第2話 死神

 気がつくと私は暗い森の中で一人立っていた。右手には角灯がぶら下がっており、それ以外の明かりは何もない。空を見上げたところで星明かりさえ見えなかった。ただ、何故か北極星だけが見えた気がした。私はその北極星を頼りに、北へ北へと歩みを進めた。

 昔、聞いたことがあったのだ。北の森の中、その中でもさらに北の果てには沼があるのだと。この森の中、食料を探すのは難しいことではないだろう。いざとなったら木々の葉でも皮でもかじればいい。けれど水となると話は別だ。植物であれば地面をから水分を吸い上げて糧にすることができるだろう。しかし私は人間である。とてもではないが、頭を土に突っ込んで水をすすることなんてできやしない。だから確実に水のある沼を目指すことにした。

 この森から出れないことは重々に承知していた。なぜならここはそういう場所だから。気づいたときには森の中。気づいたあとでは出られない。だからここに来たからにはここで生きていくしかないのだ。ここでは死ぬことは許されない。死んだところで生きているのだから仕方がない。

 私は角灯の明かりで足元を照らしながら北を目指した。北極星など元より見えないのだから視界など何の指針にもならない。けれどその存在を感じ取ることができたから、それを頼りに足を動かし続けた。

 しばらく進むと奇妙なものを見つけた。それは踏み折られた木の枝だった。どうやら誰かがこの道を通ったことがあるらしい。そしてその者の足跡は北へと続いているようだ。私は安堵した。目に見えない北極星を頼りに歩くことはとても不安で仕方がなかったのだ。それが今、誰かが北を目指した跡がある。これほど嬉しいものはない。

 角灯の油は切れること無く辺りを照らし続けた。いや、そもそもこの角灯の炎は油を燃やしているのではないようにも思えた。まるで誰かの寿命を示しているかのようにも感じられたのだが、この森に死の概念などありはしない。あるのは永遠の命だけなのだから。けれど、誰かの命を抱えて歩くだなんて死神にでもなった気分だった。

 足元の折れた枝が千を超えてなお、北の果てにはたどり着く様子がない。私はため息を零すと、樹の幹に背をもたれさせながらその場に座り込んだ。そしてようやく、自分の思考の愚かさに気がつくのだった。死の概念のないこの場所で、命を続けるための水を探すのはあまりにも無駄な行為に他ならないのだから。

 私は抑えようのない自分への苛立ちを角灯に、そしてすぐそこの地面へとぶつけた。その瞬間、角灯から油が零れた。いや、油ではない。その液体はさらりと流れると地面に溶けるように吸い込まれていった。角灯に残った液体をひと舐めするとそれがただの水であることが分かった。

 私がそれを理解した刹那、その場所こそが世界の中心へと変わった。北極星の示す果ての地へと変貌を遂げた。そしていつの間にか私の目の前には男が立っていた。男はただただ空に浮かぶ北極星を見つめているようだった。

 しばらくしてその男は下を向いた。自身が水で濡れた土に立っているのを認めた。すると男の身体がズブズブと音を立てて地面へと沈み始めた。私はその様子を座ったままじっと眺めていた。男は相変わらず黙りこくっていた。しかししばらくして、歩かなくては歩かなくてはと喚き始めた。私はそれを相変わらず黙って見続けていた。

 そうしているうちに角灯の炎が消えた。それは男の命が潰えるのと同時だった。どうやらこの炎は男の命を示しているらしかった。それから間もなくして男は諦めたようだった。北極星が三度入れ替わった頃には男は完全に地面へと沈みきっていた。私はようやくハッとして男に話しかけた。

「大丈夫か?」

 男は答える。

「ああ、問題ない。ところで君は誰だろうか」

「……死神だ」

「死神ならばひとつお願いごとをしたい。私を生き返らせてもらえないだろうか」

 私はどうすればいいのか分からなかった。死神なんてのは戯言で、そもそも死神に蘇生を頼むなんて馬鹿げた話ではないか。だから私はなんとか取り繕おうと言葉をひねり出した。

「ならば代償を差し出せ。今なら懐中時計一つで済ましてやろう」

「それなら問題ない」

 男がそう言うと角灯の中に一つの懐中時計が収まっていた。私は諦めることにした。懐中時計を取り出すとそれを握り締め、大きく息を吸い込んだ。これだけはやりたくなかったのだけれども。

 私は口から火を吹き出した。多分これが原因で私は森送りにされたのだと思う。火を吹ける私のことをお母様は魔女と呼んだ。お友達だと思っていた人は化け物だと罵った。ただ一人、お祖母様だけが私の味方だった。

 口から火を、目からは水を零し、角灯に再び明かりが戻る。

「よかった。これで生き返った。ありがとう死神のお嬢さん」

「どういたしまして」

 他人に礼を言われたのは初めてだった。そしてなぜだか頬が、胸が、心が、燃え盛るように熱いのだ。どんな炎も物ともせず、さらなる炎で飲み込んできた私が初めて熱さを感じていた。

 私は男にそっぽを向くと、北極星に向かって逃げだした。

 この気持ちがなんなのかいつか分かる日が来るのだろうか。

 北極星が消えてなくなる前に、どうか誰か教えてくれますように。

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衝動短編 人夢木瞬 @hakanagi

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