七、旅立ちの前に
多くの弟子たちが働く午前中の修理工場で、アズマとベンは人目を憚ることなく最後の確認を取り合っていた。
「もう一度訊くが、本当に行くんだな?」
「ああ。ちゃんと話し合って決めたんだ。明日、フィールと一緒に捜しに行くよ」
昨日、時計台で彼女と誓い合った約束。アズマはそれを心に刻み、今日再びベンのもとを訪れた。
「わかった。それなら俺は止めはしない。ほら、これを持って行け」
ベンは銀色の懐中時計をアズマの前に差し出す。数日前まで動かなかったことを感じさせないくらい針は一秒一秒正確に時を刻んでおり、新たに装飾が施されたことで失われていた本来の高級感も取り戻されていた。
「ガンザに会えるのが一番だが、決して無茶はするなよ。もし見つからなければ諦めて帰ってこい。いいな?」
「わかってる。フィールも一緒だしそんなに無理はしない」
「……それならいいが、お前も、それからフィールさんも意外と負けん気が強いところがあるからな。ガンザが見つかるまで帰ってこないんじゃないかって心配だよ」
屈強な体を丸めてベンは大きくため息をついた。
「大丈夫だって。見つからないことは承知の上で行くんだから」
絶対にガンザを見つけたいという強い想いを持っているのは事実だが、それが叶う保証はないってことはアズマにだって十分理解できていた。それでも捜しに行こう、というのがフィールと交わした約束なのである。
「まあ、くれぐれも気をつけてくれ。それから、こんなことを言ってしまってはさっきまでの話と矛盾するかもしれないが……」
少し言いづらそうに視線を外して、ベンは自らの胸中を語る。
「俺はお前たちがガンザを見つけてくれることを願っている。お前とフィールさんが会いに行けばガンザも心を開いてくれるんじゃないかと思うんだ。そうしたらまたすべてが元通りになって……いや、それはアズマたちに求めるべきではないな。とにかく、良い結果が出ることを祈っている」
ベンが願っていること。それは親友であるガンザとの絆を取り戻すことなのだろう。ガンザの件に深く関わるようになったアズマには、ベンがどうしてそれを期待して、またなぜそれをアズマたちに求めるべきではないと思ったのかも理解できた。
だからこそ、何とかしたいと思った。
「親方ぁ、こっちの仕事、ちょっとわからないところがあるんだけどぉ」
「今行くから待ってろ!」
遠くからの弟子の声にベンは大きな声で返事をした。
「というわけだ。明日は午前中の汽車で行くんだろう? だったらいつまでもここに居ちゃ駄目だ。しっかりと準備して、気をつけて行ってこい!」
ベンは大きな手でアズマの背中をバシッと叩くと、そのまま振り向きもせずに自分を呼んだ困り顔の弟子のもとへ颯爽と歩いて行った。
***
工場を出た足で、アズマはフィールの家へと向かった。
要件は明日の予定の確認と、それからあともう一つ、昨日のうちにアズマはフィールにある頼みごとをしていた。
家に着くと、彼女は待ちわびていた様子でこっちこっちとアズマを迎え入れた。
「一応、探してはみたんだけど……」
リビングのテーブルには色の褪せた紙が十枚ほど広げて並べられていた。
「この前の演説メモと合わせてもこれだけしか見つからなくて。本当はもっとあると思うんだけどね」
「いや、これだけあれば十分だ。ありがとう、フィール」
アズマが探してと頼んだのは、過去のいろいろな演説のためにガンザが作成してきたメモだった。几帳面な性格のガンザならば、「あの演説」のときだけではなく、他の場面でもメモを作っていて、なおかつそれを保管してある可能性があると思ったのだ。
「でも、これが何かの役に立つの?」
「まだ何とも言えないけど、ちょっと確認したいことがあってさ。どうしても比較対象が欲しかったんだ」
アズマは並べられたメモを重ねて、丁寧にズボンのポケットにしまう。
「今思えば、今回のことってアズマが書斎で本を落としたときから始まったんだよね。あれがなかったらここまで来られなかった」
テーブルの上からメモが無くなるのを眺めながら、フィールはひっそりと呟いた。
あの日、アズマが本棚から落とした一冊の本。その中に挟まった演説メモを見つけて、すべてが始まった。
