五、秘書メリッサ

 夜が来て、また朝が来た。


 昨日、家に帰ったアズマはまずこれまでの調査でわかったことを用紙にまとめ、メリッサに訊きたいことをずらっと書き出していった。そうすることによって頭の中を整理し、彼女に対する質問をより的確なものにしようと考えたためだ。


 メリッサとの約束は午後。本日から仕事も休みになったので、午前中の時間も自由に使うことができる。アズマは昨日考えた彼女に尋ねたいと思うことに優先順位をつけ、さらにその場で訊きたいことがあったら質問できるように予備知識の習得に励んだ。


 もしかしたら、今日中に十年前の全貌が明らかになるかもしれない。


 アズマはそんな甘い期待を持ちながら、それでも割と本気でそう思いつつ、じりじりと照りつける太陽が昇る午前中を過ごしていた。



   ***



 三人の待ち合わせ場所はやはりボラン食堂だった。時間も同じ正午。今日は遅刻するまいと、アズマは余裕をもって家を出て、五分前には店に辿り着いた。


「おう、青年。今日は早いな」

「さすがに三日連続で遅れるわけにはいかなかったので。フィールはまだですか?」

「そうみたいだ。先に頼んじゃうか?」

「いや、すぐ来るでしょうし待ちましょう。それでいいですか?」

「構わないよ」


 店内にいくつかある四人席を陣取って、アズマたちはしばしの間談笑する。


「それにしてもトーマスさん、来るの早いですね。もしかして、昨日と一昨日もこんなに早く来てたんですか?」

「まあな。けど、別に謝らなくていいぜ。単に俺がせっかちなだけだからさ。食べ物が絡むといてもたってもいられなくなるんだよ」


 そういえば昨日はケーキのせいでフィールとの約束に遅れていましたね、という言葉は飲み込んで、アズマは気になっていたことを訊いた。


「それはそうと、トーマスさんはメリッサさんともすぐに連絡が取れる仲なんですね。やっぱり今でもお客さんとして乗せたりするんですか?」

「いや、メリッサは違うな。あの女は何ていうか、腐れ縁ってやつだ。俺がガンザさんの専属運転手でなくなってからもどこかしらで顔を合わせたりしててな。まあ、俺は仕事柄顔が広いし、彼女も市長の秘書としてあちこち回ってるから、意外なところで繋がったりするんだよ」

「じゃあ、仲が良いんですね?」

「馬鹿言え! どっちかっていうと険悪だよ。あの女は俺のこと嫌ってるし、俺もあの女のことは苦手だからな。性格がきついんだ、あいつは」

「あれ、公平を期すために変な先入観は与えないようにするんじゃないんですか?」

「そ、それは……まあ、人間なかなか公平でいるのは難しいんだよ」


 いつもはトーマスに振り回されているアズマもここぞとばかりにからかって、彼がうろたえているのを微笑ましく見る。


「そ、それにしてもお嬢ちゃんは遅いな。そろそろ店も混んできたし、何か頼まないとまずそうだぜ」


 わざとらしくトーマスは視線を逸らし、店内の様子を見回した。


 待ち合わせ時刻を五分過ぎてもフィールは現れず、確かに何も頼まずに席を占拠しているのもそろそろ限界に思えた。


「そうですね。仕方ありません。何か頼みますか?」


 そう発言するのと同時に、入り口のところでオドオドと店内の様子を窺っている彼女の姿が目に飛び込んできた。


「おう、お嬢ちゃん。こっちだ」


 トーマスも彼女の存在に気づいたようで、手招きしながら大きな声で呼びかける。


 フィールはその声にビクッとしながら、小股でそそくさとアズマたちが座る席に近づいてきた。


「どうしたんだよ、フィール?」

「い、いえ、ちょっと……」


 歯切れ悪く、相変わらず店の中をキョロキョロしながら落ち着かない様子で席につく。アズマは心配になって挙動不審な彼女に尋ねた。


「誰か知り合いでもいたのか?」

「そうじゃないの。ただ……」


 フィールは目線を落とし、顔を赤くしながら言いにくそうに述べる。


「私……このお店に入るの初めてだから」

「嘘だろ!」


 アズマは驚いて思わず叫んでしまった。アズマの中の常識では、この街の人間ならみんな一度はボラン食堂を訪れているはずだったのだ。もちろんそれは全員に訊いて回ったわけではないし、例外もいるとは思っていたが、まさかこんなに近くにその「例外」がいるとは。


「嘘じゃないわよ。名前は聞いたことあったけど」

「まあ、フィールちゃんはお嬢様だからな。そこらへんは俺たちとは違うんだよ」

「トーマス、馬鹿にしているの?」


 二人に意外な目で見られたフィールは頬を膨らませ、顔を赤らめながら語気を強める。


「してないしてない。機会があればあるし、なければない。人間の経験値なんて所詮そんなもんさ。だから、そんなことを恥じる必要もないんだよ」


 トーマスの余裕ある大人の言葉に、先ほど「嘘だろ!」と叫んでしまったアズマも自分の了見の狭さを反省する。


 彼女には彼女の今まで歩んできた人生があって、それがおかしいとかおかしくないとか気安く言う権利はないのだ。ボラン食堂に来たことがないのにも彼女なりの理由があるのに、それを慮ることができない人間が彼女のために動こうなんて図々しいにもほどがある。


 先ほどの発言は謝らなければならない。


「そうだよな。ごめん。人それぞれだよな、そんなの」


 フィールの望むことを叶えてあげたい。それがアズマの頑張る理由なのだから。


「謝らなくていいわ。気にして恥ずかしがってたのは私のほうだし」


 謝るアズマに対し、フィールはそれ以上怒ることもなく、お腹の辺りをさすりながら表情を緩ませた。


「もうこの話はやめにしない? さっきから美味しそうな香りがしているからお腹が空いてきちゃったわ。このお店、いろいろとメニューがあるのね。二人とも、早く注文しましょう」

「よしっ、お嬢ちゃんはもう決まった? 青年もいいか?」


 待ってましたと、トーマスはウキウキしてアズマとフィールの顔を見る。


「決まったわ」

「はい、大丈夫です」

「じゃあ頼むとするか。すまん、こっちのオーダーも頼む」


 何分か前から「あいつらはいつになったら注文するんだ?」と店内で睨みを利かせていた食堂のおばちゃんは、今相手をしていた客のもとを離れると、にこやかな(逆に怖い)表情でこちらへと歩いてきた。


