一、残された演説メモ

 時計台から見下ろす小麦畑は金色に輝いていた。季節は夏真っ盛りで、澄み渡る青い空には眩しく光る太陽。そんな暑い日差しの下、どこからか涼しい風がヒューッと吹いてきて、時計台にいる一人の青年の黒く短い髪をなびかせている。


 青年の名はアズマ。彼は高くそびえ立つ時計台の鐘のところから、真っ直ぐな目でその雄大な景色を見つめていた。


 遠くからブオーッと汽笛が聞こえてくる。


 一台の汽車が灰色の煙を立ててやってきた。金色の小麦畑の中を黒い汽車が威風堂々と駆け抜けていく。


 もしかしたらこちらを見ている人がいるかもしれない、とアズマは大きく手を振った。


 アズマにとってこの場所は秘密の隠れ家のようなものだった。本来であればここは立ち入り禁止の場所だ。時計台の入り口には鍵がかかっており、一般市民は出入りすることができないようになっている。


 では、なぜアズマがここに立てているかというと、それは彼の仕事が関係していた。


 アズマは現在十七歳で市内の高校に通っているのだが、学業と並行して修理工の仕事にも就いている。身分としてはまだ見習いで親方に教わりながら修行している状況だが、いずれは一人前になって誰からも頼られるような立派な修理工になりたいと思っていた。


 でも、それにはまだまだ実力が足りないということはアズマ自身も自覚している。


 それはさておき、アズマが時計台に入れている理由だが、それは彼が親方から時計台の整備を任せられているからだった。


 具体的な仕事内容としては、部品の交換と潤滑油の注油が主である。作業自体は単純で何度か教えてもらえれば誰でもできるようになってしまうようなものだが、熟練者とそうでない人ではやはり出来栄えに差が出る。


「修理は整備が一人前にできるようになってから」がモットーの親方からすれば、ここで一生懸命やるかどうかで、今後その人をどう扱うのかが変わってくるはずだ。アズマはそれがわかっているので、さぼったりせずに与えられた仕事を丁寧にこなしていた。


 そして、仕事がちょうどひと段落した今、気分良く時計台から景色を眺めているのである。



 ――カーン、カーン。



 どこまでも遠くへ響くような時計台の鐘の音が鳴った。正午の合図である。アズマは至近距離で鳴り響く大きな音の震えを肌で感じながら、建物内部の階段を降り、時計台の外へと続く扉を開けた。


 まずは親方に仕事の終わりを報告して、それから昼飯だ。


 アズマはこの後の行動を反芻すると、お腹が空いているのを我慢しながら親方のいる修理工場へと急いで駆け出した。



   ***



 街の南部にある時計台から中心部へと辿り着いた頃には、お昼時ということもあり、どこもかしこも多くの人で賑わっていた。アズマがよく通っている老舗の食堂、『ボラン食堂』にはもう既に人が並んでおり、横目でその行列を確認しながら「今日は無理そうだ」と店の前を通り過ぎた。


 アズマが住む街――ユーリ市は人口八千人ほどの街で、昔からずっと農耕が盛んなところであった。特に、先ほどアズマが見ていた小麦はこの街の経済を支えている重要な作物で、昔大干ばつがあった際には大変な事態に陥ったという話だ。


 だが、それはアズマが生まれるよりも少し前のことなので、彼はそのことを噂で聞いているにすぎなかった。それでも、その当時のことを知っている人のその話をするときの口調は恐ろしく、ただごとではなかったんだということが感じられる。


