二、運転手トーマス
修理工場の中では今日も数人の男が忙しく働いている。天窓が開いてはいるが、夏の暑い気候と作業に没頭する体から発せられる熱気により、工場の中は灼熱地獄となっていた。
「おいっ、アズマ! ぼやっとするな! 怪我するぞ!」
親方のベンに指摘され、アズマはハッとなって謝る。アズマが仕事に集中できていないわけは当然暑さのせいもあったが、それとは別にある考え事をしていたためでもあった。
情報が足りない。
アズマは演説メモを見つけたあの日から、十年前の出来事について詳しく調べ始めていた。
なにぶん、アズマは当時のことをよく知らなかった。一応生まれていたとはいえ、まだ七歳だったので街の情勢などわかるはずもなく、十年前のユーリ市がどういった状態で、そのために市長であったガンザは何をしようとしていたかなんて想像もできなかったのである。
だから、まずは残っている文献などから街の歴史を調べることから始めた。幸いなことに、ユーリ市ではそういった資料をまとめて市の図書館に保管しており、街の歴史を学ぼうとする市民にはそれらを無料で公開していた。
アズマは仕事の合間を縫って何日間か図書館に通い、その結果、外面的なことはある程度理解することができた。
ただ、それだけでは十分とは言えなかった。演説をしなかった理由を探るには、もっと内面的なことを知りたかったのだ。
アズマは資料等から当時の関係者の名前をピックアップした。できれば直接話を聞きたいと思ったのだ。そうすれば理由もわかるに違いない、と。
でも、このことはフィールには内緒にしておこうと心に誓っていた。彼女があのときなぜあんなに拒否したのかアズマにはわからなかったが、自分がやろうとしていることをおそらく彼女が良く思わないであろうことは承知していた。
だから、勝手にやる。たとえ彼女のためであったとしても、それを彼女に認めてもらう必要はない。
心の中で強く呟きながら汗を拭っていると、工場の扉がガラガラと開かれる音がした。
「失礼するよ」
中に入ってきたのはくせっ毛のヒョロッとした背の高い男だった。
「あっついなぁ。よくこんなところで仕事ができるよ」
「やっと来たか、トーマス。もう車の修理は終わってるぞ。表に停めてあるから持っていけ」
ベンがどうだと言わんばかりに高らかと笑う。
「いつも悪いねぇ」
ひょうきんな笑みを浮かべたトーマスは、感謝の気持ちがあるのかないのかわからないようなおどけた口調で礼を述べた。
「誰かトーマスを車のところまで案内してやれ。それから念のため、もう一度最後の点検をして欲しいんだが」
「親方、俺が行くよ」
アズマはチャンスとばかりにすぐ手を挙げた。積極的に名乗りを上げたのにはある考えがあってのことだった。
「よしっ! じゃあお前に任せる。何かあったらすぐ俺を呼べよ」
「わかってるって。サンキュー、親方」
アズマは二カッと笑い、右手でグッドのサインを出した。
「まったく、どいつもこいつも礼が軽いんだよ」
ベンは項垂れて大きなため息をつく。
しかし、そんなことは気にもしないアズマは、「さあ、トーマスさん」と急かすように腕を引っ張って、彼を工場の外へと連れ出した。
***
車のチェックを一通り済ませ、アズマは車内にいたトーマスに声をかけた。
「トーマスさん、エンジンをかけてみてください」
「はいよ」
黒い車から綺麗なエンジン音が鳴り響き、一定のリズムを刻む。どうやら問題はなさそうだった。アズマは「オーケーです」と両手で大きく丸を作る。
「トーマスさん、最近仕事のほうはどうですか?」
アズマはそのまま運転席に近づき、鼻歌交じりで嬉しそうに内装を整えているトーマスに尋ねた。
「まあ、おかげさまで順調だな。そりゃあ、昔のように誰かのお抱え運転手になったほうが収入は安定するけど、今みたいにそのときそのとき依頼を受けて仕事をするほうが俺の性分にはあってるんだろう。楽しくやれてるよ」
