三、農業組合代表ラファエル
朝から働いて、時計の針は十一時を回っていた。
蒸し暑い工場の中で、アズマは一際汗を流して金属部品のやすりがけの作業に没頭している。入ったばかりの頃は思ったように削れず、腕や肩に変な力が入り筋肉痛になっていたが、今では余計な力を入れないで済むようになり、だいぶ楽にこなすことができるようになった。
もちろん油断は禁物であるが。
「アズマ、まだ終わらないのか? そんなんじゃお昼回っちまうぞ」
「わかってるよ、親方。あともう少しだ。正午って約束しちゃったから遅れるわけにはいかないんだ。終わらせてみせるさ」
後ろからかかるベンの声に、アズマは振り返らず返事をした。
昨日、トーマスと別れて工場に戻った後、アズマはベンに「明日は午前中で切り上げたい」という旨を伝えた。
返ってきた答えは「与えられた仕事が終われば別に構わん」だった。
アズマとベンの会話はお互いの顔を見ることなく続く。
「約束ってトーマスの野郎とか? いったい何企んでるんだ?」
「別に。ちょっと調べものしてるだけだ」
「調べものだぁ? 何だ、学校で宿題でも出てるのか?」
「いや、宿題は出てるけどそれとは関係ない。いろいろあって今ガンザさんについて調べてるんだ」
「何で今更そんなことを!」
突然、ベンは唸るような低い声を上げた。アズマは驚いて振り返る。
大きな声を出されたので怒られたのかと思ったが、ベンの表情に表れているのは怒りではなく混乱のようだった。普段はどっしりと構えていることの多いベンが明らかに動揺している。
アズマはそんな親方のことを不思議に思いながらも、確かに何で今更と思うのも無理はないと考え、簡単に説明することにした。
「フィールっていうガンザさんの孫にあたる女の子がいるんだけど」
「……ああ、知ってる」
「知ってるのか? なら、話が早い。実は最近、彼女の家でガンザさんが用意していた演説メモを見つけたんだ。内容からして間違いなく『あの日』のために準備されたものだった。でも、それが使われることはなかったわけだ。だから何か事情があったんじゃないかって思って、それでトーマスさんに頼んで関係者に話を聞いて回ろうとしてるんだ」
ベンは徐々に落ち着きを取り戻したようで、探るような眼差しでアズマを見た。
「トーマスの野郎は何か言ってたか?」
「興味は示してくれたみたいだけど、特に何も教えてはくれなかったな。自分の目で確かめろって。あっ、そういや親方とガンザさんって付き合いがあったんだろ?」
「……まあな。あいつから聞いたのか?」
「そうそう。自分はガンザさんの紹介で親方と知り合ったって言ってた。親方はいったいどこでガンザさんと仲良くなったんだよ?」
「俺は腕の良い修理工だからな。街で一番偉い市長と知り合うきっかけだっていくらでもあるんだよ」
ベンはフンッと鼻息を荒くしながら答える。言い方は高慢だが、おそらくそれは事実なのだろうとアズマは思った。何かでずば抜けて優秀な力があれば、自然と別の分野で力を発揮している人間と知り合っていくものである。
「じゃあ、いずれ親方にも話を聞くとするよ」
紳士なイメージのあるガンザと頑固で意地っ張りなベンの波長が合ったかどうかはさておき、たとえ小さな情報でも集めておく価値はある。客観的な判断を下すためにはできるだけ多方面から調査を進めなければならない。
「……勝手にしろ。それより、手止めてると時間なくなるぞ。約束に間に合わないからって優遇したりしないからな」
「やべっ! 今、何時だ?」
現在の時刻は十一時三十分。トーマスとの集合場所はボラン食堂で、ここからだと全力で走って五分というところだった。ということは、最低でもここを五分前には出なければならないが、残っている仕事量、さらに片づけ等の時間を考えると……。
これは遅刻だな。アズマは頭の中で計算して間に合わないことを確信した。
それでも、その遅れをできるだけ少なくするために、アズマはそれからの何十分かの間、死に物狂いで働いた。
***
ボラン食堂はユーリ市民なら一度は訪れたことがあるであろう庶民派の店である。ハンバーグにカレー、スパゲティなど、子供から大人まで大人気のメニューが低価格で振舞われていて、お昼時には行列ができるほどの人気店だ。混雑する店を取り仕切る食堂のおばちゃんの声が今日も店内に轟いていた。
「遅いぞ、青年。こっちこっち」
「あっ、トーマスさん。すみません、遅れてしまって。もう食べ終わったんですか?」
「悪いな。先に食っちまった」
トーマスは赤いケチャップのついた白の容器をアズマに見せてきた。
「全然悪くないですよ。遅れたのは俺のほうですから。ちなみに、何食べたんですか?」
「オムライス。子供っぽいかな?」
「そ、そんなことないです!」
アズマは手を振って否定したが、はにかみながら「オムライス」と答えるトーマスを見て、一瞬そう思ってしまったことは事実だった。
「それなら良かった。とにかく君も何か頼みな」
