第04話「亜人」
ロマンスなんかなかったのに、女関係で窮地に立たされる。
ハンナが発狂して俺に詰め寄った翌日。
彼女は約を違えて――そもそもそんなもの最初から合意は成されていなかったと見るべきか――我が新婚夫婦の住まう場所にずかずかと踏み入って猜疑心の種をしっかり撒いていった。
「ジラルドの部下の方だな。これは、気づかずにすまない」
「いいえ、奥さま。隊長には実にやさしくして頂いておりますゆえ、ほほほ」
ユリーシャも、ハンナの顔を覚えていたのか、はじめは客人をもてなそうとうきうきした顔をしていたのだが、次第に彼女が俺に対して意識的にべたべたした行動を取るようになると、甘い顔は霧散した。
下手に動こうものならハンナが前日いっていたように、あることないことをユリーシャにぱぱっと吹き込みかねない。
俺は安易に動けなくなって狼に狙われた森の小動物のように動きがぎこちなくなった。
ハンナは当たり障りのない会話をかわしつつ、ちょっとした拍子に、こちらへ意味ありげな目線を送ったり、今まで一度もしたことのないような艶っぽい仕草で外套の裾を引いたりしてあからさまにユリーシャを挑発して、去っていった。
――こっちはこれから楽しい夕食だったてのに、これじゃまるで最後の晩餐みたいな雰囲気じゃねえか!
ハンナが消え去ったあと。
ユリーシャは、彼女が出て行った扉をジッと睨みながら、こちらを振り向こうとしなくなった。
つか、怖いわ。
「ジラルド。大層快活でかわいらしいお嬢さんだな。特別に目をかけているのかな」
「いや、別にそういうことはないんだが」
「馴れ馴れし――いや、聞けば、ひと月前特別に女性としてははじめの団員にしたとか。そうそう、聞けば私が来る前には彼女に身の回りの世話をさせいたのだといっていたが。――それは、そういう意味でいっていると捉えていいのかな?」
「ば――バカッ。ンなわけねーだろっ。なにをそんなにムキなってんだよ」
「ムキになって、悪いの?」
くるりと振り向いたユリーシャの顔。
そこには俺が予期していた憤怒の表情などひとかけらも見受けられず。
声も上げずに涙を流して頬を濡らす、傷ついた少女の姿があった。
「私は――あなただけのものなのに――以前は知らないけど、今は、あなたの妻だというのに――こんなのって、酷いわ。それに、まだあの娘と関係があるだなんて」
ユリーシャは長身を折ってその場に跪くと、今度は声を押し殺すことなく、わんわんと耳をふさぎたくなるほどの声で泣き出した。
「違うっ。ちが、違うからっ! そんなん絶対ないからっ!」
「嘘っ、嘘っ!」
半ば茫然としていた。
俺は心のどこかでユリーシャを、常人とは一線を画した超越者とでも思い込んでいたのだろうか。
彼女の感情は火を噴くように強烈で、そいつを真正面から当てられた俺はからっぽになった頭で、どこか自分とは無関係であるかのようにその場に突っ立っていた。
なんというか、女をなだめるのにだんだん手慣れてきたような気がするな。
どんどんとダメになっていく気がして、晴れた空を仰いだ。
昨日のハンナ来訪から、ユリーシャとどことなく、溝ができたような気がする。
もちろん、ユリーシャはよくできた嫁なので、泣き喚いたあともすぐ平静を取り繕っていた。
が、あれはまったく納得していない顔だった。
俺が仕事を終え家に戻ると、手渡した外套や上着をジッと見つめるのに気づいてしまった。
よくない兆候だが、これはもうどうしようもない。
情けないことに、あっちはまだ完全体ではなく、立派に夫の務めを果たしているとはいえない状況なので、思ったことはなるべく口に出し、合間合間に接触を増やすことにした。
我ながら自分らしくない、軟弱な方向転換だがしょうがない。本来は硬派なのに。
なにかをしてもらったら、くどいくらいにありがとうをいい、ハグをして彼女の髪を撫でたり手を握ったりした。ユリーシャもそれが落ち着くのか、特に拒否はしなかった。
それに、夫婦になってわかったのだが、こうして触れ合っていると凄く落ち着くのだ。
ユリーシャは、綺麗だし、やさしいし、抱き合っていると安心する。
もっとも、俺が行動に移すのは屋内だけに限っているので、外ではやらない。そうでもなければ、砦の将軍さまは女房に骨抜きにされたのだと、村人に笑われるからだ。