 けれど、最近は気候もすっかり安定していて、干ばつなどの心配もなかった。


 今年も豊作となりますように、とアズマは青く広がる夏の空を見つめながら心の中で豊穣を祈願し、再び工場への道を早足で進む。


 やがて目的地である修理工場が見えてくると、アズマは思いっきり駆け足で建物の中へと飛び込んで行った。


「親方! 仕事終わったぜ!」


 アズマの大きな声に、中にいた十人ほどの修理工たちは一斉に振り返ったが、親方であるベンだけは背を向けたままだった。


「親方! 聞こえてないのか?」

「少し待ってろ! 騒がしい」


 親方のベンは大きな手を器用に動かし、ちゃかちゃかと部品を組み立てていた。


「何だそれ?」


 アズマはベンの作業を背中越しに覗き見る。


「車のエンジンの一部だ。トーマスの野郎に頼まれたんだよ。『最近、変な音がするから直してくれ』って。あいつ全然メンテナンスしてないからパーツの痛み方もひどいもんだ」

「トーマスさん、また来たのか?」

「ああ、さっきな」


 ようやくアズマのほうを振り返ったベンは、額の汗を太い腕で拭いながら答えた。


 アズマの親方であるベンは還暦を過ぎながら未だに現役で働き、若い弟子たちを日々育てている立派な修理工である。堀の深いいかにも男らしい顔立ちをしたベンはみんなから慕われており、親方と弟子という関係を越えて友達のように仲が良い。どうやらベンは敬語を使われたりするのが苦手なようで、弟子に対してもかしこまった口調はやめるように告げていた。


 だから、アズマも先ほどから遠慮なく話しかけているのである。


「アズマ、お前の今日の仕事は終わりだ。これで飯でも食って来い」


 ベンはお金の入った小袋を放り投げた。


「サンキュー。ちょうど腹減ってたんだよ」


 アズマは飛んできた袋を右手でバシッとキャッチすると、意気揚々と工場を出て行った。



   ***



 さて、昼飯はどうしようか。


 市街を歩きながらアズマは悶々と考えていた。アズマの両親は二人とも昼間働きに出ているため、家に帰っても食事はない。だから自分で何とかするしかないのだが、先ほど見たボラン食堂は混んでいて無理そうだし、今から食材を買って調理するのは朝から仕事をして疲れているので嫌だった。


 かといってこのまま悩んでいるわけには……。


 グーっと腹の音が鳴る。とにかく早く何か食べないと体が持たない。


「あら、アズマじゃない? どうかしたの?」


 ふいに声をかけられ、自分のお腹の減り具合を窺っていたアズマが顔を上げると、黒のワンピースを着た女性が可愛らしく目をぱちくりとさせていた。


「えっ、あっ、フィールか。いや、何か食べようと思ったんだけどさ、今から準備するのも面倒くさいしどうしようかなって」


 お腹の鳴る音が聞こえてしまったのではないかと思い、アズマは照れ隠しで笑った。


 フィールはアズマと同じ学校に通う、ユーリ市の中でも指折りのお金持ちのお嬢様である。透き通ったような白い肌やよく手入れのされている長いダークブラウンの髪が、よりいっそうお嬢様としての気品を漂わせていて見る者の目を惹く。


「そうなんだ……」


 彼女は少しの間考えて、パッと一つ案を出してきた。


「だったら久しぶりに、今から私の家に来ない? ナターシャがパン焼いて待っててくれているはずなんだけど、どうせいつも余っちゃうから」


 願ってもない提案に、アズマはすぐさま確認する。


「本当にいいのか?」

「ええ。いいわ」

「なら、そうしようかな」


 ちょうどお腹も空ききっていたし断る理由は見当たらない。アズマは素直に彼女の誘いに応じることにした。


「それじゃ、行きましょう」


 フィールはお嬢様らしく小さく笑った。



   ***



 フィールの家はまるでお城のような豪華絢爛さである。


 外観からもその広さ、美しさを感じ取ることはできるが、改めて中に入ってみると外からではわからない隠れた壮麗さに気づかされる。壁には絵画が何枚も張られていて、家の中を照らす灯りはいくらするのか見当もつかないシャンデリア。初めて訪れたわけではなかったがアズマは落ち着かず、辺りを何度もキョロキョロと見回してしまった。


「アズマが家に来るのっていつ以来だっけ?」

「多分、一年ぶりくらいだな。前よりも絵、増えてないか?」

「これはお父様の趣味なの。教養を深めたいとか言ってね。どこか遠くの街に出かけては気に入った絵を買ってくるから、もう飾り切れないくらいたくさんあるわ。それから本も。まとめて書斎に置いてあるから後で見せてあげる。それよりもまずは食事ね。ナターシャ、今帰ったわ。お昼にしましょう」


 アズマの問いにため息混じりで答えたフィールは、一転して透き通るような声でメイドのナターシャの名を呼んだ。


「はーい、ただいま」


 廊下の奥から朗らかな女性の声が聞こえ、ペタペタという足音がだんだんとアズマたちのほうへ近づいてくる。


 三つ編みの髪を両サイドに垂らし、ふわふわとした白黒のメイド服を着て姿を見せた彼女は、こちらを見るなり「あっ、アズマ君だ!」と元気に手を振った。


「ナターシャ、ごめんなさい。彼の分も用意してもらえる?」

「はいはい、もちろんです。アズマ君、久しぶり。良かったぁ。アズマ君、最近来なくなっちゃったからお嬢様と仲が悪くなっちゃったんじゃないかって私、心配してたの」

「い、いやそんなことは……」

「ナターシャ、余計なことは言わないですぐ準備して」

「わかってますって。二人とも、食卓で待っていてくださいね」


 陽気な笑顔で、ナターシャは再び廊下の奥のほうへ駆けて行った。


 ナターシャはアズマたちよりも五歳年上の二十二歳で、四年ほど前からこの家でメイドとして働いている。その当時はアズマもよくフィールの家に出入りしていたため、ナターシャとはお互いに面識があった。「明るくて面倒見の良いお姉さん」というのがアズマの思う彼女の印象で、実際にフィールにとってもナターシャがお姉さんのような役割を担っていることは想像に難くなかった。


 ちなみに、アズマがフィールの家に行かなくなってしまった理由は、学業と並行して仕事を始めてしまったため何となく時間が取れなくなった、という単純なものであった。暇がないわけではないのでいつでも行けるだろう、とアズマは高を括っていたが、そう思っていると意外と行かなかったりするものである。気がつけば一年も間が空いてしまっていた。


「まったくナターシャは……。とにかく、行きましょう」


 フィールは怒ったような表情で口を少し膨らませ、アズマのほうを見ることなくずんずんと前を歩き出した。


 アズマは慌てて後ろから追いかけて食卓に向かった。


 席について、少しの間二人で談笑していると、ナターシャがこんがりとした良い香りのするパンを運んできた。


「お待たせしました。あっ、もっと待たせたほうが良かったかな?」


 彼女はからかうような笑みでアズマたちの顔を交互に見る。


「い、いえ、お腹も減ってたんで」

「えー、本当に?」


 先ほど注意を受けたナターシャだったが、やはり食卓は彼女の独壇場となった。


「アズマ君ってモテるでしょ? 顔つきも爽やかでかっこいいし、性格も素直で優しいし」

「そんなことないですって」


 アズマはブンブンと手を振って否定する。けれど、ナターシャは笑顔のまま受け入れようとせず、「そういうところは素直じゃないんだから」と余計にちょっかいを出してくる。


 そんな状況の中、フィールは終始、彼女のことを睨み、恨むような声で何度も「ナターシャ」と注意を促した。


 しかし、ナターシャは気にすることなく、可愛い妹を見るような目で、「お嬢様も素直じゃないですね」と微笑むのだった。



   ***



 食事を終えた後、アズマとフィールの二人は書斎へと向かった。


「ここがそうよ。入るのは初めてだよね?」


 大きな扉の前でフィールはアズマに問いかけた。


「いいのか? 勝手に入ったら怒られるんじゃなかったっけ?」

「いつの時代の話をしているの? さすがにもう大丈夫よ。子供じゃないんだから」


 フィールが恥ずかしそうに顔を背ける。質問をしたアズマも何だか恥ずかしくなって「そうだよな」と照れ笑いした。


 思えば、フィールから「勝手に書斎に入ってはいけない」と聞いたのはまだ小学生の頃だった。アズマはそんな昔の戒めを未だに覚えていて、しかもそれが続いていると思って今まで書斎に入りたいということを言い出せずにいたのである。