「あんたたち、ここ最近毎日来てるけど飽きないのかい? こちらとしちゃ嬉しいんだけどさ」


 ボラン食堂が人気な店とはいえ、さすがに三日間も連続で来ればおばちゃんの印象に残るらしい。一応、今日ここには来店自体が初めてのフィールもいるのだが、そんなことは気にもしてないようだった。


「で、注文は?」


 注文票を手に、おばちゃんはじろっと眺め回す。


「ハンバーグでお願いします」

「私はオムライス」

「俺はカレーかな。できるだけ甘口にしてくれ」


 相変わらず要求が多いトーマスに、一瞬おばちゃんの顔がピキッと怒りに震えたが、すぐに元のにこやかな(逆に怖い)顔になり、厨房のほうへ去っていった。


「甘口って……」


 注文を終え、フィールが呆れ顔で苦言を呈す。


「何だ、お嬢ちゃん? 馬鹿にしてるのか? 別に甘口にしたっていいだろ? 俺は辛いものが苦手なんだ。カレー自体は好きなんだけどな」


 やはりトーマスはトーマスだ、とアズマは妙に感心してしまった。子供がそのまま大人になったようで、そういうところが案外憎めない。彼が相手の年齢に関係なくうまく懐に入り込むことができるのも、もしかしたらこの人間性が理由なのかもしれない。


 一方で、はぁ、と大きくため息をついたフィールは、「何か言ってあげて」とアズマに目配せする。


 だが、アズマはあえてトーマスにではなく、呆れて肩を落とす彼女に一つ助言をしておいた。


「フィール、卵は二つだよ」


 言われたフィールは目を丸くして、「何のこと?」というような表情でアズマを見たが、わざわざ説明はしなかった。


 まあ、このあとに控える事柄に比べれば、オムライスに使われる卵の数など取るに足らないことだ。



   ***



 ボラン食堂から市役所までの道のりはさほど遠くない。歩いていこうと思えば歩ける距離だが、トーマスは「二人を猛暑の中、歩かせるわけにはいかない」と車を出してくれた。


 夏だから仕方がないのかもしれないが、ここ最近は猛烈に暑い日が続いており、わずかな時間でも外を歩いていると体中から汗が噴き出してくる。一昨日、昨日、そして今日と車に乗せてもらっているアズマはトーマスに感謝の気持ちを持つとともに、何だか申し訳ない気分にもなっていた。


「すみません、毎日送ってもらって」

「気にしないでいいって言っただろ? 出世払いでいいよ、出世払いで」


 でも、トーマスはそれを陽気に受け流し、さらにいつもの冗談なのか本気なのかわからない口調で言うのだった。


「むしろ、こっちが金を払ってもいい」

「どうしてですか?」

「俺は君たちを利用しているからさ」

「利用? そんなことないですよ」


 変なことを言うトーマスにアズマは驚いて声を上げたが、トーマスは妙に真面目な顔をして首を振る。


「いいや、俺は自分のやりたいことのために君たちを巻き込んでいる。頭を下げなければならないのは俺のほうさ。……とにかく、この話は一旦やめにしよう。二人とも降りる準備をしておけ。もうすぐ着きそうだ」


 さすがに徒歩圏内にある市役所までの距離は短く、トーマスの話も中途半端なところで途切れてしまった。彼はいったい何を言わんとしているのか。


 だが、それよりも今はこれから会うメリッサとの対談に集中しようと、アズマはすぐに頭を切り替えた。


 一方、フィールはアズマとトーマスが話す間もずっと沈黙していたが、それは不安によるものだったようで、目的地付近まで来ると急にそわそわし出した。


「トーマス、メリッサさんは私たちが訪れる理由を知っているの? ちゃんと説明してある?」

「大丈夫。その辺は抜かりなくやったつもりだ。演説メモが見つかったことも話しておいたし、君たちが十年前に何があったかを知りたがっていることも伝えておいた。だから何でも遠慮なく尋ねてみな。多分、詳しい事情を教えてくれるんじゃないか。誤魔化すようなことが嫌いなタイプだからおそらく嘘もつかないだろうよ。それに関しては俺が保証する」

「そう。それならいいわ」


 トーマスの説明を聞いたフィールはそう呟くと、静かに座り直し、再び人形のようにおとなしくなった。


 きっと彼女も心穏やかではないのだろう。当たり前である。長年わからないままだった秘密が今日明らかになってしまうかもしれないのだ。


 もしかしたら、それは彼女が望まない答えかもしれない。


 アズマはずっとそのことを危惧していた。もし知ってしまった真実が残酷なものであった場合、自分が受ける傷よりもフィールが受ける傷のほうが何倍も大きい。世の中には知らないほうが良かったと思うものもある。


 今回がそのパターンではないという保証はどこにもない。


 それでも、彼女は知ろうとしている。悩み、苦しんでいる彼女の口から「知りたい」という言葉を確かに聞いた。


 だからこそ、アズマは願うのだ。どうか真実がフィールの望むものであって欲しい、と。



   ***



 市役所の二階にある秘書室の扉をノックすると、中から明瞭な女性の声がした。


「失礼します」


 緊張する心を落ち着かせ、まずアズマが先頭で入る。そのすぐ後からフィール、そしてトーマスと続いた。


「二人ともよく来てくれたわ。……あら、あなたも来たのね。てっきり来ないのかと思った」


 真っ赤な口紅をつけたメリッサはアズマとフィールに挨拶をした後、最後に入ってきたトーマスを見るなり、冷たい微笑を彼に向ける。


「お前に言われた通り、俺は行かないつもりだったんだ。けど、そこのお嬢ちゃんが一緒に来てって言うもんだから」

「別に来るなとは言ってないでしょ?」

「あれはほぼそういう意味だろうよ」


 約束を取りつける際に何があったのかは知らないが、部屋に入って早々始まった口喧嘩にアズマとフィールは呆然と立っているしかなかった。


 少しばかり言い争いが続いた後、唖然とする二人の様子に気がついたメリッサが気まずそうに小さく咳払いをして言った。


「え、えっと、それで……まずは自己紹介をしないとね。私はメリッサ。十年前、ガンザさんの秘書をしていました。それから何回か市長が変わる間も、私はずっとこの街の市長の秘書として働いていて、今は現市長の秘書をしています。あなたたちのことはトーマスから聞いているわ。……フィールさん、大きくなったわね」


