四、工業組合代表ハリス

 ラファエルの家を訪れた次の日の朝。


 鉄をカンカン叩く音や、金属を切るキーンという音、それらに負けないように飛ばされる伝令の声が混じり合うベンの工場の中で、アズマは前日と同じように金属部品のやすりがけの作業をしていた。


 昨日、アズマは帰りの車の中でトーマスと今日の予定について話し合い、午前中の仕事を終えたらボラン食堂で待ち合わせてハリスの家に向かう、という前日と同じ流れで行動することが決まった。


 でも、昨日までとは気持ちの面が大きく異なっていた。アズマは自分がガンザの件に首を突っ込んでいいのか自信がなくなったのである。


 昨日のラファエルの告白。長い年月を経て積み重なった後悔。その重さはアズマの想像を遥かに超えていた。何の歴史も持たない自分がこのままこの件を調べていくのは場違いなのではないかと思ってしまうほどに。


 しかし、悩めるアズマにトーマスはこう言ったのだった。


『ここで終わりにしちゃいけない。ハリスの意見も聞いて初めて『公平』と言える。そうだろ?』


 ラファエルの意見はあくまで片側の意見で、もう片方の意見を聞かなければ真相は見えてこない。おそらくはそういう意味なのだろう。


 そんな助言もあって、悩みつつもアズマはハリスのもとへ行くことにした。そうでないと今までやって来た努力がすべて水の泡になってしまうし、何よりフィールのためにもここはガンザが演説をしなかった理由を突き止め、彼の汚名を返上したかった。


 今日は遅刻をしないようにと、目の前の作業を手早く進めていく。昨日に引き続き工場の中は蒸し暑かったが、肩にかけたタオルで汗を拭きつつ、集中力をできるだけ保ちながら約束の正午に間に合わせられるように努めた。


 その甲斐あって、割り当てられた分の仕事が思ったよりも早く終わった。今日はある程度余裕をもって、親方であるベンのところへピカピカに研磨された金属部品を持って行くことができる。


 椅子に腰かけて大きな背中を丸め、机一面に広げた細かい部品を組み立てているベンに向けて、アズマは威勢よく話しかけた。


「親方! 終わったぜ! 今日は早かっただろ」

「ああ、そこに置いといてくれ」


 ベンは振り向きもせずに作業を進めながら、ぶっきらぼうに返事をする。


「ちょっとは褒めてくれよ。ていうか、これ何の部品だ?」


 アズマは少しふてくされながらもベンの机に広がる正体不明のパーツが気にかかり、その一つに手を伸ばした。


「触っちゃいかん! それは大事なものなんだ!」


 手がパーツに触れる前にベンに大声で忠告され、アズマは慌てて手を引っ込める。


「今、修理中だからむやみに触るんじゃない。部品がだいぶ古くなっていてすぐに破損しそうなものもあるからな。どうしようもないところは新しい部品を使うしかないが、できるだけ元のパーツを使って直したいんだ」

「これ、懐中時計か?」


 アズマはもう一度注意深く机の上の部品を眺め、そこに並んだ大小様々な大量の歯車や時計の針のようなものからそう推理した。


「そうだ。一級品だよ。滅多にお目にかかれるもんじゃない」

「誰かから依頼があったのか?」

「……まあな」


 ぼかすように返事をし、ベンは太い指で器用に部品を組み立てていく。


「いつの間にこんな仕事が舞い込んできたんだ? 何だよ、親方ももっと早く言ってくれればいいのに」

「これは俺が受けた仕事だ。お前には関係ない。それとも何だ、お前に直せるというのか?」

「……そういうわけじゃないけどさ」


 こんな複雑な仕掛けの時計は見たことがない。普通の時計ですらまだ直すのが難しい見習いのアズマには到底無理な仕事だった。


 それをわかっていて挑発するような言動を取るベンにアズマは少々腹が立ったが、ここで何か言い返して「じゃあお前がやれ」と言われても困るし、依頼者のためにもここは一歩引くことにした。