正確に言うと、それは違うのだろう。物語はずっと前から既に始まっており、アズマが本を落としてメモを見つけたことは単なる通過点に過ぎない。それぞれがそれぞれの事情で動き出せなくて、でも止まったままではいけないと考えていたから物語はまた動いたのだ。
それでも、アズマはフィールの呟きに深く頷いた。書斎での出来事がなければ自分は物語の存在にすら気がつかず、介入することはなかっただろうから。
「明日は十時の汽車に乗るのよね?」
「そう。だから乗り遅れないように、少し早めの九時半に駅で待ち合わせよう」
「わかったわ。ナターシャにもそう言って頼んでおかなくちゃ」
「何を頼むんだ?」
「出掛けるとなったらいろいろ支度があるの。もう、私のことはいいでしょ? アズマも遅れないようにしてね」
フィールは小さく頬を膨らませてアズマに注意を促す。
思いつく持ち物はお金と懐中時計くらいで、服装も半袖半ズボンというラフな格好で行こうとしている自分とは準備の大変さも違うのだろう。そう解釈したアズマは、反論せずにそれを受け入れた。
「わかったよ。じゃあ、また明日な」
「わかればいいわ。……じゃあ、また明日駅でね」
***
「アズマ君、もう話は済んだ?」
フィールの家を出てすぐのところで、アズマは大きめのバスケットを持ったナターシャに声をかけられた。おそらく買い物に行っていたのだろう。美味しそうな果物がかごの上部からはみ出していた。
「はい、今さっき終わりました。ナターシャさんは買い物ですか?」
「そうなの。まったくお嬢様ったら、私がいると邪魔するからって無理やり追い出したのよ。ひどいと思わない?」
「そ、そうだったんですね」
そういえば今日は家にナターシャがいないな、とアズマはうっすら疑問には思っていた。まさかこんな裏があるとは思いもしなかったが。
「そのくせ、面倒くさいことがあったらすぐ私を頼るんだから。昨日だって、帰りが遅くなった言い訳、私が考えたんだからね」
「……迷惑かけてすみませんでした」
「アズマ君は謝らなくていいのっ! お嬢様を甘やかしてるのは私なんだから!」
片方の手を勢いよくアズマの前に広げる。それによりバスケットが大きく揺れ、いくつか果物が落ちたのを「わーっ」と慌てて拾いながら、ナターシャは話を切り替えた。
「そ、それより明日のことは大丈夫? ちゃんと話し合った?」
「大丈夫です。必要なことは決められたと思います」
「あとは行ってみないと、って感じかな?」
「そうですね。ガンザさんが見つかるかどうかもまだわからないので」
一緒にしゃがんで落ちた果実を拾いつつ、アズマはこの先のことを考えた。
行って、見つけて、会って、話す。
どこかで破綻してしまう可能性を十分に孕んだ計画だ。というより、最後の「話す」までいくことを想定するほうが難しい。マルスまで行っても見つかる保証はないし、もし会えても話すことを拒否されてしまう可能性だってある。
それでも、こればかりはやってみなければわからないので、プランさえ決めたらあとは実行に移すしかないのである。
「アズマ君、見つかるまで帰ってこないっていうのはやめてね」
「それ、親方にも言われました。心配しないでください。明日行って見つからなかったらちゃんと明日のうちに帰ってきますから」
アズマは念を押すように言ったが、ナターシャは落ちた最後の一個の果物をかごに収めると、立ち上がりながら気まずそうに顔を背け、意外なことを口にした。
「本音を言うと、私が望むことはガンザ様の件とは直接関係のないことなの。もちろん、うまくいくことを願っているけれど……」
少しずつ言いたいことに近づけるようなたどたどしい口調で彼女は喋り続ける。
「私はね、アズマ君がお嬢様の家をもっと頻繁に訪れるようになってくれたらいいなって思うわけ。ほら、昔はよく来てくれてたのに、ここ一年くらいはぱったりと来なくなったでしょ? でも、最近になってまた顔を見せてくれるようになった。だけど、それはガンザ様のことがあったからだよね? だからもしそれが終わったら、アズマ君はまた来なくなっちゃうんじゃないかって思うのよ」
