不殺生国

桜草 野和

第1話 黒いロープと白い宝物

サトルは、不殺生国の人間街にたった一つだけある門の前で、日没を待っていた。

人類の命運を左右する大冒険になるとは露知らず。

門の脇には、“希望が先か、勇気が先か”と記された古代のモニュメントが朽ち果てて残っていた。


不殺生国には4mほどの高さにワイヤーが張り巡らされていて、国民の多くがそのワイヤーを掴んでサルのように移動しており、歩いている者はほとんどいない。その為、昔の人間に比べ腕が発達して太く長くなっている。

また、ワイヤーを掴むための跳躍力が必要なため、太ももよりもふくらはぎが太くなっており、足の指は極端に大きくなっている。


なぜそうなったのかというと、不殺生国では以下の定めがある為である。

・人間は最も下等な生物であり、他のいかなる生物の殺生を禁ずる。

・故意、過失を問わず、他の生物を殺した人間は直ちに処刑される。

・人間同士の殺し合いも禁ずる。

・人間は集団を形成することを禁ずる。

・人間は作物を育てることを禁ずる。

・人間が増えないように性交渉を禁ずる。

・人間は神に祈ることを禁ずる。

・人間は1日3回食後に必ず進化薬を服用すること。


この定めが守られるように、国民一人ひとりを監視用の球体ロボットが追尾していた。

歩行中にアリ一匹でも踏んでしまうと、人間は監視用ロボットに捕獲され、人間街の中央に設置されたガラス張りの処刑ルームに連行される。

生き物を踏みつぶした人間は鉄球で踏みつぶされ、焼いてしまった人間は生きたまま火をつけられるなど、生き物を殺した同じ方法で処刑されることになっていた。サトルが知る限り、この処刑ルームが使用されたことはなかった。

人間が視覚的に察知することが困難な為、アリより小さな生物の殺生は、人間の進化が追いつくまで例外として見逃されていた。


この不殺生国は、莫大な富を築いた死の商人『タナカ』が建国した国である。目的は、人間を穏やかに絶滅させること。不殺生国では、穀物や果実、ミルクなどの食料品が無料で配布され、国民は飢える心配をする必要はない。

食器類は食後にすべて回収され、フォーク一つ人間が所有することはなかった。仕事もなく、娯楽施設もなく、お金は存在しない。

病院など医療機関や、治安を守る警察などの組織も存在せず、自分の身は自分で守るしかない。集団の形成が許されないこともあり、苗字は剥奪されていた。


サトルは退屈で気が狂ってしまう前に、何不自由ない不殺生国から出て行くことを決めた。

生き物を殺さないように、自分の身体が通れる分だけ慎重に門を開けると、延々と延びているワイヤーを掴み外の世界へ向かって進んでいく。

サトルは体力の消耗と体内の水分消費を抑える為、夜に出発することを選んだ。

このワイヤーを伝い、不殺生国の人間街から出て行き、戻って来た者はいない。だから、このワイヤーがどこまで続いているのかサトルは知らなかった。

夜が明け始めても、球体ロボットが追尾してきたので、まだ不殺生国から出ていないことがわかる。


延々と続くワイヤーの先に森と山が見えた。生き物がうじゃうじゃいる危険地帯に入る前に、サトルは仮眠をとることにする。

睡眠中とはいえ、何かを殺めてしまったら、二度と目覚めることはできない。

人間街では生き物が入ってこない睡眠ボックスの使用が許されていたが、荒野では今までのように気を抜いて眠ることはできない。

サトルはワイヤーに掴まったまま眠ることを決めていた。不殺生国に時計はないから、どれくらい時間がかかったのかわからないが、サトルは毎日、毎日落ちている髪の毛を拾い集めていた。単調な作業だが、不殺生国ではそれが唯一の楽しみだった。


サトルは拾い集めた髪の毛を編み、ロープをつくる練習をした。道具を所有することは禁じられているので、ロープができるとすぐに解き、またロープをつくる練習を繰り返した。

サトルはこの日のために、髪の毛を伸ばし続けていた。腰のあたりまで伸びた髪を引っこ抜くと、上着の中に入れて行く。抜いた髪の毛を落とさないように慎重に編んでいき、短いロープを3本つくる頃には、日が沈みかけていた。

地上には、行進するアリの群れが見える。サトルはまず、前髪を数本ワイヤーに結ぶと、続いて髪の毛のロープで大きめの輪っかをつくる。

次に2本目のロープでワイヤーに両足を縛りつけ、さらに3本目のロープで左手をワイヤーに結びつける。

最初につくった大きめの輪っかに右腕を通すと、睡眠体勢が完成する。サトルは練習の成果を発揮することができ満足していた。

日没までに仮眠を済ませる予定だったが、最小限の動きを続けたことで、喉の渇きがひどくならなかったので良しとした。

睡眠中に虫を踏みつぶしてしまう心配をせずに、サトルは仮眠をとる。


ワイヤーに結んでいた前髪がプチっと切れた痛みでサトルは目を覚ます。まだ夜は明けていなかった。理想的に仮眠をとることができたと喜んだが、やっかいな問題に直面していることに気付く。

