第4話 ベッドメイク

森はサトルにとって生きていることの象徴だった。生かされているのではなく、自分たちの力で生きている動物たちを尊敬していた。不殺生国の人間街からこの森までたどり着けたのは、自分が初めてではないかと思い、サトルは喜んだ。

憧れていたこの森で殺生のリスクを少しでも減らすために、サトルは水を飲む時と食事をとる時以外は、口を開かないようにしていた。

森での移動中に独り言を言ったり、驚いて口を開いた時に、虫が口の中に入ってしまうことを防ぐ為である。

ハイエナを追い払った時に思わず叫んでしまったが、極限状態だったのであれは仕方がない。


ワイヤーは森の中でも延々と続いていた。サトルは森の様子をじっくりと伺った。荒野とは違い、木々が茂っている森では、他の生き物がワイヤーまで簡単に登ってこられるので、日没までに寝所を探さなければ夜行性の動物たちの恰好の餌食となってしまう。


サトルはワイヤーを伝って森の中を進み始める。カラフルな鳥や蝶が飛び交い、リスが木々の間をジャンプし、シカやウサギ、キツネなどたくさんの動物が行き交っている。

しばらく進むと小川が流れていて、アライグマが水を飲んでいた。サトルはワイヤーの上に腰掛けて、近くに湧き水がないか探すことにした。

水を飲むことに夢中になっているアライグマの背後にピューマが迫って来る。サトルはアライグマに自分の姿を重ねた。この森ではちょっとした油断が命取りになる。

間合いをつめたピューマがアライグマに向かって飛びかかると、空中でピタッと動きが止まる。ピューマはもがくが地面に降りられない。気配に気づいたアライグマはそそくさと逃げて行く。


サトルはどうしてピューマが空中に浮いたまま動けなくなったのか、まったく理解ができなかった。そして、空中に真っ赤な蜘蛛の姿が現れる。大きさはウサギくらいである。真っ赤な蜘蛛は空中を歩くようにピューマに近づいて行く。

ピューマはもがき続けているが空中に浮いたままだ。擬態だとサトルは理解した。蜘蛛だけでなく糸も擬態しているのだ。赤い蜘蛛はピューマの頭頂部に回り込むと捕食を始め、みるみるピューマの頭部が溶けていく。

サトルはワイヤーに腰掛けて、周囲を警戒しながらその様子を見ていた。

森の中では常に狙われていることを忘れてはいけないと改めて思い知った。


もがいているピューマの動きが弱まった頃、クマタカが赤い蜘蛛に襲いかかり、鷲掴みして飛んで行く。サトルは擬態せずに捕食していた赤い蜘蛛を愚かだと思ったが、もしかしたら巣に獲物が掛かると興奮して赤くなる習性があるのかもしれないとも思った。

絶好の機会を得て興奮したサトルの顔も赤くなっている。サトルはピューマを見て、早く死んでくれ、早く死んでくれと心の中で呟いた。

他の動物に見つかってしまわないか心配でたまらず、心拍数が上がっている。

サトルはワイヤーを足で掴んでぶら下がり、地面の様子を確認するが草木が多すぎてどこに虫がいるのか判断することができなかった。


ワイヤーの上に戻ると、やがてピューマが動かなくなる。死んだのか、動けないだけでまだ生きているのか、ワイヤーの上からでは判断できない。サトルは袋からハイエナの骨を1本取り出し、ピューマに向かって投げた。ピューマはピクリとも動かない。サトルはワイヤーの上でかがみ込み、思いきりジャンプすると、小川に着水する。

地面に降りるより、川に降りたほうが殺生をする確率が低いと判断したのだ。サトルは川から出て逆立ちをすると、両手の親指歩行で慎重に進んで行く。

ピューマのもとに辿り着くと、今度は両足の親指だけで立ち上がる。目を大きく見開き、ピューマは息絶えていた。

擬態している蜘蛛の巣からピューマを離すと、股間に挟み、再び逆立ちをして、両手の親指歩行で小川へと進む。

そして、サトルは小川に入ると、槍でピューマのお腹を裂いた。お腹周りの肉や内臓を手早く切り落とし、川に流していく。作業を済ますと、軽くなったピューマのしっぽを右手で掴み、慎重に地面に上がる。

かがみ込んで思いきりジャンプすると、右腕で掴んでいたピューマを振り上げてワイヤーの上に通し、垂れ下ったピューマの前脚をすかさず左手でがっちり掴み、宙づりの体勢になる。

そのまま足を上げてワイヤーを掴むと、一旦ピューマから手を離し、ワイヤーの上に上がる。


ピューマの死体を手に入れたサトルは雄叫びを上げた。それにより猛獣たちに見つかって殺されたとしても本望だった。サトルは雄叫びを上げて、生きていることを心の底から実感したかったのである。サトルの雄叫びを聞いてやって来たのは、猛獣ではなくカラスのヒロシだった。

「まったく、あちらこちら捜したんだぜ」

ヒロシはそう言うと、ピューマの頭を突いて食べる。

「こんなところまで来ていたなんて、人間のくせに大した奴だ」

賢いヒロシに褒められて、サトルはますます嬉しくなった。森という危険地帯で、生きている喜びを知ることができたのだ。サトルは木から葉っぱを数枚とると、再び小川に降りて、我慢していた大便を出す。葉っぱでお尻を拭くと、パンツを急いで洗ってから、またワイヤーの上に戻った。


いつものようにヒロシはあっという間に食事を済ませると飛び去って行った。

サトルは生きている喜びを実感することができたのだから、不殺生国の人間街に引き返そうかという考えが頭をよぎった。

しかし、生きている喜びを知ってしまったから、不殺生国の人間街に戻った途端に気が狂ってしまうだろうと思い直した。


誰も自分がいなくなったことに気付いていないだろうし、ましてや寂しがってくれる人間なんているわけがない。サトルは人間街での暮らしを思い出すだけで、憂欝感に襲われそうになった。頭を強く振ってそれを払いのける。今はそんなことを考えている場合ではない。一刻も早く寝所を探さなければ、明日がない世界にいるのだ。


葉っぱでパイプをつくり、小川の中で眠るのはどうだろうと考えたが、体温の低下を懸念してやめることにした。

ピューマの死体を髪でつくったロープで結び、たすきのようにかけると、サトルは再びワイヤーを伝って森の中を進んで行く。

言い伝えで聞いていた山小屋がどこかにないかと探していたが、森を深く進んでも一向に見つからなかった。

やがて日が沈み始め、サトルはやはり木の上まで登って、そこで眠ることにしようと思っていた。木を登っている最中に虫を潰してしまうリスクがあるが、他に考えが浮かばなかった。なるべくワイヤーの近くにある木を探しながら進んで行くと、一際カラフルなレインボーユーカリの木を見つける。近づいてみると、ワイヤーから飛び移れそうな距離にそびえていた。


サトルは一目見て、レインボーユーカリの木を気に入り、この木の上を寝所にすることに決めた。サトルは足でワイヤーを掴み、水平に体を伸ばすと、虫が群がっていないか確かめてから、レインボーユーカリの木に飛び移る。両手足の親指だけを使って、虫を潰してしまわないように気を付けながら、スイスイ登って行く。50mほどの高さにある枝まで登って来ると、腰掛けてひと休みする。

黄昏時で、遠くに不殺生国の人間街が見えた。サトルは、あの街にいる穀物と果実とミルクの食事を済ませて眠るだけの人間たちを可哀想だと思った。真っ暗になる前に、ピューマの死体を肉と骨と皮に分けた。特に気に入ったのはピューマのキバだった。槍の反対側にキバを髪の毛で縛りつけて、攻撃力を強化する。

長いしっぽの皮はハイエナの袋に結び付け、肩にかけやすいようにした。頭蓋骨でつくった水漏れする水筒も、ピューマの皮を使って改良を施した。

すっかり夜になり、サトルは髪の毛のロープで木と体を結んで眠ろうとしたが、何者かがこちらに向かって登って来る。


サトルは髪の毛のロープをしまうと、強化した槍を手に取る。独特の脚の動きで、近づいてくるのは蜘蛛だとわかる。サトルは射的距離に入って来たら槍で撃退しようと思っていたが、その蜘蛛は射程距離にギリギリ入らないところで止まった。

蜘蛛の様子を伺っていると、脚が7本しかないことに気づく。昨晩、メスの蜘蛛に捕食されかけた、可哀想なオスの蜘蛛だとサトルは思った。ピューマの肉を投げてやると、7本脚の蜘蛛は器用にキャッチして捕食する。サトルはお腹を満たせば帰ってくれるかと思ったが、7本脚の蜘蛛はさらに近付いてきた。


攻撃しようか迷ったが、サトルは上に登って逃げることにした。脚をもう1本切り落としてしまうと、この蜘蛛は森の中で生きていけなくなってしまうだろう。

サトルは、せっかく作晩生き延びた命を奪うようなことはしたくないと思い、できる限り上に登って逃げることにしたのだ。

すると、7本脚の蜘蛛は枝と枝の間に水平な巣をつくりはじめる。こんなところに巣をつくられたら、眠ることができないとサトルは困惑した。7本脚の蜘蛛は巣をつくると、最初に止まったところまで木を降りて行く。

この7本脚の蜘蛛は一体何がしたいのだろう、とサトルはその行動を見てさらに困惑する。なぜ垂直ではなく水平に巣をつくったのか、その理由をサトルは考えてみると、もしかしたらそうかもしれないと一つの答えが見つかった。

これは7本脚の蜘蛛が、自分の為につくってくれた寝所ではないかとサトルは思ったのだ。


手足や後頭部にピューマの皮を巻いておけば、巣の上で寝ても素肌に糸がくっつくことはないから、自力で離れることができる。こんな体験、滅多にできることではない。サトルは危険を承知で、蜘蛛の巣の上で眠ることにした。睡眠ボックスより寝心地がよかった。言い伝えで聞いていたハンモックのようだった。サトルは瞬く間に眠りに落ちた。

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