八、ユーリ市長ガンザ

 運命の一日が始まった。十年間ずっと閉ざされたままだったガンザへの扉が開かれるかもしれない。そんな日がついにやって来た。


 駅に向かう道中、アズマは一度ズボンのポケットからあの銀色の懐中時計を取り出した。


 忘れるわけにはいかない大事な物。長い間止まっていた時計も今はしっかりと動いていて、今日という日の一秒一秒を刻んでいる。修理をした親方の想いを無駄にしないためにも、何としてもこれをガンザのもとへ届けたい。


 アズマは再び時計をポケットにしまった。


 駅に着いたのは待ち合わせの時間の五分前だった。フィールはまだ来ていないようだったので、アズマは駅のホームのベンチに座って待つことにした。約束の時間は九時半だが、実際に汽車がここを発車するのは十時なので、多少遅れても問題はなかった。


 ユーリ市の東部にあるこの駅は街唯一の汽車が通る駅だが、その割にはそれほど広くもなく、駅舎もだいぶこぢんまりとしている。現在、ホームにいる人の数もまばらで、目で追って数えることができる程度だった。時刻表通りなら先ほどの汽車が何分か前に出ていってしまったはずなので、アズマたちが乗る次の汽車の時間が近くなればもうちょっと人が集まることが予想できた。


 都会の駅はきっとこんなではないのだろう。見える光景も、匂いも、音も。アズマは屋根のないベンチに照り付ける夏の日差しをまともに受けながら、のどかな街の良いところと悪いところの両方を感じていた。


 フィールは待ち合わせの時間から三分ほど遅れてやって来た。彼女はベンチに座っているアズマを見つけると、申し訳なさそうに小走りで近づいてきた。


「ごめんなさい。遅れてしまって」


 ベンチの前に立ったフィールは呼吸も整わないうちに深く頭を下げた。


「い、いや、別に大丈夫だ。どっちみち汽車がここを出るのは十時だし」


 フィールの姿を目の前にしたアズマは、いつもとはまた少し違う彼女の麗しさに思わず見惚れてしまい、慌てて返事をした。


 黒い薄手のブラウスに白のスカート、手には今頭を下げたときに取った黒のリボン付きの麦わら帽子。いつもの彼女の可憐さや上品さに加え、大人の女性としての美しさも兼ね備えたコーディネートだった。


「何ていうか、その、いつもと雰囲気が違うな。大人っぽいっていうかさ」

「ナターシャがね、今日はお爺様に会えるかもしれないんだから成長した姿を見せられるようにって選んでくれたの。……どう?」

「よく似合ってる……と思う」


 先ほどまで見惚れてしまっていたことに恥ずかしくなって、アズマは彼女から目線を逸らしつつ答える。


「……ありがとう」


 フィールはほのかに顔を赤らめながらそう呟き、長いダークブラウンの髪を手で整え、その上に再び帽子をちょこんと乗せた。


「汽車はまだ来ないだろうし座ってな。立ってると疲れるだろ?」

「そうね。そうするわ」


 スカートにしわが寄らないように注意を払いながら、フィールはゆっくりとベンチに体を預けた。


 空は雲一つない快晴で、旅をするには絶好の日和だった。旅とは言っても、決して楽しいという感情が優先されるようなものではなかったが。


「フィールは昨日よく眠れたか?」

「ううん。実はあんまり。寝坊したらいけないと思って早めにベッドに入ったんだけど、なかなか寝付けなくて何度も目を覚ましちゃった。アズマは?」

「俺も昨日はよく寝られなくてさ。眠りにつく直前まで考えごとしてたのが原因だろうけど」

「考えごとってお爺様のこと?」

「そう。でも、そのおかげですごいことに気がついたんだ」


 昨日、推理を重ねて辿り着いた答え。そのあまりの衝撃にアズマの頭は冴えてしまい、目を閉じてみてもしばらく眠れなかった。


「すごいことって何?」

「まあ、それは汽車に乗ってからのお楽しみだ」


 本当はフィールにも早く教えてあげたいのだが、汽車の乗車時間はおよそ二時間半もあるのでその時間を利用して披露するほうがいいだろう。アズマは高ぶる気持ちを抑え、今は別の話をすることにした。


「それはそうと、俺昨日トーマスさんと会って、ガンザさんを捜しに行くことを伝えたんだけどさ」

「本当に? トーマスは何か言ってた?」

「二人にとっての解決を目指してくれればいい、だってさ」


 アズマは話しながら思う。自分たちにとっての解決をどう定義するかは難しい。たとえ自分があの演説の件に関する答えを持っていたとしても、ガンザが見つかるかどうかはまた別の話なのだ。再会して話すまでを含めて解決というのだとしたらまだまだその可能性は低い。


「そう言われても困るよな。ガンザさんに会えるかどうかもわからないんだし」

「そうね。私もそれについてはずっと考えてたんだけど……」


 フィールは顔を俯かせて帽子を深くかぶると、自らの想いを語った。


「私個人としては、今日駄目だったとしてもお爺様に会うことを諦めたくないの。可能性がある限り何度でも捜しに行きたい。せっかくここまで来て、これだけたくさんの人に協力してもらって、それなのにこのまま終わりなんて嫌だ。でも、それは私の身勝手な考えなんだよね、きっと」