尿意が限界に近付いていたのだ。地面に向かって勢いよく放尿した場合、無数にいるアリを殺してしまう危険性がある。サトルは尿を溜めずに小まめに放尿するつもりだったのだが、うっかり忘れてしまっていた。

脚だけでワイヤーにぶら下がって放尿し、尿を自分で飲むという手段もあるが、尿には塩分が含まれている為、喉の渇きを進めさせてしまう。

サトルはロープを解いて回収すると、ワイヤーの上に座り、どうしたものかと考える。しばらくして3本のロープをつないで長くすると、地面に向かって垂らした。

ロープに注ぐように放尿すると、髪でつくったロープが尿を吸収する役目を果たし、地面にはゆっくりと落ちいく。

サトルはアリが死んでしまわないか気が気ではなかったが、尿が地面に吸収されても監視ロボットに連行されなかったので、事なきを得たと安堵する。

これからは小まめに放尿することを忘れないようにしようと心に誓う。


サトルはロープを腰に巻きつけ、ワイヤーを伝って再び森を目指して進んでいく。やがて夜が明け始め、一羽の鳩がワイヤーに留まる。

サトルはすぐさま鳩を蹴ろうとするが、避けられてしまい危うく脚を突かれそうになる。鳩は攻撃の手を緩めず、サトルの手を突こうとするが、サトルは慌てずにワイヤーの上に登り、鳩を鷲頭掴みにすると、片方の羽をもぎ取り、遠くへと投げる。

カラスが飛んできて、羽のもげた鳩をくわえると、再び飛んでいく。

サトルは鳩が死ぬ前に他の動物が仕留めに来るかどうかの賭けに出たのだ。しかも、投げた鳩がアリを潰してしまう危険性もあった。それでも迷わずに鳩を投げた最大の理由は、ケガを防ぐ為である。

ケガをしてしまうと、血の匂いを嗅ぎつけた猛獣どもの餌食になってしまうことが目に見えていた。


サトルは森へ進むことをやめた。雨雲がこちらに向かってきていることに気付いたからである。ワイヤーに腰掛け、上空の鳥と地上の猛獣の気配に気を付けながら、雨を待つことにする。

その判断は正しかった。周囲を見渡していると、50歩ほどで行けそうな場所に、服を着たまま白骨化している遺体を見つける。ここで立ち止まらずに進んでいたら見逃していたに違いない。

サトルは幸運の喜びを抑えるように努力し、人骨と破けた服を手に入れる方法を考える。頭蓋骨と破れた衣服を使えば、水筒ができるに違いない。他の骨も武器や、ハシゴとして使えそうだ。

しかし、人骨があるということは、猛獣が近くにいる可能性が高いということである。服の破れ方からして、口ばしで突いたというより、爪で引き裂かれたように見える。


ライオンやハイエナを相手にして、無傷で人骨を手に入れることは至難の業である。もっと問題なのが、虫を踏まずに往復で100歩も進むことは果たして可能なのだろうか?サトルはあまりにもリスクが高すぎる為、人骨を泣く泣く諦めることにした。

しかし、一羽のカラスが、ワイヤーに留まって喋り出す。

「さっきの鳩、ありがとよ」

カラスが喋られるように進化したのか、それとも人間がカラスの声を聞こえるように進化したのかわからないが、とにかく意志の疎通ができることをサトルは理解した。

「お礼にあんたの願いを一つ聞いてやるよ」

とカラスが言って来たので、サトルは衣服を着たままの人骨を指さす。

「あれが欲しいんだな?」

サトルはカラスの目を見て、大きく頷く。


カラスは颯爽と飛んでいき、人骨と破れた服を数回に分けて運んでくる。

サトルは髪の毛を引きぬき、カラスが運んできた人骨を落とさないように、しっかりと結びつける。

「お前、狩りができないんだろ?」

サトルは頷いて答える。

「取引しないか?さっきの鳩のようにお前が獲物を弱らせ、俺が仕留める。そして仕留めた獲物の四分の一をお前にやる。力はお前のほうがずっと強そうだからな。それでどうだ?」

サトルは何度も大きく頷いた。これは願ってもいない取引だった。やはりカラスは賢い生き物だと改めて感心した。

「そんじゃ俺は雨が降りそうだから、一旦家に帰るわ。また後でな」

カラスはそう言って飛び立つが、一度戻ってきて、

「ああ、それから俺の名前はヒロシだ。よろしくな」

と付けたして再び飛んでいく。

サトルはすぐに頭蓋骨と破れた衣服を使って水筒をつくった。


やがて雨が降り始め、口を大きく開いて飲み、水筒に水を溜める。これであと3日は水分補給に困ることはない。サトルは好調な滑り出しに機嫌を良くし、不殺生国の人間街を出ることにして大正解だったと思っていた。

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