アズマが積極的に名乗りを上げてトーマスと話す機会を得た理由。そのヒントが今の彼の言葉の中にあった。
トーマスはガンザが市長をやっていたときに、彼の専属運転手を務めていた。市長ともなると各地に出向く機会が多くなるため、車での移動が必要になるのである。トーマスが選ばれた詳しい経緯は不明だったが、ガンザがどのような人物だったのかを訊くのには適任だとアズマは考えたのだった。
「ちょっと訊きたいことがあるんですが」
「おっ、何だ? 何でも言ってみな、青年。こう見えて俺は物知りなんだ。なんたって人の話を聞く機会が多いからな。自然と情報が耳に入ってきちゃうんだよ」
トーマスは自分の耳を自慢げに指し示す。それなら、とアズマはストレートに質問をぶつけた。
「ガンザさんってどんな人でした?」
トーマスの動きがピタッと止まる。いつもの明るい表情が途端に影を見せた。
やはりこのことはタブーだったのではないか、とアズマは今更になって不安になったが、踏み出してしまった以上後戻りはできないので続けて質問した。
「トーマスさんって昔、ガンザさんの運転手をやってたんですよね? だったらガンザさんのことをよく知ってるんじゃないかって」
しばらく様子を窺っていたトーマスは、いつになく慎重に口を開く。
「質問に質問で返して悪いが、どうしてガンザさんのことをそんなに訊きたいんだ?」
「十年前のあの日、なぜガンザさんがみんなを集めておきながら演説をしなかったのか。その真相を知るためです」
アズマは包み隠さず、自分がこの出来事に興味を持ったきっかけを話すことにした。
「実は先日、ガンザさんがあの演説のために用意したと思われるメモが見つかったんです。内容もしっかりとしていました。殴り書きという感じじゃなく、何度も推敲して作られていて、準備に相当時間をかけたことがわかるようなものです。だったら、なぜガンザさんは演説を行わなかったのでしょう? そこには何か大きな理由があるに違いありません。俺はそれが知りたいんです。そして、街のみんなの誤解を解きたい。ガンザさんの悪評を消し去るために」
演説メモのことを知っているのは自分とフィールだけだ。でも、ガンザの汚名を返上できる可能性があるのは自分しかいない。
――私はやらないわ。できればアズマも余計な真似はしないでちょうだい。
フィールの台詞と彼女がそう言ったときの冷徹な表情が頭の中にこびりついて離れない。この件について触れるのが怖いのはわからないでもなかったが、どうしてそこまで言うのかアズマには理解できなかった。
「なるほどね。そうか。メモがあったのか」
トーマスは小さく呟きながら考え込み、やがて何か思いついたようにパッと顔をアズマのほうに向けた。
「青年、その話もう少し詳しく聞かせてくれないか? そうだ。これからちょっとドライブでもしながらさ」
「あっ、いや、でもまだ俺仕事が……」
「それくらい俺に任せとけ。頑固親父の扱いには慣れてるんだ。交渉くらいしてやるさ」
調子よく笑ったトーマスは車を降り、勝手に工場のほうへスタスタと歩いていった。
アズマはどうしていいかわからず車の脇に呆然と立っていたが、二、三分後戻ってきたトーマスに「ほらっ、突っ立ってないで行くぞ」と背中を叩かれ、そのまま助手席に押し込まれた。
***
心地良いエンジン音とともに車は石畳の道路を走っている。
これからどこへ行くのかは教えてもらえなかったが、この街の地理を知り尽くしたトーマスならば道に迷う心配もないのでアズマはそれについては気を使わず、代わりにこれからの会話に向けて意識を集中させていった。
人通りのあまりない道に出て、トーマスが思い出したように話し始めた。