否定はできなかった。実際、そうなるかもしれないと思ったから。
「私はガンザ様の件に関係なく、これからもアズマ君がお嬢様の近くにいてくれたらいいなって思う。どう? 約束してくれる?」
ナターシャは自ら詰め寄り、アズマの顔をまじまじと見た。
「わかりました。約束します」
アズマは逃げずに堂々と答えた。
何だかんだいって最近は、再びフィールとの交流が増えていた。アズマはそれが嬉しかったし、彼女がいたからこそ今回のことも頑張れたと切に感じていた。
だけど、いつかはフィールとも会えなくなるときが来る。それは彼女がこの街を出て行くときかもしれないし、もっと早い段階で今は想像もつかないような何かが起こり、離れ離れになってしまうかもしれない。
だからこそ、一緒にいられる時間は大切にしたい。アズマは心からそう思えるようになった。
「やっと素直になってくれたね」
ナターシャはふうっと一息ついて、晴れ晴れとした笑顔を浮かべた。
「私はこれで満足。あとはアズマ君たちの旅の成功を祈るだけ。さぁ、これから家に帰ってお嬢様の支度を手伝わなくちゃ。アズマ君はこのあとどうするの?」
「実はもう一人、会いに行くつもりの人がいます」
「ふぅん、そうなんだ。まあ、とにかく明日に向けてしっかり体を休めてね」
ナターシャは相手が誰なのか追及することなく、そっとアズマのことを労わった。
「ありがとうございます。明日は九時半に駅なので、フィールのことをよろしくお願いします」
「はい、確かに承りました。そのかわり、道中はお嬢様のことお願いね」
「わかってます。それではまた」
「バイバイ。明日は気をつけてね」
同盟を結んだアズマとナターシャ。二人は明日に向けてそれぞれのやるべきことをなす。
***
約束の時間は午後二時だった。アズマは一度家に帰って昼飯を食べ、再び外出した。
向かった先は市役所前の噴水広場。ここに来るはずの「彼」と、アズマはどうしても最後に話しておきたかった。
広場に着いて、アズマはベンチに腰を下ろし、辺りを見回した。噴水の周りには走り回って無邪気に遊ぶ子供たち、少し離れたベンチには静かに座って本を読む初老の男性。立ち話で盛り上がっているのは子供たちの母親だろうか。
人はそれなりにいるが、まだ「彼」の姿はなかった。
時間は現在、午後一時五十分。今日は「彼」よりも早く待ち合わせ場所につくことができた。
五分後、一台の黒い車が噴水広場に入ってきた。
その車はまず市役所の前で止まって男性と女性を一人ずつ降ろす。そして、また発車して噴水の周りを半周し、アズマが座るベンチの前まで来ると停車した。
運転席から出てきた「彼」は、飄々とアズマのもとに近づいてきた。
「早いな、青年」
約束の場所に現れた優男――トーマスはいつもと変わらない態度で挨拶をした。
「いつも待たせていたので今日くらいは先に来ようと」
「そうか。俺も仕事が押さなければもうちょい早く着いたんだけどな。……隣、座っていいか?」
「どうぞ。座ってください」
アズマは端にずれ、トーマスの分のスペースを作る。
「ありがとよ」
トーマスは礼を言いながら、アズマの横に座った。
アズマは今朝ベンの工場に行く前にトーマスと話をする約束を取りつけた。トーマスはこれから仕事があるからと、待ち合わせ時間を午後二時に設定したのだった。
「今日は市長を乗せてたんですか?」
「そうなんだよ。メリッサにどうしてもって頼まれてな。朝から何か所か回って、それでさっき市役所まで戻ってきたってわけだ」
先ほど市役所の前でトーマスの車から降りた男女。それは現市長とその秘書のメリッサだった。
「このまま市長の運転手になったらどうですか?」
「前にも言っただろう? 俺はもう誰かのお抱え運転手にはならないって。だいたい、もし市長の運転手になっちまったら、あの女と毎日顔合わせなきゃいけないじゃないか。そんなの俺は御免だぜ」
トーマスはないないと手を振ってアズマの案を即座に却下し、間を空けず質問する。
「それよりも、ガンザさんの居場所がわかったって本当なのか?」
「あくまで可能性のある場所がわかったってだけです。明日、汽車に乗って彼がいるかもしれない街へ行きます」
