皇帝との対話
「今日で何日目かの?」
夜遅くなり、ようやく人が途絶えた謁見の間で竜吉公主が問うと、碧雲女はおどけた態度を見せる。
「もう、100日になりますわ」
丁度、竜吉公主が禁城に到着し婚約の儀を終えてから1週間後のことである。皇帝は従姉が病気になったとの理由で後宮に立てこもったのだ。初めはすぐに出てきて皇帝としての役目を果たすものと誰もが思っていた。それなのに、皇帝は従姉の部屋に隠れたままで執務を放棄している。
皇后となるはずの竜吉公主ですら部屋に入れさせようとしないため、従姉の病状は不明だ。食事を届ける役目の侍女から聞き出したところ、皇帝も従姉も元気そのもの。ただ、僅かばかり青白く見えるのが気になる。とのこと。
だが、それが病気などであるはずはない。冬だったとは言え、3ヶ月も日の下に出なかったのだ。多少は肌の色素も薄くなろうと言うものだ。
「そう。そろそろ怒っても良いかの?」
「その必要はございませんわ」
「そなたらの問題でもあるのじゃぞ?」
「あら、そんなこと考える必要はないですわよ。だって、りゅー様より美しいわけありませんから私たち」
碧雲女がおどけながら言うと、赤雲女が眉をひそめる。
「お怒りになられる必要はございませんが、真意をお伺いされてはいかがでしょう」
穏当な赤雲女の意見に竜吉公主は深く頷く。体重を感じさせない身軽な動作で椅子から立ち上がると何も言わずに歩き出す。
侍女たちも無言のままで付き従っている。何処へ行かれるのですか? などと詰まらないことを訊くことはない。話の流れで解っているのだ。
それに、就寝するためには後宮に戻る必要がある。寝室は、後宮に用意されている。皇帝が後宮に隠れたままなので婚約の儀は済まされていないが、皇后の身分が予定されている竜吉公主の地位は非常に高い。庶民が想像できないような豪奢な
皇帝が立て籠もっている部屋の前に竜吉公主が立つと赤雲女が一歩前に進み出て扉を軽く叩く。
しかし、返事はない。
再び赤雲女が扉を叩く。今度は先程より強い力で叩いたのか、扉は、眠っていても起きてしまいそうなほどの騒々しい音を出す。
しかし、それでも部屋の中からは返答は無い。
赤雲女は振り返って竜吉公主の表情を伺う。何やら問いかけるような視線を向けてくる。考えていることが推測できる竜吉公主が頷こうとしたその時、碧雲女が一歩前に出て、
「陛下、いらっしゃいますか?」
と、絶対に聞こえるであろう大きな声を出す。
それでも、部屋の中からは物音一つ聞こえてこない。
「誰もいらっしゃらないのであれば、扉を開けさせていただきます」
言外に言う。沈黙をして無視をするのであるならば、鍵か扉を破壊して力づくで部屋に侵入すると。
さすがに、その声は無視することが出来なかったのか、部屋の中から
「無礼であるぞ。下がれ!」
と男性特有の低い怒鳴り声がする。だが、一喝で
「誰であるか。不審な奴、顔を見せなされ」
これまた大きな声で言い返す。
嫌がらせである。誰であるか。などと問う必要など全くない。後宮にいる男は、皇帝その人以外ありえないのだ。
「朕の声を忘れたとでも言うのか!?」
「何を申す。陛下が、このような時間、妻でもない女人の部屋にいらっしゃるはずが無かろう。不埒な賊が陛下を語ろうとするなど言語道断である」
碧雲女の声がその場を支配する。
「か、語ってなどおらぬ。ち、朕は皇帝であるぞ」
「顔を見るまで信じることなど出来ませぬ。陛下を騙るのであれば、扉は開けさせてもらいますぞ。安心なされい。竜吉公主様の霧露乾坤網の力があれば、この程度の扉、瞬時に打ち砕くことができようぞ」
「ま、待て、お前は、何の権限があって扉を開こう、いや、破壊しようとするのだ。勝手に扉を破壊することなど許さぬ。もし破壊したならば、不敬罪で首を刎ねるぞ」
皇帝の声は震えている。最高権力者であることなど微塵も感じさせない弱弱しさだ。
「権限ならば、ありますわ。私たちはこの国で二番目の権力の持ち主である皇后陛下のご命令がありますから。陛下がお隠れになっている以上、皇后陛下の御意志を妨げることなど、この国の人間にできることではありません」
「待て。皇后陛下とは誰のことだ。朕はまだ婚姻の儀を執り行なっておらぬぞ」
「しかし、婚約はされているではありませんか。そして、婚約の儀で三ヶ月後に結婚の儀を執り行なうと約束をされているはずではありませんか」
「朕は認めておらぬ」
「ならば、明日にでも執り行ないましょう」
「馬鹿な。朕には愛する女性がいるのだ。結婚などできぬ」
「どういうことか。竜吉公主様は望まれて禁城に
碧雲女は扉を睥睨する。細い眉を吊り上げて視線だけで部屋を焼き尽くそうかという勢いだ。
尤も、その怒りは理解できる。
元々は、上皇と皇帝がわざわざ蓬莱山まで来て、門の前で一年の間、毎日毎日、結婚して欲しい。我が国へ来て一緒に政治を執り行なって欲しいと望まれたのだ。
だからこそ、下界では寿命が縮まることを知りながら竜吉公主は仙郷を降りる決心をつけたのだ。
それなのに、今更、愛する人がいるから結婚できないなどと言われても納得が出来ようもない。
「巫山戯たことを。所詮は人間国家の頂点のぶ……」
「碧雲女止めるのじゃ」
竜吉公主は碧雲女にそれ以上言わせない。まだ言い足りない表情を見せる碧雲女を視線だけでたしなめる。
「陛下」
竜吉公主の澄んだ冷たい声が凛と鳴り響く。
「わらわがここにいる必然性は無さそうじゃ。人の恋路を邪魔するのはいかんことじゃ。丁度良かった。体調もあまり優れなかったからこの機会に蓬莱山に帰ることにするの」
「ま、待て、それは困る」
「何が困るのじゃ? 陛下はわらわ以外に妻としたい人がいる。だから、わらわを正妻にすることはできんのじゃろ? もしかして側室になれとでも言うのかの?」
竜吉公主が問うが答えは返ってこない。さすがに皇帝も、竜吉公主を側室にするとまでは言えなかったようだ。
「手続きは特に不要ですね」
沈黙が続くのを見て赤雲女が一方的に断言する。これで、関係も終わりだと言わんばかりに背を向ける。
「何処へ行くつもり?」
踵を返し歩き出す赤雲女に向かって碧雲女が質問する。聞こえているはずなのに、そのまま歩き出す赤雲女を見て、竜吉公主は碧雲女に微笑みかける。
「もう、準備は済んでいるのじゃろ」
竜吉公主が碧雲女の頭を軽く撫でる。起源を害した子犬でも手懐けるかのような仕草で掌で頬を触れると、膨らみかけていた顔が元の大きさに戻る。
「帰りましょう、りゅー様。私たちの館へ」
竜吉公主は唐突に明るい声を出す碧雲女に手を引かれる。ニコリと微笑むと抵抗もせずにそのまま碧雲女に任せ歩き出す。まだ夜は深い。視界は鮮明ではない。所々に掛けられた灯りが放つ淡い光は足元を照らすためには十分ではない。
けれども、しっかりとした足取りだった。自信があるのだ。蓬莱山まではかなりの距離があるにもかかわらず、楽しい旅が出来ると解っているのだ。
白い壁面に大きな影を映し出していた一匹の蛾が、鱗粉を撒き散らしながら灯りの周囲を飛んでいる。危険な存在と理解していたのだろうか? 重力に引かれて落ちるように灯りに飛び込んでいく。瞬時、灯りは強く輝く。命を糧としたと言わんばかりに淡く光は消えていく。
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