個人としては、風聞などどうでもいいのだか、開明的な街人と違って、辺境のしかもこのような人より獣が多いような地域では女性の、特に女房子供の地位は低い。
一家の惣領ならともかく、嫁いできた女は農村では道具の一部のように扱われ、その社会的地位は極めて低いといえる。
彼らは日頃、表立って見せないが、それは仮にも村の防備を司るとされる軍人のまとめ役である俺に、それこそ物語にある英雄豪傑のような、一種野蛮とも取れる気風や性格を望んでいると肌で感じ取れてしまうのだ。
「いい風だな」
「はい」
ある晴れた午後。
俺はユリーシャを連れて、村のあちこちを散策していた。
特に目的があって出かけたわけではないが、昼食をとり終えたのち、こうして出歩くことはよくしていた。
といって、なにか目新しいものがわるわけでもない。
決して芳醇とはいえない畑が延々と広がる耕作地の畔を、ふたりして無目的にぽくぽくと歩くだけだ。
「あれは、なんだろう」
「あん?」
先に、ちょっとした異変を見て取ったのはユリーシャだった。俺は軍のなかでも「大空を飛ぶトンビよりも目がいい」といわれた自慢の目で、はるか彼方の村境に生えている古木の根元から浮き上がっている白い塊をすぐに発見した。
異様な白さは自然界にないものなので、非常によく目立つ。
小走りに駆け寄ってみると、そこには白っぽい布に包まれた、小さな犬耳を生やした赤子がすうすうと寝息を立てて置き去りにされていた。
「かわいい……」
母性本能を刺激されたのか、ユリーシャは犬耳の目立つ亜人の子をそっとやさしく抱え上げた。
「ジラルド。確か私の知る限りでは、村には亜人はいなかったように思えるが」
「ん。捨て子だろう。おまけに、この耳は……珍しいな、
俺が珍しいといったのは、
「この近くに戦狼族の集落はないから、流民となった者が村の目につきやすい場所へと捨てていったと考えるのが妥当だな」
「おまえ、両親に捨てられたのか。かわいそうに」
ユリーシャは我が子のように、赤子を抱えたまま、悲しそうな目をした。赤子は己の境遇など知りもせず、ただ無心に寝息を立てていた。
パッと見ると、髪や身体の大きさから乳飲み子というわけでもないらしい。
ひっくり返して確認すると、ものがついていないので女の子であることは確定した。
特に亜人は、普通の人間の子供に比べて成長が早いというから見た目だけでは年齢の判別はつきにくいからなんともいえないが。
「ジラルド。この子のむつきのなかに、手紙が!」
「貸せ。ふむ……」
書かれている言語は共通ロムレス語だが、
大昔と違って、人間以外の亜人も基本、文章にはロムレス語以外はあまり使わない。
もっとも、中産階級以上でなければ文字自体読めない人間がほとんどなので、そこまであげつらうのは酷というものだろう。
手紙には、この子の名前、ミーシャという娘だそうだが、ご丁寧に少なくない大金貨が三枚ほど挟まっていた。
俺は一枚、一〇〇〇〇ポンドルはくだらない、英雄トピアの肖像が刻まれた貨幣を、裏返したり、軽く噛んでみて含有量と価値を値踏みした。結果は、本物だとしか思えない。
「なあ、ジラルド。この子の扱いはどうなるのだ」
「とりあえず、村長に報告して、この村で育てることになるだろうが」
「じゃあ、この子をどこかに追いやったりはしないのだな」
ユリーシャはホッと安堵のため息を吐くが、俺の表情に硬いものを見とったのか、すぐさま不安そうにぐっと顔を近づけてきた。
「なにか、問題が……?」
「ユリーシャは王都生まれで王都育ちか? なら知らないのも無理ないが」
「私の実家は塩商人だった。王都の生まれではないが、こういった村のことは詳しくない」
俺がついつい苦い顔をしてしまったのは、このミーシャという名の娘のこれからの人生を思いやったからだった。
戦乱が長く続いた時代だ。この村は食うに困るというわけでもないが、幾人もよそ者を食わせていけるほど裕福でもない。
となれば、このミーシャという赤子の将来も到底明るいものだといえそうになかった。
見たところ、この娘は幼児でありながら整っており、どこか気品が感じられるよい顔立ちをしている。
