第3話
時間の迫った終盤で思いも寄らなかった1手を打たれた時、松山はいつも息を深く吸うことと、盤の四隅を見ることにしている。並木道を抜けて、一旦キャンパスに戻り、自動販売機でお茶を買ってベンチに座って落ち着くこととにした。
「羽賀さんって、あの羽賀さんだよな。」
羽賀は19歳の時に初タイトルを取って以来、この25年間で90以上のタイトルを取っている。将棋のタイトルは年間7つなので、タイトル戦のほぼ半分を多田が取っている。要するにタイトルは羽賀vsその時点の絶好調棋士なのである。今日時点は4冠だ。半分以上は保持しているのだ。5年や10年ならともかく、その状況を25年続けるという事はまさに驚異的である。
松山は昨年、自身初のタイトル挑戦の相手が羽賀だった。この時は、本人も驚くほどの絶好調で、3勝3敗で次の第7戦で勝った方がタイトルというところまで追い詰めた。第7戦は最後の最後まで分からない終盤戦で、最後羽賀が誰もが無理攻めと思った攻めが決まるという劇的な展開で負けとなった。この対局はその年の名局賞に選ばれている。この時から羽賀は、松山にとって夢で憧れの存在から、尊敬する先輩に変わっていた。
あの手を思いつくなんて、人間技ではないと思っていた。でも、薬を使えばと思えば納得出来る。
「それでも人間だろ?薬を使っても、思いついたのは僕の脳だ。」
そう言いながらあの時の一手を指す羽賀の顔が、松山の脳裏に繰り返し繰り返し浮かんでくる。松山はそれを振りほどく事が出来ないまま、研究室に向かった。
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