 メリッサは感慨深そうにフィールのことを見つめる。


「私のこと、覚えているかしら? あなたがまだ幼い頃、よくガンザさんが小さいあなたを私のところへ連れてきてくれたんだけど」

「何となく覚えています」

「そう。覚えててくれたのね」


 フィールの言葉を聞き、メリッサは懐かしそうに頬を緩める。


「普段は仕事で気を張っていたガンザさんも、あなたと一緒にいるときはフッと心が休まるみたいで嬉しそうな笑顔を浮かべていたわ。それを見て、あなたたちは本当に幸せな家族なのだとわかった」


 幸せな二人。ガンザとフィールはお互いにとって大切な存在だったのだろう。


「だからこそ、あの日の出来事はあなたたちにとって……」


 そう呟いて俯くメリッサの表情からは笑みが消え、やりきれなさを感じさせるような暗い表情に変わっていた。


 仲が良ければ良いほど別れのときは辛いものである。


 だから、人はその瞬間を大切なものにするために、最後の言葉を交わし、想いを伝えて別れるのだ。


 でも、その別れが突然で、何の言葉もなしに訪れたとしたら。


 フィールは七歳にしてそれを経験したのである。しかも、去ってしまった相手は悪者として扱われた。幼い彼女にとってそれがどれだけ悲しい出来事であったか、アズマには想像もつかなかった。


「もう平気です。だいぶ時間も経ちましたから。今はそれよりもあの日の真相を知りたいんです。純粋に、ただそれだけです」


 それでも、フィールは悲しみを恐れずに前を向いている。


 過去に起こってしまったことは変えられない。ガンザが去ってしまった現実は、彼のいないこの十年という月日は今更どうしようもない。


 だが、これからどうするかは今の自分次第である。


 ――あの日、何があったのか知ること。


 それこそが、フィールの選んだ未来へと進む道なのだ。


「そう。それなら……」


 メリッサもフィールの固い意志を感じ取ったようで、それ以上の心配を向けずに話を次の段階へと進めた。


「あの演説の日に何があったのか。私が知っていることをすべて話します。そのために少し場所を移してもいい?」

「場所を、ですか?」


 不思議そうに尋ねるフィールにメリッサは頷く。


「あの日のことを語るのにふさわしい場所。私についてきて」


 そう言って、メリッサはアズマたちを秘書室の外へと誘導した。



   ***



 メリッサに連れて来られたのは市役所一階の市民ホールだった。このホールは五百人近い人数を収容できるユーリ市内最大の多目的ホールである。市内で何か大きな催し物が開かれるとしたらたいていこの場所が利用されており、これまでもたくさんのイベントが開催されてきている。


 ――あの演説もここで執り行われるはずだった。


 アズマはがらんとしたホール内を見渡す。ホールの両側の上部には大きな窓がついていて、昼間は照明がなくても外からの自然光で明るい。今日は特にイベントが開かれる予定はないらしく、何かが展示されていることもなければ、テーブルや椅子が並べられていることもなかった。


 しかし、なぜか正面の一段高い壇上には演説台がポツンと一つ置かれていた。


「あれは私が準備したの。できるだけあの日の状況を再現しようと思ってね」


 怪訝な顔をしていたアズマに気づいたようで、メリッサが説明を始めた。


「あの日、ガンザさんはあそこに立つはずだった。私は当日、会場内で司会を担当していたの。訪れていた市民はユーリ市の未来を案ずる方ばかりだったから、会場内は異様な空気に包まれていたわ」


 その日ここにいなかったアズマとしては、会場内がどのような雰囲気だったのかについては想像するしかなかったが、彼女の言う「異様な空気」というのは何となくわかってしまった。できればわかりたくないと思いながらも、その空気がもたらすであろう感覚はぞっとするほど伝わってきてぶるっと身震いした。


 話しながらメリッサはアズマたちを連れて壇上へ上がり、一人端のほうへ歩き出す。


「ちょうどこの辺ね。私はここから会場に集まった人たちに呼びかけていた。ご静粛に、とか言いながら待っていたの。みんなと一緒に。彼の登場を」


 誰もいない演説台を見つめるメリッサの顔が悲しみに満ち溢れる。あのときも彼女はこうしてそれを見つめていたのだろうか。現れると信じて疑わなかった彼のことを待ちながら。


 だとしたら、いなくなったと知ったとき、彼女は何を思ったのだろう。


 ……裏切られた、と思ったのだろうか。


 四人がいる壇上には言葉がなくなって、それぞれが自分の世界の中で、あの演説の日の出来事を考えていた。当然、みんな立場が違うので考え方や感じ方は違う。アズマはこの中では一番ガンザから遠い存在だが、それでも思うところがいっぱいあった。



 秘書として、あの悲劇の日にも立ち会ったメリッサ。


 運転手として、公私ともに交流のあったトーマス。


 家族として、いつも会えるのを楽しみにしていたフィール。



 それぞれの顔を順番に窺う。この三人が抱える想いはいったいどれほどのものだろう。


 いや、この三人だけではない。農業組合の代表だったラファエルも、工業組合の代表だったハリスも、他にもおそらくアズマが知らないだけでたくさんの悲しんでいる人がいるのだ。


 ガンザは決して悪者なんかでも、孤独なんかでもない。


 今でも彼の帰りを待っている人物はこの街に大勢いるのである。


「……ごめんなさい。説明がまだ途中だったわね。その後、結局彼は現れず、会場内は大混乱になった。私自身も事情がよくわからないまま、とにかく集まった人たちへの対応に追われていたの。当然、興奮状態の人もいたわ。皆を会場から退散させるときには、何度も『市長は何で姿を見せないんだ?』って大きな声を浴びせられた」


 赤い目をしたメリッサは声を詰まらせ、悔しそうに舞台の下を睨んだ。


「けれど、そんなの私にだってわからないっ!」


 メリッサの悲痛の叫びが空っぽのホール内に響いた。


 彼女は本当にそのとき市民に対してそう叫んだのかもしれないし、あるいはそのときは口にできずに飲み込んだ言葉が今になって解き放たれたのかもしれない。


 けれど、当時の彼女が実際にその言葉を叫んだかどうかはどうでもいい。


 大切なのは、気にしなきゃいけないのは、その言葉が「今の言葉」であるということだ。過去の言葉じゃない。現在も彼女が抱えている心の傷が、今の彼女に叫ばせているのだ。


 十年前のあの出来事は未だに様々な人々を傷つけ続けていて、その因果を断ち切れるかもしれないガンザは行方知れずのままでどうすることもできない。


「私はどうすれば良かったんだろうね」


 涙を拭い、叱られた後の子供のように少しだけ笑った。


「今だって考え続けているの。でも、答えは出ない。私はガンザ市長がいなくなってからも後任の市長の秘書であり続けた。それは、いつかガンザさんが帰ってきたときに私なりの答えを持って彼と向き合えるように、このユーリ市を同じ立ち位置から見守り続けていたかったからなのよ」