「じ、じゃあ俺もオムライスにします。すみませーん。オムライスを一つ!」
罪滅ぼしというわけでもないが、結局アズマも同じものを頼むことにした。注文を受けたおばさんの活気溢れる「はいよ!」が響く。
「それで、今日はラファエルの家に行くんだよな?」
「はい。調べたところによると、ラファエルさんは長らく農業組合の代表を務めていましたが、ガンザさんが失踪した三年後にひっそりと代表を退いています」
「そうだったな」
「年齢的にはまだ五十代だったみたいですし、十分にやれそうな気もするのに何で……っていうのは本人に訊いたほうがいいですよね」
アズマは「公平」なトーマスを前に言葉を弱くする。
おそらくトーマスにはトーマスなりの考えがある。ただ、まだそれを教えてはくれないだろう。彼はお調子者ではあるが根っこには強い信念を持っていて、その揺るがない部分が彼を信用のある人物に足らしめているのである。
「そうだな。訊けそうだったら訊いてみるといい。直接話を聞きたいから今日は行くんだろ?」
アズマは頷く。しかし、実のところうまくいくのかあまり自信はなかった。
果たして、ラファエルは今更十年も前のことを訊かれて答えてくれるのだろうか。蒸し返されたことに腹を立てて、門前払いで終わりなのではないか。ラファエルという人間を資料でしか知らない以上、いったいどのような展開になるのかまったくもって予想できなかった。
「心配するな。根回しはしておいた。一応、今日俺たちが行くことはラファエルに伝えておいたから」
「本当ですか? ラファエルさんはなんて?」
「さあ、あの反応はどうなんだろうな。けど、オーケーはしてくれたから追い返されることはないんじゃないか」
曖昧な言い回しで、トーマスは苦笑いを浮かべる。
「とにかく行けばわかるさ。早速出発しようか」
「あっ、いやちょっと待ってください」
「どうした?」
「昼飯がまだです」
アズマは小さく呟き、すみませんと頭を下げた。
「そうだった、そうだった。いやー、悪い。すっかり忘れてた」
くせっ毛の髪を掻きむしりながら、出口に向かおうとしていたトーマスが再び席に戻ってきて座る。
それとほぼ同時に、食堂のおばちゃんがふわふわなオムライスの乗った皿を片手に現れた。
ただ、なぜか表情が怖い。
「お待ち! 卵は二つだよ!」
彼女は空いたほうの手の指を二本立てながら吐き捨てるように宣言し、その勢いのまま皿を置いて踵を返した。
「何だかものすごい威圧感が。どうしてだろう?」
「あー、それは多分」
アズマの疑問に対し、トーマスは申し訳なさそうに答えた。
「さっき俺の分を注文するときに無理言って卵を三つにしてもらったからだな」
この人、やっぱり子供だ。アズマもこのときばかりはさすがに否定する気になれなかった。
***
ボラン食堂のある市街地から畑の広がる街の南西部に向かう道中、ずっと先のほうまで続いている金色の小麦畑を助手席の窓から眺めながら、アズマは車にして正解だったなと思った。この暑さの中を歩いていたら家に到着する頃にはバテていたに違いない。
結局、ラファエルの家に着いたのは午後一時過ぎになってしまった。食堂からは車で二十分ほどだった。
ラファエルの家は自らの所有する広大な畑に三百六十度囲まれた大きな一軒家で、畑の中には熱い炎天下の中、農作業に取り組む人たちの健気な姿があった。おそらく彼らはラファエルに雇われているのだろう。皆、大量の汗をかきながら必死に働いていた。
アズマとトーマスは使用人と思われる人物に家の中へ案内され、いよいよラファエルと対面することになった。
「君がアズマ君かね?」
リビングルームの扉が開かれると、ポッコリとお腹の出た丸顔の男性が高貴な口調で迎え入れてくれた。会う前から想像はできていたが、ラファエルはいかにも裕福そうな出で立ちで、着ている服は腕の立つ仕立て屋に用意させたと思われる立派な紳士服、全身から漂ってくるのは高級そうな香水の香り。今日はさすがに着替えてきたが、普段は汚れた作業着を着ているアズマとは比べ物にならないほどの生活差がある。
「ガンザさんについて訊きたいことがあるそうだね。私としてはあまり思い出したいことではないのだが、そこにいる男がどうしてもって言うから」
ラファエルはアズマの後ろに立っていたトーマスのほうを鬱陶しげにちらりと見た。
「すみませんね。この青年の純粋さに負けちゃったんですよ。だけどほら、慈悲深いあなたならきっと依頼を受けてくれるだろうと思って」
「慈悲深い……。そうさ。もちろん受けるとも。さあ、アズマ君、遠慮せず訊きたまえ。私が何でも答えてあげるから」
急に上機嫌になったラファエルはドンと胸を張る。これがトーマスの口のうまさなのだろう。相手が欲しがっている言葉を的確に放つことによって気分を良くさせ、交渉を有利に進める。ラファエルにとってのその言葉は「慈悲深い」らしい。
「ありがとうございます。じゃあ、まずは十年前の状況について確認したいんですが」