 親方は頑固だが、修理の腕は確かなのだ。


「でも、分解する前にどんなものなのか見ておきたかったな。俺、明日から一週間休みだし、その間に修理が終わって持ち主に返されたらどんなものか見れないからさ」

「休みか。そういえばそうだったな」


 まだ学生であるアズマにベンがそんなに仕事を強いることはなく、前もって一週間という長期の休みを与えてくれていた。どこか遠くに遊びに行く予定もなかったので別にもらわなくてもいいと思っていたのだが、今となってはガンザについての調査を進めるために長期の休みは好都合だった。


「気になるのはわかる。だが、この時計のことはあまり考えるな。それよりもお前にはやることがあるんじゃないのか?」

「そうだな。この休みの間が勝負だ」


 ここで何もわからなかったら迷宮入りしてしまうかもしれない、とアズマはうっすら感じていた。


 この街に隠されたままの真実。それに少しずつ近づいている感覚はあった。けれど、もし今掴むことができなかったら、真実はまた闇の中に沈んでしまう気がするのだ。


 踏み込むからには中途半端では終われない。絶対に最後まで辿り着かなければならない。


「今日もそのためにトーマスと会うんだろ? ここで長々と話してていいのか? もう十二時五分前だぞ」

「えっ? 五分前?」


 余裕があったはずなのにすっかり話し込んでしまって、気がつけば時間ぎりぎりだった。片付けや着替えなどの時間を考えると……。


「やべっ、間に合わないっ!」

「後片付けはしっかりやっていけよ」

「わかってるって!」


 今日も確実に遅刻だ。アズマは心の中で、寛大なる運転手――トーマスに詫びる。



   ***



 昨日と同じように、アズマとトーマスはボラン食堂で集まって食事をし、車に乗り込んだ。まだお腹は昼食のスパゲッティ(トーマスは茹で方を「アルデンテ」に指定していた)で膨れていたが、いつまでも食堂で休んでいるわけにはいかず、食休みは車の中で取ることになった。


 車は速度を上げ、整備された市街地の道路を走る。トーマスは少し焦った様子でハンドルを握っていた。


「何か急いでるみたいですけど、もしかして今日も夕方から仕事が入ってたりするんですか?」

「今日は仕事……というより、ちょっと約束があってな。午後四時に待ち合わせてるからそれまでに終わらせないといけないんだ」

「結構無茶なスケジュールじゃないですか!」

「まあ、大丈夫だろう。ハリスの家までは二十分かからないし、仮に話を聞くのに二時間かかったとしても間に合う計算だ。要点をまとめて質問してくれれば問題ない」


 慌ただしい計画ではあるが、自分も遅刻してしまった手前、文句は言えない。そもそもこうやって送り迎えをしてもらっているだけでもありがたいのだ。


 アズマはお礼と詫びの気持ちを込めて頭を下げる。


「すみません。運転までしてもらってるのに今日も遅刻をしてしまって」

「気にするな。どうせあの頑固親父にこき使われてるんだろ? ベンさんはきっと君と俺が一緒にいるのが嫌なんだ。だから邪魔してるんだよ」

「いや、遅れたのは単に俺が悪かっただけで……ていうか、それどういう意味ですか?」

「さあな」


 トーマスはとぼけた調子で笑うと、話を切り替える。


「それより、だいぶ自信なさそうだけど大丈夫か? そんなんじゃハリスと会っても何も訊き出せないぜ」

「ハリスさんってどんな人なんですか……って訊いても答えてくれませんよね? それに関しては別にいいです。自信がない理由は別にあるので」

「ああ、さっき食堂で言ってた、『俺なんかがこの件に関わってもいいのかわからなくなりました』ってやつか? 確かにそう思うのは無理もないかもしれないが、俺は遠慮なく調べちゃっていいと思うぜ。せっかくここまでやってきたんだから」

「そうですよね」


 ふと、アズマは横の運転席を見る。前方を向いて話しているトーマスの目はずっと遠くを見ているような気がした。


「それに、俺は期待してんだ」

「期待、ですか?」


 ストレートにそう言われたので、アズマは戸惑いながら訊き返した。


「そう。君ならすべてを良い方向に導いてくれるんじゃないかってさ」


 トーマスにふざけている様子はなく、どうやら本気でそう思っているようだった。


 正直言って、あまり期待されても困る。自分のような人間が動いたところで何も成果が得られない可能性は高い。


 だけど、ここで否定してしまっては自分のやっていることの意味が失われてしまう。


 ――俺は面白半分でこの件に首を突っ込んでいるわけではない。


 だからこそ、へりくだるようなことはしたくなかった。


「頑張ります」

「おう、頼んだぜ」


 窓の外には同じくらいの大きさの赤い屋根の家が並んでいた。比較的新しい石造りの家だ。この辺はユーリ市の北部に当たり、もともとは南部のほうに比べて土地も荒れていて農作物も生産しづらいことから栄えていなかったのだが、ちゃんとした道路を作って街の中心部へのアクセスを良くしたことにより移住する人がたくさん出てきて、今では中心街を除けば一番の住宅密集地になっている。