「そうか。でも、大きな進歩だな。青年は俺が越えられなかった壁を堂々と超えていく。君だったら本当にガンザさんを見つけるところまでいけるかもしれないな」
ふと、トーマスが空を見上げ、つられてアズマも空を見た。
澄み渡った空には二羽の鳥がいて、東から西へと飛んでいた。鳥たちは迷うことなくぐんぐんと速度を上げ、瞬く間に二つの黒い点になってしまうほど遠くまで飛んで行ってしまった。
果たして、今飛んでいった鳥たちはどこに向かっていて、どこに辿り着くのだろうか。
もちろん、それをアズマが知ることはできない。あの鳥たちが何を求め、どんな困難に立ち向かっているかなんてわかるはずもなかった。
だからこそ、アズマは祈った。あの鳥たちが無事に目的地に辿り着きますように、と。
アズマとトーマスは空を見上げるのをやめ、止まっていた会話を再開させた。
「青年は俺のことを恨んでるか?」
「恨んでなんかないですよ」
「そうか。優しいな」
「俺からも一つ質問いいですか?」
「何だ? 言ってみな?」
許可をもらったアズマは、どうしても訊いてみたかったことを尋ねた。
「トーマスさんが俺に望んでいることって何ですか?」
いつだったかトーマスは、アズマのことを「利用している」と言った。そのときは意味がわからなかったが、今となってはそれもわかる。トーマスは自らが踏み出せなかった領域に、アズマを「利用して」踏み込んだのだ。
だからこそ、今も『俺のことを恨んでるか?』なんて台詞を言ったのだろう。
ただ、どうしてもわからなかったのは、トーマスがどういう結果を望んでいるのかである。
アズマが十年前の演説の件を調べ、やがて幼馴染のベンという存在に辿り着き、ガンザの居場所を訊き出す。もしこれらすべてがトーマスの思惑通りだったとして、それらが達成された今、最終的に彼が望むこととはいったい何なのだろうか。
「俺が君に望んでいること、か」
正面の噴水から飛び出す水は光を反射させて水しぶきが宝石のように輝く。トーマスはそれをぼんやりと眺めつつ、困ったような表情を浮かべる。
「難しい質問だな。うまく答えられないかもしれない」
「それでも構いません。トーマスさんの本音が知りたいんです」
アズマが強く懇願すると、トーマスはしばらく考えてから口を開いた。
「……変えてほしかったのかもしれないな」
「変えてほしい、ですか?」
「そう。おそらく俺はこの十年間、何かが変わることをずっと期待していた。どうしていいかはわからなかったが、今のままでは駄目だ、ってずっと思っていた。だけど、肝心な一歩が踏み出せなかった。そんなときに君が現れて、俺の代わりに停滞していた世界を少しずつ変えてくれたんだ」
「それはトーマスさんの協力があってこそです」
「いやいや、俺は何もできないただの臆病者だ」
トーマスは自嘲の笑みを浮かべた。
「それに比べて、君やお嬢ちゃんはすごいよ。ここまで変えてくれたんだから」
「良い変化である保証はありません。解決はできないかもしれませんよ」
期待には添えない。そんな気がしてアズマが俯くと、トーマスは心配を消し去るようないつもの彼らしい口調で言った。
「俺の望みはもう君たちが叶えてくれたんだ。あとは二人にとっての解決を目指してくれればいい。たとえ望む通りにいかなくても気にする必要なんかない。そもそもの問題の発端は十年前の俺たちにあって、責任もすべて俺たちにあるんだからさ」
勇気をもらえる台詞だった。けれど、やはりアズマにはトーマスの本心はわからなかった。もう望みは叶っている。それは果たして本音なのだろうか。
一つ確かなのは、トーマスはガンザの失踪を止められなかったことに対して未だに責任を感じていて、何も変わらないまま終わってしまうのは嫌だということだ。
だとするならば、まだ自分にできることがあるのではないか。
「さて、俺はもう行かないと。青年、本当にありがとな。青年には感謝してもしきれないぜ」
「そんなことないです。大したことはしてません」
「謙遜することはないさ。俺からしたら青年はかっこいいヒーローに見えるよ」
アズマの頭をさすると、トーマスは笑顔で立ち上がった。