「そうだ。交渉、楽勝だったよ。『良い弟子を持ったね。きっと親方の育て方がうまいんだね』って褒めておいて、『これから試運転をするからちょっと連れて行きたいんだけど』ってお願いしたらオーケーもらえた。君に迷惑は掛からないと思うよ」
「ありがとうございます。親方を説得できるなんてすごいですね」
「なーに、俺にとってああいうタイプは意外と扱いやすいんだ」
「そういえば、トーマスさんは親方とは付き合い長いんですか?」
アズマは親方の弟子になってまだ一年くらいだ。その一年間に何度も工場を訪れているトーマスは当然、親方との付き合いも長いことが推測できた。
「そうだな、もう十年来の付き合いだ。最初に知り合ったきっかけは、それこそガンザさんの紹介だったんだよ」
「えっ?」
アズマは驚いて運転席のほうを振り向いた。修理工場の親方であるベンと、市長まで上り詰めるような人間、ガンザとの間に繋がりがあるなんて想像もしなかったのだ。
でも、よくよく考えてみれば不思議ではないのかもしれない。ユーリ市にある修理工場はそれほど多くないので、この街で古くからやっているベンの工場のことを市長のガンザが知っていてもおかしくはなかった。
「そうだったんですね。いやぁ、まったく考えもしませんでした」
「まっ、無理もないね。寡黙で聡明なガンザさんとあの堅物な頑固親父が知り合いだなんて誰も思いはしないよ。俺も最初に『良い修理工がいる』って地図渡されてあの工場に行ったときは何かの間違いなんじゃないかって思ったな。けど、まあ腕は確かだし、ガンザさんもベンさんの技術には一目置いてたんじゃないかな」
「親方はユーリ市内でも一番の修理工だと俺は思っています。仕事に対する姿勢、技術。俺はまだまだ親方には追いつけません」
「そんなことないさ。いずれ君だって良い職人になるだろう。さっき言った『良い弟子を持った』は別にお世辞じゃないよ」
トーマスは相変わらずどこまでが本気かわからない。アズマはどういう反応をしていいかわからず、ぎこちなく笑った。
行く当てもない車はユーリ市の中心街に入り、のんびりと走行を続けていた。車内にこもった熱い空気を逃がそうとアズマが車の窓を開けると、ちょうど市場にある果物屋の前を通って、よだれが出るような甘い香りがふわっと飛び込んできた。
この辺りには市場をはじめ、市役所や学校、病院など、ユーリ市の街としての機能を維持するために欠かせない施設が密集している。石造りの整った建物たちが、今日もこの街の繁栄の担い手としてその役目を務めていた。
「それで、メモはどこで見つけたの?」
わずかに笑みを浮かべつつ、しかしながらキッとした鋭い目つきでトーマスはアズマの目を睨んだ。
「フィールの家に行ったときに書斎に案内してもらってそこで見つけました。本棚の中にあった分厚い本に挟まってたんです」
「なるほど。じゃあ、メモのことはお嬢ちゃんも知ってるわけか」
「はい、そうです。でも、彼女はあまり歓迎していないみたいで、調査は俺一人でやってるんですけど……」
アズマは口ごもりながら答えた。それを見たトーマスは寂しそうに笑う。
「そうか。まあ、お嬢ちゃんはガンザさんのことが大好きだったからね。俺も運転手をしてた頃はよく二人のお出掛けに付き合わされたよ。ガンザさんもガンザさんで、忙しい合間を縫ってでもお嬢ちゃんと遊びたかったんだ。会うことができたときには二人とも本当に楽しそうに笑ってたな。だからこそ、彼女はあの演説の日ことを今でも悲しい出来事として記憶しているんだろうね。それに……」
突然、トーマスはピタッと話すのを止めた。
「どうしたんですか?」
「いや、これは俺の想像だからやめておこう。それよりも、調査って具体的にどうするつもりなんだ? もう十年も前のことだし、調べようにもなかなか難しいだろう?」
質問には答えず、何事もなかったように会話を再開したので、アズマは訝りながらもその流れに乗った。