「もうすぐハリスの家に着くぞ。この坂道を少し上って、右に曲がったところにあるんだ。緊張してるとは思うが、あまり気を張らずに行けよ。君が行けば、きっとハリスもいろいろ話してくれるさ」


 元工業組合代表、ハリス。かつてラファエルと真っ向から意見をぶつけ、一歩も引かなかった男。


 彼のことはもちろん事前に調べてはみたが、あまり資料が残っておらず、どんな人物なのかほとんどわからないでいた。


 やはり、直接会って話す。それしかなさそうだ。


「ここだ。車停めるぞ」


 速度を落とし、車は静かに停車した。



   ***



 ハリスの家は周りの家と大差ない、平凡な二階建ての一軒家だった。ラファエルの家が想像以上に広かったのでハリスの家もそんな感じだろうとアズマは高を括っていたが、早くも予想が外れた。


 それからもう一つ、大きく想像と違っていたのはハリスの容姿である。


 工業組合の代表、というからにはベンのような腕っ節の強い男性なのだろうとアズマは勝手にイメージしていた。ベンの修理工場も工業組合の管轄にあるので、そのベンをも束ねる組合のリーダーともなれば、それはよほどの大男が出てくるに違いないと思ったのだ。


 しかし、目の前にいる男性は小柄な、眼鏡をかけた賢そうな人間だった。


「あなたがハリスさんですか?」


 開口一番、アズマはそう尋ねていた。


「そうだよ、僕がハリスだ。何だか意外そうな顔をしているね」

「いえ、何というかもっと……」

「もっと強そうな男が出てくると思ったのかな?」


 ハリスは怒る様子もなく、ニッと口角を少し上げた。


「すみません。正直に言うと、そう思ってました」

「工業組合の代表だった頃も初めて会った人にはよくそう言われてたよ。きっと肩書きのせいだね」


 ハリスは部屋にアズマたちを招き入れて椅子に座らせると、テーブルに素早く二人分のコーヒーを置き、自分は立ったまま慣れた口調で説明を始める。


「僕はもともと大学で講師をしていて、建築工学を学びに来た学生に教えてたんだ。それで目をつけられて、『ぜひ工業組合の代表になってくれないか』ってお願いされたんだよ。あれは確か三十六歳のときだね」


 なるほど、とアズマは納得した。工業組合の代表といっても別に工場で働いている者の中から選ばれるわけではないらしい。


 工業と聞くとどうしても実技の面ばかり想像してしまうが、実際には理論があって成り立っているものである。だから、その理論の方面に詳しい人を代表に立てるというのは全然不思議な話ではなかった。


「それで、すぐにお受けになったんですね?」

「いや、すぐでもないよ。最初は断ったんだ」

「どうしてですか?」

「年齢的にも若かったし、何しろ経験がなかったからね。それまでずっと大学で研究をしていた人間だから、組合のこととか、市の運営に関してはまったくの素人だった。そんな人が引き受けるべきではない、って思ったんだよ」

「でも、最終的には引き受けたんですよね?」


 厳しい質問になることを自覚しつつ、アズマは勇気を振り絞りハリスに視線を向ける。


「そうだね」


 ハリスは小さく呟くと、淡々と当時のことを語り始めた。


「やらなければならない、と思ったんだ。君は二十年ほど前の大干ばつを知っているかい? それまで農業に頼っていた僕らの街は干ばつによって大混乱に陥ったんだ。ちょうど僕は君くらいの年でその様子を見ていて、このままでは駄目だ、と思った。これからの時代、技術の発展なくして人類の未来はないって感じたんだ。それでその後大学で建築工学を学んで、そのまま研究者としての道を歩んだ」


 眼鏡の奥の瞳がどこか悲しげに変わる。それは大干ばつのことを思い出したからなのか、それともこれから語られる何か、のせいなのか。


 いずれにしても、過去の想いの発露はまだまだ止まりそうにない。


「工業組合の代表にならないかって話が来たときにはチャンスだと思った。この街を変えるには今しかない、と。だけど、引き受けるかどうかは最後まで迷った。本当に僕なんかがなってもいいのだろうかって。でも、最終的には承諾することにした。僕にしかできないことがあるって考えたんだ」

「それでラファエルさんと……」


 喧嘩になった、と言おうとしてアズマは言葉を飲み込んだ。


 しまったと思った。ここで焦ってはいけなかった。ハリスは彼なりの順序を持って話しているのだ。それを今の一言で崩してしまったかもしれない。


 アズマは後悔したが、ハリスはそんなアズマのはやる気持ちを十分理解しているようで、口を固く結んで静かに頷くと、少し間をおいて話を続けた。


「そうだね。彼とは幾度となくぶつかり合ったよ。だけど、それは仲が悪かったからではないと今では自信を持って言える。要はお互いの信念がぶつかったんだ。彼には彼なりの考えがあって、でも僕にも通したい意見があった」

「ラファエルさんは二十年前の大干ばつの経験から、干ばつに負けない作物を作らなければならないと考えていたみたいですね」

「僕らの発想の根幹にあるものは一致していたってことだね。ただ、解決策が違った。立場の違いとも言えるかもしれない。彼は農業の発展こそがユーリ市の未来を切り開くと考えていて、僕は工業のほうを優先するべきだと思った。彼の言っていることももっともだと思ったけど、僕は自分の意見を通すことに躍起になっていた」


 ハリスは表情を変えないまま語り続ける。


「認めてもらうには相手よりも優れた主張をしなければならない。そう思って僕はデータを集め、分析し、自らの正当性を示した。あのときは彼に勝つことしか考えてなかったかもしれない。いつの間にか目的がすり替わっていたんだ。本当に考えなければならないことは、この街に住む人たちの幸せだったのに」

「それでも、ハリスさんのやろうとしたことは正しかったんじゃ……」

「正しい、か」


 ハリスは大きく息を吐いて、羨望の眼差しをアズマに向ける。


「アズマ君は素直な人なんだね。話してみてわかったよ。なぜトーマスが君を連れてきたのかも何となくわかった気がする」

「どういうことですか?」


 ハリスとトーマスがアイコンタクトを取るのを見て、一人だけついていけていないアズマは食い下がるように尋ねた。


「変な言い方をして悪かったね。別に馬鹿にしてるわけじゃないんだ。アズマ君はその純粋さを持ってこの件を調べている。つまり、それが君の『正しさ』ということだよ」


 正しさ、と言われてアズマは首をかしげる。


 いったい、ハリスは何が言いたいのか。わかるようでわからないもどかしさがアズマの心を焦らせた。


「やっぱりよくわかりません」

「それならそれでいい。ただ、一つ覚えておいて欲しい」


 ハリスは座っているアズマの目の前に指を一本立てた。



「正しさは理想であって現実ではない」



 アズマは息をのんだ。言葉を紡ぐハリスの穏やかな表情の裏に隠された、恐ろしいほどの真剣さに圧倒される。彼の言う言葉の意味は理解できなくても、彼のその言葉に込めた想いは直接心に伝わってきた。


「僕とラファエルの主張はどちらも正しかったかもしれない。でも、それはお互いに理想を掲げたに過ぎず、僕らが実際に歩まなければならなかったのは現実だ。理想を持つのは良いことだよ。だけど、それだけでは駄目なんだ」

「……お互いに協力することはできなかったんですか?」

「できなかった、と言ったらアズマ君は軽蔑するだろうね」

「そ、そんな、軽蔑なんて」

「気を遣わなくていいよ。僕は蔑まれるべき人間だ」


 微笑んだハリスの表情は悲しいほどに暗く、アズマは胸が痛くなった。


 それでも、ハリスの回想は続く。


「さっきも言ったけど、僕は市の運営に関しては無知だった。自分のやりたい改革を推し進めようとするばかりで、財政がどうとか、司法がどうとか、そういうのはすべて市長だったガンザさんに任せっきりだった。相当無茶な要求をしていたってことが後になってわかったよ。それはラファエルも同じで、今になって後悔しているみたいだね。当時の僕らがもう少しガンザさんの気持ちを考えようとしていたら未来は変わっていたのかもしれない」


 正しさを主張し、お互いに譲らなかったラファエルとハリス。 


 誰が悪いとも言えない。誰のせいにもできない。


 そんな絶対悪のいない世界の中で、一人姿を消したガンザは今どこで何を思ってい

るのだろうか。


「僕はガンザさんに謝罪しなければならないと思っている。だけど、現在彼がどこに住んでいるのかは不明だし、もし所在がわかったとしても彼は僕に会うことを拒むだろう。もはやどうしたらいいのかわからないんだ、僕も、おそらくラファエルも」


 昨日、ラファエルも同じようなことを言っていた。


 多分、彼ら二人には同じ後悔がある。それは十年もの間ずっと積み重なっていて、今なお消失することなく残っているのだ。


「僕に話せるのはこれくらいだ。今日は来てくれてありがとう。君には感謝したい」

「こちらこそありがとうございます」


 ハリスが話すのをやめると、部屋の中が途端に静かになったような気がした。


 アズマは気がつけばまったく口をつけていなかったコーヒーをようやく一口飲む。


「もう冷めちゃっただろう? 温かいのを入れ直そうか?」

「いえ、大丈夫です。これを飲んだら帰るので」


 アズマが断る隣で、トーマスは事情を説明する。


「俺がこのあと用事があってそろそろ帰らなくちゃいけないんだ。運転手として、青年を置いてはいけないからな」

「そうか。それなら仕方がないね。いや、残念だった。せっかくケーキを準備しておいたのに出しそびれちゃったよ」


 ケーキ、という言葉にトーマスはピクリと反応した。


「帰らなくちゃいけない、とは言っても、まだ十分やそこらなら全然平気だからケーキくらい食べる時間は……。ほら、せっかく用意してもらったものを食べないのも良くないし、青年だってご馳走になりたいよな?」

「えっ? は、はい、そうですね」

「というわけだ。こうやって会えたわけだし、最後に美味しいものを食べながら談笑するって言うのも悪くないだろ? よし決まりだ。みんなでフォークと皿を準備しよう。あとできればコーヒーのおかわりが欲しい」


 意気揚々と立ち上がって準備を始めるトーマスに、アズマとハリスはお互いの顔を見て苦笑いを浮かべた。


 少し暖かくなった部屋にコーヒーの湯気が立ち上る。



   ***



 行きと同じ道を通っても、帰りはまた違った景色に感じられる。


 それはなぜなのだろう。アズマは流れる車窓を見ながらそんなことを考えていた。


「どうだった? ハリスの印象は?」


 トーマスに呼びかけられて、アズマは助手席の窓から目を離す。


「良い人でした。とても」

「そうだな。ケーキも美味しかったし」


 うん、とトーマスは満足げに頷いた。


「俺はますますわからなくなりました」

「おっ、何がだ?」

「誰が悪いのか、です」


 アズマは自分に問いかけるように言った。


「ラファエルさんもハリスさんも悪い人ではなくて、もちろんそれはガンザさんも同じです。でも、ガンザさんだけが最終的にいなくなってしまった。二つの要求に板挟みになった、ガンザさんだけが」

「二つの要求……ね。青年は本当にそれだけだと思うかい?」

「えっ?」


 俯いていたアズマはパッとトーマスのほうを見る。


「君はまだ幼かっただろうからピンとこないかもしれないが、当時のユーリ市の雰囲気はどこか不穏で、大きな不安を市民全体が抱えているような感じだった」

「それは何となくわかります」

「そうか。じゃあ、その大きな不安の解決を期待されるのは誰だと思う?」

「それは……」


 体が震える。わかってしまった。トーマスが言わんとしていることも、その答えから導き出される恐ろしい展開も。


「ガンザさん、だったんですね」

「そうだな。市民の怒りも期待もすべて市長だったガンザさんに向かった。彼ならなんとかしてくれるに違いないってみんなが思ったんだ」

「ガンザさんは無視できなかったでしょうね」

「まあな。俺は単なる運転手だったから詳しいことは知らないが、あの時期は市役所にも直接意見を言ってくる人が詰めかけていたらしい。演説が執り行われることになったのも、それが理由なんじゃないかと俺は踏んでいる。すべてをまとめられるのが、もはや市長であるガンザさんしかいないという状態になっていたわけだ」


