第03話「生活」
見えざる恐怖に圧迫されるかのように家を出て、詰め所にたどり着いたころには全身へと雨を浴びたかのようにぐっしょりと汗をかいていた。
「ジラルド。気分でも悪いのか? 無理はしないほうがいい」
「い、いや。別にそういうんじゃねえから」
無言で飛び出していったハンナの存在もさることながら、あまりに冷静で顔色ひとつ変えず「あの娘は誰ですか」と訊ねてきたユリーシャも怖かった。
せせこましく彼女の存在を隠していても意味がないと思った俺は、この際、村の有力者を詰め所に集めてお披露目をやろうと腹を決めたのは、英断だったと思いたい。
砦の詰め所にある指揮所には、村の有力者や長老、それに村長のルカーシュの計三十人余りでごった返していた。俺は指示通り有力者たちを歓待していたチャーリーを呼び寄せると、やけにデカくて目立つ耳をギュッと引っ張り睨みつけた。
「おい、チャーリー。昨日の時点で知ってたんならなんであれがうちに行くのを止めんのだ」
「いやさ、隊長。だって、昨晩は気ぃ使ってふたりきっりにさせたげたじゃないですかぁ。てっきり、ハンナにはキッチリけじめをつけたのかと思ってたんですよぉ」
ああ、あれか。王都から正妻が来たから現地妻には因果を含んだって、そういうノリか。違う違うよ、おまえら。それって全然違うからな。
「にしても隊長の奥様お綺麗ですねぇ。ここらの田舎農婦とはワケがちがわぁ」
チャーリーはほうっとため息を吐くと感嘆したように、長老連たちへとあいさつをしているユリーシャを見つめている。
今日の彼女は昨日まで着ていた野暮ったいお仕着せではなく、前開きで襟ぐりがうんと深い胴衣に長いスカートを着ているので嫌でも豊満な乳房が目についた。
都会ではほっそりした儚げな線の細い女が比較的好まれるのであるが、ここのような辺境では、女性は胸が大きく臀部が立派な見てすぐにわかるグラマラスな女がよしとされている。
俺はいつもと変わらぬ様子でおじさまたちをあしらっているハンナを見て、その胸中穏やかならざることを察し、ずっと距離を取っていた。
「それにしても隊長。今日くらいはハンナをはずしてやったほうがよかったんじゃないすか。さすがにこれじゃ、公開処刑ですぜ」
チャーリーのいいたいことはわかる。
現に村のお年寄りたちも、健気に振る舞っているかのごとくハンナをいたましいものを見るような目で追っているのだ。
いうなれば、権力者の寵愛新旧が堂々と交代するような場を口には出さずとも思っているようなのだろう。
これ以上、ぐちぐち考えていても結論は変わらないので、俺はユリーシャをさっさと皆の前に立たせると、自己紹介をさせた。
「私はこのたび縁あってジラルド将軍に嫁ぐことになりましたユリーシャでございます。この土地に参ったのははじめてゆえなにもわからぬ不束者ですが、よろしくお引き回しのほどお願いいたします」
あちこちで、おおっと声が上がり、小さくはない拍手が舞うとほんわか歓迎ムードが流れた。
指揮所はなかのものを取っ払ってテーブルを並べて、ある程度の飲み食いができるよう仕出しをセットしておいたので、あとは流れで歓談の場となった。
もっとも、ここにいる連中は村でも暇を持て余しているので、目的は酒や駄弁りにあるだろう。
長らくこの村にいたが、反感を買わないように適当にエサと酒を与えて置けば、それほど不都合はない。
こうなると、まんまと父の術中にハマってしまったようで面白くないが、俺もそろそろ年貢を納めるべきなのだろうか。
「あ、また飲んでいる」
隙を突いて土地の地酒をぐびりぐびりやっていると、目敏くユリーシャが近寄ってきて眉を下げて悲しい顔をした。
「うるさいな。少しくらいいいだろ。第一、こういう場で飲まないのは礼を失する」
「またそういうことを。あなたは、酒と縁を切ることはできないみたいだな」
「おやっ。ジラルドさま、早速嫁殿の尻に敷かれているようだべが、そったらことでは先が思いやられっぺな」
「んだんだ」
俺たちのやり取りを見ていた村の長老たちが、歯抜けの口を大きく開けてカッカッと笑う。
その向こうではハンナがやけに寂しそうな目で、俺を見ていたようだが、あえて自分も見ないふりをしてやり過ごした。
よく考えると、今日もまったく既定の軍務を行っていないが攻め寄せてくる敵もいるわけもなく、なんの問題もない。俺たちは宴の始末を村人たちに任せると、新婚ということで早々に解放された。
さしあたって目の前に迫っているのは、男女がさけて通れない夫婦の営みだった。
本当に、ユリーシャを抱いてしまうのだろうか?