「身勝手ってことはないだろ? 俺だって見つかるまで捜そうって気持ちはあるし」

「だからなのよ、アズマ」


 フィールは顔を上げて振り向き、どこか悲しげな笑顔をアズマに向けた。


「あなたは私が諦めないって言ったら、いつまでも一緒に捜してくれるんじゃない?」


 思いもよらない一言だった。アズマは戸惑いを隠せない。


 もし、フィールが諦めないって言ったら自分はどうするだろうか。


 ――もし見つからなければ諦めて帰ってこい。


 ベンがそんなことを言っていた。ナターシャも同様のことを言っていて、アズマはそれらに頷いた。


 今日行って見つからなければ帰ってくる。それに反対する気はなかった。


 だけど、その後はどうする? 今日が駄目だったら明日以降は諦めるのか? 仮にフィールが捜すと言っても?


 ……そういうことだったのか。アズマはようやくベンやナターシャが、そしてフィールが心配していることがわかった。


「俺はフィールが諦めないのならガンザさんを捜し続けるかもしれない」


 結局、アズマはフィールの意思で、つまりはフィールが自ら「身勝手」と呼んだその考えによって動かされてしまうのだ。今日が駄目でも、彼女が希望を捨てない限り、アズマは立ち止まらない。


「だったら私は、今日を最後に……」

「いや、早まることはないよ、フィール」


 目を丸くする彼女にアズマはそっと微笑みかけてから前を向く。


「たとえ俺がフィールの意思に動かされているとしても、そこには俺の意思も間違いなく入ってる。だから、今日がもし駄目だったら、これからのことはまたお互いに話し合って決めればいい。多分、それが俺たちにとっての解決だ」


 これでいいのだろう、とアズマは思う。いつまで経ってもガンザの消息がつかめなければ、どちらにしたって続ける理由よりも辞める理由のほうが上回るときがくる。


 だからこそ大事なのは、早く諦めることでも絶対に諦めないことでもなく、話し合ってお互いの気持ちを共有することだ。


「それに、俺はまだ今日が駄目なんて思ってないからな。せっかくここまで来たんだから、希望を持ってマルスまで行こうぜ。まずは今日頑張ろう!」


 アズマは目の前でガッツポーズをしてフィールを元気づける。


「まずは今日……本当にその通りね。私、先のことばかり考えていて、今に希望を持つことを忘れていたのかもしれない」


 力なく反省を口にする彼女に、アズマは勇気を与えようと懸命に言葉を紡いだ。


「楽観的な考えだけど、案外聞いて回ればガンザさんの居場所を知ってる人が出てくるんじゃないかって思うんだ。調べてみたらマルスってそこまで大きな街でもないみたいだから、家も住んでいる人も多くないだろうし」

「そういえば、確かに人が少なくて穏やかな街並みだった気がするわ」

「あっ、そうか。フィールは行ったことあるんだっけ?」

「街の名前も覚えてないくらい幼かったし、断片的な記憶しか残ってないけどね。曖昧なものばかりで、そのときの記憶なのか、別のときのものなのかも判断がつかないくらいよ」

「でも、行ってみたら何か思い出すかもな。おっ、汽車が来たみたいだ」


 アズマの目線の先には、青空にもくもくと灰色の煙を上げながらカーブを曲がってくる黒い汽車が見えた。アズマたちはあの汽車に乗って旅に出る。解決へと向かって。


 ホームに入ってくる汽車が威勢のいい汽笛を響かせる。


「さあ、行こう」


 アズマの声がそれに続き、二人は駅のベンチを立った。



   ***



 駅を出発した汽車は西へと向かった。駅は市の東部にあるので、初めに見えてきたのは見慣れたユーリ市の景色だった。車内のボックス席に向かい合って座るアズマとフィールは大きな窓から移り変わる景色を眺めていた。


「そろそろ時計台が見えてくるはずだ」


 汽車は緩やかにカーブし、黄金色の小麦畑の中へ入っていく。


 ゆらゆらと揺れる穂の向こうに堂々とそびえ立つ時計台。その姿はいつも以上に頼もしく感じられて、普段整備をしているアズマも誇らしい気分になった。


「一昨日はあそこから汽車を見ていたのよね。何だか不思議な気分だわ」

「そういえば、フィールはよく汽車に乗るのか?」

「ううん、あんまり。家族で旅行するときも車を使うことが多いし。アズマはどうなの?」

「実は俺もあまり乗ったことないんだ。遠出とかそんなにしないし、だいたいの用事はユーリ市の中で済んじゃうからな」


 思い返せば、自分には汽車に乗った記憶がほとんどないことにアズマは気がついた。小さい頃は家族で遠くに旅行したこともあったような気がするが、最近はめっきりそんな機会もなくなっていた。大人に近づいてきたのに随分と狭い世界で生きているな、と実感する。


「まあ、そんなものだよね。普段は学校もあるし、普通に生きていると汽車に乗る機会は意外と少ないから」

「良い旅に……なるといいよな」

「……そうね」


 当然、今日は楽しい旅行というわけではない。ガンザを捜しに行くという明確で重大な目的があり、それを無視して遊んだりするわけにはいかないのだ。


 けれど、それも含めて良い旅になればいいな、とアズマは思うのだった。


 汽車の中での時間は思いのほか早く過ぎていき、車内でお昼を食べたり、外の景色を見ながら「今度この辺で降りてみたい」と会話をして過ごすその間にも、アズマたちを乗せた汽車はどんどん目的地であるマルスへと近づいていった。