当然ながらものの役に立つ年になれば、奴隷として村じゅうの備品としてこき使われるだろうし、長じて見目麗しく育てば、離れに囲われて村の男たちの性欲処理道具として機能させられるのは火を見るよりも明らかだった。
――そうして、ミーシャが父親が誰だかわからない男の種を孕めば、生まれてきた子も奴隷として一生使いまわされる。
その上、ひとたび飢饉が村を襲えばなお一層悪い場所へと売り払われていくのはわかりきったことだった。
「そんな……この子は生まれ落ちたときから、そんな運命を……!」
「正確には、捨てられたときからだ。金が添えられていたのは、親心ってやつじゃないかな。あれだけあれば、村の人間もこの子の将来に幾らか手心を加えると踏んでいるのだろうな」
ユリーシャは俺の説明を聞くと愕然とした顔つきで、抱えているミーシャをジッと見やった。
それから、これは予想していたことだが、顔を上げると潤んだ目で救いを乞うように懇願してきやがった。
この話をすれば感情過多なユリーシャが「ええ、そうですね」と村に引き渡すことを同意するとはハナから思っていなかったが……。
「あのなユリーシャ。これは村のしきたりでな」
「でも、あなたならこの子を救えるのだろう?」
――こんな俺を信じ切った目を直視するのはいつくらいだろうか。
かれこれ十年にもなるか。軍務で国じゅうをあちこち飛び回っていたとき、叛徒の攻撃で怯える力なき市民たちは、国軍の軍服を着込んだ俺たちを、ただ純に願い、すがっていたっけか。
「まだ、王都にはツテもある。こういった孤児を手厚く養ってくれる教会が見つかるまでって話なら、まあ……」
「ジラルド――あなたならそういってくれると信じていたっ」
がばっとユリーシャが銀色の髪を踊らせて飛びついて来る。
俺は赤んぼと巨乳に顔を押し包まれる形となって情けなくふがふごした。
「ばっか、子供が起きちまうだろっ!」
「うん――うんうんっ。でも、やっぱりあなたはやさしい。大好きよ、愛しているわ」
鳶色の瞳がよろこびでじんわりと潤んでいる。
その天使のような輝きを見てしまえば、このあと付随してくるだろう困難をとっくり聞かせる気も失せる。
反則過ぎるだろうと俺は思った。
村長へと形式的に報告をすませると、俺たちはミーシャという戦狼族の赤子を自宅へと引き取った。
ま、村長は捨て子なんて心底どうでもいいんだろうなあ。
むしろ、俺らが引き取ってくれることにホッとしているようだった。
そりゃそうだよなぁ、何年かは面倒を見なきゃならんだろうし。
村長から藤製の籠を譲り受けて、ミーシャをそのなかにとりあえず寝かせておいたが、彼女は意外にもすぐ起きた。
「おいで、ミーシャ」
ユリーシャが猫撫で声で近づくと、ミーシャは頭上に生えている戦狼族特有の犬耳をぴんと逆立て、布きれをまとったまま素早い動きで部屋の隅に移動し、こちらを警戒し出した。
おやおや、この娘。小生意気にもしっぽを逆立ててうーっと唸り声を上げている。
身体の大きさからいって、一歳かそこらだろうが、やはり亜人と人間は別物って感じだ。
「怖くない、怖くないから」
ユリーシャがそっと近づくと、ミーシャはうううとさらに強く唸って警戒感を露わにした。
ミーシャが怯える気持ちもわからんでもない。
ユリーシャは女性にして背があり過ぎるし、緊張してか異様に顔が引きつっているのだ。
「あのな、ユリーシャ。そんなんじゃ懐くものも懐かんぞ」
「しかしっ……!」
「どら。いいから俺に任せて見ろ」
俺はユリーシャを遠ざけると、あまり気は進まなかったが、かつて軍務で亜人の集落を訪れた際に、彼らから教えてもらった方法でミーシャとコンタクトを取ろうと図った。
まず、四つん這いになる。
戦狼族に限らず、ほとんどの亜人は本能的に自分より目線の高いものを恐れるのだ。
これに効果があったのか、ミーシャは目をまん丸に見開くと、ぴくんと犬耳を震わせた。
しめしめ。
俺はさらに、相手に警戒させない動きで、そろーりそろりとゆっくり近づき距離を詰める。
「ジラルド……なにをっ?」
「し、黙って。ミーシャが警戒を解きつつある」
ユリーシャが声を上げると、ミーシャは部屋の隅に陣取って再び唸り声を上げはじめる。