そもそも俺はなにを迷っているのだ。
するしないはさておいて、彼女が俺の家で夜を明かしたということは、誰しもがふたりは他人ではないと決定づけられているである。先ほど、仮であるとはいえ、村長のルカーシュを立てて祝言の儀式を行っている。つまり、ユリーシャに手を出して彼女が孕んだとしても野合と蔑みを受けることは百二十パーなくなった。
ほのかなランプの明かりに照らされながら、今、俺はユリーシャが寝室で寝支度を整えるのをじりじりしながら待っている。
「ジラルド、来て」
「お、おう」
緊張しきった声がか細く響く。
幾度か空咳を行うと日頃酔ったままひっくり返っているベッドの上で、長身のユリーシャがなまめかしい黒のネグリジェを着け恥ずかしそうにうつむいていた。
「そのだな」
「ひゃ、ひゃいっ」
急に声をかけたことにびっくりしたのか、ユリーシャが頭のてっぺんから声を出した。
相手に余裕がないとわかると、ばくばくいっていた心の臓が落ち着いてゆく。
相手は処女だ。
そうなると、ここは年上で経験者でもある俺がリードしなければ格好がつかないだろう。
「まず、身体の力を抜け」
「はい」
「そう、その調子だ。無理にこわばっていると、はじめては余計に痛いと聞く」
「い、痛いのだな。う、うん。痛いのは嫌だから頑張ってみるぞ」
ダメだこりゃ。
ユリーシャの緊張は限界までに高まっているのだろうか、剥き出しの肩にぷるぷると力が込められ小刻みに震えていた。俺はベッドの上で座っているユリーシャにゆっくりと近づくと、小動物を恐れさせない感じを意識し、そっと指先を伸ばした。
「な、なんだっ。するのかっ。するんだなっ! わ、わわわ、私も覚悟はできていりゅっ」
「ぜんぜんできてないじゃないか。いいから、まずは落ち着け」
怯えさせないようにベッドに上がって近づくと、彼女は目を固くつむって怖がっていた。
しかし、なまじここでなにもしなければ、かえって彼女の自尊心を傷つけ俺たちの仲は修復不可能になるだろう。
幸いなことに、男は女と違って相手が誰であろうとそそる身体であれば抱けるのだ。
俺は秘術を尽してユリーシャを愛撫し、たっぷりと時間をかけ彼女がその気になるのをゆっくりと待った。
実に難しく根気のいる作業であったが男として見事にやり遂げた。
そして、最終目標である契りをかわそうと努めた。
ただし、この夜で一番問題だったのは、俺のものがまったく役立たずだったことだった。
「その、なんだ……私は気にしてないからなっ。男は緊張するとそういうことが起こると聞いたこともあるし。焦らず、ふたりで頑張っていこうっ」
「……殺してくれ」
俺はその夜、心に激しいトラウマを植えつけられ、朝まで毛布の端を噛んで泣いた。
「私が思うに、まずご酒の飲み過ぎがいけないと思うのだ」
「そーだな」
起床後、それぞれ身支度を整えると、俺たちはテーブルに向かい合って座り、朝一の茶を啜りながらなんともいえない微妙な気持ちで昨晩のことをぽつりぽつりと語り合っていた。
「それでだ、昨日、その、だな。営みのときに見てしまった、というかわかってしまったのだが……うう。ジラルドは、少し訓練を怠っているような気がする」
「なんだ! ユリーシャはそんなとこばっか見てたのか。えっちだなぁ……ああ、嘘嘘。いじけなくていいから、続けて続けて」
「酒を飲み過ぎてロクに身体も動かさず不健康な生活そのもの。ジラルドの身体に不具合が出るのも当然の結果であると私は思う。よって、ここに提案する。今日から、あなたを私の手で鍛え直し、どこに出しても恥ずかしくない男のなかの男へと戻して見せよう!」
「うん。頑張ってね」
「……こら、ひとごとではないぞ。では、さっそく今からはじめたいと思うので、準備してくれ。私は外で待っている」
「冗談だろう?」
「私は本気だ」
この地に赴任してから七年、訓練らしい訓練はおろか、ろくすっぽ身体を使った記憶がない俺になにをさせようというのだ、この娘は。
確かに昨晩の結果は不首尾に終わったが、ユリーシャの身体は贅肉ひとつなく引き締まった上にやわらかみのある極上のものだった。そにれくらべて自分はと思わないでもない。
身体、鍛えてみようかなぁ。
そう思ったのが運の尽き。
ユリーシャのしごきは全盛期のときならいざ知らず、なまりになまった今の身体では到底受け入れがたい、地獄の鬼も裸足で逃げ出すようなものだったとあとで知った。
「ところで、訓練をはじめる前に聞いておきたいのだが、今日の軍務はどうなっている?」
「軍務、軍務か……」
ユリーシャに問われてはたと考え込む。
どうせ詰め所にいっても、長い長い長城の壁を見回って周囲に異常がないか確かめるくらいしかやることはない。
ぶっちゃけ詰めてる必要性があるかと問われれば、あの場所はほとんど俺の気分転換に使っているようなものなので、軍務自体はやってもやらんでも問題はないといえる。
だいたい俺がいないときのほうが、ハンナたちはよっぽどメリハリをつけて軍務に励んでいるといえるからな。そうなると、俺はむしろいないほうがいいな。
「正直なところ、見回りくらいしかすることがないし、なにかあれば連絡が来るようになってるから、訓練であるなら軍の基本でもあるし、どれだけ休んでも問題ないよ」
「ほほう」
ユリーシャの眼がきらりと怪しく輝いた気がした。
「それは……好都合だジラルド。この際だ、私がおまえを徹底的に鍛え直してやろう」
「やれやれ、勘弁してくれよ」
「なに、鍛錬は決して無駄にならないはず……上に立つ人間としてジラルドの能力が向上することは、お国のためにも、そしてこの村のためにもなるはずだからな」
このときまだ俺は、ユリーシャのいう訓練は通常軍で行われているものと大差ない整理体操程度のやわなものだろうなと決めかかっていたし、年下の妻が背伸びしてキツイものを頭のなかでこしらえているかと思えばむしろかわいげすら覚えていた。
「じゃ、とりあえずあの山のふもとまで駆け足で往復だ」
「……は?」
ユリーシャはたわわな胸の前で両腕を組んだまま、顔をはるかかなたにある小山のほうへと向け獰猛な笑みを浮かべた。
「おいおいおい、ちょっと待ってくれよ。あんなとこ、下手すりゃ昼までかかっちまうぞ」
彼女が走ると決めた山のふもとは村の入会地があり、昔散歩がてらに歩いて行ったが、往復に結構な時間がかかった。
「そんな悠長なことをいっている場合ではない。当然私もつき合うからそれならいいだろう」
「まあ、別にいいけどよ」
戦場暮らしが長かった俺は、同年代に比べればおそらくはるかにタフで、身体を動かしていないといって女に走り負けるやわな足腰はしていないつもりだった。
「駆け足は誰でもできてもっとも効果的な鍛錬方法だ。それともなにか、亭主殿は私に負けるやもと思って怖気ずいたか?」
ユリーシャは目を細めて小さくぺろと舌を出してみせる。
む。
むむむ。
馬鹿いうな。幾ら酒漬けの身体でも女に走り負けるはずがない。
「冗談じゃない。もし俺がおまえに走り負けたら、なんだってしてやるよ」
「ふむ。その言葉に二言はないな。では、負けたほうが買った者の命令になんでも聞くというのはどうだ」
「委細承知ッ!」
こうして俺とユリーシャの駆け比べがはじまった。
「どうした? 身体をほぐさなくてもよいのか?」
見ればユリーシャはぐにぐにと脚を伸ばしたりして、身体中を奇妙な格好で曲げたり戻したりをしていた。
「いちいち敵さんは待っちゃあくれねぇよ。俺はいつでもいいぞ」
「そうか。じゃ、いち、に、のさんでスタートだ」
三秒ほど待って駆け出した。
ユリーシャもいつものドレス姿ではなく、ぴっちりとした短袴を身に着けているので動きやすさでは男女の差はないだろう。
なるほど。彼女は俺より長く美しい脚で楽々とあとについてくるが、所詮は婦女子のスピードだ。あくびが出るほどのろかった。
若かりしまだ十代のときを思い出す。あの頃は、重たい甲冑を着込んで装備をパンパンに詰めた背嚢を背負ってなお、同輩に負けるかとばかりに軍馬に劣らぬ速さであちこちを駆け巡った。
こうしてなにも考えず身体を動かすのは久しぶりだ。
はじめから飛ばし過ぎると最後までもたないので、自分なりに調整をかけるがやはりユリーシャははるか遠くに離れた位置まで差がついていた。
かわいいものだ。あの程度の脚でこの俺に勝てると思っていたんだからな。
