衝動短編

人夢木瞬

第1話 沼人形

 気がつくと私は暗い森の中で一人立っていた。暗いと言っても、木々の葉が天井を作っているわけではない。むしろ上を見上げると視界いっぱいに満点の星空が広がっている。

 そう、星空だ。正確な時刻までは分からないが、少なくとも夜であることは明らかだ。天文学に長けていれば星の位置であとどれだけ夜が続くのかを知ることができるのであろう。あいにく私はそのような知識も技術も持ち合わせてはいなかった。それどころか腕時計も携帯電話も持ち合わせていないときた。

 うかつに歩き回るのは危険だと思えたのだが、私はどうしても歩き出さずにはいられなかった。まるで本能が歩けと叫んでいるように感じた。しかし私は人間である。本能だけで生きている生物ではない。私は空を見上げてこぐま座、そして北極星を探した。この程度、天文学ではなく一般知識の範囲だろう。

 私は無事北極星を見つけると、北に向かって歩き出した。しかし空ばかり見上げていると、足下がおろそかになってしまう。何度も転びかけながらも、私は北へ北へと歩き続けた。

 踏み折った枝の数が千を越えた頃、とうとう北極星は私の頭上を通り過ぎた。私は北の果てへとたどり着いてしまったらしい。それでもまだ森は続いている。夜も明ける様子はない。私はため息をこぼすと、首を下に向け、足下に視線をやった。

 その瞬間だ。私の身体がズブズブと音を立てて沈み始めた。泥が靴の中に入り込み、靴下が土の色に染まっていく。妙に生温かいその泥は、まるで私の身体を溶かしているのではないかと錯覚させた。とうとう腰まで泥に埋まったところで私は事態の深刻さに気がついた。そう、私は歩かねばならぬのだ。たとえ死んでも歩き続けなくてはならない。だというのに泥に埋まってしまえば歩けないではないか。

 私は泥の中で必死に足を動かした。必死のあまり、文字通り死んでしまったが、そんなこと今は関係ない。私は死んでも歩き続けなければならないのだから。

 しかしもがけばもがくほど私の身体は沈んでいく。だが動くのをやめたところで浮かんでくわけでもない。だからわたしはいっそひと思いに沈んでしまうことにした。沈みきってしまえば諦めもつくというものだ。

 北極星が三度入れ替わった後、私はとうとう頭の天辺まで泥に沈んだ。それからすることもなくなったため、とりあえず生き返ることにした。そこを通りかかった死神に懐中時計を差し出すことで命を取り戻した。

 そうだ、懐中時計だ。私は時刻を知ることができたんじゃないか。時刻さえ分かれば歩き続ける必要なんてなかったのに。こいつはとんだうっかりだ。しかし過ぎたことを悔やんでも仕方がない。今はこの状況を楽しむことにしよう。

 ひとまず私は泥になることにした。そして周りの泥と混ざりあった。これが案外気持ちいい。少なくとも人間でいる限りはこれほど気持ちのいいことは味わえないはずだ。そして快感は興奮へと変わっていく。もっと混ざろう、もっと混ざろうと快楽に身をゆだねる。

 そうして混ざりあっているうちに、私は泥から泥沼へと変わっていた。私自身はそのことに気づいていなかったため、死神にそのことを教えてもらったときには驚いた。死神は記念にと懐中時計をくれた。今更私に時間の概念など必要ないのだが厚意を無碍にするわけにもいかない。私が時計を受け取ると、死神は再びどこかへと飛び去ってしまった。翼もないのにどうやって飛んでいるのかは分からないが、死神なのだから見えない翼でもあるのだろう。もっとも、人間だった頃の私は翼なしでも飛べたのだが。

 泥沼になったということが分かると、急に泥であることが恥ずかしくなってきた。沼ならば沼でいたいというのが沼の性だ。私は泥を水へと変えた。それがまたなんとも気持ち悪い。まるで泥と混ざりあったときの快感のツケがやってきたかのようだ。気持ち悪さは吐き気へと変わり、思わず泥を吐き出しそうにもなったがぐっと我慢した。ここで吐いたら水の泡だ。

 水の泡? 水の泡なら吐いてしまえばいいじゃないか。私は思う存分泡を吐き出した。泡は弾ける度に泥を水へと変えていき、その水はまた泥を水へと変えていく。北極星が一度も入れ替わることなく、すべての泥は水へと変わり、私は泥沼から沼へと変わった。

 私がいた森はいつしか私という沼に飲み込まれていた。確かにそこに森はあるのだが、私が沼でありそして森をも支配しているのだ。そこで私は初めてこの森の広さを思い知った。そして私が歩いた距離など、たったここから北極星までの距離を三往復する程度だったという事実を思い知らされた。もっと歩いていたと思ったのだが。

 しばらくして私のすぐそばに人間が家を建てた。その人間はひとりぼっちで、とても悲しそうな顔をしていた。死神も、あいつの命なんて欠片ほどの価値もないとぼやいていた。おかげでその人間は死神に狙われることはなかったものの、私としては邪魔で仕方がなかった。

 北極星が四度瞬いた後、ようやくその人間は死んだ。そして私は思い知った。

 私は初めから沼だったのだと。人間だった時期などなかったのだと。

 死神は、それでもあなたを愛していると笑っていた。

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