蓬莱山への帰還

 蓬莱山に戻った竜吉公主は塔にいた。


「のんびりするのう」


 三階建ての最上階から、見えるはずのない帝都を眺める。ゆるりと息を吸い込み仙界の空気を味わう。


「暇ですわ。暇、暇、暇、ひま~」


 碧雲女が、竜吉公主の左隣で大きな声を出す。万歳をするかのように両手を上に伸ばし、欠伸をかみ殺しながら目を細める。


「よく言いますね。仕事が嫌で、散々、禁城で文句を言っていた人が」


 赤雲女の言葉が棘となって碧雲女を刺す。


「ちょ、ちょっとぉ、赤雲女、勘違いしないでよね。私は、仕事自体は嫌いじゃなかったんですから。ただ、りゅー様のことを蔑ろにする皇帝が気に入らなかっただけ。それと、事なかれ主義者の官僚と強欲な地方政務官たちもね」


「公主様、やはり心残りが……」


「赤雲女、あんた、私の話を聞いている?」


 碧雲女は、竜吉公主の前を横切り赤雲女に詰め寄る。けれども、赤雲女は扇子で口元を隠すとプイと顔を背ける。


「私が出すぎた真似をしてしまったでしょうか? あの時、お互いに納得がいくまで話し合うべきでしたか?」


「だから、あんたねぇ……」


 碧雲女は、扇子に顔を近づけてから竜吉公主の表情を覗き見る。同じように赤雲女の視線が竜吉公主に向いていることに気づいて、頬を僅かに吊り上げる。


「臭いがする」


 竜吉公主は何かを思い出したかのように、一言だけ呟く。すると、その言葉が合図になっていたかのように、赤雲女と碧雲女は塔から飛び出さんとばかりに手すりから身を乗り出す。二人とも同じような動きで、周囲を見回す。山水画に描かれるような細い山々とたなびく雲の合間に異変がないかと目を凝らす。


「もうすぐここに到着するじゃろう」


 竜吉公主は二人に告げると、背を向ける。階段に向かって歩き出す。


 赤雲女と碧雲女は合図をするかのように一回だけ強く頷くとすぐに竜吉公主の後を追う。




***



 門が開かれると、一人の老人が入ってきた。白く長い髭を持った老人は、顔に刻まれた幾つもの刻まれた皺から年齢を感じさせるが、体つきも動作もしっかりとしている。


 落ち着いた動作で歩いてくる老人の背後に武装した兵士たちが続こうとすると、一人の屈強な男がその行く手を阻むように立ちふさがる。一本の剣を背中に吊るしているだけで、簡素な装いだ。防具をつけていない男が軍勢を相手に戦うのは無理があるように見える。だが、それは見かけだけの話だ。吊るされた剣は、飛焔剣ひえんけんである。