「しかし、変えてもらってばかりじゃなくて、俺も頑張らないとな」
上に大きく伸びをするトーマスに、アズマは思いついて一つ提言してみた。
「じゃあ、まずはメリッサさんに対して素直になることですね」
「ば、馬鹿っ、何でそれから始まるんだよ! 俺が言ってるのはガンザさんに対しての話で……」
強がってはいたが、顔はみるみるうちに紅潮していた。
「……わかったよ。素直になりゃいいんだろ、素直に。と、とにかく、今日は早く帰って明日に備えて体力を温存しておけよ。最近は忙しくて疲れてるんだろうし」
「わかってます。今日はわざわざありがとうございました。出発前に話せて良かったです」
アズマが丁寧に頭を下げると、トーマスはわざとらしくコホンと咳払いした。
「それはこっちの台詞だぜ、青年。今日は報告してくれてありがとな。……幸運を祈ってる」
そんな言葉を残してトーマスは車に乗り込んだ。
エンジン音とともに車がゆっくりと走り出す。運転席の窓から出た彼の手がさようならといってらっしゃいを告げていた。
***
夜、自室の勉強机の前で、アズマは最後の推理を行った。
机の上に並べられているのは、今日借りてきたガンザ直筆のメモと今まで集めた情報を自分なりに整理してまとめた紙。これらから導き出されるものが何かないか、アズマは必死に頭をひねっていた。
たとえ今答えを出せなくても、明日もし直接本人に会うことができればすべて明らかになるかもしれない。だが、それに期待して何もせずにいるのは気持ちが落ち着かない。考えられるだけ考えて、これ以上できないくらい準備をして明日を迎えたかった。
それに、自分はあと一歩のところまで来ているという予感もあった。今持っている情報に良い推理が加われば見落としている何かを発見できる。そんな予感が。
ガンザのメモは全部で四種類あった。祝賀パーティーの挨拶、市役所職員に対する激励の言葉、仕事の不手際に対する謝罪、そしてあの演説のためのメモ。
目的が違うので、当然ながら内容は異なる。
だから、注目すべき点は「件の演説メモが他のメモと比べて何か変わったところがあるか」ということだろう。
もしガンザの失踪の手掛かりが演説メモの中に残っているとしたら、どこかに他のメモとは違った部分があるはずである。
実際、メモをじっくりと見比べてみて、アズマはあることに気がついた。他のメモと比較して、あの演説メモの書き直しの跡は「異様に多い」ということである。それだけあの演説が重要かつ困難で、内容をまとめるのに苦労したということが窺えた。
ただ、それ以上のことは何も浮かび上がらなかった。ガンザが暗号のような手法を用いて自らの主張をメモの中に忍ばせている様子もなければ、使っている単語や文章の構成の仕方などに特別な違いも見当たらなかった。
やはり、ここは問題となっている演説メモを一から読み解いていくしかないとアズマは考え、重要そうなところを抜粋していった。
一部掠れていて文字が判別できなかったり、修正の線や追加された文章が重なりあって読みにくいところがあったが、おおよその主張を理解するのには問題なかった。
アズマはそれらを新しい用紙にまとめ直してみた。
*ガンザの演説メモより抜粋
本日はお集まりいただきありがとうございます。今日お話をするのは、これからのユーリ市がどこに向かうべきかについてです。どうか最後までお聞きいただければと思います。
皆様も知っての通り、現在ユーリ市は大変な混乱状態に陥っています。農業組合の方々、工業組合の方々、双方の意見に相違があり、またそれについて多くの市民からの意見も寄せられ、我が市の行政は向かうところを定められずにいます。
そもそも、意見の相違がなぜ起こっているかというと、それは以前我が市を襲った大干ばつが原因であるかと思います。今日お越しいただいている皆様の多くも経験されたかと思いますが、あの大干ばつはまさに自然の猛威というべきもので、対策が不十分だったこともあり、罪のない多くの人が飢えに苦しみました。
もう二度とあのような事態に陥ってはならない。そのような危機感が、今回多くの人たちを動かしています。転換点は今になるかもしれませんが、それに至る背景についてはもう既に起こっていることなのです。