トーマスが作ってくれたこの良い流れを断ち切らないよう慎重に言葉を選びながら、アズマは最初の質問をぶつけた。
「当時ラファエルさんは農業組合の代表で、以前起きた大干ばつの経験を踏まえて、新しい農業のあり方を模索していたんですよね」
「うむ。その通りだ」
「その計画に無理があったということはありませんか?」
少し意地悪な質問をするとラファエルは眉をひそめたが、それでも丁寧な口調で説明してくれた。
「……なかったと言えば嘘になるかもしれないな。なにぶん、当時の私は焦っていた。大干ばつのときには私はまだ副代表だったが、その後すぐ代表になってね、あの悲劇を目の当たりにしたから干ばつに負けない作物を作らなければならないと研究を進めてきた。恥ずかしながら、我が市の農業は大昔からほとんどその手法を変えることなく行われてきていてね、このままではいけないと思って、私が代表になってからは近代化を目標にしてきたんだよ。お金はかかったがそれなりの成果は出たと思うね」
体験してきた者だけがわかるような重みのある言葉が次々と述べられる。事実が端的に並べられた資料だけではわからないような努力や苦悩が伝わってきた。
「使う道具や肥料もだいぶ変わった。今、同じような事態を迎えても、二十年前のあのときのような大干ばつにはならないと自負している。あの悲劇が繰り返されることはもうない」
話を聞き進めていくうちに、アズマはこの人物に対する印象を改めざるを得なかった。
正直なところ、アズマはラファエルのことを「裕福でわがままな男」だと決めつけていた。お金持ちが道楽で農業組合の代表になって、自分がやりたいように改革を推し進めた結果、工業組合の代表であったハリスと喧嘩になり、そのわがままさが原因でガンザが板挟みになったのだと、単純にそう思っていた。
でも、そう簡単な話ではないのかもしれない。
「十年前、ハリスと揉めたのは主に金銭の問題だった。市の予算をどう配分するかで
争いになってね。当時の私は自らの改革を推し進めようと躍起になっていたからそれはもう大喧嘩になった。向こうの主張はわかるが、そのときは自分たちがやっていることのほうが重要だと思っていたからね。お互いに考えを曲げることができず、言い争いが続いてしまった」
話を続けるラファエルの声がどんどん暗く、重くなっていく。表情を見られたくないのだろうか、ラファエルは部屋の窓のほうへ歩み寄ってアズマに背を向けた。しかし、その丸まった背中から漂う哀愁は隠しきれていない。
「もう少しうまくやれればな」
「ハリスさんとは今でも仲違いしたままなんですか?」
「いや、そんなことはないよ。彼とは何だかんだで仲直りしたんだ。ただ……」
ラファエルは振り返ることのないままそっとため息をつく。
「あの演説の日以降、ガンザさんとは会えないままだ。私のせいで彼は悩み、ついには失踪してしまった。間違いなく私が彼を追い詰めてしまったんだ。けれども、居場所がわからないから謝ることもできない。どうすることもできないまま時間だけが経ってしまった」
十年もの間、ずっと抱えてきた後悔。それはこの件に首を突っ込んだばかりの自分とは比べ物にならないほど大きいのだとアズマは悟った。
ちょっと調べただけで知った気になって、あわよくば問題を解決して良い方向に導いてやろうなどと思っていた。
――俺はなんて身の程知らずな考えをしていたのだろう。
「もし、もう一度ガンザさんに会うことができたなら」
ようやくラファエルは振り向いて、はっきりとした声でアズマに告げた。
「私は彼に謝りたい。彼が苦しんだこの十年という月日がそれで埋められるとは思わない。それでも、もし再び会えて、そしてもう一度親交を結べるのだとしたら……。私は誠意を持って謝りたいと思う。私にはそれしかできない」
アズマは唇を噛み締めて、言葉を発することもできずに立ち尽くしていた。宣言を終えたラファエルも以降口を塞いだままになった。
「そろそろお開きにしてもいいんじゃないか? 俺、実は今日夕方から仕事が入ってるからあまり時間に余裕がないんだ。かといって、青年をここに置いていくわけにもいかないしな。話もちょうど区切りが良さそうだし、どうだ?」
トーマスが優しくフッと笑ってアズマを見る。アズマは無言のまま頷いた。
「よしっ、じゃあ出ようか。悪かった。悲しい過去を思い出させちまって」
「気にせんでくれ。アズマ君もな。私は話すことを強要されたわけじゃない。自分の意思で話そうと思ったのだ。きっと誰かに話したいってずっと思ってたんだろうな。今、話してみて少しだけすっきりした気がするよ」
ラファエルの顔にわずかに笑みがこぼれた。
「それじゃ行こうぜ、青年」
元気づけられるようにトーマスに肩を叩かれたアズマは、促されるままにコクッと首を縦に振り、重くなった足を一歩踏み出した。
「ありがとうございました」
あまりに心苦しくて、去り際にそう言うのがやっとの状態で。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます