六、親方ベン
朝起きたとき、アズマには心身ともに昨日の疲れがまだ残っていた。
無理もない。昨日は日中ずっと動き回っていたし、家に帰って夕飯を食べた後はこれまで得た情報の吟味に追われたのである。日に日に明らかになっていく新事実に置いて行かれないように、そして重要な見落としをしないようにとアズマも必死だった。
重要、といえば今日のベンとの約束であるが、アズマはそれについても頭の中で何回もシミュレーションしていた。今まで調査を進める度に自分の無知さを思い知らされてきたが、情報も揃ってきて、そろそろ理解も追いついてきたという感覚はあった。
今日はそのすべてを親方にぶつけるつもりだ。
親方だから、という遠慮は一切するつもりはない。むしろ、尊敬する親方だからこそ全力で向き合わなければならないと覚悟を決めていた。
夜になり、アズマはフィールを迎えに彼女の家まで行った。
「行こうか」
「うん」
合流した二人は並んで工場への道のりを歩き始めた。
フィールは緊張した様子だったが、アズマが何かを言うと笑顔を見せてくれた。だからアズマは、彼女のために言葉を探し続けた。
家々から漏れ出る暖色系の明かりが石畳の道を照らす。
どこかの家から美味しそうな夕飯の匂いが漂ってくる。
家の壁を一枚隔てて家族の楽しげな笑い声が耳に届く。
そんな夜道を進んで二人が辿り着いた先、大きなベンの修理工場は静寂の中にひっそりと建っていた。灯る明かりは先ほどの通り沿いの家と同じ光なのにどこか冷たい。この時間だと普段なら全員帰途について暗くなっているはずだが、今日は訪れる者のために明かりをつけて待っているようだった。
「行こう。親方が待ってるはずだ」
「ベンさんは何を話してくれるつもりなのかしら?」
「それは俺にもわからない。けど、親方がフィールも呼んでくれって頼んだんだ。だから、そこにはそれなりの理由があるんだと思う」
いくらシミュレートを重ねたアズマにも、ベンの具体的な話の内容を予見することはできなかった。いくつものパターンが考えられるのに加え、アズマの想像を遥かに超えるような事実を告げられる可能性だってある。
だけど……。
「だけど、すべてを話すって言ってたから隠し事はせずに嘘偽りなく話してくれる。それに関しては俺が保証するよ。話すと言ったら話す。親方はそんなところで嘘をつくような人じゃない」
自然とそんな言葉が口から出ていた。
きっぱりと断言したアズマの顔をフィールは不思議そうに覗き込む。
「前にトーマスがメリッサさんのことを紹介するときにも、同じようなことを言っていたの覚えてる?」
「そういやそんなこと言ってたっけ」
「そう思えるのって、やっぱりお互いのことを信頼しているからなの?」
「そうかもしれないな。何だかんだいって、俺は親方のこと信じてるし」
「だったら、私もベンさんのことを信じるわ」
「どうして?」
話の流れが掴めず、アズマは上目遣いでこちらを見る彼女に訊き返す。
尋ねられたフィールは、恥ずかしそうにして急にもぞもぞと視線を逸らし、上目遣いでまたアズマのほうを少しだけ見て、小さな声で呟いた。
「……だって、私はアズマのこと……信頼してるもの」
***
工場の中は不思議なほど静まり返っていた。普段仕事が行われているときは、機械の作動する音や金属などの部品の加工時のカンカン、キーキーという音、それから人々の伝達や命令の声が飛び交っているが、仕事が終わって人がいなくなった工場内は音もなく、天井からぶら下がったいくつもの照明だけが光る空虚な空間だった。
ベンはいつもと同じように彼の机に向かっていた。工場の入り口からだと、彼の背中が確認できるのみだ。アズマたちは息を潜めて一歩ずつ彼のもとへ歩み寄った。
足音が建物内に異様に反響して、意識しないようにしていた緊張感が高まる。それはいつもの緊張とは全然種類の違うものだった。ベンまでの距離が遠くに感じられた。
二人が近づくと、ベンはやっと顔をこちらに向けてゆっくりと会釈をした。
「よく来てくれた。感謝する」
まずは短くそう言って、表情の硬いフィールに優しい声を投げかける。
「フィールさんも来てくれてありがとう。とにかく、そこの椅子に座ってくれ。少しばかり長い話になるだろうから」
フィールは「はい」とおぼつかない返事をして、椅子の背もたれを引いて座った。続けてアズマも用意されていた椅子に腰を下ろす。
改めてベンの表情を窺うと、彼のほうもいつになく緊張しているのがわかった。アズマたちがどんな話をされるのか不安になっているのと同じように、ベンも今から自分がする話をどう受け止められるのか心配なのだろう。
お互いに様子を探り合いながら、まずベンが最初にその名前を出す。
「ガンザのこと……話さなければな」
膝の上で手を組んで、自らを戒めるように呟いた。封印を解かれたようにベンとガンザの交流の歴史が語られ始める。
「俺とガンザはお互いこのユーリ市で生まれ育った。俺がどちらかというと貧しい家で生まれたのに対して、向こうは裕福な家の生まれだったけれど、そんなことは気にせずよく遊んだもんだ。俺たちが子供の頃はまだこの街も今のようには開発もされてなくて、ほとんどそこらじゅうが畑だった。現在の街の南部に広がっている田園が街全体を占めていると思えばいい。だから遊ぶといっても、畑の中を走り回ってる思い出ばっかりだ」
街の南部はちょうど時計台のある辺りだ。アズマは時計台の上から見えるバアッと広がる小麦畑を思い浮かべる。
「それからよくやったのは機械いじりだ。頭の出来ではガンザに敵わなかったが、何かを作ったり直したりするのは俺も負けなかった。とにかく無我夢中で競い合ってたよ。その経験が生きたからこそ、俺は修理工になれたんだろうな」
ベンは自分の掌を感慨深げに見た。
「ガンザとの最初の別れが訪れたのは十五、六のときだったな。ガンザは頭が良かったから、街の外にある優秀な学校に入学することになって、ユーリ市内で働くことが決まっていた俺は彼を見送ることになった」
最初の別れ、という奇妙な言葉が頭に引っかかる。最初の……か。
アズマは何も言わずベンの話に耳を傾ける。
「前日の夜は送別会を開いてな、友人たちと一緒に彼をお祝いしたんだ。ガンザの奴、そういうのは苦手だって言って、一人で勝手に街を出て行こうとしてたからな。まったく、そういう奴なんだよ、あいつは……」
ベンは悲しそうに笑いながらそっとため息をつく。そのため息に込められた想いはいかなるものか。アズマは遠い目をする親方をじっと見つめる。
「ガンザは喜んでくれた。そして、彼は言ったんだ。『また会おう』ってな。俺も集まった友人たちもその言葉が聞きたかったんだ。別れるのは寂しいが、また会えるかもしれないと思ったら悲しみも少しだけ喜びに変わった。『そうだよ、また会えるじゃないか』って。実際、その再会のときは本当に訪れたんだ」
ベンの声は少しだけ明るさを取り戻していたが、表情は晴れず、目にはどこか憂いが宿る。それは再会の後にやってくる「避けられない悲劇」があるからだろう。アズマも当然わかっているので心苦しかったが、ここで話を中断させるわけにはいかなかった。
「俺が独立して自分の工場を持てるようになった頃、ガンザは再びこの街に帰ってきた。そのときには彼はもう偉くなっていて、ユーリ市に戻ってきたのも市長候補として期待されてのことだった。彼の口からそれを聞かされたときは、随分と差が開いちまったなって思ったよ。でも、よくよく考えてみたら子供の頃から違ったわけで、妬ましさみたいなもんはほとんどなかった。むしろ、幼馴染が市長になってくれたらどんなにすごいことだろうと興奮したよ。実際、それでガンザは本当にこの街の市長になったんだ。まったく、すごい奴だよ」
称賛するベンの顔は誇らしげだった。その裏にある悲しみが透けて見えるからこそ、余計にそう思うのかもしれない。
「ガンザがユーリ市に戻って来てから、俺たちはまた頻繁に会うようになった。何だかんだいって昔の仲間で街に残ってる人は少なかったし、彼のほうも長らくユーリ市を離れてたから寂しかったんだろう。再会してからの俺たちは、子供の頃に匹敵するくらい濃密な時間を過ごした。もしかしたら、お互いにそういうのを求めていたのかもしれないな。……けれども、俺は間違いを犯した。覚えとけよ、アズマ。考えられるうちによく考えておかないと後悔するってことを」
突きつけられた教訓に、アズマは頷きながら思う。
誰だって、今が正しいものであって欲しいと願っている。
それでも、間違いは起こるのだ。ガンザの問題にしても、自分より遥かに人生経験もある大人たちが皆、あのときこうしていればと後悔している。
だから、きっと自分も現在進行形で何かを間違えていて、後々何かを後悔するのだろう。
その「何か」の正体を今は知らない。けれど、いずれ見えるときが来るはずだ。
では、そのときの自分はいったいどんなことを思うのだろうか。
「とはいえ、いくらでもやり直す方法はあるはずだ。何かがあったとしてもな。……そうなんだよ、いつからだってやり直せるはずだったのに、俺は……」
「親方……」
「慰めはいらん。これから話すことはすべて俺に責任がある。俺は懺悔しなければならない。重大な秘密を秘密のままにしてしまったことに」
ベンは静かに首を振り、消えない過去のことを語り始めた。
「十年前の演説の日のことは今でも鮮明に覚えている。よく晴れた日だった。演説をするガンザのことが心配で会いに行こうかと考えたが、その日は俺も仕事が忙しくて、向こうも慌ただしいときに来られても迷惑だろうと思って行かなかったんだ。もし会いに行ってたらどうなったのか、と未だに思うことがある。今更そんなことを思っても仕方がないけどな」
アズマは叫びそうになる心をグッとこらえる。親方が慰めはいらないと言っている以上、安易な反応はできなかった。
「ガンザが演説会場に姿を見せず、そのまま行方不明になったことはその日のうちに知った。街中が大騒ぎになってたから、耳に入ってこないほうがおかしなくらいだった。俺は愕然として、それから一時期仕事が手につかなくなった。どうして、って何度も考えたよ。数日前に会ったときには確かにだいぶ疲れてる様子ではあったが、失踪してしまうなんて想像もできなかった。演説についても、『市民に納得してもらえるかはわからないけど話してみようと思う』と言っていた。俺はそれを『良いことだ』と褒めた。もしかしたらその一言がさらに彼を追い詰めることに繋がったのかもしれない」
ベンの『良いことだ』という言葉に悪意はなく、純粋に善意によるものだっただろう。
だが、それを受け取る相手がどのように感じるかはまた別の話だ。
大切な友人からの言葉なのに、いや、大切な友人からの言葉だからこそ、受け止め方がわからなくなってしまうこともある。
「俺は気づいてやれなかったんだ。親友である俺が気がつかなければいかなかった何かに」
親方は泣いていた。それはアズマが見る初めての彼の涙だった。
いつから我慢していたのだろう。ベンは顔をしわくちゃにしてむせび泣く。何度手で拭っても、溢れ出てくる涙は止まらない。
気づいてやれなかった。同じようなことをラファエルもハリスも、トーマスもメリッサも言っていた。皆、それぞれの立場から後悔を抱えていて、それをなくすことなく抱え込んだまま生きているのだ。
「……それから他にも、俺は大きな罪を犯している」
ベンはまだ呼吸の整わない声で訴えた。
「ガンザの居場所についてだが……」
「知ってるのか?」
アズマは即座に尋ねた。もらい泣きをしていたフィールもベンに視線を向ける。
「思い当たる場所がある。ここから汽車で二時間半ほどのマルスという海沿いの街だ。もしかしたらガンザはそこに住んでいるかもしれない」
「マルス……海沿いの街……」
予想を聞いたフィールは、突然ハッとして復唱し始めた。
「フィール、どうかしたのか?」
「私、お爺様とそこへ行ったことがある気がします。街の名前は忘れてしまったけれど、綺麗な海が見えたのは覚えています」
「多分、その記憶は正しい。フィールさんと一緒に訪れたという話をガンザから聞いたことがある」
ベンは涙目で笑いながら優しく頷く。
「なぜガンザがその街にいると思うのか、と疑問に思うだろう。これは俺たちが将来のことについて語り合っていたときの話だ。彼は奥さんを早くに亡くしていたから、最後はどこかに家を買って一人で暮らそうと言っていた」
「そんなこと、私たち家族には……」
「家族だから言えないこともあるんだよ。『いつまでも居候しているわけにはいかない』とガンザは笑っていた。はっきりとは言わなかったが、もう準備は進めているようだった。市長としての任期を終えたら、家族に話すつもりだったんだろう」
ベンは親友の気持ちを推し量りながら話を進めていく。
「終の棲家としてガンザが候補に挙げていたのがマルスだった。海沿いの街、マルス。フィールさんは海が好きだろう?」
「もしかして、お爺様は私のためにその場所を?」
「理由は教えてくれなかったけど、俺はそうじゃないかと思う。フィールさんの話になると、彼は本当に嬉しそうにしていたからな」
夜の工場にガンザのことをしみじみと語る声だけが響く。
「だから、もし彼が今でも元気に暮らしているとしたら、それはマルスのどこかだと思う。それ以上のことは俺にもわからん。すまない」