が、その声には本格的な険は見当たらない。
俺はさらに身体を低くし、ほとんど這うようにして頭を近づけると、ミーシャは唸るのをやめ、鼻をふんふん鳴らしながら突きつけられた頭髪を嗅ぎ出した。
「落ち着け、落ち着け。ミーシャ、俺はおまえの敵じゃないぞ」
わざとささやくような声でいうと、低い声に父性を感じたのだろうか、ミーシャはきゅふんきゅふんと啜り鳴いて顔を舐めながら抱きついてきた。
やさしく抱き上げるとしばらくうるさく鳴いていたが、そのうち静かに寝入ってしまった。
「わ、私のほうがジラルドよりもたくさん愛してあげるのに……」
振り向くとユリーシャが妬ましそうな目で、ミーシャを抱っこする俺を見ていた。
それはワガママというものですよ、奥さん。
さて、正式にミーシャを預かることになったわけだが、特に長期的なプランはなかった。
「ユリーシャ。あんま構うなよ。寝てるんだし、そっとしとけって」
「ジラルド。この子は両親に捨てられ深く傷ついているんだ。私たちがたくさん愛情を与えてあげねばかわいそうではないか……」
ミーシャは初見で感じたほど乳飲み子というほどでもなかった。
放っておけば、とたとたと素早く歩いて移動し、経験のないユリーシャは慌てて追っかけ抱き上げるといったことを繰り返していた。
「こら、ミーシャ。そんな格好でお外に出たら風邪を引いてしまうぞ」
亜人の習慣はわからないが、ミーシャは裸で布きれに包まっていたので、とりあえず村を回って余っていた幼児の服を着せると、一歩文化的に近づいた。
食事は乳を欲しがる様子も見せず、きちんと抱かれたまま固形物を食べれるが、警戒しているのかユリーシャがスプーンを使って口に運ぼうとすると、小生意気にもううっと唸る。
「ああっ。またそのように手づかみで。女の子が、はしたない……」
ユリーシャはミーシャを膝に乗せ、なんとか母親の代わりを務めようと四苦八苦しているが、どうも手つきがおっかなびっくりでぎこちなかった。
「ユリーシャ。おまえは子守をした経験とかあるのか? 年が離れた姉弟かいたとか」
「うう。私はひとりっ子だったよ。でも、でも、子供は好きなんだ」
子供好きでなければ、手がかかる捨て子を抱え込んで育てようとは思わないだろうが、熱意と経験がまるで釣り合っていないようだ。
ミーシャも不安定に抱かれるのが不安なのか、そのうち癇癪を起してさらに犬っぽく唸り、仕舞いにはギャンギャン泣き出すと、ユリーシャ「どうしよう……」といった視線をこちらに投げかけてきた。
「しょうがないな。ユリーシャ、貸せ」
「え? ああ、うん」
俺はミーシャを無造作に受け取ると、顔が見えるようにしっかりと抱いた。
このほうが、まだ慣れていないミーシャが安心するはずだ。
ミーシャははじめむずかっていたが、俺と視線が合うと動きを止め、ジッとこちらを窺いはじめる。
これは、目の前の男が外敵ではないかどうかを見極めているのだろう。
この子も、武骨でごつごつした俺の腕に抱かれるよりは、ユリーシャの豊満でふかふかな乳房に包まれているほうが安心するだろうに。
「なんでジラルドはそんなに手慣れている……? まさかっ!」
「別に子供とかいない。俺には年の離れた従妹が近所にいて、ガキのときはしょっちゅうお守りをさせられたから、おまえよりかはマシって程度だよ。おーよしよし」
ミーシャはくしゃっと顔をほころばせると、くふんくふんと仔犬が鳴くように鼻声を鳴らしながら、胸元に顔を埋めてくる。
「なぜっ。なぜ、私は上手くできないのだっ」
ユリーシャはじとっとした目でうらやましそうに抱かれているミーシャを凝視する。
「ま、時間が解決してくれるだろ。だいたい赤ん坊は母親のほうが好きに決まってるから」
数日が経過した。
俺のちょっとした懸念は杞憂に終わり、ミーシャはすでにユリーシャべったりとなっていた。
元々亜人は人間の赤子よりもはるかに立って走れる強靭な足腰を持っているので、どたどたと部屋を走り回るのは勘弁だったが、慣れてくればかわいいものだった。
「おとーしゃ、おとーしゃ。これ、あげゆ」
ミーシャは頬をリンゴのように赤く染めながら、椅子に座っている俺の手へところころした木の実を握らせてきた。
「ん。なんだ、どこで拾って来たんだ?」