いや、ここで手を抜いてものちのち癖になるといけない。
ここは上下関係を骨の髄まで叩き込むつもりで全力で相手をしてやろうと思う。
息を弾ませながら、最初の坂を上っていく。
そもそも、徒歩とはいえこの道を幾度も往復した経験がある俺のほうが、ペース配分や土地勘においても圧倒的に上なのだから勝って当然なのだ。
――と、まあ余裕をぶっこいていた俺でしたが。
「頑張れっ。あと少しで到着だ! ジラルドっ!」
駆け比べの勝負は圧倒的な大差をつけられ敗北に終わってしまった。
家の前ではとっくに走り切ったユリーシャが手を振りながら声援を送っている。
いや、息が苦しいなんてもんじゃないぞチクショウ。
ユリーシャのやつ、完全に力を隠していやがった。
いや、息が苦しいとかそういうレベルの話じゃない。
止まって両膝に手を突き、中腰で呼吸を整える。
途中で完全にペースを崩された。
ガレた道に至ると、ユリーシャは俄然ぐんぐんスピードを上げ、気づけば追い抜かされそうになった。
そこから頭がカッとなって、もうあとはなにがなんだか……。
たぶん、スピード的には悪くなかった。
俺は、ほぼふもとの折り返し地点から家まで全力疾走をしたのだが、ぜんぜん追いつけなかった。
「すごい汗だぞ、ほら。拭いてやるからジッとしてろ」
水をかぶったように全身汗みづずくだ。
ユリーシャはけろりとした顔で濡らしたタオルを持ってくると、まだ声も出せない俺の上着を引っぺがし、丁寧な手つきで汗を拭っていった。
「おまえ……すげぇ……体力だな……」
「そうか。ふふん、これでも持久走には少しばかり自身がある。どうだ、ジラルド。久々に汗をかくと気持ちがいいだろ。酒も幾らかは抜けて身体も軽くなったんじゃないか?」
「まあ、酒は抜けたか……はぁ」
地べたに腰を下ろして青空を眺めた。
そういえば、こんなふうに早起きすること自体、この七年間幾度あったことだろうか。
目をそっと閉じると、かつて無心に軍の調練で汗を流していた青春時代のことが次々と脳裏に浮かび上がっていく。
同輩のほとんどは、いくさの途中で次々と斃れ鬼籍に入っていったが、ここでこうして朝の清々しい空気を感じられるだけ俺は幸せなのだろう。
「さあ、そんなところで座っていないで立ちなさいジラルド。あなたが戻るまで料理の下ごしらえは終えている。お腹を満たしたら、いよいよ本格的に行こう」
ええー。
気分的には、もうこれだけ走ったから満足だったのだが、十代女子の体力は疲れ知れずと見える。
俺は河から無理やり砂漠に追い立てられたカバのような切ない足取りで、よろうばうように家のなかへ入って行った。
「とりあえず準備運動は終わったとして、次は筋力の増強訓練に移りたいと思う」
ユリーシャが口をへの字にしてキリッとした顔で告げる。
「はぁ……」
朝食を終えた俺は瞳を希望の炎に燃え立たせたユリーシャにずるずると引きずられ、ニルベング河が流れる堤防まで移動していた。
「なんというか、悲惨過ぎる」
一見してもわかるとおり、ここはついこの間の大雨で一部が破損し、応急的な処置を施されてはいるが、まだ完全に仕上がってはいなかった。
堤の切れた一部は村総出で土嚢を積んであるが、人手が足りないのでどう見ても不安定だ。
こうしている間も、農作業の暇を見て、村人の幾人かが無料奉仕で補修を行っている。が、作業は遅々として進んでいない様子だ。
位置的には決壊しても、村から離れているため被害はそれほど予想されないが、完璧であるに越したことはない。
ここが放っておかれるのは、先日かなり上流の他村で堤が切れ、水流がかなり減殺されていたという事実もあり、切迫感は薄れつつあったことにも起因している。
「ジラルド、堤防だ」
「うん、堤防だな」
「このままでは結構危険だ」
「うん、危険だな」
「なので、ジラルドは今日からこの堤防工事を手伝って貰おうと思う」
「まあ、そりゃ構わないが」
どうせ暇だし、そのうち人を集めてやろうかと思っていたところだ。
村人たちは、軍人であり一応は砦の大将となっている俺がいることを奇異に思って遠慮なしにジロジロと見つめて挙動を窺っている。