 最近になってこの件を調べ始めたアズマは、改めて自分の知見の浅さというものを感じてしまった。どうしたって埋められない時間。気がつかないというのは本当に恐ろしいことだ。こんなにも切ない物語が十年という月日の間に流れていたのに、同じ街で生きていたはずの自分にはまったく見えていなかったのだから。


「……ひとまずこれで説明は終わり。ここからは質問を受け付けるわ。私に答えられるものなら何でも答えるから遠慮せずに訊いて」


 メリッサは呼吸を整えながら、アズマとフィールに優しく問いかけた。


「それじゃあ、一ついいですか?」


 戸惑いつつも、アズマは手を挙げた。「どうぞ」とメリッサの声が返ってくる。


 遠慮せずに、と言われても訊いていいものなのか迷ってしまうが、中途半端な質問をしてしまっては誰の得にもならない。


 アズマは覚悟を決め、彼女が思い出したくないであろう過去に足を踏み入れる。


「失踪前のガンザさんについてできるだけ詳しく知りたいんです。演説をすることが決まってから彼に変わった様子はなかったか、メリッサさんが最後にガンザさんに会ったのはいつで、そのときどんな会話をしたのか。何でもいいです。思い出せることがあったらどんな些細なことでもいいので教えてください」


 質問しながら、アズマも心が痛んでグッと手を握りこんだ。この問いは間違いなくメリッサにとって酷である。今でも悩み続けている彼女に、「あなたはガンザさんの失踪を止められたかもしれないのにそれができなかったんですよ?」と言っているようなものなのだから。


 苦悶の表情を浮かべて唇を噛み締めるメリッサを見て、「やっぱりいいです」という言葉が喉まで出かかったが、アズマはそれを飲み込んだ。彼女を苦しめるのは承知の上で尋ねたのだ。今更引いてしまうわけにはいかなかった。


「全部、今思えばだけど……」


 整理がついたのか、彼女は重い口を開いた。


「演説が執り行われることになって、ガンザさんは相当追い込まれていたのかもしれない。日増しに口数も減ってきて、私が話しかけても心ここにあらずといった状態でずっと厳しい表情をされて」

「お爺様が私と遊んでくれなくなったのもその頃だったかもしれません」


 フィールの悲しい告白に、メリッサは優しく答えた。


「あなたのことが好きだったからこそ、巻き込みたくなかったんだと思うわ。ガンザさんは実直な人だったからわざと明るく振舞うのは嫌だっただろうし、本当の姿を見せてあなたに心配をかけさせるのも避けたかったはず。だから、あなたに会わないと決めた。少なくとも演説が無事に終わるまでは……」


 ――演説が無事に終わるまで。皮肉にも、その言葉は今日までのガンザとの決別に繋がってしまう。



 だって、演説は幻となってしまったのだから。



「俺たちはガンザさんの書いた演説メモを見つけました。メモが残っていたということは、ガンザさんは直前まで演説をするつもりだったということになりませんか?」

「メモのことは、私もトーマスから聞いて初めて知ったの。けれど、直前まで演説をするつもりだったというのは間違いないと思うわ。ガンザさんとは当日も話をしたから」

「どんな会話をしたんですか?」

「私が『ホールに人が集まり始めました』って市長室に報告をしに行って、ガンザさんが『私が行くまで引き続き会場の案内を頼む』と返事をした。それが彼との最後の会話。当日のスケジュールは決まっていたから時間になったら来るだろうと私は疑わなかった。だからそれまでの間、私は彼のことを案ずることもなく会場で準備に奔走していた」

「それなのに来なかった、と」


 アズマは考える。なぜ、ガンザは会場に姿を現さなかったのか。


 メリッサの言うことが事実なら、ガンザは本当に始まる直前まで演説をしようとしていたことになる。


 けれど、もしかしたらそれは演技で、心の内ではもっと前から演説をやめることを決めていたのかもしれない。


 いずれにしても、いつかの時点で彼は「演説をしない」という結論に至ったのだ。


 そして、彼はいなくなった。この街から姿を消したのである。


 まだまだ見えぬ真相に頭を悩ませながら、アズマはちらりと後ろを振り返った。


 そこには俯いたままのトーマスが笑顔なく立っている。いつもはお調子者でお喋りだが、こういうときは口を固く閉ざしたまま影のように存在感を消している。彼の心境は計り知れない。


 誰も口を開かず、また再び沈黙の様相を呈してきた舞台の上で、隣にいるフィールの白い腕がスッと上に伸びた。


「私からも質問していいですか? どうしても尋ねたかったことがあるんです」

「もちろんよ。何かしら?」


 メリッサが答えると、フィールはまるで今まで破れなかった壁を突き破ろうとしているかのように、力強い上目遣いで彼女の顔をじっと見つめた。


「メリッサさんはお爺様の行方に心当たりはありませんか?」


 その質問はまったくアズマの頭の中になかった。


 今まで、ガンザがなぜ演説をしなかったのかに捉われて、彼の行方については二の次になっていたのである。


 でも、家族であるフィールにとって最も重要なのは「ガンザが今どこにいるか?」ということだったのだ。それこそが彼女が一番知りたかったことで、メリッサに会いたいと思ったのも、直前まで一緒にいた彼女なら何か知っているのではないかと考えたからに違いない。


