第2話 退屈にさよならを

夜になっても雨は一向に止む気配がなく、風も強くなり始め、サトルはロープで腕と脚を縛りつけ、必死に耐えた。

雨は二日後の朝方まで降り続けた。サトルは体力を激しく消耗していた。さらに困ったことに、風邪をひいてしまい、発熱で頭がぼんやりとし、クシャミが止まらなかった。クシャミをする時は手で口を押さえて、口を開かないようにしていた。


何度か嘔吐しかかったが、胃液を吐いてしまうと、地面にいるアリやダンゴ虫を殺してしまう恐れがあるので、サトルは口まで上がってきた胃液を必死に飲み込んだ。サトルはどうにかしてクシャミを止めたかったが、もはや手遅れだった。

1頭のハイエナが近寄ってきて、声を出して仲間を呼び始めている。サトルはワイヤーに腰掛け思案した。これでは、ワイヤーに掴まって進むことは不可能である。

ワイヤーの上に立って歩いて進む方法もあるが、ただでさえバランスを崩して落ちてしまうリスクが高い上に、雨の影響でワイヤーは滑りやすくなっている。


上空にはカラスが一羽飛んでいた。ヒロシだろうかとサトルはしばらく見ていたが、たとえこのカラスがヒロシだとしても、助けてくれるわけではないので、一旦忘れることにした。

仕方なく貴重な人骨を1本、遠くへ投げてみたが、ハイエナはサトルから離れようとしなかった。

胃酸をかけようとも試みたが、肝心な時に出てこない。そうこうしている間に、12頭ものハイエナが集まって来る。

ハイエナは4mの高さがあるワイヤーまでジャンプしても届かないが、こうして目立っていると、ライオンやチーターなど跳躍力のある猛獣の標的になってしまうことをサトルは恐れていた。

殺してしまうリスクが高まるが、やはり生き抜くためには身を守る武器が必要だと判断する。


人骨を1本折ると、尖った部分を先にして、もう1本の人骨に髪の毛でしっかりと結び付け短い槍をつくる。

噛みつこうとするハイエナの1頭をこの槍で刺せば、ハイエナ同士が共食いを始め、その間に前進できるのではないかとも考えたが、よほどお腹を空かせていない限り、共食いをしないだろうと思い、その案を却下した。

仕方なく左脚を切り落とし、餌としてハイエナに与え、人骨が着ていた衣服を使ってすぐに止血すれば、この難局を乗り越えられるかもしれないとも考えた。

しかし、そんなに都合よく止血できるかサトルは確信が持てなかった。


やはり最初の1頭と闘っておくべきだったと強く後悔した。水筒よりも槍を先につくっておくべきだった。現に頭蓋骨と古びた生地でつくった水筒からは水が漏れており、ほとんど残っていない。不殺生国を出てからは、一つひとつの判断が命取りになると肝に銘じていたが、慎重になりすぎていた。

サトルは泣いた。生まれて初めて泣いた。自分はもっと賢く、勇敢だと思っていた。そんな自分は他の人間と違って、不殺生国で穏やかに死ぬのをただ待つことができないと思い上がっていた。彼らは知っていたのだ。自分の弱さを、自然の厳しさを、言い伝えから学びとっていたのだ。


サトルはもっとも危険な感情を抱きそうになっていた。この荒野でその感情に支配されてしまうと、一日と持たず死ぬことになる。サトルはその感情を振り払う為に、噛みつこうとするハイエナを槍で突いた。次から次に噛みつこうとしてくるハイエナを何度も何度も槍で突いた。殺してしまったら仕方ないと覚悟し、力いっぱい槍で突いた。