別に、サボっているかどうか咎めに来たわけではないのだが。
「じゃ、頑張ってくれ」
「え?」
ユリーシャは、四つ輪のついた引き車をこちらに押し出すとにっと笑った。
ぶっとい梶棒のついたそれは、通常、力のある農耕馬に曳かせる大きくて積載量が素晴らしくある車重自体がかわいらしくない重みを持ったものだった。
「あの、馬は」
土方仕事だ。体力養成というならば、土嚢を積み上げる作業だと、堤を見たときに半ば覚悟していたが、多量の土砂が切り崩されている集積場所はここからかなり離れている。
もしやと思い、サッと血の気が若干引いた。
「ジラルド。この村にいるお馬さんは限られている。なあに、あなたは力強い。土を積んで引っ張るのもいい運動になる。体力作りにはうってつけだぞ」
「あ、あはは」
もう、笑うしかなかった。
こうして試練ははじまった。
引き車を唸らせて、堤防から離れた場所にある土を袋に詰め、今度はアホほど重たくなったそれを額に汗を浮かべながら、引いてきて土嚢を積んでいく。
まったくもって脳を使わない単純極まりな作業だが、ひたすらきつかった。
空荷で下りてゆくときはなんてことのない車も、それこそ農耕馬も悲鳴を上げる急坂を人力で引き上げるとなると、全身の筋力を使わなければならなかった。
登攀時には腕力や肩の力だけではなく、足腰すべての力が必要とされた。
キツイなんてもんじゃない。
俺は痛みや疲労には強いと自負していたが、十往復しただけで簡単に息が上がった。
特に坂を上げるときは、信じられないくらい足首と腿に負担がかかり筋肉がパンパンになる。
ならば、土嚢の数を少なくして往復の回数を増やせばいいのじゃないかと思うのだが、それはユリーシャが想定した鍛錬とはほど遠いものだろうし、なんだか挑まれて逃げるみたいで俺自身のプライドが許さなかった。
土嚢を高々と積んだ引き車を定位置に移動させ、ひとつひとつ誰の力も借りずに、切れた堤の場所へと積んでゆく。
見かねた村人が手伝おうかと手を上げてくれたが、丁重にお断りして黙々と作業に励んだ。
土嚢を積むのにもコツがいるし、そもそも尋常ならざる力を毎時消費し続けるのは異常な執念と怒りに似たなにかが必要だった。
重たい土砂の詰まった袋を抱え上げ、下ろす。抱え上げ、下ろす。
作業は延々と続く。
いつか、若かりし頃、都の普請工事で奴隷が力仕事に従事していたのを思い出した。
「く、くそっ!」
別に命令されているわけでもないし、今すぐやらなければ村が破滅するわけでもないが、中途半端に手を抜いてユリーシャに失望されるのはどうしてもさけたかった。
全身はすでに水をかぶったように汗びっしょりだ。
シャツを脱いで、上半身裸になって無心に身体を動かし続けた。
ユリーシャに、ああはいったが騎士団の連中の面倒をまったく見ないというわけにもいかない。
早朝ランニングと、堤防の土嚢積みを十日ほど続けるころには、身体の毒が抜けたのか、なにやら頭がしゃっきりしはじめた気がする。
酒も、まあ、断酒は不可能だったが明日のことを思えば量を控えるようになったので、二日酔いにならずにすんだし、だいたい疲労で朝までぐっすりだった。
「さすが私のジラルドだ。必ずできると信じていたぞ」
「ま、まあな」
結果、堤防の補修が完全にすんだころには、ユリーシャだけではなく、村人や騎士団のみなも感謝と尊敬の念を持って見るようになり、ちょっとくすぐったかったが、気分は――まあ、悪くなかった。
次にユリーシャが命じてきたメニューは薪割りだった。
「薪割りは上半身の筋肉を鍛えるにはもってこい。ジラルドがたくましいと私もうれしい」
「そうか……?」
軍にいた頃はかなり能動的にできる鍛錬を自発的やってきたが、二十もだいぶ過ぎて誰からも強制されることがない生活ではなかなか新しくなにかをはじめることは難しい。
それに薪は日常で常に消費するし、五十代六十代の年寄りの分を代わってやると、最初は疑念の目で俺を見ていた村人たちの目もどんどん変わっていく気がして、なんだか楽しかった。
重い斧を使って薪を割る作業は簡単そうでいてその実、かなりコツがいった。
そういえば、この村に来てこんな雑用はしたことなかったが、俺が使う分は必ずほかの誰かが用意してくれたものを使っていただけなんだなと、と思うとちょっと恥ずかしかった。
「隊長、なんか最近変わったっすよね」
「え、なにがだ?」
城壁の周囲を見回りちゅう、ハンナがボソッと聞こえるか聞こえない程度の声でつぶやいた。
ユリーシャを娶ってから、なんとなくギクシャクしていて、最近は彼女のほうが俺をさけている感があったので、ちょっとホッとした。
そりゃ、あれほど懐かれていた相手が急に離れて行けば喪失感が生まれなくもない。
たぶん勘違いではなければ、ハンナは俺のことを少しは憎からず思っていたのだろう。
こっちもガキじゃないので、わかりやす過ぎるほど過剰に反応してくれれば気づかないわけがないのだ。
「だから、その、急に朝、走ったり、堤の工事をひとりでやり出したり、薪割りとか――自分がやろうっていったときには、ガン無視してたくせに」
「まあ、あれだな。そういう気分になったんだ」
「へぇ……」
隣にいてずっと無言なのも困るが、こうしてわかりやすく嫉妬されるのも落ち着かない。
だいたい、村の長老たちはハンナを俺とひっけようとしていたが、個人同士はなにもなかったんだ。
なので、妙に気を使う必要もないと思っていたのだが、なんだ、この気まずさは!
「あれっすよね。奥さま、ユリーシャさま綺麗な方っすよね」
「へへ、まぁな」
なんというか、自分のことを褒められるのよりもずっとうれしい気がする。
あいつはちょっとばっかし俺より背が高くて大柄だが、非常に細やかな気がつくやつで、なにより美人でやさしい。
はじめは父を恨んだ気もしないでもないが、それはもう過去のことだ。
あとは、体調さえまともになって男としての務めを果たせれば……。
なぁんて思ってしまうほどだ。
「面白くないっす」
「はぁ?」
「だーかーらっ! あたしは面白くないっていってんす!」
ハンナはそういうと腰の剣を鞘ごと引き抜いて、地面にだんっと叩きつけた。
「はぁ? ちょ、ちょっと待てよ! なに、いきなりトチ狂ったことを……!」
「隊長が勝手にしあわせ面して善良な軍人ぶってるとこが気に食わないんですっ!」
「んな無茶苦茶な。第一、おまえ、ことあるごとに真面目にやれ真面目にやれって」
「だからって、あたし以外の女の手で改心されたら頭にくるでしょーがっ!」
感情が激したのかハンナは両拳を下に向けたままぐっと唇を強く噛み締め、両の目から涙をポロポロこぼしながら、文字通り地団太を踏み出した。
なんというか、女と深い仲になったことがないわけではないが、ここまで強烈な感情をぶつけてくる女は知らない――ということで、俺の脳みそは真っ白になって、もうひとりの自分がわぁわぁ騒ぎ出した。
「お、落ち着けって。パニくるなッ。な、ここじゃ誰かが来るかもだぞっ!」
「あんなに尽くしてきたのにっ。朝、起こしに行ってあげたり、たまに死んでないか確認したり、エサを与えたり、きったない夢精でべっとべとになったおパンツ嫌がらずにゴシゴシ洗濯してあげたのにっ。その仕打ちがこれなのっ!」
「おいっ。最後のほうは完全に事実無根だぞっ!」
「酷い酷い酷い、酷いよ、酷いっ!」
「そもそも俺とおまえはそういう関係じゃないじゃん」
俺が冷静に告げるとハンナはほどけた自分の髪を口に咥えながら、凄絶な表情で睨んできた。
「――許さない。こうなったら、ユリーシャさんに隊長とあたしの間にあった、あることないことをたらふく吹き込んで、新婚生活メチャクチャにしてやるうっ!」
「待て! ふざけんなっ! てか、落ち着けって!」
「やだっ。さわんないでよっ。裏切者っ!」
ふたりギャアギャアいい争っていると、あまりに戻りが遅いので、チャーリーたちが様子見に来て「やっぱ」とか「隊長酷いな」など思いっきり勘違いされたので、とほほな気分になった。
トチ狂ったハンナの怒りを鎮めるまで、かなり時間を要し、部下たちにも蔑んだ目で見られ散々だ。
この日は久々に酒を無理強情につき合わされ、ユリーシャの疑念を招いたのは俺の不徳の致すところだった。
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