「もりっ!」
「今日はな。ミーシャといっしょに森で遊んだのだ。この子は凄いぞ、脚は早いし動作は機敏だ。おまけに観察力が凄い」
ユリーシャが洗濯物を畳みながら満面の笑みでいった。
――数日経ってわかったことだが、ミーシャは俺たちに拾われるまでの過去の記憶を完全に喪失していた。
まだ、ほんの赤ん坊だ。
口が利けるのなら両親や、今までいっしょにいた者たちの名前や手がかりくらい少しはわかるかと期待していたのだが、彼女は自分の名前くらいしか覚えていなかった。
それ以前のことを聞いても、どこでなにをしていたとか、どこの土地からやってきたのかとか、そういった日常的なことはまったく記憶から失われていた。
手のひらで木の実をころころ弄んでいると、ミーシャは恥ずかし気に上目遣いでこちらを見上げている。
「ジラルド。ミーシャはご褒美が欲しいらしいな」
「ああ、そうか。そうだな。よし、よく取ってこれたな。よーしよーし」
乱暴な手つきでミーシャの頭を撫でさすると、満足したのかミーシャは自分の頬に手を当てながら目を細めて気持ちよさそうにしている。
「おとーしゃ、すきっ」
感極まったのか、ミーシャは椅子に座ったままの膝頭に抱きつくと顔をすりすりくっつけてくる。
「だから、俺はおまえの父親じゃないっての……」
「ミーシャ。お父さんになでなでしてもらってよかったな!」
「うんっ。みーしゃ、おっきくなったらおとーしゃのおよめさんになるっ」
「ははは。こりゃまた年の離れた妾だな――」
抱きかかえ上げて笑いかけると、ミーシャは顔をすり寄せてキスしてきた。
あはは、子供ってけっこうかわいいじゃないか。
……あの、ユリーシャさん。目つきが半端なく怖いんですけど。
なにマジになってるんですか?
こんなの冗談の範疇でしょうに。
一日を終え、日が落ちて帰宅し、夕食を食べ終わってユリーシャがミーシャを膝に抱きながら針仕事をするのを見つつ、適度に酒を嗜む。
相変わらずあっちのほうは回復の兆しも見えないが、俺個人としての体調は劇的に変化しはじめているといっていい。
まず、ズボンのベルトの穴がみっつも縮められた。わお。
どちらかというと、元々痩せ形なのだが、深酒でなんとなくたるんんでいた身体が引き締まったことに関しては単純に感謝している。
十代の頃は、どれだけ暴飲暴食を行っていても戦場を汗だくで這いずり回っていれば贅肉など気にもならなかったが、たぷついた腹の皮や締まりの悪くなった余った尻肉も、連日の早朝ランニングと薪割りや久々に再開した剣術の稽古で随分とスリムになった。
「なにを熱心に縫っているんだ」
「これか? この子の服だ。日に日に大きくなっているし、ミーシャは女の子だからな。少しでもかわいいものを着せてあげたいんだ」
「そっか……」
栗色の髪に大きな瞳が目立つミーシャは、ユリーシャでなくとも相好を崩してしまうほど天然の愛らしさがあった。
近頃はなんだかやけに酒が美味い。
ユリーシャが来るまでは、浴びるように日々飲んでいたが、味わっているとはいえない飲み方だったかもしれない。
理由は単純すぎるほど明白だった。
俺の心が荒んでいたからだ。
酔えればいいという独りよがりな飲み方よりも、量は少なくとも、こうして彼女たちがしあわせそうにしているところを肴に軽く一杯舐めるように消費するだけで、俺は充分心がぽかぽかとあたたまってゆく心持ちがするのだ。
疑似的な家族だと切って捨てるのはたやすいが、いつしか俺はこの関係に安堵すら覚えるようになってしまった。
正直なところ、孤児院に関しては、軍の同期で未だ信頼できる男に手紙を一本送っただけだ。
あいつはかなり筆まめのせいか、すぐにリストまで作って送り返してきたが、それをユリーシャに見せることを躊躇している自分がいる。
「おとーしゃ」
ユリーシャの膝にいたミーシャが目を覚ますと、すぐに近寄ってきて膝頭にぐりぐりと顔をこすりつけてきた。
これは抱っこしてくれとの合図だ。すぐさま抱え上げると、くすぐったそうな顔をして胸にぽふりと顔を埋めてくる。彼女の栗色の髪からほんのりとミルクの匂いを嗅いで、どこか懐かしくて切ない気持ちになった。
「そろそろ寝るか」