 争いは農業組合と工業組合の間でのみ起こっていたわけではない。


 考えてみれば、二つの組織が意見を対立させる中で、市民の考えというものも当然生まれてくるのだ。しかも、それは一人一人異なる。誰しも自分にとって都合のいい要求を通そうとするだろう。市長はそれらの意見をうまく取りまとめ、皆が納得するようなプランを提示しなければならない。


 つまり、ガンザは数えきれないほどたくさんの要求を一身に背負っていたということだ。


「民衆というのは、まあ俺たちもなんだけど、知らず知らずのうちに街の雰囲気というものを形成してしまう。不穏な空気も言ってしまえば俺たち市民が作ったんだ。何となく漂う大きな不安は留まることなく拡散して、いつの間にかそれが街の常識になってしまうのさ」


 トーマスは滑らかな口調で、しかしどこか儚さを秘めた声で語っていく。


「ガンザさんが演説をせずに失踪した後もそうだった。人々は様々な噂を立てた。君もいくつかは聞いたことがあるだろうが、あまり良い噂はないな。市民からしてみれば自分たちをほったらかして逃げたわけだから当然と言えば当然か。だけど、おそらくそれが原因でお嬢ちゃんは……」

「フィールがどうしたんですか?」


 突然出てきた名前に、アズマは驚いて反射的に尋ねた。


「いや、これはやっぱり……」

「教えてください!」


 言うのを躊躇っているトーマスにアズマは懇願する。この話の流れで彼女の名前が出てきたのが気になって仕方がなかった。


「わかった。言おう。ただし、これはあくまで俺の想像だからな」


 そう前置きをし、トーマスは視線を前方に向けた。


「ガンザさんがいなくなってから、この街の人たちの彼の印象は悪くなった。だけど、表立って罵る者はいなかったように思う。みんな自分が発言する側に立つのは嫌なんだ。誰だって責任は取りたくはないからな。だから、ガンザさんに対する非難等はほとんどが隠れて行われていた。まったくひどい話だよ」

「……俺もそういう場面を見たことがある気がします」

「君はまだ小さかったし、あまり状況がつかめてなかったんじゃないか?」


 アズマはこくりと頷く。


「同じように、お嬢ちゃんも状況がよくわからずにそんなシーンに遭遇していたに違いない。でも、多感な時期だから相当ショックを受けただろう。何たって自分のお爺さんのことが悪く言われてるんだから」

「そうですよね」

「そして……」


 顔をしかめたトーマスは、悔しそうにハンドルをグッと握り締める。


「この街の民衆は、彼女に対する接し方も変えた!」


 初めて聞いたトーマスの鬼気迫る声。荒々しく放たれた言葉は大きな衝撃となってアズマの心を抉った。


「わざとではないのはわかっている。だが、みんなどこかよそよそしくなった。憐れんだり、蔑んだり、無視したり、態度は様々だが、誰もが彼女のことを『そういう目』で見るようになった。恐ろしいほど自然に」


 彼女がどうして余計な真似はするなと、もう終わったことだから触れて欲しくないと言ったのか。



 ――あなたにはわからないだろうけど。



 本当にそうだった。本当に俺は何もわかっていなかった。


 なんて単純で愚かなのだろうか。


 祖父であるガンザの汚名を返上しさえすれば彼女の心は満たされる。彼女は喜んでくれる。そんなふうに勝手に解釈していた。


 フィールが抱えている悲しみをまったく見ようとせずに。


「俺は駄目ですね。フィールを元気づけるためには演説の件を解決すればいい。そう信じ込んでました」

「別に駄目じゃないさ。根本的な原因はやっぱりあの演説の日の出来事にある。失踪の理由を知りたいのはお嬢ちゃんも一緒だろう。だから、君のやっていることは間違いではないと思うけどね」