 到着まであと一時間を切った頃、アズマは満を持してあの話を切り出した。


「そろそろ昨日の発見について話そうかな。フィール、聞いてくれるか?」

「さっき言っていた、『お楽しみ』のこと?」

「そう。俺、わかっちゃったんだ」

「何がわかったの?」

「……ガンザさんがなぜあの日、演説をしなかったのか」

「えっ?」


 フィールは一瞬理解が追いつかなかったのだろう。しばらく口を小さく開いたままの状態でアズマの目を見つめ、それから念を押すように言った。


「お爺様が演説をしなかった理由がわかったっていうの?」


 アズマは頷いたが、彼女の表情は未だに戸惑いの色を隠せていなかった。


「どういうことなのか説明してくれない? まだ全然ついていけてなくて」

「もちろんだ。今から詳しく話すよ」


 昨夜の自分の行動を振り返りながらアズマは話し始める。


「そもそも、俺がその答えに辿り着いたのは昨日の夜なんだ。フィールから借りたメモを比較してみて、俺はあの演説のメモが特別苦労して作られたものであると感じた。書き直しの跡が他のものと比べて圧倒的に多かったからね」

「でも、それは大事な演説だったからで、推敲の回数が多くなるのは当然なんじゃない?」

「確かにそうなんだけど、あの演説メモを詳しく読み解いてみて、内容にある問題点が浮かび上がったんだ」

「問題点?」


 首をかしげるフィールにアズマは尋ねる。


「フィールは演説メモの文章を読んでみた?」

「一応は読んだつもりだけど……」

「それを見てどんなふうに感じた?」

「どんなふうって……別に変なことを言っているとは思わなかったけど……」


 様子を窺いつつ、フィールは弱々しい口調で答えた。


「そこなんだよ。絶対にここが変だ、っていうところはない。だけど、逆にそこが盲点だったんだ」

「どういうこと?」

「つまり、特に目立った主張がないってことなんだ。これからのユーリ市をどうするかについて、ガンザさんなりの解決策が示されているわけではない。言い方を悪くすれば、あの演説は時間稼ぎにしかならないってことだ」

「で、でも、時間が欲しいっていうのも一つの意見でしょ? もっと多くの人の考えを取り入れたりとか、議論を重ねたりするのは無駄ではないし」

「無駄だとは言ってないよ。確かにそういうことも大事だと思う。だけど、それで集まった人たちは納得するか?」

「そ、それは……」


 言葉を詰まらせ、悔しそうに手をギュッと握る。フィールにとって酷なことを言っているのはアズマも承知の上だった。


「そもそもあの演説は、焦燥感に駆られた市民が市長であるガンザさんに半ば強制的に開かせたものなんだ。だから当然、演説では具体的な方針を示すことが求められていたはずだ。それができなければ納得してもらえない」


 フィールは握った手を震わせ、口を固く結んで反論せずに話を聞いている。否定したくても否定できなくて、かといって認めてしまいたくはない。彼女は今、そんな葛藤と戦っているのだろう。


 だったら、言ってあげなければならない。その葛藤は無用だと。


「でも、ここにもう一つの盲点があるんだ」


 アズマが悔しそうに下を向くフィールに優しく語りかけると、彼女は握り締めていた拳を解き、潤んだ瞳で顔を上げた。


「もう一つの盲点?」

「そうだ。みんなそこに気づけなかった。十年前の当事者たちも、まだそのときは子供だった俺たちも」

「それって何なの?」

「どうして演説が行われなかったのに争いは収まったのか、だよ」


 汽笛がフォーと鳴り響き、汽車は長い鉄橋に差し掛かった。


 その橋はまるで答えに続く一本の道のように真っ直ぐ伸びていた。ガタガタと音を立てながら狭い橋の上を汽車が走る中、アズマの推理は徐々に核心に迫っていった。


「それはガンザさんがいなくなった後に残った人たちが、何とか街の状況を立て直そうと一生懸命頑張ったからだ。でも、当事者たちはとにかく必死になってやっていただろうから、その考えには至らなかったと思う。そして、その様子に関してはまだ小さかった俺たちにはわからない。だから、俺たちも盲点に気づけなかった」


 汽車が橋を渡り終えると同時に、アズマは一つの答えを宣言した。


「ガンザさんは自分がいなくなることによって街を一つにしようとしたんだ」


 これこそ、アズマが追究を重ねて辿り着いた結論だった。


「十年前のあのとき、ユーリ市の誰もがガンザさんに期待していた。直接争いの原因を生み出してしまった人たちも、そうではない普通の市民も、ガンザさんなら何とかしてくれるって思ってたんだよ。だから、みんなガンザさんの演説を待っていた。そこで素晴らしい導きがあることを期待して。でもさ、この問題って収拾のつけようがないんだ。だって、誰かのために都合の良い案は別の誰かにとっては受け入れられないものになってしまう。ガンザさんはきっと長い間、どうすればみんなが幸せになれるかって悩んで、そして閃いたんだ。バラバラになった街がまとまる、ただ一つの方法に」