傷を負ったハイエナの群れは、サトルの必死の抵抗に降参して、動けなくなった1頭を残して去って行く。

サトルは叫んだ。動物たちの目を気にしないで叫んだ。サトルは恐怖心に打ち勝った。もし恐怖心に支配されていたら、今頃ハイエナたちのランチになっていた。


動けなくなったハイエナのもとに一羽のカラスが飛んでくると、口ばしで突いて食べ始める。

「オエッ、相変わらずくせーし、クソまずいな」

そう言いながらも、ヒロシはハイエナを食べ続ける。

「生きるためだ。お前も食うだろ?」

サトルは首を横に振る。生肉を食べたことがなかったので試してみたいと思ったが、言い伝えで生肉は食中毒になるリスクが高いと聞いていた。

「人間なんかに生まれて可哀想に。それじゃお前が大好きに骨をやるよ」

サトルは頷き、ハイエナの皮を指さす。

「わかった、わかった。皮がほしいんだな」

サトルは大きく頷く。

「お前、人間の割に賢いな。気にいったよ」

そう言うと、ヒロシは食事を続ける。サトルはライオンなどの獣が寄ってこないか目を光らせた。


「これ以上食べると、飛べなくなっちまう」

ヒロシは食事を終えると、そそくさと飛び去って行った。

サトルは足でワイヤーに掴まり、地面に虫がいないか確認をしてから、久しぶりに地上に降りる。悪臭に耐えきれず、胃液をハイエナの死体にかけてしまう。

今頃出てきても遅いと、サトルは胃液を睨みつけてから、ハイエナの死体を抱えてワイヤーの上に登る。

上空にはハゲワシが3羽飛んでいる。サトルは槍を使ってハイエナの皮を剥ぎとると、手際よく袋をつくり、髪の毛のロープとつないで肩にかけられるようにする。

残った肉は切り落として掲げる。ハゲワシが飛んできて、肉を掴んで去って行く。それを何度か繰り返し、サトルはハイエナの骨を手に入れると、人骨と一緒に袋にしまった。

また、槍で残っていた髪を剃り、坊主にすると、切った髪と槍も大事そうに袋にしまう。


仕上げにハイエナの肛門腺を首にこすりつけ、独特の匂いをつけることで血の匂いを消した。

サトルは再びワイヤーを伝い、森へと向かって進んで行く。

発熱と3日間も食事を取っていない影響で体力が落ちていたが、クシャミが一向に止まらないので、猛獣たちの標的にならないように動き続けることを選択していた。

それに胃酸の分泌を抑える為にも、早く森へ入って食料を確保したいという思いもあった。


するとサトルは、森まで100歩ほどのところで、ウチワサボテンを見つける。ワイヤーから降りて5、6歩の距離にある。球体ロボットが追尾しているので、サトルはまだ不殺生国から出ていなかった。

ウチワサボテンは破片から再生できる生き物なので、全部持っていかずに破片を一つでも置いていけば殺生にはならない。

食べられる上に、トゲも役立ちそうだったので、サトルはどうしてもウチワサボテンを切り取りたいと思った。


ワイヤーを足で掴んで、顔を地面に近付けると、アリやミミズ、ムカデがわんさかいる。ウチワサボテンにもアリがくっついている可能性もある。それでもサトルはアリの動きにタイミングを合わせ、足をワイヤーから離すと、両手の指だけで着地し、逆立ちの体勢を取る。そして、両手の親指だけを使って、逆立ちしたまま進み始める。

サトルは髪の毛でロープをつくる練習を終えると、この移動方法をひたすら練習していた。最初は3本ずつの指で移動できるようになり、慣れると2本に減らし、最終的には両手の親指だけで安定して移動できるようになっていた。この練習をサトルが辛いと思ったことはない。暇で暇で仕方なかったので、やることがあることが嬉しかった。


おかげで気が狂うことを防ぐことができた。不殺生国の人間街を出ると決めるまで、サトルの心は病んでいた。毎日毎日、決まった服を着て、決まった時間に決まった食事を与えられ、お風呂に入り、眠るだけの繰り返し。究極の安定に耐えられずサトルは発狂寸前だった。

そんなある日、ワイヤーから落ちて、膝を擦り剥いた。痛かった。いつもと違うことが起きた。その快感は一秒もかからずにサトルを虜にした。

何が起きるかわからない毎日に憧れるようになり、自ら死へ向かって行くこの冒険の準備を始めたのだ。

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