「でも、本当に彼女のためになるんでしょうか?」


 アズマの切実な問いに、トーマスは意外な答えを返した。


「まあ、今から直接本人に訊いてみればいいんじゃないか?」

「今から?」


 気づけば、車は市役所前の噴水広場に徐行して入り、噴水を囲むようにして円形の形をした広場をぐるっと回っていた。


 そして、噴水を挟んで市役所とちょうど反対側にある木製のベンチの一つに、噂をしていた彼女の姿があった。


「フィール……どうしてここに?」


 フロントガラス越しに、長い黒茶色の髪を下ろしたフィールが一人でベンチに座っているのが確認できた。彼女は広場の中を落ち着かない様子で見回していて、誰かを待っているようにも見えた。


「約束の時間、少しオーバーしちゃったな。とにかく降りるぞ」


 トーマスに促され、アズマはわけもわからず車のドアを開けた。



   ***



 広場のベンチに腰掛けて市役所のほうに顔を向けると、建物の緑がかった丸い屋根が噴水から飛び出す水よりも遥か上のほうに見えた。


 ユーリ市の市役所は、昔この辺りの地域で権力を握っていた貴族が住まいとして建てた館を改築して作られたものらしい。そのため、横に大きく広がっている建物の白い外壁や柱をよく探すと、まだ元の建物の名残がある。


 ユーリ市が誕生するよりも前から存在していた建物なのだと学校の授業で教えられたとき、アズマは初めて「物の歴史」というものの壮大さを感じた。


 物は使い続けたらいつか壊れる。小さい頃からの経験の積み重ねで徐々に人間はそれを認識していく。どんなに大切に扱おうと、限界が来れば使えなくなることを知るのだ。


 でも、壊れたら直すことができる。


 もちろん、何でも修復できるというわけではない。だけど、知識を得て、技術を習得すれば、壊れても再び命を吹き込むことができるかもしれない。


 アズマが修理工を目指すことにしたのも、そこに素晴らしさを感じたからだった。


「青年、黙ってて悪かった。実は昨日、お嬢ちゃんに頼まれて君をここへ連れてくるように言われてたんだ」


 アズマとフィールが座る三人掛けのベンチ。その前で一人だけ座らずに立っているトーマスは静かに話を切り出した。


「昨日はたまたまお嬢ちゃんに会って、そのときに問い詰められて君がガンザさんについて調べてることを教えちまってな」

「トーマスは悪くないわ。私が無理に訊き出したんだから」


 隣で沈黙していたフィールが口を挟む。アズマはそんな彼女に向けて頭を下げた。


「フィール、ごめん」

「何でアズマが謝るの?」

「……勝手な行動を取ったから」

「そんなことないわ」

「だけど……」

「メモが見つかって気になるのは当然よ」


 短い言葉のやり取りが続く。


 演説メモを見つけたあの日以降、アズマはフィールとは一切顔を合わせていなかった。ずっと謝りたいとは思っていたが、どんな顔をして会ったらいいのかわからなかったのだ。


 次に会うときにはすべての謎を解いた状態で、彼女の前で彼女の愛するガンザが悪者ではないことを証明したい。


 それだけが唯一自分にできることだと思っていた。


「勝手なのは私のほう。あなたにはわからない、とか言い切って、何の説明もしなかった。本当にごめんなさい」

「……わかってなかったのは事実だ。俺は何にも……」


 でも、その前にこうして顔を合わせてしまった。いったいどんな言葉をかけたらいいのかわからない。


「謝りたい気持ちはわかるが、二人ともそこまでにしないと日が暮れちゃうぜ」


 ふと、視線を向けると、ベンチから少し離れて立っているトーマスが気まずそうに髪の毛を掻きむしっていた。


「今、話さなければならないのはこれからどうするか、だろ?」

「そうね」


 フィールは覚悟を決めたように呟いて、アズマのほうをゆっくりと振り返った。


 わずかな沈黙。そして……。


「私も一緒に調べるわ」


 聞こえてきたのは静かな熱い決意。瞳に宿る、弱くて強い心。


 一心に自分のことを見つめる彼女に、アズマは思わず呼吸を止めた。


 ――お互いに無言のまま、ただ目と目が数秒間合う。


「いいのか?」


 ようやく息を吸い、念を押すように確認した。


「うん、いいの」


 フィールは小さく頷きながら答えた。


「お爺様のことはずっと知りたいと願っていた。だから、演説メモを見つけてアズマが『きっと今が動き出すチャンスなんだ』って言ったとき、私もそうだと思った。けれど、同時に怖さが襲ってきた。それは今まで心の中に無理やり閉じ込めておいた感情で、動き出すということはそれと向き合わなければならないのだとわかったわ。そうしたら途端に触れるのが恐ろしくなって……」