「それが……自分がいなくなることなの?」

「きっとそれしかなかったんだ。その考えに行きついたガンザさんは、それを誰にも相談することなく一人でやり遂げて、自分の名誉と引き換えに街を守った。ガンザさんは決して悪者なんかじゃない。みんなの救世主なんだ」

「……でも、それではお爺様は報われないじゃない」


 フィールの瞳からは大粒の涙がこぼれていた。


 アズマの導き出した答えはガンザの名誉を取り戻すものだ。しかしそれと同時に、そんな立派な彼を一人闇の中へ葬り去ったという悲劇のストーリを描き出している。『救世主』なんて都合の良い言葉をはなむけにして。


「だからこそ、俺たちが頑張るんだ」

「えっ?」

「真実を知った俺たちがガンザさんを闇の中から見つけ出して、それから街の人たちの誤解を解いて回るんだよ! 時間はかかるかもしれないけど、そうすればいつかはガンザさんも報われるはずだ!」


 これ以上フィールが悲しみに暮れないように、アズマは必死に訴えかける。そんなアズマを見てフィールは涙を拭い、迷いを消し去るように力強く頷いた。


「……うん、そうよね。私がしっかりしないと」

「そうだ! 絶対にできる!」


 本当は迷いも悲しみもなくなったりはしないのだろう。それらがそんなに容易く消えてしまうものなら、フィールはこれほど悩むことも、あんなに真剣な涙を見せることもない。


 それでも前を向く彼女だから、アズマはその先に希望を見せてあげたいのだ。


「そのためにも、まずは今やるべきことをやろう。一つ一つ積み重ねていけば、間違いなく正しい方向に進めるはずだ」

「まずはお爺様を捜す……そういうことよね?」

「そういうこと。あっ、フィール、海だ! 海が見えてきたぞ!」


 視界の端に青い海を捉えたアズマは興奮して窓を開けると、車内に冷たい潮風が入り込んできた。


 汽車の窓から見える海は、透明な空の青とはまた違う、深くて神秘的な色をしていた。光の当たり加減で手前と奥とでは少しずつ色が異なっており、この海がどこまでも果てしなく続いていることを感じさせる。


「あれがマルスね。家もいくつか見えるわ」


 気持ち良さそうに風を受けながら、フィールは遠くに見えるマルスの街並みを眺めていた。


「あの海沿いの家のどこかにガンザさんが住んでいるかもしれない。駅で降りたら、街の人たちに訊いてみよう」


 果たして、ガンザはこの街にいるのだろうか。


「誰か知ってるかしら?」

「わからない。でも、やるしかないさ」


 いたとしても、見つけることができるだろうか。


「そうだったわね。私がしっかりしてお爺様の無念を晴らさなくちゃ」


 先のことはわからない。それでも……。


「ガンザさんが悪者になっているこの世界を二人で変えてやろうぜ!」


 アズマはフィールとともに不確実な未来へと進む。


 推論の果てに手に入れた、絶対的な答えを掲げて。



   ***



 汽車が駅に着くと、アズマたちはまず駅の周辺で聞き込みを開始した。ただ当てもなく街の中を歩き回っても見つからないので、何か手がかりを得るためである。


 だが、そう簡単にはいかなかった。一人、二人と尋ねてみるも、なかなか有益な情報は得られない。


「何かお困りかい?」


 そんなとき、アズマたちに話しかけてきたのは一人の杖を突いたお婆さんだった。


「人を探しているんです。この人なんですが知りませんか?」


 フィールは持参してきた一枚の写真を見せて指差した。そこにはガンザと幼いフィールが笑顔で写っている。


「ごめんね。ちょっとわからないや」

「そうですか。お忙しいところすみません」

「いやいや、忙しいなんてことはないよ。ちょうど今、薬を取りに行った帰りでね……。そうだ。薬屋の店主に訊いてみるとええ。この街で薬屋っていったらあそこくらいなものだから、その人のことも知っているかもしれないよ」


 アズマたちはお礼を言って、すぐに教えてもらった薬屋に足を運んだ。


 その薬屋は大きな海沿いの通りから一本中に入ったところにあった。道には数匹の猫がだらんと寝っ転がっていて、平和でのんびりとした空気が流れている。アズマたちは物音を立てて猫たちを驚かさないように注意しながら店内へと入った。


 店の中は思ったよりも広く、数人の客が薬を買いに訪れていた。人当たりの良さそうな眼鏡の老店主がその客たちの相手をしていたので、アズマはそれが終わるのを待ち、手が空いたと思われるタイミングで彼に話しかけた。


「すみません。人を捜しているんですが……」

「この人です。知りませんか?」


 アズマに続いてフィールが写真を見せると、老店主は眼鏡を額のところまで上げ、まじまじと写真を見た。


「これはガンザさんかな?」

「はい、そうです! 知ってるんですか?」


 フィールは目を輝かせて店主に詰め寄った。


「彼はよくこの店に顔を見せてくれるからね。君は……彼のお孫さんかな?」


 嬉しそうにうんうんと頷くフィールに、店主は話を続けた。


「そうか、お孫さんがいたんだね。彼はつい先週もこの店に来て、傷薬を買っていったよ。家の庭の手入れをしていて、手に切り傷を負ってしまったそうだ。でも、心配はしなくていい。見せてもらったけど、浅い傷だったからもう治っているだろう」