「残念ながら、私にはわからないわ。ごめんなさい」


 メリッサは申し訳なさそうに首を振った。


「そうですか」


 がっくりと肩を落とすフィールに、メリッサは付け加える。


「でも、知っているかもしれない人物に心当たりがあるわ」

「本当ですか?」

「ええ。ただ……」


 なぜだかメリッサはアズマのほうを確認するような目で見る。不思議に思ったアズマは思わず口を開いた。


「どうしたんですか?」

「もしかしたら私のところに来る前に訊いてみたんじゃないかと思って。だって、あなたは彼の工場で働いてるんでしょう?」

「えっ?」


 何のことかわからず、アズマは言葉を失う。


 戸惑いの表情を見せるアズマを見て、今度はメリッサも困惑していた。


「悪い、メリッサ。実は青年にはまだ言ってなかったんだ。お前のほうから説明してやってくれないか?」


 ずっと黙って後方から様子を窺っていたトーマスが神妙な面持ちで頭を下げる。


「……わかったわ」


 メリッサはトーマスの発言で事情を把握したのか、スーッと息を吸い、依然として状況のつかめないアズマと目を合わせた。


「トーマスから聞いたんだけど、あなたは彼の、ベンさんの工場で働いているのよね?」


 ベンという名前が耳に入り、アズマは静かに頷いた。


「そのベンさんとガンザさんはどうやら幼馴染だったらしいのよ」


 メリッサの言葉が確かな意味を持ってアズマの耳を通り抜けていく。


 以前、トーマスにベンとガンザが知り合いだったと聞いたとき、アズマはその繋がりに驚いた。市長にもなるような立派な人間と、いつも工場で薄汚れた作業着を着て働いているベンがどうやって知り合ったのか疑問に思ったのだ。


 だけど、ベンは偉大な修理工だ。彼には市長のような高潔さや華々しさはないかもしれないが、アズマにとっては一番尊敬している憧れの人物だった。


 だから、きっとガンザもその腕や人柄に惚れて親方と交流を持つようになったに違いないと勝手に信じ込んでいたのだ。


 でも、それはどうやら違うようだった。


 市長と親方は、ガンザとベンは、もっと幼い頃からの仲だったのだ。


「詳しいことは私もトーマスも知らないのだけど、以前私たちが乗っていた車の中で、ガンザさんがそのことを話してくれたの。『お互いに年を取ったけど、今でも一番の親友はベンだ』って彼は言っていたわ。だから、私たちはもしガンザさんの居場所を知っているとしたらベンさんだって思っているの」


 メリッサがトーマスを一瞥する。彼は目を合わせようとはせず、顔を伏せ、俯いたまま動かなかった。表情はアズマの位置からも、おそらく彼女の位置からも確認できない。


 メリッサは苦渋の表情を浮かべたまま、一人話を続ける。


「でも、私たちはベンさんにそれを訊けないでいる。そして、触れていいのかどうか悩んでいるうちに十年が経ってしまった。あなたたちからしてみればどうしてって思うでしょうね」

「いいえ。私にはわかります」


 大きく首を横に振り、寂しそうに口を開いたのはフィールだった。


「それは私の家族も同じです。お爺様の話題が出そうになると、いつもわざとらしく話を変えてしまう。私もそうしてきた。十年という間、家族で真剣にお爺様のことについて話し合ったことはなかったわ」


 どうして、という言葉はそれぞれに対して向けられている。


 同じ苦しみを味わっているからこそ、非難ではなく、同情とも少し違った、連帯感のようなものがあるのだ。


「こんなことを言うのは卑怯だってわかっているけど」


 メリッサは哀願の目でアズマとフィールの手を掴んだ。


「私はあなたたちに託したい。この十年、止まったままの時間を動かしてくれることを」


 アズマもフィールも声が出ず、手を取られたまま静かに立ち尽くす。


 弱々しく握られた手からは、今まで触れられなかった後悔と、行き場のなかった願いが伝わってくる気がした。



   ***



 市役所からの帰りの車中、三人は終始無言だった。話したいことはいっぱいあるのだけど、どう言葉にしていいのかわからない。もどかしい気持ちを抱えたまま、車は無情にもすいすいと整備された道の上を走っていった。


 フィールを家に送って二人になった後、アズマはとうとう重い一言をトーマスにぶつけた。


「どうして言ってくれなかったんですか?」


 しかし、運転席のトーマスは依然として口を開かず、やっとの思いで放たれたアズマの言葉もだんだんと過去のものになっていった。


 このまま無視されてしまうかもしれない、とアズマが思いかけたそのとき、トーマスは前を向いたまま平坦な口調で言った。


「青年、これから少しドライブしないか?」


 助手席のアズマは彼のほうに少しだけ顔を向けて頷いた。


「ありがとよ。まあ、なんだ、ちょっと話したいだけなんだけどな。いろいろと秘密にしてたこともあるしな」


 横目でアズマのことを確認したトーマスはハンドルを切り、それまでアズマの家に向かっていた車をそのルートから逸らす。


 車は静かに揺れながら、行く当てもなく街を彷徨い始めた。


 今回の件に関してまだ何もわかってなかった頃、こうやってドライブをしながらアズマはトーマスに協力を依頼した。遠い昔のようにも感じるが、わずか三日前の話だ。この三日間でいろいろなものの印象が大きく変わったようにアズマは思った。


「あの頑固親父……いや、ベンさんのことだけどな」


 アズマがずっとお調子者だと思っていた男――トーマスは自嘲の笑みを浮かべて思い出すように語り始める。


「ガンザさんにベンさんの修理工場を紹介してもらってから、俺は何度も工場に足を運ぶようになって、気がついたら頻繁に顔を出すようになっていったんだ。俺も最初は二人が幼馴染だって教えてもらってなかったから、最初にそれを聞いたときは驚いたよ。まさかこの二人が、ってね」

「わかります。俺もさっきメリッサさんから聞いたときびっくりしましたから」

「でも、同時になんだか妙に納得したんだ」

「納得、ですか?」

「そう。驚きはしたんだけど、振り返ってみればそう思える節があった。何ていうか、二人が話してるときには二人だけの空気感みたいなものがあったんだよ。ああ、これは小さい頃から仲良しじゃないと出せないなっていう。一応言っておくと、君とお嬢ちゃんにもあるよ」


 トーマスが肘でアズマをつつきながら、からかいの笑みを見せる。アズマは彼が少しだけ元気を取り戻したことはよしとして、最後の一文に関しては触れないことにした。


「親方とガンザさんは本当に仲が良かったんですね」

「まあな。だから、もしかしたらベンさんなら知ってるかもしれないって思うわけさ。根拠はないが自信はある。勘みたいなものだけどな」

「実際に訊いてみたことはないって言ってましたね」


 アズマの言葉に、トーマスは悔しそうに頷いた。


「メリッサはともかく、俺はガンザさんがいなくなってからもしょっちゅうベンさんと会っている。本来なら俺が訊くべきだったんだ。君もそう思うだろう?」

「そんなことは……ないです」


 アズマは必死に表情を隠し、言葉を濁すことしかできなかった。


 訊けなかった理由はわかる。トーマスの気持ちだって理解できないわけではない。


 だが、「なぜ」という感情はどうしても出てきてしまう。自分には十年という積み重ねがないから。


「ふふっ。青年はやっぱり素直だな。たとえどんな結末を迎えようと、今回の件を君に頼んで本当に良かったと思うよ」

「素直なんかじゃありません。嘘だってついてます」


 アズマは吐き捨てるように言った。実際、今だって本当に思ったことは言えていない。


 素直に見えるのは、自分の知識や経験が圧倒的に足りていないからだ。


 トーマスの視線から逃げるように顔を下に向けていると、彼は「素直っていうのは」と穏やかな口調で言った。


「素直っていうのは別に嘘をつかないってことじゃない。真剣に考えてくれているか、ということだよ」


 優しい声が耳を抜け、ストンと言葉が心の中に落ちる。


 運転席のほうを見ると、トーマスの表情にはすがすがしさがあった。何か今まで彼の中にあったわだかまりのようなものが解消されたのかもしれない。


 彼はふうっと息を吐き、はっきりとした意思の感じられる声で締めくくりに入った。


「さてと、俺から話せることはこれくらいだ。そろそろドライブも終わりだな。君の望む場所へ送るがどこがいい?」

「俺の望む場所……」


 俺はこれからどうするべきなのだろう? 俺にできることは何だ?


 アズマはじっと考え、そして決めた。


「工場に向かってください。親方と話してみます」


 その声を聞いたトーマスは良いとも悪いとも言わずに深く頷き、宣言した。


「ちなみに、これをもって俺は君の運転手を辞める。だから、これが俺の最後の仕事だ。短い間だったけど、俺を雇ってくれてありがとな」


 もしかしたら「工場」という答えはトーマスが望んだもので、アズマの答えは誘導されたものだったのかもしれない。


 でも、きっとどう答えても彼は受け入れてくれただろうとアズマは思うのだった。


「こちらこそありがとうございました」


 先ほどのすがすがしいトーマスの顔を見て、何となくこの物語が自分に受け継がれた気がしたから。



   ***



 太陽はゆっくりと下り始めた。


 夕方になると工場内には照明がつけられる。だが、よっぽどのことがないと夜の居残りは発生しないことになっているため、彼らは作業を終わらせるためにこれからの数時間は最も集中して働くのである。


 今日も例外ではなく、修理工場で汗を流すみんなの顔は真剣そのものだった。休みであるはずのアズマが工場の中に足を踏み入れたときにはさすがに視線が集まったが、またすぐに何事もなかったかのように自分の作業に全神経を集中させていた。


 そんな様子を窺いながら、アズマの足取りは確実に一歩一歩「あの人」のもとへと近づいていた。広い背中に太い腕。ただ一人、アズマが入ってきても振り向くことなく机に向かって仕事を遂行している男。後ろ姿からもものすごい威圧感が感じられ、話しかけることを一瞬躊躇わせる。


 だけど、逃げずに真っ向から訊くと決めたのだ。アズマは迷いを振り払うように首を振って強く頷き、騒音の中でも絶対に聞こえるくらいの大きな声で呼びかけた。


「親方、ガンザさんのことで話がある」


 だが、呼ばれたベンは振り返らなかった。アズマは呼びかけを続ける。


「親方とガンザさんは幼馴染だったんだろ? 俺、今までなんも知らなかった。親方とガンザさんの関係もそうだし、ガンザさんがいなくなってからずっと後悔の念を抱えて生きてきた人たちがいるってことも。親方からしたら、俺の姿は疎ましく見えたかもしれない。でも、今は俺もいろんなことを知った。だから、話を聞かせてくれ」


 喉が枯れるくらいに叫び、荒くなった呼吸を一旦整える。さっきまで動いていた親方の手はピタッと止まっていた。


 アズマはその手元にあるのが、あの高価な懐中時計であることに気がついた。昨日見たときよりもだいぶ仕上がっているようだった。


「いつか来ると思っていた」


 まず一言、ベンはそう呟いた。そして、椅子に座ったまま振り向くこともなく話を続ける。


「お前が最初にガンザの名前を出したときは本当に驚いた。しかも、トーマスと一緒に調べている。ならば、時間の問題で俺のもとに来るだろうと察したよ」

「途中で調べるのをやめちゃうとは考えなかったのか?」

「考えなかったな」

「どうして?」

「お前は俺の弟子だからな。性格はお見通しだ」


 ベンの顔は見えないが、少しだけ笑った気がした。


「だから、お前は真実を知って俺のもとに来る。それまでに俺は俺のやるべきことをやろうと思った」

「親方の……やるべきこと?」

「結局、間に合わなかったけどな」


 ベンは机上に置かれた未完成の懐中時計を手に取って眺めた。


「間に合わなかった、ってその時計のことか?」

「アズマ、頼みがある」


 ベンはアズマの問いには答えず、まだ動かない時計をじっと見ながら言った。


「明日の夜まで待ってくれ。そのときすべてを話そう」

「……わかった。何時に来ればいいんだ?」

「八時だ。それまでにいろいろと整理しておく」


 何か考えがあってのことだろうが、アズマにはその真意はつかめない。だけど、親方がそう言うのであれば従うべきだと思った。彼の「すべてを話そう」という言葉には嘘がないと本気で信じられたから。


「それから、フィールさんもここに連れて来い」

「フィールも?」

「ああ、そうだ。彼女にも知らせてあげなければならない。本当はもっと早く……って今更後悔していても仕方ないな。とにかく明日だ。頼むぞ」


 そう言い切ったベンはデスクライトを点灯させ、また懐中時計の修理作業へと戻った。


 話しているうちに、いつの間にか工場の窓の外は夕陽で赤くなり始めていた。気がつけば工場内には明かりが灯り、あともう少しで仕事が終わるという期待感からか、働く弟子たちの表情もどこか明るく見えた。


 一方で、親方については話の途中でチラリと横顔が見えたくらいで、最後まで表情を窺い知ることができなかった。机に向かう大きな背中が壁のように立ちはだかり、感情的な部分はすべてそれに隠されてしまったような気がする。


 明日は正面から向き合ってくれるに違いない。


 アズマはもうこれ以上ここにいる必要はなかった。というよりむしろ、ここを離れて行かなければならない場所ができた。


 約束を伝えに、フィールの家へ。


 つい先ほど別れたばかりの、しかもあの何とも言いがたい沈痛な雰囲気の中で別れた彼女と、日をまたがずにまた会うというのは些か気が引ける。けれど、早めに言っておかなければならないだろう。