「それだけわかればもう十分です。顔を上げてください」
フィールは椅子から立ち上がり、深く頭を下げるベンの肩を優しく叩いた。
「お爺様が今も生きていて、海の見える素晴らしい街で暮らしているかもしれない。それがわかっただけでもいいんです」
……それだけでいいのだろうか。アズマはフィールの姿を見て、心の内を探った。
アズマだってそれだけでいいとは思えないのだから、家族であるフィールがそんな簡単に割り切れるはずがない。本当はもっと望んでいることがあるのだろう。
でも、それは叶わないと思っているから言わないのかもしれない。
言葉にすれば願ってしまうから、それを避けるためにも。
「……フィールさんに渡したいものがある」
おもむろにベンは机のほうに体を向け、引き出しを開けて数日前から修理していたあの懐中時計を取り出した。文字盤の上の時計の針はしっかりと時を刻んでいて、周りの装飾も新品のように綺麗に施されていた。
「そ、それってもしかして……」
そのピカピカなシルバーの懐中時計を目にした途端、フィールの瞳が驚きと輝きに満ちる。
「見覚えがあるかな?」
「はい。微かですけど覚えています。これはお爺様のものですよね?」
「そうだ。……まったく俺は愚かだよ。十年間、ほったらかしにしていたのだから」
「ガンザさんの時計だったのか? でも、どうしてそれが親方の手に渡ったんだ?」
フィールの手の上に乗せられた時計を見つつ、アズマは尋ねる。
「あの演説の日から数日経って、トーマスが俺のところに持ってきたんだ。市長室で見つかったんだけど壊れてたから、ってな」
ベンは失意の表情で修理した時計に目を向ける。
「俺は最初、受け取るのを断った。修理するにしても、俺はその頃仕事が手につかなくなってたから無理だって突き返したんだよ。だけどトーマスは、『これはベンさんが持っておくべきだ』って譲らずに置いていった。その後、俺は時計を直しもせず、目のつかないところへしまい込んだままにしてしまった」
親方がガンザの失踪によって受けたショックは計り知れないもので、しばらく自分に失望する日々を送っていたに違いない。そんなときにガンザの忘れ形見のようなものである懐中時計が手元に渡ってきたら、遠ざけようとしてしまうのも無理はない。
忘れてしまいたいわけではない。
でも、忘れたい。
思い出の行き場は取り出せない引き出しの奥の奥へ。
「アズマがガンザのことを調べてるって知ったときは本当に驚いた。そして、それは俺に理解させた。お前が真実を知って俺のところにやってくるってことを」
ベンはアズマの前に立って、ふと笑みを浮かべた。
「でも、何だか救われた気分だった」
「救われた?」
「ああ。これでやっと前へ進める。そんな気がしたんだ」
椅子に座っているアズマの頭上にベンの腕がすうっと伸び、ポンと手のひらがアズマの頭の上に乗った。
「お前が来てくれて本当に良かった」
優しくて温かいベンの体温が伝わってくる。普段も仕事がうまくいけばそれなりの評価は与えてくれるが、それは親方から弟子への形式的なものであって、こうやって素直に認められることはなかった。
アズマは自分が少しだけ一人前に近づけたような気がした。
ゆっくりと手が離れ、ベンはアズマたちの顔を見た。
「さて、俺から話せることはこれくらいだ。俺が知っていることは思いつく限りすべて話したと思う。二人とも、何か訊きたいことはあるか?」
「……訊きたいこと、とは違うんですが」
左手に懐中時計を置きつつ、フィールは右手を小さく顔の辺りまで上げる。
「この時計、やっぱりベンさんが持っていてくれませんか? 私たちの家にはお爺様の残していったものがたくさんありますし、お爺様もこれをベンさんが持っているのなら安心すると思います」
フィールや彼女の家族が認めるのなら、それは妙案だとアズマも思った。時計がベンの手に渡ったのもきっと何かの運命だったに違いない。時計は渡るべくしてベンのもとにやって来たのだ。
しかし、ベンは首を縦には振らなかった。
「長い間、ずっと放置してしまったんだ。俺に持っている資格はない」
「でも……」
フィールは困惑していたが、アズマは親方の気持ちもわからないではなかった。確かにフィールの提案はありがたい。だが、受け取ってしまうのは心が痛む。やはり、時計は持ち主に届くのが一番だと考えているのだろう。
……持ち主に届く?
頭の中に一つのアイデアが浮かび、アズマは無意識のうちにそれを口にしていた。
「ガンザさんのもとに直接届ければいいんじゃないか?」
それは単純な発想だった。ガンザが見つかるという保証はないが、住んでいるかも
しれない街がわかったので、行って捜してみることはできる。
もし見つかれば時計だって渡せるし、会って話すこともできるのだ。こんなに素晴らしいことはないだろう。
「勝手なことを言うな! ガンザが本当にマルスにいるかどうかはわからないんだぞ? 無駄足になることだってある」
「俺が行ってくるよ」
「それなら私が……」
アズマとフィールの声が重なった。ベンは焦る二人の様子を見て言葉を詰まらせ、難しい顔をして口を開いた。
「……まあ、とにかく二人ともよく相談して考えろ。時計はそれまでここに保管しておくから、もし本当に行くんであればまた取りに来い。さあ、今日はこの辺にしよう。外は暗くなってるだろうから気をつけて帰ってくれ。アズマ、しっかりとフィールさんを送ってやれ」
ベンは工場の鍵を手に取り、机の上の片づけと荷物の整理を始めた。今、この工場にはアズマたちしかいないので、最後は戸締りを行うのだ。
アズマとフィールはお互いに視線を交わした後、ベンに挨拶をする。
「じゃあ、俺たち先に出るから」
「今日はありがとうございました」
二人は鍵を閉めるベンの邪魔にならないよう、速やかに工場を後にした。
***
外を歩いていると、ユーリ市の夏の夜は思いのほか涼しかった。とは言っても、暑い昼間と比べてなので寒いと感じるほどではない。風が吹くと心地が良くて、空を見上げれば丸い月が雲の間から姿を現していた。
アズマとフィールはそんな静かな夜の街をゆっくりとした速度で進む。どちらかがそうしようと言ったわけでもなく、自然とそのスピードに落ち着いた。辺りに響き渡るのは石畳を歩く二人分の足音。周りに人の気配はなく、遠くの空に浮かぶ月の明かりがお互いの顔を認識できる程度に照らしている。
「さっきの話、本気なの?」
フィールが足元を見ながらポツリと呟いた。
「本気……のつもりだけど」
アズマは彼女を一瞥してから答える。本気というのは決して嘘ではなかった。
「そっか」
消え入りそうな声でフィールは笑った。
アズマは少し手を伸ばせば彼女の白い手を掴めるような距離にいる。だが、どうしてかその手が、彼女の存在が遠くに感じられた。
堪らなくなって、アズマは彼女の名前を叫ぶ。
「フィール!」
呼ばれたフィールは顔を上げ、きょとんとした表情でアズマを見た。
「どうしたの?」
「いや、その……フィールは本当に行くつもりなのか?」
どうしても訊いておきたかったこと。
――それは彼女の本心だ。
アズマは一人でも行くつもりだった。というより、「一人で」行こうとしていた。
もしフィールを連れて行って、それで良い結果が出なかったとしたら、彼女はどれだけの悲しみを背負うことになるだろう。それよりかは自分が先に訪ねて、後から報告するほうが良いのではないか。そう考えたのだ。
「私はね……」
フィールはピタッと足を止め、何かを言いかけた。
しかし、最後までは言わず、代わりに一つの提案になった。
「アズマはこの後、時間ある?」
「えっ、この後?」
「もう少し話をしたいの」
「まあ、俺は平気だけどさ。フィールは……」
時間は既に夜遅く、これから話すとなると家に帰る頃には夜が更けてしまう。アズマは最初から遅くなることを親に告げていたので問題なかったが、フィールにとってそれは良くないことのように思われた。
「大丈夫よ。ナターシャが何か言い訳を考えてくれるわ。それに、アズマにはどうしても言っておきたいことがあるの」
「言っておきたいこと?」
口を結んだフィールは小さく頷く。
「じゃあ、今から時計台にでも行ってみるか?」
アズマはポケットから鍵を取り出し、佇む彼女の目の前にちらつかせた。
「実は今日フィールを家に送った後、一人で寄って行こうと思ってたんだ。何か考え事をしたいときとかにいつも使っててさ」
「私も入っていいの?」
「本当は駄目なんだけど、今回は特別ってことで」
時計台への関係者以外の立ち入りは禁じられてはいるが、そこに夜近づく者は少なく、誰かに見つかるという心配はあまりなかった。
「それなら行ってみたい」
「少しだけ歩くけどいいか?」
「それくらい平気よ。さあ、行きましょう。時間が無くなっちゃうわ」
そそくさとフィールが早足で前を歩き出す。アズマは慌てて彼女のもとへ駆け寄って、二人並んで時計台へと向かった。
***
時計台の中は何も見えないほどの真っ暗闇で、足を踏み入れた瞬間、フィールは怖くなったのかアズマの服の裾をちょこんと掴んだ。アズマは冷静に入り口付近にあったランタンを手に取り、暗い建物の中を照らした。
「足元に気をつけて。今からあの階段を上るから」
アズマは持っていたランタンを前のほうへ伸ばす。三メートルほど先に、上へと続く木の階段があるのがうっすらと浮かび上がった。
アズマたちは慎重に、段差を一段一段上っていく。
「アズマはよくここで仕事をしているの?」
「まあね。定期的に来ては整備してるんだ。三階にある時計機械室でやるんだよ。この大きな時計も実は小さな部品の組み合わせで動いていて、ちゃんとメンテナンスしてないと止まっちゃうから」
「今から行くのはその時計機械室?」
「いや、俺たちが今から向かうのはもっと上だ」
「もっと、上?」
アズマが指で指し示し、後ろを行くフィールは不思議そうに顔を上に向けた。
「行けばわかる。とにかく、ここを上りきろう」
会話を切り、再び上へと足を踏み出した二人は、息を切らしながらも何とかこの建物の一番高いところまで辿り着いた。
「ハァ、ハァ……ここは……あれ、外に出たの?」
夜のひんやりとした風を感じ、フィールが周りをキョロキョロと窺う。
「ここは時計台の鐘のところだよ。ほら、これが鐘。音は聞いたことあるだろ?」
アズマたちがいるのは時計台の文字盤よりもさらに上、大きな鐘が設置された場所。バルコニーのように周囲の景色を見渡せるような作りになっていて、アズマのお気に入りのスペースでもあった。
「時計台の中、暑かったから汗かいちゃった。良かったわ、涼しい場所に出れて」
フィールは汗で濡れた長い髪を白い手で思いっきり掻き上げ、それから両手を上に伸ばして大きくフーッと深呼吸をした。その姿が妙に艶めかしくてアズマは思わず目を奪われつつも、彼女を街の様子が見えるところに案内した。
「フィール、ちょっとこっちに来て」
「えっ、何か見えるの?」
アズマに手招きされて横に立ったフィールは、目の前に広がる煌びやかな光景を見て感嘆の声を漏らした。
「……すごい。こんな街の景色、見たことないわ」
時計台の北側。そこには夜のユーリ市街の風景がある。遠くのほうで家々の眩い明かりが小さくぼんやりと灯り、どこかの家の光が消えたかと思うと、また別の光が暗闇から現れる。
「まるで街が生きているみたいね」
目を輝かせながらフィールが感想を述べる。そこにある風景を例えるなら、まさにその表現がぴったりだった。ユーリ市という街が一つの巨大な生物になって、夜の大地の上で暮らしているようである。
「じゃあ、俺たちは生きている街の上で生きているってことか」
「そうなるのかもしれない。今日初めて知ったわ」
「俺もだよ」
不思議な二人の会話は静かな夏の夜空へ消えて行く。
「アズマは夏休み、どう過ごしてる?」
「どうって言われても仕事があるくらいで……。あとは空いてる時間にガンザさんのことを調べてるだけかな」
「そういえば巻き込んでしまってたのよね。ごめんなさい。私たち家族の問題なのに」
「いや、巻き込んだのは俺のほうだから」
演説メモを見つけたことによって、アズマはこの件に足を踏み入れることになった。一人でもいいと思っていたのに、気がつけばこうしてフィールと一緒にいる。
「いいえ、違うわ。私はちゃんと自分の意思で動いているもの」
真っ直ぐ街のほうを眺めていたフィールは神妙な表情で呟いた。
「それに、私には早くお爺様の問題を解決しなければならない事情がある」
「事情って?」
アズマが訊き返すと、彼女は抑揚のない声で言った。
「私、来年学校を卒業したらこの街を出ようと思うの」
「えっ?」
突然の告白に、アズマは思わず声が出てしまった。
初耳だった。そんなことを考えていることすら、アズマには想像できていなかった。
「さっき言いかけた、『言っておきたいこと』っていうのはこれのこと。アズマには早めに伝えておこうと思ってね」
街を出る。それは別に不思議なことではなく、アズマたちくらいの年齢になればそういう選択をする人は大勢いる。
だけど、もしかしたらフィールがユーリ市を出る理由は……。
彼女がユーリ市を出る理由は、この街が嫌いだからかもしれない。
――この街の民衆は、彼女に対する接し方も変えた!
いつだったか、トーマスはそう怒りをあらわにした。ガンザがユーリ市を「悪者」として去ってから、この街に残った彼の家族が経験したであろう辛い思い。まだ幼かったフィールが幼少期に経験した数々の「変化」は、彼女自身の心にどんな影響を与えただろう。
ああ、そうだ。どうして今まで考えなかったのだろうか。
そんな経験をしたフィールなら、街を出たいという思いを抱いていたとしてもおかしくはない。むしろ、それが自然ではないか。
「もしかして、フィールはこの街のことが嫌い……なのか?」
アズマが勇気を出して尋ねると、フィールはちょっとだけ驚いたようにアズマを見て、またすぐに街のほうに視線を戻した。
「嫌っているように見えるの?」
「そういうわけじゃないんだけどさ」
何と言ったらいいかわからず、アズマは言葉を詰まらせる。
「私は好きだよ、この街」
フィールはそんなアズマを尻目に、堂々と胸を張った。
「だって、生まれ育った街だもの。私はこの街以外の世界を知らない。だから、私にとっての居場所はここにしかないわ」
「でも、無理やり好きにならなくてもいいだろ? ここにしかないなんて思い込む必要はない。これからもっと素晴らしい街に、世界に出会えるかもしれないしさ」
フィールの主張は言い換えれば、「ユーリ市は自分の唯一の居場所だから嫌いになることができない」というふうになる。そう考えたアズマは、彼女の強がりにも見える意見に否定的な態度を取った。
しかし、フィールは「それは違う」と首を横に振る。
「アズマは勘違いしている。私はこの街のことを無理に好きだと思い込んでいるわけではないわ。できればずっと住んでいたい。そう思うくらい好きなのよ」
「……ならどうして?」
「好きだから外から見てみたいの。まだ自分が知らない世界に行って、そこでいろんな経験をして、それからこのユーリ市を見たときに私は何を思うんだろうって。今の自分の価値観では測れなかったものがそのときにはわかるようになっていて、それで改めて好きだと感じられたらいいなって思う」
「また、戻ってくるんだよな?」
「心配しないで。絶対に戻ってくるわ」
夏の夜風でフィールの長い髪がゆらゆらと揺れる。髪の間から見える彼女の横顔は見惚れてしまうほど美しく、アズマは息をするのも忘れてしまった。
フィールは澄んだ表情で大きく息を吸った。
「だって、この街には私の居場所があるから!」
鐘の音のように迷いのない声が遠くまで響いた。
「私ね、ずっと疑問だったことがあるの。何でお父様とお母様はあんなに悲しい出来事があった後もこの街に居続けたんだろうって。でも、お爺様のことを調べていてその理由がわかった気がする。口に出さないだけで、きっと二人ともお爺様の帰りを待っているのよ。いつかもしお爺様がこの街に帰ってきたときに、ちゃんと居場所があるようにここにいる。私たち家族の居場所をちゃんと残している。だから、たとえ私がこの街を出て行ったとしても、私の居場所はなくならないわ」
アズマは今までずっと、居場所というのはたまたまそこにあるものだと思っていた。自分の意思に関係なく勝手に作られたり奪われたりするもので、だからそれがないことを可哀想だと思い、同情していた。
だけど、それは違ったのだ。
居場所というのは誰かが作ってあげることができる。
「……俺もいつフィールが帰ってきてもいいように居場所を残して待ってるよ」
言葉にしてから何だか恥ずかしくなって、顔が火照ってくるのが自分でもわかった。それでも、アズマはその決意を彼女にどうしても伝えたかった。
安心して街を出ていけるように。
フィールはゆっくりとアズマのほうに顔を向け、透き通るような微笑みを浮かべた。
「ありがとう……アズマ」
静かな時計台の上で、彼女の身体がそっとアズマのほうに寄りかかる。
そんなときだった。
――ブオォォゥ。
「な、何、この音?」
「汽笛だ! 汽車が来るぞ! フィール、こっちだ!」
「えっ? ちょっと待って」
アズマはフィールの腕をガッと掴み、鐘の周りをぐるっと反対側まで移動した。
「何なの? 何も見えないじゃない?」
「汽車には照明がついてるから大丈夫だ」
時計台の南側。昼間なら一面に広がった小麦畑とその中を通り抜ける一本の長い線路が見えるこの場所も、今は夜の闇に完全に覆われてしまって何も見えない。それでも、汽車が通ればばっちりと確認できるはずだった。
「俺も夜走る汽車をここから見たことはないんだ。おそらくすごい綺麗だよ。絶対に見たほうがいい」
「確かに綺麗なのかもしれないけど……」
フィールはなぜか少しふてくされた様子で、汽車が通るはずの線路のほうを眺めていた。
車輪が回る音とシュッシュッという煙の出る音が次第に大きくなっていく。
そしてついに、夜の中を駆け抜ける一台の汽車が二人の前に姿を現した。
「見えたぞ、あれだ!」
「すごい……綺麗」
車窓から溢れ出る眩い明かりは均等に並んでいて、汽車の進行とともに少しずつ横へ移動していき、闇の中に一筋の光の道を作っていた。
「アズマ見て、汽車の前!」
フィールが興奮を抑えきれない様子で指を差す。
汽車の前方。車体に取り付けられた前照灯が照らすその先。
「あれは……」
――そこには金色の小麦の穂が輝きながら揺れていた。
やがて、汽車は大きな音とともにアズマたちの視界から消えて行き、目の前は元通り、静かな真っ暗闇の世界になった。
「さっきはごめんね。本当に見られて良かった」
申し訳なさそうにフィールがちょこんと頭を下げる。
アズマは依然として言葉を失っていた。頭の中にはまだ先ほどの金の穂のイメージが強烈に残っている。それは闇の中に隠されていて、ライトに照らされることによって初めて目にすることができた。あんなに輝かしくて綺麗なのに、見つかるまでは誰にも気づかれない。
「フィール……あのさ」
アズマは隣に立つ彼女に呼びかける。彼女は黙ったまま、顔をアズマのほうに向けた。
「俺と一緒にガンザさんを捜しに行こうぜ! 隠された真実を明らかにしよう!」
宣言を聞いたフィールはアズマの目をしばし見つめる。
――そして、うん、と大きく頷いた。
ガンザが演説をしなかった理由。まだ誰も気がついていない真相。
それらが先ほどの小麦の穂のように暗闇の中で眠っているとするならば、自分たちがそこに光を当てよう。
そうやって、絶対に見つけるんだ。黄金の答えを。
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