「家の場所ってわかりますか?」

「わかるよ。今から彼の家を訪ねるのかい? だったら地図を描いてあげるから少し待っててくれ」


 まさに奇跡だった。ガンザがいまだに健在であることが判明した上に、居場所までわかってしまったのだ。まだ動悸が抑えられない中、老店主はササッと一枚の紙に地図を描き、手渡してきた。


「はい、できたよ。下手で申し訳ないが、この星のマークを付けたところが彼の家だ。海沿いの道に出て、その道をずっと進んだところに彼の家はあるよ」

「ありがとうございます」


 地図を受け取ったアズマとフィールは老店主に深く感謝を告げて薬屋を出た。



   ***



 海沿いの大きな通りを、アズマとフィールは並んで歩く。海のほうからやってくる風はときどき強く吹いて、その度にフィールはふわっと飛びそうになる麦わら帽子を手で押さえていた。外を歩く人の姿はあまりなく、閑散とした海の街――マルスにはゆったりとした夏の午後の時間が流れていた。


 アズマの手には黒いインクで描かれた一枚の地図がある。右上には星印が描かれており、単純な線や図形と説明文でその場所までの行き方が示されていた。この星印の場所がガンザの家ということで、アズマたちは今そこに向かっている。


 ガンザの家に続いているはずの道。長い長い一本道を確かな足取りで進んでいく。もうすぐガンザに会えるという期待と興奮からか、長く続く道のりも気にならなかった。


「信じられないわ、もうすぐお爺様に会えるなんて」


 フィールの声は感動に満ちていた。当然である。十年間会いたいと願いながら会えなかった人と遂に再会できるときが来たのだから。


「私ね、昨日の夜、もしお爺様に再び会うことができたら何を話そうかって考えたの。今までそういうことを考えちゃいけないんだって無理やり気持ちを抑えつけていたから、いざ会えるとなったらなかなか話すことが思いつかなくて」

「そうだよな。十年も会えなかったんだもんな」


 再会を願いながら、叶わない。それがどんなに辛いことだろうか。


 だから、彼女は会いたいという気持ちを胸の奥に閉じ込めた。


 それでも、本当はずっと願っていたのだろう。


 願うことをやめなかったからこそ、今に繋がったのだ。


「でもね、一つ考えついたの。絶対に話そうって思うこと。私がお爺様にお願いしたい、ただ一つのことなの」

「何なんだ、それ?」

「秘密よ。それに言えるかどうかもわからないし」

「そうか。まあ、フィールの好きにしてくれればいいよ。何だったら、そのときだけ席を外してもいいし」

「そこまで気を使わなくてもいいから。むしろ、アズマもいてくれたほうが嬉しいわ」

「なら、そうするよ」


 アズマは深入りせず、視線を右側に広がる青い海に向ける。


「それにしても綺麗な海だよな。ずっと眺めていたいくらいだ」

「綺麗なのには同意するけど、今日は立ち止まっちゃ駄目だよ」


 小さく微笑みを浮かべつつ、フィールはアズマの意見を冷静に却下した。


「わかってるって。ただ言ってみただけだから。まあ、いつか暇なときにゆっくり眺めに来るとするよ」

「……そのときは私を誘ってくれる?」


 二、三歩前を歩いていたフィールはくるっとアズマのほうを振り向き、嬉しそうに手を後ろに組んで返事を待っていた。


「ふ、フィールが来てくれるなら……」

「行くわ。だから、絶対誘ってね」

「わかった。約束する」


 アズマは照れくさくなりながらも、しっかりと彼女にそう告げた。


 今、アズマがフィールと交わしたのはこれからの約束で、その考えはガンザの件に区切りがつこうとも変わらない。彼女と一緒にいられる時間は大切にしたい、という純粋な気持ちに向き合えるようになったアズマには、こういった一つ一つの出来事がかけがえのないもののように感じられた。


 フィールとガンザの時間も本来なら失われるものではないはずだった。しかし、突然の出来事によって、約束もできないまま二人は離れ離れになってしまったのだ。


 時間は巻き戻らない。でも、再会することができたなら、これからまた思い出を作ることはできる。


「地図によるとこの辺みたいだ」

「あっ、あの家じゃない?」

「そうかもしれない。行ってみよう」


 アズマたちが見つけた高台にある赤いレンガ造りの家。一戸建てのその建物はあまり大きくなく、代わりに庭が少し広めになっていた。高台の下はすぐ海という好立地な物件で、家の小さな窓からは海が一望できそうだった。


「あの家に……お爺様が」


 フィールは家まで続く長い坂に息を切らしながらも、顔を上げて目標地点をしっかりと見据えていた。ここまで歩いてきた分の疲れはあるのだろうが、最後まで音を上げたりはせず、力強い足取りで前へと突き進む。


 家の庭の前まで来て、アズマたちは慎重に辺りの様子を観察した。間違いである可能性もあるし、合っていたとしても外出中ということもある。高まる緊張感とともに、ゆっくりと庭の中へ足を踏み入れていった。


 ふと、庭の草陰のほうからガサガサと音がした。しゃがんで草むしりをしていたと思われる白髪の男性がふうっと立ち上がって顔を出す。


 その瞬間、フィールはハッと立ち止まった。そして、小さく声を漏らす。


「お爺様……」


 一方で、アズマたちの視線に気がついたその男性は、何事かとこちらの様子を見つめていた。最初は怪訝な顔を見せていたが、ある時点からそれが驚きの表情に変わって、しばらくそのまま立ち尽す。