いい時間になったので俺は千鳥足のままミーシャを抱きかかえ、ベッドにダイブした。
「ジラルド。せめて着替えたらどうなんだ。一日中軍服というのもどうかと思うぞ」
「ばーか。常在戦場だ」
「まるでおまえは子供だな」
いつもならこの程度で酔ったりしないのに、やけに気分がいい。
ミーシャを抱えながら毛布に潜り込むと、彼女はもぞもぞと動きながら自分が収まりのいい位置を探し出し、やがて俺の腹にひっしとしがみつくと、くふんくふんと甘えた声で鳴き出した。
ミーシャを挟むようにユリーシャが毛布のなかに入ってくる。
目をつむる。
一日が終わる。
このまま人生最後の日でもなんの後悔もないしあわせな夜だった。
翌日。
買い出しに出るからといってユリーシャが出かける間、子守を頼まれた俺は気分転換にミーシャを砦の詰め所に連れて行って時間を潰していた。
「ふーん。で、その子が最近隊長が拾ったっていう噂の養い子ですか」
ハンナが足元で仁王立ちしているミーシャの顔を見下ろしながらいった。
「戦狼族の子っすかぁ。それはそれで珍しいかもですねー。おーよしよし、おいでおいで」
意外と子供好きなのか、ハンナはにっこりと微笑むと膝を折ってちっちと舌を鳴らすが、ミーシャはやや警戒気味にしっぽを左右に振りながら、じりじりと後退していく。
「あらー。隊長、この子ってけっこう気難しい性格なんすかね? あたしってわりとちみっこい子には好かれるほうなんすけど」
「初対面だからな。様子見をしているんだろう」
ミーシャはさっと床に四つん這いになると、素早くハンナのうしろを取ってお尻のあたりをふんふんと嗅ぎまわし出す。
「ちょっ! なんすかっ。やっ、くすぐったいったらぁ!」
しばらくそうして危険はないと判断したのか、床をすべるように走って椅子に座っていた俺の脚にしがみつくと「うるるっ」と喉を鳴らした。
「もうっ、なんなんすかぁっ」
「お?」
ハンナが困ったように苦笑すると、ミーシャはとてとてと近づいて彼女の前に立ち、さっと両手を開いて唇を尖らせた。
「え、あ。えーと。隊長、これって」
「抱っこしてくれっていってるんだ」
「え、ああ、そうっすか。はいはい、あ……この子ぽふぽふしててやわらかいなぁ」
ミーシャはハンナに抱き上げられながら、犬耳を寝かせて気持ちよさそうに目を閉じている。
ぎしと椅子を軋ませながらそっくり返ると、気を利かせたチャーリーがカップに琥珀色の酒精をついで目の前に置いた。昼間といえど、喉が渇けばこれをやる。わかってるじゃないか。薄汚れた木製の取っ手を掴んで一気に煽ると、カッと腹のなかに火が踊った。
「気が利くじゃねぇか」
「へへ、でやんしょ」
「あーっ。これから見回りなのにっ。しょうがないっすねぇ、これだから隊長は」
なぜかハンナの機嫌がいい。以前は詰め所で酒をかッ喰らうと目を剥いて鬼のような形相で怒鳴りつけてきたのだが、最近は酒場に顔を出すこともめっきり減り、自然とこいつらとは距離が開くことになったのでやはり寂しいのだろうか?
あえて突っ込んで酒を取り上げられてもつまらないので、疑問は腹の底に仕舞っておく。
「ありゃ、もう空か?」
飲み過ぎはよくないとユリーシャにさんざんいわれている。近頃は、自制が効くようになり、これで俺も人間として一段階上に到達したかなと密かにほくそ笑んでいると、カップにこぽぽと新たな琥珀色の液体がつがれるのを見て、ギョッとした。
「しょうがない隊長にはハンナが目こぼしして、もう一杯だけ許してあげますよ?」
「お、おう」
驚いた。考えれば、飲みの場でもこいつは俺に酌をしてくれたことなど一度もなかったのにどういった心境の変化なのだろうか。
目が合うとゾクッとするような媚びた視線を送ってくる。
昼間から酔い過ぎたのか。
じわっと手のひらに汗が湧き出た気がして、すぐさま外套の裾で拭った。
「飲まないんすか?」
「の、飲むよ」
微動だにしないハンナの瞳をさけて手のなかの酒精に自分の顔を映したとき、入り口の扉から慌てふためいたトマスの叫び声が飛び込んできた。それはさらなる厄介ごとが降りかかってくる、ほんの予兆に過ぎなかった。
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