 飛焔剣の一振りは業火を纏い地を焼き尽くす。人間の兵士をどれだけ集めようとも戦力にはなるまい。声を発する間もなく墨と化せられるほどの強力な剣だ。


 凄いのは剣だけではない。その男の持つ仙術に比べれば、飛焔剣など子供の振るう棒程度の威力しかない。


 何故なら、男は燃燈道人だからだ。崑崙十二仙の一人であり、元始天尊に匹敵するほどの強い力を持つ。古来に失われた術を行使し、森羅万象すら操る。


「安心せい。単に話をしに来ただけのことだ」


 老人は振り返ると、自らの率いてきた軍勢に対して言葉をかける。


 不安そうな表情を見せる兵士たちであるが、無理やり門を通ろうとする兵士はいない。彼らも知っているのだ。目の前に立っている男が燃燈道人であることを。


「ようこそいらっしゃいました。上皇様」


 赤雲女が老人を屋敷の中に招き入れる。門から続く庭園は広々としている。無論、広いだけではない。竜吉公主の感性によって幻想的で桃源郷のように美しく保たれている。


 その庭の中央、緑色の水を湛える池の辺に置かれた大理石の椅子に腰掛けるよう勧める。


 皇帝の父である上皇が椅子に座るのを見て、竜吉公主は対面に座る。赤雲女が用意した烏龍茶が湯飲みに注がれる音に耳を澄ます。


「どうして何も言わずに立ち去ったのだ。我が国のため、后となって国を治めて欲しいと言ったではないか」


 明らかに詰問する口調に、竜吉公主は眉をピクリと吊り上げる。けれども、表情を変化させたのはただそれだけで、美しいけれども何も描かれていない面のような顔だ。


「お待ちください。竜吉公主様を詰るのは筋違いです」


 口を挟んだのは碧雲女だ。一人、烏龍茶を飲みながら目を細める。


「何故だ?」


 上皇は尊厳を崩さない。自己の正当性を主張する威圧感がある。ただ、碧雲女は、気にしていない。明らかに自分の感情を優先させている。


「発端は陛下にあります。陛下が婚約を破棄すると宣言されたのです。なれば、禁城に住む理由はございません。そもそも、上皇様もご存知の通り、竜吉公主様にとって下界の空気はお体に良くありません。それにもかかわらず熱意に絆されて禁城に在していた御心をご想像ください」


 上皇は鬚を撫でる。白く箒のように長い鬚を玩びながら瞑想する。


「騙されたのは竜吉公主様です。謝罪の言葉があるならまだしも、批判されるようなことは納得いたしかねます」


 碧雲女は、話しながら興奮してきたのか、湯飲みを置いて立ち上がる。口を大きく開いて怒鳴りつけようとする。


「お帰りくだされ」


 碧雲女の暴走を止めたのは、竜吉公主の冷静な口調だった。


「何と申された」


 上皇が言葉の撤回を求めるが、竜吉公主は意にも介さない。


「帰られよ。わらわは戻らん。下界を知ることもまた人を知ることと思い我慢を重ねていたが、とうに限界は超えているのじゃ。わらわ以外の女人を愛している人間の下で暮らすことなど不可能じゃ」


「あれは、色香に惑わされているのだ。竜吉公主殿の力で、助けていただくことは出来ないか」


「無理じゃ。相手が仙術や妖術を使うのならまだしも、一般の人間にわらわの力を行使するわけにはいかん。諦めることじゃ」


 上皇は沈黙する。眠っているのか? と問い詰めたくなるくらい微動だにしない。だから、碧雲女が揺り起こそうと近づく。すると、突如、上皇は目を大きく見開く。


「一つ、良い解決法がある。朕らも納得できるし、竜吉公主殿も満足できる内容だ」


 上皇は烏龍茶に口をつけると、一気に飲み干す。鬚についた水滴を裾の袖で拭うと、一人で満足するかのように何度も頷く。


 その場にいる人間が十分に自分のことを注目していることを確認してから上皇は断定する。


「竜吉公主よ。朕と婚姻せよっ!」


 門の外にまで聞こえたであろう大声で発した言葉に、竜吉公主だけではなく、赤雲女も碧雲女も反応を見せない。


「全て解決するではないか。朕は丁度、若くて美しい妻が欲しかったところだ」


 呆気にとられて沈黙したままの竜吉公主と対照的に、上皇は意気揚々として立ち上がると近づいてくる。返答すら待たずに無理やりに抱きついてこようとする。


 本来なら、護衛の役割を司る赤雲女も碧雲女も、あまりにも唐突すぎて反応が出来ない。手を伸ばして押しのける程度のことで良いはずなのに、上皇が神聖な土地である蓬莱山で他人の意思を無視して襲い掛かってくることが理解できずに戸惑っている。


「もう、そなたは朕のものだ」


 飛び込むように襲い掛かってきた上皇に対して、竜吉公主は無表情のままだった。感情的な表情を一切見せずに人形のように美しいままで時間が止まっている。抵抗する気力すら失われ、上皇の威に屈するかと思われた。


 しかし、上皇の望みは一瞬にて阻まれる。

 水の壁が竜吉公主を護り上皇の体を押し留める。


 霧露乾坤網の力だ。竜吉公主の手首から延びた水で出来た網は、漁具に似た形状をとりながら上皇の意図を阻む。


「竜吉公主、そなたは、そなたは……」


 上皇は網の目に手首を入れて水を掻き分けようとするが、容易に押し戻されてしまう。それだけではない。もがけばもがくほど網の目は上皇を包み込み、最終的には網が捕らえてしまう。


「待て、何をする気だ。朕は皇帝の親なるぞ!」


 上皇は声を荒げで威圧してくる。けれども、竜吉公主は完全に聞く耳を持たない。両腕を軽く持ち上げると、上皇を包む網も持ち上がる。両腕を頭上まで上げてから勢い良く前へ降ろすと、水の網は上皇を捕らえたまま放り投げられていく。


 放物線を描きながら門の向こうへと消えていく上皇を見ながら、竜吉公主は、


「思ったより早い帰りになったのう」


 とだけ呟いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る