 フィールの白く綺麗な手ははっきりと震えている。彼女が抱えている恐怖の大きさはアズマには想像もつかなかった。どうしてそういう感情を持つのかは理解できても、どのくらいその感情が彼女を支配しているのかはわからない。


「それでも……知りたい」


 フィールは震える両手を強く握る。口を固く結んで、目線は握った手の辺りをじっと見つめている。恐怖は消えないのだろうが、それでも必死に乗り越えようとしていた。


 そんな姿にアズマは心を打たれ、その手を掴む。


「見つけようぜ、フィール! ガンザさんがあの日演説をしなかった本当の理由を! ガンザさんが街の人たちに伝えたかった本当の想いを!」


 そうだ。俺は彼女のために動けばいい。怖くても真相を知ろうとする彼女のために、俺は十年前の悲劇に踏み込む。それでいいんだ。


「……ありがとう」


 全身の力が抜けたようで、フィールの表情はとろんと柔らかい笑顔に変わる。瞳からはうっすらと一筋の涙が流れていた。


「それで、お嬢ちゃんに頼まれてた件なんだけど」


 会話が途切れたタイミングで、様子を見守っていたトーマスが声をかけてきた。


「何ですか、それ?」

「あっ、そうだった。私が昨日お願いしたの。あなたを連れてくることと、もう一つ、話を聞きたい人がいるから連絡を取ってくれないかって」

「話を聞きたい人?」

「メリッサさん、って知ってる?」

「ガンザさんの秘書だった人か?」

「ええ。彼女なら何か知ってるんじゃないかって思ったの」

「確かに。良いアイデアかもしれない」


 メリッサという名前はアズマも十年前の出来事を調べているときに目にしていた。彼女は十年前ガンザが市長を務めていたときに彼の秘書をしており、今でも現ユーリ市長の秘書をしているという有能な人間である。


「トーマスなら彼女とも顔見知りだし、話を聞けるように取り計らってくれるかなって思ったのよ」


 フィールがトーマスの顔を窺うと、彼は困ったような表情をして笑った。


「お嬢ちゃんに頼まれると俺も断れなくてさ、ついつい引き受けちまうんだよな。君の秘密も結局喋っちゃったし」

「それはもういいですよ。そんなことより、メリッサさんとは連絡が取れたんですか?」

「ああ、それはばっちりだ。明日の午後一時から三時までなら大丈夫だとよ。市役所内の秘書室に来てくれだとさ」

「トーマスも来てくれるわよね?」

「えっ、俺も行くのか?」

「当たり前でしょ。仲介人なんだから私たちのことをちゃんと案内してくれなくちゃ」

「厳しいな、お嬢ちゃんは。……わかったよ。案内する」


 フィールに言いくるめられ、公平(?)な男、トーマスは渋々承知した。


「じゃあ、また明日会いましょう。私も今日は早く帰って、メリッサさんに訊きたいことをいろいろと考えておくわ」

「そうだな。俺も質問をまとめておかないと」


 ひたむきなフィールを横目に、アズマも決意を固めていく。


 ガンザの元秘書――メリッサ。ラファエルやハリス、市民らと違い、最後まで市長の側についていた人物。


 いったいどんな人なのだろうか。不安ではあるが、ここまで来たらもう歩みを止めることはない。フィールが望んでいる真相の解決を目指して突き進むのみだ。


 アズマは立ち上がり、噴水の向こうに大きくそびえ立つ市役所を睨んだ。


 十年前も、そしてそれよりもずっと前からそこにあって、良い歴史も悪い歴史もすべて飲み込んできた巨大な建造物。


 その中に秘密が隠されているというのなら、戸惑うことなく足を踏み入れよう。


 先ほどまで夕陽に照らされていた広場には、少しずつ夜の闇が迫ってきていた。

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