さて、もう一度言いますが、本日のテーマは「これから我が市はどこに向かうべきか?」です。現在の状態が続くと、ユーリ市の経済や市民の皆様の暮らしに与える悪影響はますます大きくなるばかりです。だからこそ、我々は一丸となってこの問題について考えなくてはなりません。
実際に今も多くの方々がこの問題に関心を寄せ、様々な方面からの意見が集まっています。それらすべてに各個人の切実な願いがあり、無視することは決してできません。
以前の大干ばつのとき、そういった声を取り入れなかったことが、対策が不十分になってしまった原因だと私は考えています。
ですから、そうならないためにもより多くの方々の意見が必要です。今日お集まりいただいた皆様、これから家に帰ったら家族の人たちとこの問題について話し合ってみてください。私には七歳になる孫がいますが、今決めたことは彼らや彼女らの時代に大きな影響を及ぼすのです。
農業分野、工業分野ともに、現在大きな発展を見せています。今の価値判断の基準のみでこれらの分野の未来を決めてしまうことは、将来大きな間違いを引き起こすことに繋がりかねません。皆様が焦る気持ちはとてもよくわかりますが、冷静になってもう一度じっくり考えてみる必要があると思います。
以上が、私の見解となります。これからのユーリ市のさらなる繁栄を願って、どうかより多くの意見ともう少しの時間をいただけたらと思います。
本日はどうもありがとうございました。
*抜粋終わり
まとめ直した文章を眺めてみて、アズマはある重大な事実に気がついた。
この演説のテーマは「これからユーリ市はどこに向かうべきか?」なのに、ガンザがするはずだった話の中には具体的な指針がないのである。
つまるところ、この演説は単なる時間稼ぎにしか過ぎないということなのかもしれない。最後のまとめの部分にその考えが透けて見える気がする。
もちろん、途中に書かれていることは非常に大切なことだと思うし、間違ったことを言っているとは思わない。
しかし、この内容で演説を聞きに来る人は納得しただろうか。
納得……できなかったのではないか。
――あれっ? でも、待てよ……。
突如、正体不明の違和感がアズマを襲った。
それは決して見過ごすことのできないもので、今まで感じたことのないようなものだった。
――何だ、この感じ? 今、何か重要なことに気がついたような……。
アズマは違和感の正体を必死に探る。直前まで考えていたことは何だっただろうか。
確か、この内容で演説が行われたとして民衆が納得したかどうか、みたいなことだった。実際は演説も行われなかったし、内容云々は関係なくユーリ市の人々は納得しないままだったのだが……。
――納得しないままだった?
アズマはようやく違和感を抱いた理由に辿り着いた。
――市民が納得しないままだったら、どうして争いは収まったのだろう?
そして次の瞬間、アズマは先ほど受けた衝撃よりもさらに大きな衝撃が体の中を駆け抜けていくのを感じた。
それは一種の光明だった。
アズマはもう一度落ち着いて、自分が今思いついた考えに矛盾がないか確認する。
ラファエルやハリスが語ってくれた、争いの背景。
メリッサが話してくれた、演説に向けてのガンザの行動。
トーマスが教えてくれた、ガンザという人物の人となり。
ベンだけが知っていた、ガンザに関する秘密。
今まで手に入れた情報をドキドキしながら目で追っていく。導き出した結論はそのすべてに対して筋が通っているように思えた。
慎重に検証を終えて、アズマは確信する。間違いない、と。
それは、まだ誰もが気がついていない隠された答えだった。そしてその答えは、ガンザが決して悪者なんかではなかったという証明にも繋がっていた。
明日、汽車の中でフィールに教えてやろう。
これを聞いたら彼女もきっと……。
まだ興奮冷めやらぬ中、アズマはメモでいっぱいの机の上を整理し、明日に備えて部屋の明かりを落とした。
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