「お爺様! 会いに来ましたわ!」


 今度は相手にもちゃんと聞こえるような大きな声で叫んで、フィールは脇目も振らず彼のもとへ駆け寄って行く。


 その勢いでかぶっていた麦わら帽子がヒューと飛んだ。後を追うアズマは慌ててそれをキャッチしながら、二人のほうへと走った。


「フィール、フィールなのか?」


 未だに戸惑いを隠せないその男性の胸に迷いもなく飛び込んだフィールは、目に涙を浮かべながら何度もうんうんと頷いていた。


 感動の再会は、こうして果たされたのだった。



   ***



 ガンザは年を重ねても以前と変わらず紳士的で優しそうな風貌をしていた。白い髪の毛や眉毛、顎鬚などはきっちりと長さが切り揃えられていて、そういうところからも彼の几帳面さや真面目さを窺い知ることができる。


 家の中に案内されてすぐの段階で、アズマは簡単に自己紹介をした。アズマは幼い頃に市長として皆の前に立っているガンザを何度か見たことがあったが、ガンザからしてみればアズマのことは知る機会がなかったからである。


「なるほど。そうか。君はベンの弟子なのか」


 説明を聞いたガンザはアズマの顔を感慨深げに見つめた。


 アズマとフィールは海が見える窓辺のソファーに座っていた。そして、家の所有者であるガンザは少し離れたところにある安定の良いアームチェアに腰掛けている。


「ということは、この場所のことも彼から聞いたのかな?」

「そうです。親方が教えてくれました。ガンザさんがいるとしたらマルスだろうって」

「やはりそうだったか。ベンとはこの街について話したことがあったからな」

「お爺様、どうして私たち家族には教えてくださらなかったのですか?」


 ガンザの呟きを聞いて、先ほどから黙っていたフィールが悲しげに声を上げた。


「ごめんよ、フィール。どうしても言えなかったんだ」


 離れたところに座るガンザは顔を伏せ、暗い表情で反省を口にしたが、フィールの想いは堰を切ったように溢れ出す。


「どうして家族にも言わないで急にいなくなってしまったの? 街の人たちの中にはお爺様のことを悪く言う人もいて、私はどうしたらいいのかずっとわからなくて……」

「本当にすまないことをした」


 ガンザは深く丁寧に頭を下げた。おそらくそうやって謝るしかないと思ったのだろう。彼は何度も彼女に対して謝罪を繰り返した。


「本当にすまない。本当に……」


 放っておけばガンザはこのままいつまでも謝り続けるに違いない。真面目な性格のガンザが失踪してからもずっと彼女に対しての後悔を積み重ねていたとしたら、懺悔は一生終わることはないはずだ。


 もうこの辺でいいだろう。


 それよりも、今は話さなければならないことがたくさんある。


 例えば、推理の答え合わせとか。


「ガンザさん、少し聞いて欲しいことがあるんですけどいいですか?」


 アズマは勇気を出し、恐る恐る手を挙げた。


「何でも遠慮しないで言っておくれ」

「ありがとうございます」


 いよいよ十年前のあの演説の件に決着をつけるときが来たようである。アズマは礼を述べ、一度深呼吸をしてから話を切り出した。


「実はここに来るまでに、ガンザさんが失踪した理由をいろいろと探ってきたんです。今日ここに辿り着くことができたのもそれがきっかけでした」


 ガンザにとっては触れて欲しくない内容だろう。しかし、話さないと先には進めない。アズマは悩む心を振り切って、これまでの経緯を詳細に語り始めた。


「先日、俺たちはガンザさんが残した演説メモを見つけました。失踪直前にガンザさんが市民の前でするはずだった演説のためのメモです。俺は当時の状況について無知だったので、とにかく情報を得ようといろいろな人に話を聞いて回りました。運転手のトーマスさん、農業組合の代表だったラファエルさん、工業組合の代表だったハリスさん、秘書のメリッサさん、それから親方もです」


 一人一人の顔が浮かぶ。アズマは彼らの想いを必死で代弁した。


「十年も前のことなのに、みんな今でも悲しんでいました。あのときこうしていればこんなことにはならなかったんじゃないか、って本気で後悔しているんです。いなくなられた側の人たちも辛い思いをしているんですよ!」


 感情移入して、思わず叫んでしまった。


 冷静にならなければ、とアズマは自らをなだめる。こんなことを言うためにこの話を切り出したのではない。自分はガンザの理解者であるということを伝えたかったのに、これでは逆に彼を責めてしまっている。


「取り乱してしまってすみません。こんなことを言うつもりじゃ……」

「いや、いいんだ。君の言っていることはすべて正しい。私はそんな優しい人たちと向き合おうともしなかったひどい人間なんだ」

「そんなことありません。ガンザさんは……」


 アズマは喉まで出かかった言葉を飲み込む。


『ガンザさんは良い人です』


 アズマが話を聞いてきた人たちは皆、そのような印象を彼に抱いていた。実際に関わった人たちがそう思うということは、それは間違いではないのだろう。


 だからこそ、アズマがその言葉を口にしてしまうのは軽々しい気がした。そういうことを言えるのはもっと深い付き合いになってからだ。初めて会っていきなり「良い人です」と言われても素直に受け入れられないはずである。


