母様、何でございますか、そのあまりにもおかしな詩は。子供ですらそんな詩は作りませんよ」


「私たちまで読まれていることは気に入りませんね」


 赤雲女はぶっきら棒に言う。新しいお茶を西王母の湯飲みに注ぎながら、鼻の孔を膨らませる。


「復讐はする気はないの?」


「無いのう。そのようなもの、何も生まんからの」


 竜吉公主の返答に、今まで笑みを浮かべていた西王母が表情を変化させる。怒っているとまでは言えない。それでも、機嫌が良くないことだけは感じられる。権力の座に長年ついてきた西王母は、感覚的に理解している。権力を維持させるためには、相手に恐怖心を抱かせておくことが有効であると。


 だから、この場合も、竜吉公主らの存在を蔑ろにした皇帝愚か者を 打ちのめすべきだと信じこんでいるのだ。


 けれども、竜吉公主の考え方は違う。復讐は何も生み出さないと考えている。復讐に要する手間と労力を換算すれば、自分がそれ以前の自分より幸福になるようにそれらの資源を使うべきと信じているのだ。


 長年、母親の指針を客観的に、時に批判的に見てきた竜吉公主は、権力の維持として復讐の有効性を否定する気はなかった。けれども、ウンザリしていた。母親のことを嫌いではなかったが、母親が些細なことまで報復することは嫌悪していた。諌めたこともあった。勿論、西王母は一片たりとも聞く耳を持たない。わかりきった最悪の結末を何度も目にして、自分だけは復讐に身を投じる生き方はしないと決心していたのだ。


 この考え方は、生まれた時から特殊な能力を強大に有していた彼女は権力に興味を持たなかった。ただ、自分の生活が護れていれば満足であった。


 それだけに、皇帝のことを思い出すと、胃がチクリと痛む。まだ、そのような感覚が残っていたことに苛立ちを感じながら、不思議な気持ちになる。


 今となっては、好きだったわけではないと理解している。婚約まで進んだのは、東王父からの政治的な圧力もあったし、言い寄られて熱意に絆された面が大きい。外的な要因で気がつけば、鞘に収められていた状態だ。


 だが、鞘が間違っていたと伝えられたことは腹立たしい。馬鹿にされたような気がして憤りを腹の底から沸いてきそうになる。忍耐力がない人間であれば、周囲に八つ当たりをしているかもしれない。それくらいのことをされたのにもかかわらず、竜吉公主は比較的冷静だった。仙界の空気が心を癒してくれていることもある。ただ、それ以上に、好きだったかも解らない男と結婚せずに済んだことが喜ばしく感じられたのだ。


「我が娘ながら覇気がないのが残念ね」


 西王母は湯飲みを置くと椅子から立ち上がる。


「お帰りでございますか?」


 碧雲女が軽い口調で訊ねると、西王母は深々と頷く。


「もう少しゆっくりとすればいいじゃろ」


「あなたが元気な姿はわかったから、長居する理由は無いわね。あなたの目にどう映っているか解らないけど、こう見えても忙しいのよ」


「わざわざありがとうじゃ」


「礼は不要よ。私の娘ってこと忘れないで」


 西王母はいつもの笑みを浮かべている。一瞬だけ見せた憂いは幻だったのかと疑わせるほどの完璧な微笑を湛えた顔だ。


 竜吉公主は、母親がこの表情を見せたときは、既に心は他に移っていると気づいている。人の一生よりはるかに長い時間を過ごしているのだ。細かい機微まで感じ取り見分けることが出来る。


 竜吉公主は、日々、歩くごとに困難と災厄が降りかかってくる権力者の立場に同情しながらも、しばらくは生きていることに厭きるほど休養を得たいと望んでいた。

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