エピローグ ~汽車の中で~
行きと同じ道を通っても、帰りはまた違った景色に感じられる。
それは見ているときの心が違うからなのかもしれない。アズマは走る汽車の窓からぼんやりと夕焼けの海を眺めていた。
そもそもまったく同じ風景というのは存在しない。例えば、今目に映っている夕陽に染まったこの海も、行きの汽車の時間では見ることができなかった。そして、この夕陽が沈んでしまえば今度は暗い夜の海になる。だから、そのときの景色というのはそのときにしか存在しない。
しかし、たとえ同じ景色を見られたとしても感じ方は違うだろう。
その景色を捉える自分の心は常に変化するから。
「夕陽に染まる海も綺麗だな」
アズマは同じように外の景色を見つめるフィールに話しかけた。彼女は窓の外に目を向けたまま、少しだけ微笑んだ。
「私はこの時間帯の海が一番好きかもしれない」
「どうして?」
「何というか覚えていたくなるの」
どこか憂いを帯びた笑顔は赤色に染まっていた。
「確かに。かけがえのない感じがするよな」
「そう。いつまでも記憶に残しておきたくなる」
彼女は海のほうを眺めながら、一瞬だけ目を瞑って首を振る。
「でも、それは無理。どんなに素晴らしい景色でもそのまま覚えておくことはできない。『夕陽に染まった海を見た』っていう思い出にしかならないのよ」
何だか胸が締めつけられるような気持ちになり、アズマはギュッと唇を噛んだ。
フィールの言うことはまさしくその通りなのかもしれない。今見えている景色もいずれは過去のものになり、「印象」としてしか残らない。自分の記憶の中にある「それ」が、本当に「そのときの風景」であったかは定かではなくなるのだろう。
そういった心象風景はきっと誰しもが持っている。いつかどこかで見たことがあるような景色として、あるいは世界のどこにもないようなかけがえのない光景として、心の中にぼやけた像を残し続ける。
もし、それが悲しいのなら……。
「だったらさ」
一つの考えが浮かび、アズマは窓の外を見つめるフィールのほうに顔を向ける。
「俺と一緒に見た、って覚えておいてくれないか?」
彼女の頬が先ほどよりも赤くなった気がした。
実を言うと、発言したアズマも相当恥ずかしかった。何を言っているのだ、と自分に突っ込みを入れたかった。
でも、この考えはどうしても伝えておきたいと思った。
「その記憶はさ、なくならないだろ? ガンザさんの家に行った後、帰りの汽車の中で俺たちは夕陽に染まった海を見た。これなら覚えておける。フィールに『忘れたい』って言われたらどうしようもないけど……」
「忘れたい……わけないでしょう?」
フィールはどぎまぎしながら「覚えておくわ」と呟いた。
夕陽が地平線の向こう側に沈んでいく。
帰りの汽車はマルスからどんどん離れ、アズマたちの家がある街を目指していた。行きに通った鉄橋を渡る頃には外の景色は暗くなり始め、車内には照明が点灯した。
「ユーリ市に着く頃には完全に真っ暗になりそうだな」
アズマは夜の景色に変わりつつある外の様子を窺う。
「そうね。駅に着いたら急いで帰らないと」
「家まで送ってくよ。暗い夜道を一人で歩かせるわけにはいかないし」
「いいの? ありがとう」
フィールは申し訳なさそうに、けれど嬉しそうに笑った。
この調子だと、家に帰るのは相当遅くなりそうである。でも、仕事は明日も休みだから早起きする必要はないし、今日早く家に帰ってもこれといってやることもないので、遅くなっても特に弊害はない。むしろ、家に送る分だけ彼女と長く一緒にいられるので幸せな気がした。
さて、明日からは何をしようか。
まずはガンザに会えたことと彼がいずれ街に戻ってくることを親方に報告して、それから今回話を聞いて回った人たちにもそのことを伝えにいかなければならない。そうやって街の人々の協力を得ていって、少しずつガンザが帰ってきやすいような環境を作っていく必要がある。時間はかかるかもしれないが、努力を続けていけば街の雰囲気も変わっていくだろう。
それと、フィールのことも忘れてはならない。これから先、アズマはできるだけ彼女の傍にいようと決めたのだ。間を空けたりせず、またすぐに会いに行こう。
数日後からは仕事も再開し、夏休みが終われば学校も始まる。忙しいように思えるが、アズマはその日々が楽しみでもあった。自分の知らない世界がまだまだたくさんあるということがわかったから。
汽車がユーリ市の辺りまで帰ってきた頃には、窓の外は汽車の中から漏れ出す光によって微かに近くの様子が見えるだけで、それ以外の遠くの景色はすべて闇に覆われていた。
二人はそんな夜の車窓を眺めながら、ひっそりと会話をしていた。
「今、どの辺りを走っているのかしら」
「どうだろう? 時間的にはもうすぐ駅に着きそうだけど」
心配するまでもなく汽車は確実に駅へと向かっているはずだが、現在地がわからないというのは不安なものである。何か目印になりそうなものはないかとアズマは目を凝らして探してはみるが、暗くて見当もつかなかった。
「やっぱりわからないな」
諦めて車内に視線を戻しかけた、ちょうどそのとき。
――突然、光に包まれた。
あまりに唐突だったので何が起こったのかまったくわからなかった。アズマはびっくりして窓のほうを再び確認し、その光の正体を見つける。
「小麦畑だ!」
アズマたちが乗る汽車のすぐ脇で、大量の小麦の穂が一斉に大きく揺れていた。それらは汽車の明かりによって眩いほどに照らされ、何もなかった暗闇の世界に輝かしい金色の光の波を作っていた。
アズマとフィールは言葉もなく、ただその様子に見惚れていた。
いつかこの光景も心象風景のように思えてしまうのだろうか。どんなに手を伸ばしても届かないような心の中だけの風景に感じられてしまうのだろうか。
でも、そうだとしても構わない。今、確かにこの風景はここにあって、アズマはフィールと一緒にそれを見ているのだから。
二人を乗せた汽車は黄金の中を走っている。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます