演説は幻となり

遥石 幸

プロローグⅠ ~十年前 市役所一階 市民ホール~

「皆様、ご静粛に。今からガンザ市長の演説が始まります。混乱しているのはわかりますが、今私たちに必要なのはこの街の代表である市長のお言葉に耳を傾けることです。どうか落ち着いてください」


 市役所の建物内にある市民ホールに集められた騒がしい群衆を前に、若く凛々しい一人の女性が立っている。彼女は誰もいない演説台のほうを横目でチラッと窺い、その冴えた目を再び前に戻す。


「混沌とした状況にある私たちの街をこれからどうしていくのか。その方針を今から市長に説明してもらいます。様々な意見があるとは思いますが、どうか演説中は声を上げることなく最後まで聞いてください」


 必死の説得もあってホール内は徐々に静寂に包まれ、誰かの咳き込む音やささやき声がわずかに聞こえるだけとなった。


「では、登場していただきます。我が街ユーリ市の市長、ガンザさんです」


 落ち着いた女性の声とともに、集まった民衆の目は演説台に釘付けになる。この会場にいる誰もが、舞台袖から現れるはずの人物を待っていた。


 みんなにとって彼は救世主のような存在だった。この状況をまとめられるのは彼しかいない。彼の言うことなら信じよう。そう思わせるような。


 しかし、その救世主は一向に姿を現さなかった。


「ガンザさん。ご登場願います」


 司会の女性はもう一度冷静に名前を呼ぶ。


 それでもやはり反応はなかった。空になったままの演説台だけがポツンと舞台の真ん中に存在している。


「ガンザさん? どうされました?」


 焦りを隠せなくなり、女性の声はいよいよ震え出す。


 静寂を保っていた人たちも何やら様子がおかしいことを察知し、演説会場はにわかにざわつき始めた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る