 でも、アズマは知っている。


 ガンザがその言葉を受け取るのにふさわしい人物であるということを。


「演説の件ですが、メモを見つけてから俺なりにいろいろと考えてきました。そして、わかったんです。ガンザさんが十年前のあの日、演説をしなかった理由が。まだ誰も気がついていないガンザさんの真意が」


 ガンザは驚いた様子でアズマの顔を見た。アズマは彼に向けてコクッと頷く。


「得られた証言や証拠をもとに考えてみました。あくまで俺の推測ですが、どうか最後まで聞いてください」


 アズマが今から披露しようとしているのは、先ほど汽車の中でフィールに語った推理である。


 たくさんの人の想いを汲み取ってできた、切ないけれど完璧な答え。


 ――矛盾はないはずだった。


 アズマは冷静さを意識しながら、あくまで理路整然と段階を追って説明していった。


「……というわけで、ガンザさんはユーリ市から姿を消した。以上が、俺の推理です。どうでしょうか?」


 どのくらいの間、一人で喋っていただろうか。長い話を終え、アズマはようやく息をついた。


 話し手がいなくなった部屋の中には深い沈黙が訪れた。ガンザは話が始まってから終わるまでとうとう一度も口を挟まなかったが、真剣に耳を傾けてくれていたのは間違いなかった。


 どういった気持ちで聞いていたのかはわからなかったけれど……。


 アズマは静かにガンザの返事を待った。何分でも待とうと思った。フィールもまた同じ気持ちなようで、何も言わないでガンザのほうを見つめていた。


 そして、ついに長い沈黙が破られた。


「――違う」


 静寂に包まれていたせいか、その声ははっきりと耳に届いてきた。


 申し訳なさそうにこちらを見つめる目。耳の奥でこだまする否定の言葉。


 アズマが衝撃のあまり何も言えないでいると、ガンザは首を振ってもう一度強く主張した。


「違うんだ。それは私の真意ではない」


 自らが組み立てた推理が音を立てて崩壊していくのを感じた。


 違う? いったい何が?


 先ほどまで自分の推理を疑いもしなかったアズマはその反動からか焦りが止まらない。


「本当のことを話そう」


 動揺を隠せないアズマをよそに、ガンザはとうとう演説をしなかった本当の理由を語り始めた。


 それはアズマが考え得る限り、最悪の答えだった。


「私が演説をしなかったのは何か策があったからではない。ただどうしようもなくなって逃げ出しただけだ。演説をやると宣言したもののどうしてもうまく内容をまとめることができず、直前になってプレッシャーと恐怖を感じて逃亡した。私は君の言うような勇敢な人間ではない。自らの都合で市民を置き去りにした、非難されるべき最低の人間だよ」

「そ、そんな……」


 ガンザが街から姿を消したのには何か理由があると、常にそう信じてきた。


 だからこそ、アズマは本気で考え、それを探したのだ。


 それなのにその理由が、どうしようもなくなって逃げ出しただけ、なんて。


「この真相はおそらく君が望んだものとはかけ離れているのだろうね。がっかりさせてしまって申し訳ない」

「……いえ、俺が勝手に正しいと決めつけていただけで……」


 アズマは絞り出すようにそう言った後、ハッとなった。



 ――正しさは理想であって現実ではない。



 その言葉を教えてくれたのはハリスだっただろうか。言われたときには意味がわからなかった大人の教訓を今になってようやく理解することができた。


 ガンザが失踪したのにはそうせざるを得ない理由がある。純粋にそう信じて、なおかつそうやって信じることが正しいと思ってアズマは行動してきた。そうすることで答えに辿り着けるのだと思っていた。


 だけど、それは理想だったのだ。理由がそうであればいい、という願望が先にあって、実際のガンザの気持ち、すなわち現実は無視していたのである。


 ああ、そういえば他にも助言をしてくれた人がいたじゃないか。



 ――人は皆、納得するための都合の良い理由をつけたがる。



 自らのことを外側の人間と称したナターシャの台詞。いつの間にか、自分は彼女の言う「自分自身が納得するための都合の良い理由をつける人」になってしまっていた。



 ――アズマ君はそれに惑わされないようにね。



 自分はそういった人たちとは絶対に同じにならないようにと誓ったのに。自分だけは上辺の情報に惑わされずに真実を突き止めるって決めたのに。


 気がつけば、自分も彼らとまったく変わらなかった。むしろ、一番ひどいくらいだ。


 アズマは自らの過ちに、大きな挫折と失望を感じていた。結局、自分はもらったアドバイスを何一つ生かすこともできず、人の気持ちも考えないで勝手に行動していたのだ。


 情けなくて、みじめで、不甲斐なくて、そんな自分に腹が立って。


 それでも、ガンザはアズマに優しく語りかけてくれた。


「私には真実を知られたくないという気持ちがずっとあった。こんなみっともないことは誰にも言えないと思って、十年間一度もユーリ市に帰らず、説明することから逃れてきたんだ。でも、今日君が来て、本当のことを話さなければならないと思った」

「俺が間違っていたからですよね?」

「いや、違う」


 ガンザは首を横に振って、希望の色を失っていたアズマの目を柔らかな瞳で見つめた。


「君が素直だったからだ」


 素直。それはアズマが何度も言われ続けた言葉だった。


 そして、今はそんな自分を否定しようとしていた。


 素直だから過ちを犯したのだ、と。


 それなのに、ガンザはそれが真相を打ち明けた理由だと言う。当然、すぐには受け入れられなくて、アズマは自嘲気味に呟いた。


「やっぱり、俺が何もわかっていなかっただけで……」


 しかし、ガンザは再度強く首を振った。


「違う。確かに、私は真実ではない君の推理を聞いて、それを正してあげなければならないと思った。だけど、私には真相を話さないという選択肢もあった。真実を捻じ曲げて君の話を受け入れてしまうことだってできたはずだ。でも、素直な君を見ていたらそんなことは絶対にできないって思った。どんなに恥ずかしい過去でも、隠しておくわけにはいかないって感じたんだよ」


 結局、自分がやったことは正しかったのだろうか。


 客観的に見れば、ガンザに勝手な理想を押し付けて、無理やり真実を話させたと言えなくもなかった。せっかくフィールと再会したのに、彼女に一番聞かれたくなかったであろう話を彼にさせてしまったのだ。


 当惑するアズマだったが、ガンザは真摯な笑顔で感謝の言葉を口にするのだった。


「君のおかげでフィールとも再会できて、真実も話すことができた。本当にありがとう」


 ――行って、見つけて、会って、話す。


 何だかんだいって、難しいと思われたそのすべてが達成されたのだ。しかも、本人は感謝している。これ以上、望むことはないのかもしれない。


「まだ終わりではありませんわ、お爺様」


 貫くような声がして、驚いたアズマとガンザは同時にフィールのほうを振り返った。ずっと黙っていたフィールは神妙な顔で口を開く。


「私、お爺様にお願いしたいことがあります」


 フィールは瞳を潤ませながらも、真剣な眼差しでガンザに何かを訴えようとしていた。


 そういえば、フィールはここに来る前に言っていた。絶対に話そうって思うことがある、と。ガンザにお願いしたい、ただ一つのことがある、と。


 十年間会えなかった人物を目の前にして、ただ一つだと言ったその願いを彼女は述べる。


「いつか、ユーリ市に帰ってきてください。今すぐでなくても構いません。お爺様の気持ちの整理がつくまで待ちますから」


 フィールの一番の願い。


 ガンザの悪評を消し去りたい。街からいなくなってしまった理由を知りたい。


 そういった望みもあったことは確かだろう。


 けれど、彼女の本当の願いは「ガンザがユーリ市に帰ってくること」だったのだと、アズマは今になってようやく気がついた。それさえ叶えば、たとえ悪評が消えなくても、失踪の理由がわからなくても良かったのだ。


「私たち家族は今でもお爺様のことを待っています。私たち以外にも、ユーリ市にはお爺様の帰りを待っている人がたくさんいます。お爺様、たとえその方々に真実が言えないのだとしても、帰ってくることはできるでしょう?」


 フィールは声を震わせながら懇願の目でガンザを見る。十年間変わらずに願ってきた、たった一つの願いを叶えるために。


 ガンザは涙を浮かべながらゆっくりと口を開いた。


「……わかった。約束しよう」

「お爺様!」


 駆け寄るフィールをガンザは椅子から立ち上がって正面から受け止め、しわくちゃな泣き顔で抱擁する。


「すまなかった、フィール。ずっと辛い思いをさせてしまって」

「これからまた会えるのならいいんです」


 今後、ガンザはこのようにたくさんの人との絆を取り戻していかなければならない。それは決してたやすいことではないだろう。おそらく困難な道になる。


 でも、ガンザならできるに違いない。


 だって、彼はたくさんの人に愛されている。たとえ彼の失踪の真実が知れ渡ろうと、きっと今のフィールのように許してくれる人が大勢いるはずだ。


 アズマはそう確信してズボンのポケットにそっと手を入れた。そろそろ頃合いだろうと判断したのである。


「ガンザさんに渡したいものがあります」


 そう言ってアズマがポケットから取り出したのは、もちろんあの銀色の懐中時計だった。


「そ、それは……」


 ガンザは赤くなった両目を大きく見開いて、アズマの手の上の時計を見つめた。


「そうです。ガンザさんの時計です」

「どうしてこれを君が?」

「親方がずっと持っていたんです。俺がガンザさんについて調べていることを知って、親方は壊れたままだったこの時計を修理し始めました。今はこうしてちゃんと動いています」


 説明しながら、アズマは時計をガンザの手に渡す。


「……さすがはベンだ。全部元通りになっている」


 受け取ったガンザは涙を拭いながら、新品のように光る時計に見入っていた。


「街に戻ってきたときには、ぜひ親方にも会ってあげてください」

「いずれ必ず会いに行く。そう伝えておいて欲しい」

「わかりました。伝えておきます」


 アズマは了承し、持ち主の手に握られた懐中時計にもう一度目を向ける。


 長い間、壊れて止まっていた時計。もし世界のどこかでこの時計のことをずっと見守っている人がいたとしたら、もう二度と動き出すことはないと思っただろう。


 けれど、何かのきっかけでまた動き始めるのだ。直そうとする人がいる限り。


「私は……今日のような日をずっと待っていたのかもしれない」


 ガンザがそう呟く部屋の中には、暖かい涙の陽だまりができていた。

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