 ――本当はもっと早く。


 工場を出る前に、アズマはもう一度ベンが座っている場所に目を向けた。彼はこちらを振り返る気配すらなく、一心不乱に仕事に没頭していた。


 さあ、本格的に暗くなる前に行こう。


 アズマは親方に背を向け、少しだけ暑さの和らいだ夕暮れの街に飛び出した。



   ***



「外食……ですか?」

「そうなの。今日は珍しく夕食時に家族三人揃ったからね。私は留守番ってわけ。連れて行ってあげるって言われたんだけど、メイドとしてしっかりとこの家の留守を守るのが責務だと思って断っちゃった」


 門をくぐり、家の大きなドアの前で、三つ編みの髪に白黒のメイド服といういつものスタイルで現れたナターシャにフィールの不在を告げられた。右手にはなぜかフライパンを持っており、自分用の料理を作っていたのか、あるいは突然の来客に警戒して万が一のために武器として持ってきたのかそれは定かではないが、アズマの顔を見ていらないと判断したようですぐに両腕で抱え込むように持ち替えていた。


「ということは帰ってくるのは遅くなりますよね?」

「そうだねぇ、九時くらいにはなるかもしれないね。せっかくの家族団らんの機会だからゆっくりと過ごすだろうし」

「そうですよね」


 アズマはどうしようか困り果て、小さく肩を落とす。


「何か伝言があるなら、私のほうからお嬢様に知らせといてあげるよ。そのために私はいるんだから」

「それはありがたいんですけど、込み入った案件なので……」


 事情を知らないナターシャにこの件を頼むのは難しい。そう判断したアズマは彼女の提案に首を振って、もう一度出直して明日の朝に来ようと決意する。


 しかし、じっとアズマの様子を見つめていた彼女は予想外の一言を発した。


「もしかして、ガンザ様のことについて?」


 アズマは思わずナターシャのほうを見た。彼女の大きな瞳はうろたえるアズマの目をばっちりと捉えていた。


「ど、どうしてわかったんですか?」

「あー、やっぱりそうなんだ」


 ナターシャは一人納得し、こわばった空気を解消しようと笑顔を浮かべた。


「最近、お嬢様の様子がなんか変だなって感じてて、家族の前でもどこかよそよそしくて距離があるというか、とにかく何か隠し事をしているなって思ってね。気になっていろいろと探りを入れてみたら、どうやらガンザ様のことが関係してるってわかったの。そんなときにアズマ君が来たから、きっと一緒に何か企んでるんじゃないかって考えたわけ」

「別に企んでるっていうわけじゃ……」

「でも、わざわざこんな時間にここに来たってことは、お嬢様によっぽど大切な何かを伝えたかったんでしょ?」


 そう言われると、アズマは頷くしかなかった。いつでも会えるというのは危険な考え方で、例えば今のように会いたかった相手が外出してしまっていることだってある。実際問題、明日の約束についてできるだけ早く伝えておきたかったから急いでここに来たわけで、そこは否定できない。


「私のほうから一つお願いしていい?」

「お願い? 何ですか?」


 首をかしげるアズマに、ナターシャは提案を切り出した。


「この数日間、何があったのかを教えて欲しいの。話せる範囲でいいから」


 彼女はアズマの顔をじっと見つめ、懇願を続ける。


「私はガンザ様のことはほとんど何も知らない。この家で働くようになって四年経つけど、私はもともとユーリ市の人間じゃないから、彼が市長をやっていたことも歴史としてしか知らないし、彼を見たことすらない」


 少し悲しそうに俯いて、けれど彼女は再度力強く顔を上げる。


「でも、お嬢様のことはよく知っている。そして、お嬢様は彼のことについて何か悩んでいる。だから、私は知っておきたい。今、アズマ君たちが向き合っていることを」


 アズマも演説メモを見つけたときからずっとフィールのことが気がかりだった。だから、不安に思うナターシャの気持ちがよくわかった。どんな関係性であろうと、近くにいる人が悩んでいたら事情を知りたいと思うのは当然のことだ。


 アズマはナターシャの願いを聞き入れることにした。


「話すとなると少し長くなります」

「私は大丈夫。アズマ君のほうは時間、平気なの?」

「親が夕飯を作って待っているので、それまでに帰れれば大丈夫です」

「わかった。そんなに時間はかけさせないようにする」


 頷いたナターシャはアズマを家の中へ招き入れ、素早くリビングルームのほうへ歩き出す。


「そこに座ってて。すぐに戻ってくるから」


 彼女はテーブル席にアズマを座らせると、返事を待たずに走って姿を消した。数分後に現れたときには手ぶらで、フライパンだけがなくなっていた。


「さてと、まずは何から聞けばいいかな」


 ナターシャはアズマの対面に座り、意見を求める。


「そうですね……」


 アズマは腕を組んで熟考する。ナターシャがどこまで前提知識を持っているかわからないので、話す内容と順番を工夫する必要があった。


「とりあえずは十年前のある演説について話さないといけません」

「それって、ガンザ様がみんなの前でするはずだった演説を放棄したってやつ?」

「知ってるんですか?」


 アズマは組んでいた腕を解き、彼女のほうへ身を乗り出す。


「一応ね。私だってこの街に四年いるんだから噂くらい聞いたことあるよ。あんまり良い噂じゃないけどね」

「……でも、知ってるなら話は早いです。実は先日、この家の書斎にある本の中にその演説のために準備されたと思われるメモが挟まっているのが見つかったんです」

「もしかして、この前アズマ君が昼食を食べに来たとき?」

「はい、そうです。そこから俺は十年前の件に興味を持ちました。何でメモまで作ったのに演説をしなかったんだろうって」

「確かに気になるね」

「それで、フィールに『一緒に調べよう』って言ったんです。……断られましたけど」

「お嬢様にとってはあまり触れたくないものだったのでしょうね。それで、アズマ君は一人で調査を始めたと」


 察しが良いナターシャはふんふんと頷きながらアズマの話を先取りしていく。


「その通りです。当時のことは俺もまだ小さかったのでよく知りませんでした。だから、資料を集めたり、いろいろな人に話を聞いて回ったりして、ちょっとずつ理解を深めていきました」