「とにかく入るわよ」


 気を取り直して、フィールが書斎の扉を開いた。


「うわっ、すごいな」


 中の様子が見えてくると、アズマは思わず感嘆の声を漏らしていた。


 アズマの背の二倍ほどの高さのある書棚には本がぎっしりと詰められており、書棚のない壁面には大きな肖像画や風景画が飾られている。


「これでも全部じゃないのよ。まだあっちに包装されたままの本や絵があるわ」


 フィールはうんざりした表情で部屋の隅を指差した。


「全部お父さんのか?」


 アズマが尋ねると、フィールは俯いて首を振った。


「……いいえ。お爺様のもあるわ。今は家にはいないけれど、まだここにいたときにはよくこの部屋を利用していたの。お父様よりも頻繁に出入りしていたんじゃないかしら。もう十年以上前の話だけどね」

「そうか。ガンザさんのもあるのか」


 フィールの祖父――ガンザは十年前までここユーリ市の市長を務めていた人物だ。その当時、アズマはまだ小さかったのでおぼろげにしか覚えていないが、優しく丁寧な口調で話す、紳士的な人であったと記憶している。


 ただ、残念ながらこの街での彼の印象はあまり良くない。いや、むしろ悪いと言ってもいいだろう。


 それには一つの大きな理由があった。


「捨てにくいんだと思うわ。たとえ非難する者がいたとしても家族だから。でも、お爺様のことは家では禁句なの。食事のときとかにその話題が出そうになると、お父様もお母様も途端に顔色が変わって、慌てて話を切り替えようとする。お爺様がまだ市長だった頃はそんな感じじゃなくて仲の良い家族だったのに。やっぱりあの演説の日の出来事がすべてを変えてしまったんだと思う」


 あの演説の日。それはユーリ市の住人なら誰もがわかる、良い意味でも悪い意味でも「運命の日」だった。当時アズマはまだ七歳で、その演説に実際に立ち会ったわけではないので、事の詳細についてはそんなに理解しているわけでもなかったが、基本的な情報についてはこの街の歴史としてアズマも頭に入れている。


 十年前、ここユーリ市ではある論争が起きていた。


 ――この街を農業中心の街にするか、それとも工業中心の街にするか。


 もともとユーリ市は農業が盛んな街で、市民は皆、自分たちの食糧を賄いつつ、外へも農作物を輸出して生計を立てていた。昔からの経験と技術があったので、それらを子から子へと受け継ぎながら暮らしてきたのである。


 しかしあるとき、農業だけではやっていけないのではないか、と市民を不安にさせる出来事が起こってしまった。


 二十年ほど前にユーリ市を襲った大干ばつである。


 その被害の大きさは計り知れないものだった。今でも大人たちはその話になると深刻な表情になる。アズマはまだ生まれていなかったので実際に体験したわけではないが、その出来事が市民の意識を急速に変えていったことは間違いなかった。大干ばつ以降、ユーリ市では工業方面に力を入れる人が増えていき、工業組合がそれまで力のあった農業組合と同じくらい力を持つようになっていった。


 力を持つ者が二つ現れた場合にしばしば巻き起こるのは争いである。


 残念ながらユーリ市においてもそれは起こってしまった。最初のきっかけが何であったかは知らなかったが、その争いが激化し、収拾がつかなくなって街は崩壊しかけていたようだ。


 幼かったアズマも何となくその当時の不穏な街の空気を感じていた。まだまだ世の中のことはわからなかったが漠然とした終末感のようなものが漂っていて、「未来は明るくないのかもしれない」と子供ながらに考えていたのをアズマは覚えている。


 そんな状況の中、市長を務めていたのがフィールの祖父、ガンザだった。


 彼の仕事ぶりがどうであったのかをアズマは知らない。でも、そのとき誰が市長であったとしても大変だったことに変わりはないだろう。その当時、子供だったアズマとしては怒りの感情はあまりなく、むしろ憐みの感情のほうが大きかった。


 街が荒れる中でも市長として精一杯職務を全うしていた、というのがアズマのガンザに対する印象である。


 ただ、彼の評判を著しく悪い方向へ向かわせ、今でも非難の対象となってしまっている原因が「あの演説」であった。


「なぜお爺様が演説の日、集まった民衆の前に姿を現さなかったのかは未だにわからないわ。もしかしたら何か理由があったのかもしれない。だけど、待っていたみんなを裏切って演説を拒否したのは覆しようもない事実でしょ?」


 否定したかったがアズマは首を振れなかった。


 フィールの言う通り、ガンザは演説の日、姿を見せなかった。理由はわからない。家族であるフィールにわからないのだから、アズマにわかるはずがない。とにかく壇上に彼は現れなかったのだ。


 ――そしてその日以降、ガンザは行方をくらました。


 市長という立場の人間がいなくなったことでますます街の情勢は混乱していき、このままではいよいよまずいと、これからどうするべきか何度も会議が開かれ、何とか街を存続させられるように皆が努力したそうだ。


 その努力のかいもあって、現在もユーリ市は一つの街として残っている。


「お爺様が今どこにいるのかは私たち家族にもわからないの。お婆様は私が生まれてくる前に他界してしまったし、お父様もお母様もお爺様が失踪してからはあまりそのことを話したがらない。お爺様もそんな私たちの前に戻ってくるはずなんてないから、私たちはもう一生会うことはないんだと思う」


 フィールは断言する。だが、無理やりそう思い込んでいるのだとアズマにはわかった。


 いつかガンザに対する街の人々の悪評もなくなり、また仲の良い家族として再会することができたらという想いは今も彼女の中にあって、でもそれを願ってしまうといつまでも悲しみと向き合わなければならないので耐えられない。