「そうですね。資料もそこまであるわけではないので、とりあえず関係者に直接話を聞いてみようと思ってます」
「関係者ねぇ。具体的には誰?」
「まずは十年前の争いの原因となっていた農業組合と工業組合の代表に話を聞いてみるつもりです。残念ながら今は両方とも代表が変わってしまっていて、当時の代表に会えるかどうかはわかりませんが」
「当時の代表っていうと、ラファエルとハリスか? だったら居場所わかるぜ」
「本当ですか?」
「ああ。あの二人は俺がガンザさんの運転手をしてたときによく顔を合わせてたからな。そのときの縁もあって、今は彼らの依頼を受けることもあるんだよ。金払いのいい連中でな。今の俺にとっては大事なお客様ってわけさ」
ハンドル片手にトーマスは陽気な笑顔を見せる。
「一つ訊きたいことがあるんですけど」
アズマは恐る恐る口を開く。どうしても気になっていることがあったのだ。
それは「彼らが好人物であるか」ということだ。
十年前の争いを引き起こした二人。それが意図的ではなかったにせよ、どちらも自分の意見を譲らなかったがゆえに市長であったガンザが苦しめられることになったのだ。ガンザのことを慕うアズマには、どうしてもラファエルとハリスという二人の人間は悪者に思えてしまうのである。
「トーマスさんから見て、ラファエルさんとハリスさんってどんな人物なんですか?」
「どんな人物、か。そうだねぇ」
トーマスは顎髭をポリポリとかきながら言う。
「まあ、自分で会って話してみるのが一番なんじゃないか? 今ここで俺の意見を聞いちゃったら変な先入観を持っちゃうかもしれないだろう? 俺はそういうところは公平なんだ。これ、運転手の秘訣だよ。誰かのことを悪く言って依頼が来なくなっちゃったら困るからな」
「そのわりに、親方に対する扱いはひどくないですか?」
「ああ、確かにそうかもしれん。俺はそういうところは適当なんだ。これも運転手の秘訣だよ」
言っていることは無茶苦茶だったが理解できないでもなかった。きっと彼はそうやって今までもうまく仕事を得てきたのだろう。アズマはニヤッとした表情でグッドサインを出すトーマスを見てしみじみそう思った。
「とにかく、周りの噂は気にせず自分の目で確かめろってことだ。果たして君にそれができるかな?」
「やってみます!」
「おっ、気持ちの良い返事だね。じゃあ、俺も力を貸すとするか。これから数日間、君の運転手になってやるよ。俺のことを好きに使うといい」
「えっ、でもそれは……」
「何だ? もしかしてお金のことを気にしてるのか? そんなもん出世払いでいいよ。俺の見立てだと、君はいずれ立派な工場を持つ大親方になると思うね。だから今のうちに恩を売っておこうというわけさ。それにラファエルとハリスの家は歩いていくには遠いぞ。ここは俺に頼っておいたほうが得策だと思うけどな」
断る理由は特に思い当らなかった。巧みな交渉術にまんまと乗せられている気もしたが、彼の意見はもっともだったので受け入れることにした。
「わかりました。じゃあ、よろしくお願いします」
「はいよ。任しときな」
車は街を一回りして、ベンの工場に戻ってきていた。アズマにはまだやりかけの仕事が残っているため、早急に工場に帰ってやらなければならない。今後しばらく調査に集中するためにも仕事は抜かりなくやっておかないと、厳しい親方に目をつけられ、行かせてもらえなくなってしまう。それだけは避けなければならない。
「今日はありがとうございました。それじゃ、もう行かないと」
「おう。もし、あの頑固親父に何か小言言われたらいつでも報告してくれ。うまく弁護してやるから」
良い笑顔を見せるトーマスにアズマはもう一度「ありがとうございます」とお礼を言い、車を降りて工場へと急いだ。
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