「それで途中からお嬢様も加わったんだね?」

「はい。最初は断られたので、まさか協力してくれるとは思ってませんでした」

「えっー、そう? 私には何となく予想がつくけどなぁ」


 口を開けてぽかんとするアズマにナターシャは悪戯っぽく笑いかける。


「それはアズマ君が頑張ってたからだよ」

「からかわないでください」


 アズマは顔を赤らめつつ、陽気な微笑みを浮かべる前方の彼女を睨んだ。


「別にからかってないよ。本当にそう思ったんだから。……ちょっとからかってるかもしれないけど」


 ナターシャは軽く舌を出して、「ごめん」と手を合わせた。


「……とにかくそれでフィールも加わって、今日はガンザさんの秘書だったメリッサさんに話を聞いてきました。そして、彼女からある事実を聞かされたんです」

「ある事実?」

「ガンザさんの行方を知っている人がいるかもしれないってことです」


 ナターシャの顔から笑みが消え、真剣な目つきでアズマを見た。


「誰なの?」

「俺が働いてる修理工場の親方です。どうやらガンザさんとは幼馴染だったみたいで」


 アズマは顔を俯かせ、反省の弁を述べる。


「いつも近くにいたのにまったく気がつきませんでした。俺、本当に何も見えてなかったんです。親方のこともそうだし、フィールのことや、この街のこともそう。いつも目にしていたはずなのに、本質は何も見えていなかった。今回調べてみて、初めてそれがわかったんです」


 だから、絶対に伝えなければならない。もうすれ違うことのないように。


「さっき、俺は親方と約束をしました。明日の夜八時、俺はフィールを連れて親方のもとに行って話を聞きます。ここに来たのは彼女にそれを伝えるためです」


 ナターシャは顎に手を当て、深く考え込んだ。


「そういうことだったんだね。アズマ君たちがここ数日悩んでいたのは。いや、ここ数日だけじゃないよね。十年間ずっと悩んできたんだよね、きっと」

「フィールはそうだと思いますが、俺は……」


 アズマは表情を歪め、ギュッと唇を噛み締める。自分は散りばめられた悲しみのその一つにさえ気づくことはできなかったのだ。悩んできた、などと到底言えるはずがない。


 しかし、ナターシャは否定するアズマを否定した。


「アズマ君も一緒に悩んできたんだよ。私には断言できる」

「どうしてですか?」


 反発からか、少し声が大きくなる。


 それに対してナターシャは興奮したりせず、あくまで冷静な口調で一言述べた。


「私は外側の人間だから」


 アズマは目を丸くし、ハッと口を開いた状態で彼女を見つめた。


 ――外側の人間。その言葉にアズマは衝撃を受けたのだ。


 ある意味でそれは、ここ最近アズマがずっと感じていたことだった。関係者に話を聞いていると、自分は一切物語に絡んでこなかった人間であることを思い知らされる。当事者と部外者という言い方は良くないかもしれないが、もしその区別をするのであれば自分は部外者であると感じていたのだ。


 でも、ナターシャから見れば違うのだろう。


 彼女からしたらアズマは間違いなく「当事者」で、「内側」の人間なのである。


「私がユーリ市に初めて来たのは四年前だったけど、そのときには既に市長はガンザ様ではなかったし、演説のことも市民の記憶からはだいぶ遠ざかっていたと思う。だけどね、みんなの中にはその出来事がしっかりと刻み込まれているの。そして、ときどきそれが表に出てくる。アズマ君にだって、抱えている想いがきっとあるんでしょう?」


 幼い頃に刻み込まれた記憶。


 忘れているようで忘れていない当時の街の光景。


 言われてみれば、自分にだって思うところの一つや二つくらいあった。


 ナターシャは言い返さないアズマを見て確信したようで、返事を待つことなく自らの立場を切なげに話し始めた。


「私にはね、ないの。もちろん、意見くらいはあるよ。もっと街全体で問題点を話し合えばこんな悲劇は起きなかったんじゃないかとか、そこまでガンザ様を悪者にするのは良くないんじゃないかとか。だけど、それはその場にいなかった人間の言うことで、そこには感覚的な配慮がない。経験してない私にはどうしても届かない。本当にわかってあげられるのは、アズマ君のように同じ空気を味わった人間だよ。たとえ幼かったとしてもね」


 果たして、自分は真実に手が届くのだろうか。悲しみに覆われた人たちを救うことができるのだろうか。


 自信はなかった。だけど、受け取ったたくさんの想いがある。それらを無駄にしないためにも、アズマは彼女の言う「本当にわかってあげられる人間」になりたかった。


「人は皆、納得するための都合の良い理由をつけたがる。そうしないと安心できないから。ガンザ様のことだって根拠のない噂話がたくさんあって、私にはどれが正しいのかわからない。アズマ君はそれに惑わされないようにね」

「ガンザさんのことを悪く言う人はたくさんいます。でも、それは今の話です。俺はガンザさんが演説をしなかった本当の理由を突き止めて、彼の汚名を返上したいと思います。それが彼のことを愛する人たちのために俺ができる唯一のことで、あともう少しのところまで来ているんです」

「明日の夜、だね?」


 確認するようにナターシャが言う。アズマは深く頷いた。


「わかった。じゃあ、お嬢様に伝えておく。『明日の夜八時にアズマ君が働いている工場の親方に話を聞く』ってことで間違いない?」

「オーケーです。俺が二十分くらい前になったら迎えに来ます。フィールに夜道を一人で歩かせるわけにはいかないので」

「さすが! 優しいね、アズマ君は。お嬢様に今の台詞聞かせてあげたかったなぁ」


 ナターシャは微笑みながらわざとしく残念がった。


「べ、別に普通のことですから!」

「そうだねぇ、普通のことだよねぇ」


 あくまで余裕な態度の彼女にアズマはすっかり踊らされ、「とにかく忘れないでくださいよ」と言い返すのが精一杯だった。


「心配しないで。約束は守るから。それより、そろそろ帰ったほうがいいんじゃない? ごめんね。結局、話長くなっちゃって。夕飯、きっともう出来てるよ」


 リビングルームにある大きな置時計を見ると、針は七時を回っていた。


「そうですね。じゃあ、伝言よろしくお願いします」

「はい。承りました。あっ、玄関まで送るよ。電気つけないと暗いからちょっと待ってて」


 ナターシャは立ち上がるアズマに待ったをかけ、素早い身のこなしで玄関の明かりをつけに行った。


「それでは……行ってらっしゃいませ、ご主人様」


 アズマが玄関まで辿り着くと、丁寧にお辞儀され、なぜだか最後はご主人様扱いでお見送りをされた。ナターシャの手が家の扉をゆっくりと押し開ける。


 外はすっかり夕陽も沈んでいて、辺りは一面暗くなっていた。


 アズマは帰るべき自分の家を目指して、夜の世界に一歩を踏み出した。

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