 だから、彼女は願うことをやめたのだ。


「お爺様の話はもういいでしょ? さあ、どれでも好きな本を見ていいわ。少しの間だったら貸してもいいし。これだけあってもほとんどの本はしまわれたままなんだから」


 フィールは本棚に敷き詰められた大量の本を寂しそうに眺めていた。言葉をかけられないアズマは彼女の顔を窺いつつ、静かに本を漁り始めた。


「面白そうな本はある?」

「たくさんある。けど、一日じゃ探しきれないな」

「だったら毎日来てもいいわよ。どうせお父様はいつも仕事で家にいないから書斎は誰も使わないし」

「じゃあ、そうさせてもらおうかな」


 アズマは冗談めかして笑いながら上段の本を背伸びして取ろうとすると、フィールが心配そうな目をして近づいてきた。


「取れなかったらはしごを使ってね」

「サンキュー。でも、大丈夫だ」


 つま先立ちになりながら、アズマは目当ての『機械工学入門』という本を引き抜こうとした。


 しかし、本と本の隙間がなく思いのほかしっかりと挟まっていたので、アズマは不安定な態勢のまま思いっきりその本を引っ張った。


 結果的にそれが良くなかった。読もうとしていた本は無事に引っ張り出せたが、それ以外の本も同時に手前に引きずられてバラバラと本棚から落ちてしまったのだ。


「わぁ! ごめん!」


 アズマは謝りながら慌てて本を拾い集める。


「まったくもう。だから言ったじゃない」


 フィールは文句を言いながらも、協力して落ちた本を拾ってくれる。


「傷とかついてないか?」


 アズマは自分が拾った本を一冊ずつ丁寧に確認しつつ、隣で同じように破損のチェックをするフィールに尋ねた。


「大丈夫みたい」

「ああ、良かった。こっちも一応問題なさそうだ」

「アズマはいつもそうなんだから」

「悪い。気をつけるよ」


 フィールに半眼で睨まれ、アズマは頭をポリポリと掻く。


「もう、注意してよね。あっ、まだ一冊落ちてるわ」

「本当だ。俺が拾うよ」


 少し離れた場所に落ちていた最後の一冊。厚い本のタイトルは『演説論』だった。


「演説論、か」


 アズマは無意識のうちに中を開いていた。損傷がないか確認するのはもちろんだが、単純に内容が気になったのである。


「あれっ、何だこれ?」

「どうしたの?」


 顔を近づけてきたフィールは、アズマと一緒に本を覗き込む。


「その紙は何?」

「わからない。初めから挟まってたんだ」


 本のちょうど真ん中あたりのページに挟まっていた三枚の紙。半分に折り畳まれており、少し黄色くなっているのが年月の経過を感じさせる。


 アズマは破らないように気をつけながら、慎重にその紙を開く。


「少し掠れてるけど、一応文字は読めそうだ」


 二人はしばらくの間、その紙に書かれた内容を黙読した。


 読み進めているうちに、アズマはどんどん心臓の鼓動が早くなるのを感じた。


 この用紙はいったい何なのか。内容から推測するに、ある一つの結論に辿り着いた。


 フィールの表情も次第に真剣になり、両目が用紙に釘付けになっていた。彼女もおそらく自分と同じことを考えているのだろう。アズマは彼女が読み終えたと思われるタイミングで、そっと声をかけた。


「これってさ」

「……そうね」


 フィールはコクッと頷く。


「この字はお爺様の字よ」

「てことは、これは……」

「ええ。内容からして、これはお爺様の演説メモ……なんだと思う」


 長々と紙に書かれた文章。それは紛れもなく「あの演説」のためにガンザが用意したと思われるメモだった。その主張がいかなるものなのかはもう少し詳しく読まないとわからないが、何度も書き直したと思われる跡があることから、相当な時間をかけて作られたメモであることがわかる。


「でも、これがあるってことは、ガンザさんは直前まで演説をするつもりだったってことだよな?」


 初めからやる気がないのならこんなメモは作らない。推敲に推敲を重ねて作られた演説メモの存在は、ガンザの演説に向けた熱意と覚悟の証明になる。


「ガンザさんが演説をしなかったのにはきっとわけがあるんだよ。みんなが気づいてないだけで何か理由があるんだ」

「そう……なのかしら」

「ああ、そうに決まってる」


 アズマは確信し、力強く頷く。


「フィール、調べようぜ。ガンザさんが演説をしなかったわけをさ。もしそれがわかれば街のみんなの誤解も解けるかもしれない。そうだろ?」

「でも……」

「やろうぜ。きっと悪いようにはならないさ」

 アズマは気合を込めてフィールの肩を揺する


 しかし、彼女の表情は冴えなかった。


「メモが見つかったのは偶然じゃない。きっと今が動き出すチャンスなんだ」


 アズマは何度もフィールの説得を試みた。彼女が乗り気でないのは単にいきなりのことで戸惑っているからだ、とアズマは思っていたからである。


 けれど、それは違った。フィールは自らの意志の固さを主張するように強く首を振って答えた。


「私はやらないわ。できればアズマも余計な真似はしないでちょうだい」

「どうして?」


 アズマは今更引き下がることができず、理由を問いただす。フィールの肩の上に置いた手には自然と力がこもっていた。


「どうして、って」


 フィールは俯きながら、言いづらそうに述べる。


「もう終わったことだから触れて欲しくないのよ。あなたにはわからないだろうけど」

「何だよ、それ」


 彼女の冷たい物言いにアズマの語気も荒くなる。


「ごめんなさい」


 フィールは演説メモを何も言わずにアズマから奪ってワンピースのポケットにしまい、すぐさまはしごに上ってアズマの落とした本を本棚に戻し始めた。


 アズマは何も言い返せず、それでも何か声をかけようと機会を窺いながら拾い集めた本を一冊ずつはしごの上にいる彼女に渡した。


 だが、結局その後、二人はまともに会話することなく別れた。

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